第1章 ベストセラー前史

戦前の出版事情には現在と異なる部分が色々あります。例えば明治初期には活版本と木版本が並存しており、出版権も確立されておらず異版が多く出回っています。読者の数も今より限られていて、ベストセラーという言葉もまだありません。しかし、この時代にも多くの人に買われたベストセラーと呼ぶべき本はあり、そのラインナップからは、現在の戦略的な方法とはまた違うベストセラーの発生の仕方が読み取れます。一方で昭和の初めには、現在のベストセラー戦略につながる出版界の大転換点が訪れました。第1章では、この時期の「ベストセラー」を3つのトピックから紹介し、その出版事情を探ります。

作家が出版したベストセラー ―福沢諭吉『学問のすすめ』~明治初期~

明治初期のベストセラーとして有名なものに、福沢諭吉による一連の著作があります。第1節ではその中から『学問のすすめ』を紹介します。興味深いのは、この作品が福沢が自ら出版社慶応義塾出版局を立ち上げて出版した本であったことです。この時期は、士族出身で学問を修めた人や洋行帰りで啓蒙の志を持った人が自ら出版業に参入していった時期で、福沢もその中の一人でした。著者の志と出版業、さらに読者の需要とがうまく重なってベストセラーが生まれたことにこの時期の面白さがあります。

学問のすすめ

学問のすすめ/福沢諭吉

人権尊重の精神と功利的な実学思想とをわかりやすい口語文で説いた作品で、福沢の新時代にむけての啓蒙の意識がよく現れています。先進的で読みやすい内容が開国直後の明治の人々の要望に合い、教科書にも採用されるなど人気を呼ぶ一方、楠正成を批判したこと等で非難されるなど、多方面で反響を呼びました。初編は明治5(1872)年に出版され、売れ行きがよかったため続編が書かれ、明治9(1876)年の17冊目まで続きます。『学問のすすめ』には多くの版があることが知られていますが、以下は当館が所蔵する版の一部です。

學問のすゝめ [マイクロフィッシュ]

學問のすゝめ

所蔵の中で一番古い版で、木版の小型本です。明治5(1872)年2月に活版印刷で出版された初編は、人気を受け6月以降に木版で大量に再版されますが、これはこの時の1冊にあたると思われます。再版が木版なのは、活版印刷の輸入直後のこの時期では版木が保存される木版本の方が増刷に便利だったからと考えられています。また、この版の表紙のタイトルは「学問ノススメ 全」で「初編」の言葉はなく、福沢が当初は続編を書くつもりはなかったことがわかります。

学問ノスゝメ 第5編

学問ノスゝメ. 第5編 / 福沢諭吉著 出版者不明, 明治7(1874) 【370-H826g】

この和装活版の版は出版者不明です。『学問のすすめ』は慶応義塾出版局からも多くの版が出版された他、「偽版」も多く出回ったため、出版経緯がはっきりしない版が多くあります。当時は出版権が確立しておらず、人気のある本は各地で異版が刷られる状況でした。

学問ノススメ

学問ノススメ

『学問のすすめ』は明治13(1880)年に全編を合本したものが出版されました。これはその第2版です。序文に「初編ハ20万冊ヲ下ラズ、之ニ加フルニ版権ノ法厳ナラズシテ、偽版ノ流行盛ンナリシコトナレバ、其数モ亦十数万ナル可シ~」(→該当箇所)と、福沢自身によるよく売れたことへの言及があります。数十万という数は、当時の人口を考えても相当な数の売上げだったと言えます。

福翁自伝

福翁自伝 / 福沢諭吉述 ; 矢野由次郎記 東京 : 時事新報社, 明治32(1899).6 【80-204】

福沢が出版業を手がけた経緯や、自著が売れたことをどう捉えていたのかは、自伝的一冊『福翁自伝』に記されています。「江戸の書林が必ずしも不正の者ばかりでもないが、兎角人を馬鹿にする風がある」から始まる記述からは、出版社設立に奔走した姿がわかります。また「私の著訳は世間の人気に投じて渇する者に水を与え、大旱に夕立ちのしたようなもので、その売れたことは実に驚く程の数でした。時節の悪いときに、ドンな文章家ドンな学者が何を著述したって、何を翻訳したって、私の出版書のように売れよう訳はない。畢竟私の才力がエライと云うよりも、時節柄がエラかったのである。」などの記述もあり、ベストセラー観とも言うべき考えが窺えます。

文学作品をめぐる出版者と著者の思惑 ~明治中期~

明治期以降の近代日本文学の成長とともに、文学作品の読者も増えました。この時期、資本主義の発展に伴い安定・成長してきた出版社も文学作品の出版に力を入れます。彼らは人気のある作家を探し、関係を深めて作品を出版するようになり、そこから文学史上のベストセラーが発生しています。またこの時期には、探偵物や歴史物といったいわゆる「大衆小説」の流行も始まりました。大衆小説をめぐっても出版社と著者との間に面白いやり取りがあります。第2節では、この時期の文学ベストセラーをめぐる著者と出版社の関係を見ていきます。

金色夜叉

金色夜叉 / 尾崎紅葉著 東京 : 春陽堂 , 明治31(1898)-明治36(1903)【79-139】

明治期純文学作品のベストセラーとして有名な作品の一つで、「来年の今月今夜、僕の涙で必ず月を曇らしてみせる」のせりふで有名な貫一・お宮の物語です。明治30(1897)年から『読売新聞』に連載され人気を呼びますが、紅葉の死亡により未完に終わりました。作品は春陽堂が原稿を買い取り、前編から続々編までの5冊本、合冊版、その後は縮刷本や文庫本になって出版され、ベストセラーとなります。

法庭の美人

法庭の美人 / フレデリキ・ジョン・フルガス著 ; 黒岩涙香訳述 東京:小説館[ほか], 明治22(1889).5 【特13-596】

大衆小説は明治半ば以降売り上げの面で純文学作品をしのぐ人気を呼び、しばしばブームが起こっています。その最初として明治20年代に探偵小説ブームが起こり、黒岩涙香が人気の作家となります。彼はこの作品を初めとした西洋の探偵物語を数多く翻訳して新聞紙上に発表し、これらが本として出版されるとたちまちベストセラーになりました。参考文献『本の百年史 : ベスト・セラーの今昔』によると、涙香は多くの西洋の探偵物語の中から特に優れたものを厳選して翻訳しており、その面白さは人々を引き付けました。(p.59-60)

活人形

活人形

涙香の人気に便乗して各社は探偵小説を多く出版しました。硯友社に属する作家泉鏡花や江見水蔭も春陽堂の探偵小説シリーズの中で作品を発表しています。江見はこの際の裏話を『明治文壇史 : 自己中心』(江見水蔭著 博文館, 昭和2(1927) 【568-248】)に「『どうも探偵小説が横行しては、純文芸物が売れが悪いですから、一つ毒を制するに毒を以ってするとやらで、探偵小説文庫を出して、安価でドシドシ売って見ませう』春陽堂の主張で、それを紅葉の処に持込んで来た」「紅葉は早速社中の決死隊を募集した」と残しています(p.180)。このシリーズは目論見どおり売上げを伸ばしますが、純文学で名を売る春陽堂がこのような勧めをしていることに、作家との仲を保ちつつも売れる本を作りたい出版社の思惑が窺え、硯友社側の「決死隊」という言葉からは探偵小説執筆が本意ではない純文学を志す作家達の思いも読み取れます。水蔭はこのように大衆小説執筆に流れたことについて、生活のためには仕方なかったとも述懐しています。(p.4)

円本の出現 ―ベストセラー戦略の萌芽期~大正末期から昭和前期~

大正末から昭和のはじめにかけて1冊1円の本を集めた全集「円本」が大流行します。1円という価格は従来の本の定価の半分以下にあたりました。円本出版の背景には、関東大震災後の不況の影響を受けた出版社の思惑や、小型輪転機等、大量生産が可能な印刷機が輸入されたことなどが重なっています。また、過去の作品を全集に入れる経緯で、印税制度が確立しました。さらに、顧客を得るための宣伝も盛んになります。このように円本の出版を通して、現在に通じる出版制度と、本を商品として売る出版社主導のベストセラー戦略が生まれました。第3節ではこの円本にまつわる資料を紹介します。

現代日本文学全集

現代日本文学全集

最初の円本は、明治大正文学を集めた改造社の『現代日本文学全集』です(画像は第2次募集以降の版だが版次記載なし)。第1回配本は『尾崎紅葉集』(現代日本文学全集. 第6編 改造社, 昭和6(1926) 【918.6-G34イウ】(第1次募集時の版))で、当時の単行本約5冊が入る量、文章は振り仮名付です。募集途中には装丁を布装に変える、特典として書棚も進呈するなどの販売促進策も取られました。写真は改装後の版で、装丁も、細かな字が詰まった内容も、1円とは思えない充実振りです。この全集は不況下に安価で多くの作品を手に入れることができるということで予約数40~50万を超える大ヒットとなりました。この成功を受けて他の出版社も様々な分野で円本を出版します。その中で春陽堂の『明治大正文学全集』(昭和2(1927)-昭和7(1932)【545-66】)は、収録対象が改造社と似ていてかつ改造社よりも名作を多く収録しているという評価もありますが、売上げは改造社に及びませんでした。理由として、改造社の方が先に出版されたことに加え、収録作品が多くお得だったこと、振仮名によって読者対象を広げたこと、宣伝が上手だったことなどが指摘されており、改造社の本の商品価値を高める戦略が成功したとも言えます。

出版人の遺文

出版人の遺文 第2 改造社 山本実彦 東京 : 栗田書店 昭和43(1968) 【UE57-2】

円本は、改造社の社長山本実彦が震災で傾いた社を救うために考え付いた企画です。実彦の遺文を集めたこの資料には、出版当時の苦労を振り返り「全社員は二週間も、着のみ着のままで芝愛宕下一丁目の元の改造社に籠城したのであった」等と述懐する文があります。(p.19~20。初出は『改造』昭和9(1934).4(改造社【YA-42】))また「(震災のために本が焼け、本の値段が高くなったため)特権階級ばかりが、知識の独占者になって、それ以外の人びとは読みたい本も手に入るることはできない。というので、これには円本をやるよりほかに行く道はない。」という記述もあり、売れる戦略を考える一方で、多くの人に知識を普及するという志も強かったことが窺えます。(p.19)

円本の広告

円本の広告(読売新聞[マイクロ資料] 大正15(1926). 10.22 朝刊【YB-41】)

円本販売にあたり各社は新聞広告、店頭広告、文芸講演会開催など、様々な宣伝活動を考えました。これは改造社が『現代日本文学全集』第1回配本開始の際に、『読売新聞』に掲載した広告の一つで新聞一面を使っており、「善い本をより安く読ませる!」の文が全集の売りをよく表しています。また広告にもあるように円本の販売は数回の配本にわけた予約販売制で、複数冊を一気に買うことを前提とした方法が取られました。広告の使用は円本が増えるにつれて加熱し、新聞広告上で他社の類似の円本の内容を批判したり、それが高じて訴訟に発展したりといったこともおこっています。

一圓本流行の害毒と其裏面談

一圓本流行の害毒と其裏面談

円本ブームが加熱するにつれ、批判もおこりました。当時のジャーナリストであった宮武外骨はこのパンフレットの中で「害毒の16か条と円本の裏面談」として円本を批判しています。 ここにある「著作者や図書を尊重する念を薄くした」「安い本の大量生産でかえって出版界に危機をもたらした」などの指摘は、現代のベストセラーに対する批判にも通じる部分があります。

コラム 「ベストセラー」という言葉

日本で初めて「ベストセラー」の言葉が使われたのはいつなのでしょう?参考文献『本は世につれ : ベストセラーはこうして生まれた』によると、丸善のPR誌『學鐙』(大正3(1914). 1【Z21-176】)に載った安成貞夫の文章が最初とされています。安成はアメリカの「通俗小説」の売れ行きを紹介する論文の中で、「大売れ物」という言葉に「ベストセラーズ」という振り仮名を付けました。文中では、明治28(1895)年にアメリカの『ブックマン』という雑誌が世界で初めて「ベストセラーズ」の名で、売れた本のリストを掲載したことも紹介されています。しかし日本においてこの言葉が一般的に使われるようになるのは第二次大戦後です。

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第2章 戦後復興とベストセラー



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