第2章 売りタイ!

冷蔵庫も冷凍庫もなく、また流通にも時間がかかった江戸時代、生鮮食品の保存には工夫が必要でした。この章では、魚介類が加工や市場を通じて、商品として人々の手に渡る様子を紹介します!

第1節 おいしく保存する工夫

魚介類の中には収穫されてすぐに食卓に並んだものばかりでなく、塩漬けや乾燥など、様々な方法で保存がきくよう加工されたものがありました。
おいしさを保つために手間暇かけている様子を、当時の資料から見てみましょう。

蒸鰈(むしがれい)

日本山海名産圖會 日本山海名産圖會 日本山海名産圖會

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日本山海名産圖會デジタルコレクション

法橋關月『日本山海名産圖會 5巻. [3]』, 柳原喜兵衛, [18--]【特1-1905】

①鰈の下処理をし、塩を施します。

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法橋關月『日本山海名産圖會 5巻. [3]』, 柳原喜兵衛, [18--]【特1-1905】

②棹につるし、干します。寄ってきた犬を追い払う場面まで描かれ、人々の生き生きとした暮らしが垣間見えます。

若狭(現福井県南西部)の名物「蒸鰈」です。鰈を塩水に浸して蒸し、乾燥させてつくります。

ほのかに甘みがあることから「甘鰈(あまがれい)」とも呼ばれ、現在でも贈答品として人気の高級食品です。『日本山海名産圖會』にも「雲上の珍美ともいうべし」との賛辞があります。

諸国名所百景 若狭かれゐを制す

たくさんの鰈を棹にくくり付けて干す様子は若狭の冬の風物詩でもありました。広重が日本各地の風景を描いた『諸国名所百景』にも、若狭の海を背景に作業する人々が描かれています。

熨斗鮑(のしあわび)

鮑を細長く切って乾燥させ、「熨斗鮑」をつくる様子です。鮑を生のまま裂くように切るため、海岸のすぐそばで作業していることが分かります。

大日本物産圖會

伊勢(現三重県)での海女による鮑漁の歴史は古く、伊勢神宮には2000年以上前から今に至るまで、延喜式に則り「熨斗鰒(あわび)」として献上されています。また、江戸時代には伊勢神宮への参拝が流行し、鮑は伊勢海老とならんで全国的にも知られる名物となりました。

鰹節(かつおぶし)

江戸時代の鰹節は、現代とほぼ同じ製法でつくられていました。鰹漁は紀伊(現和歌山県)、相模(現神奈川県)など各地で行われていましたが、『日本山海名産圖會』に「就中(なかんずく)土佐薩刕(とささつま)を名産として味厚く肉肥(にくこえ)乾魚(かつお)の上品とす(とりわけ土佐薩摩が名産であり、味厚く肉肥え、乾魚が上等である)」とあるように、数ある産地の中でも土佐(現高知県)・薩摩(現鹿児島県西部)の2か所の鰹が特に評判だったようです。本書では土佐での一本釣り漁の様子から、鰹の下処理をする・蒸す・乾燥させるといった工程が一通り紹介されています。

日本山海名産圖會

①頭を落として内臓と骨を除きます。

日本山海名産圖會

②籠に並べて窯で蒸します。

日本山海名産圖會

③乾燥させたものを磨きます。

蒲鉾(かまぼこ)

蒲鉾も、江戸時代には現在のものと同じような形状でつくられていました。白身の淡水魚のすり身を棒などに付けて焼き上げた、ちくわのようなものは古くからつくられていましたが、江戸時代になると材料も多様になり、板に付けて蒸したものが出てきました。
蒲鉾は、鮫(さめ)や鱚(きす)、鯔(ぼら)など、鮮魚では売れない「下品(味が劣る)」とされた魚をすりつぶして、調味料を加えてつくられていました。

職人盡繪詞

蒲鉾職人たちの絵です。左奥に、板の上に白いすり身が盛られたものがあります。手前に見えるのは鮫でしょうか。

大坂から江戸に移住した喜田川守貞(1810~?)が両者の風習の違いなどを書き留めた随筆『守貞謾稿』では、蒲鉾の様々な形状とともに、地域ごとの違いや名前の由来が説明されています。

守貞謾稿

①「古制図」……江戸時代以前から、蒲の穂のような形のため「蒲鉾」と呼ばれていたもの。この頃には「竹輪」と呼ばれるようになっていました。
②当時の蒲鉾。板に魚のすり身が盛られており、現在と同じ形をしています。

上図②では、上から「今制図」「同櫛形」「同京師専之」の3種類が紹介されています。いずれも当時の蒲鉾ですが、下の2つには焼き目がついています。江戸では「蒸タルノミヲ売ル」とありますが、大坂や兵庫でつくられて京都に運ばれてくるものは「塩ヲ多クシ必ラズ焼タリ」というように、腐るのを防ぐため製法を変えていました。保存料や冷蔵便のなかった江戸時代の食品流通事情が伺えます。

海苔

こちらは海苔をつくる様子です。生海苔を現在と同じような紙状に成形する方法が考案されたのは、元禄年間(1688~1704)頃のことでした。

日本製品図説. 淺草海苔

日本製品図説. 淺草海苔

『日本山海名物図会』には、品川での海苔採集から下処理の様子が描かれていますが、「江戸浅草海苔」と題が付けられています。「此のり元武州品川の海に生ず品川の町にて製したるを品川のりという浅草のりは品川にて取たるを此所にて製したる也(こののりは元武蔵(現東京都)品川の海に生える。品川でつくったものを品川のりといい、浅草のりは品川でとれたものをここ(浅草)でつくったものである)」と説明書きがあるとおり、生海苔から紙すきの要領で乾海苔をつくる作業を行った場所、また売った場所によっても商品名が変わっていたようです。

日本山海名物図会

第2節 魚市場の賑わい

人口増加により食料の需要が高まると、江戸や大坂のような大都市には大規模な市場ができ、米や野菜、魚の取引が行われるようになりました。海沿いの魚市場では、各地から運ばれてきたばかりの魚を素早く店先に並べ、売りさばいていました。

江戸―日本橋魚河岸

江戸周辺の海でとれた魚は幕府に上納されますが、その際に余った魚を売り始めたのが日本橋魚河岸の始まりです。各地から魚介類を運んできた荷主から問屋が買い取り、さらに仲買、小売りを経由して人々の手に渡る流通様式も江戸時代に発展しました。

日本山海名物図会

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日本山海名物図会デジタルコレクション

松濤軒斎藤長秋 著[他]『江戸名所図会 7巻. [1]』, 須原屋茂兵衛[ほか], 天保5-7 [1834-1836]【839-57】

①船で運ばれて来た魚介類が岸に揚げられます。

日本山海名物図会デジタルコレクション

松濤軒斎藤長秋 著[他]『江戸名所図会 7巻. [1]』, 須原屋茂兵衛[ほか], 天保5-7 [1834-1836]【839-57】

②すぐに店先に並べられていきます。

東海道五拾三次 日本橋・朝之景

小売りの中には「棒手振り」と呼ばれる行商人もいました。上の絵は、魚河岸で仕入れた棒手振りが鮮魚を持って町に売りに出る朝の風景です。

『守貞謾稿』では、江戸と大坂の棒手振りが次のように描かれています。

守貞謾稿

大坂

守貞謾稿

江戸

守貞謾稿デジタルコレクション

喜田川季荘 編『守貞謾稿. 巻6』, 写【寄別13-41】

大坂

守貞謾稿デジタルコレクション

喜田川季荘 編『守貞謾稿. 巻6』, 写【寄別13-41】

江戸

大坂の魚売りは棒の両端に籠を多数提げています。その分魚も多く持ち歩いて、得意先を回っていました。
一方、江戸の鰹売りは棒の両端に桶を1個ずつ提げ、ごく少数の鰹だけを持ち歩いています。江戸の町人たちは「初物食い」に熱狂し、特に初鰹は高値を付けられても見栄を張って買い求め、「まな板に 小判一枚 初鰹(宝井其角)」という川柳がつくられるほどでした。また鰹売りたちも威勢のいい掛け声を響かせ、鮮度を保って少数の魚を早く売るため駆け回っていました。鰹売りは江戸の初夏の風物詩であり、歌舞伎などにもしばしば登場します。

東海道五十三次の内 日本橋 松魚売

3代目坂東三津五郎扮する鰹売り。

大坂―雑喉場(ざこば)

江戸の日本橋魚河岸と並び有名だったのが、大坂の雑喉場(現大阪市西区)です。幾度かの移転を経て、元和4(1618)年に大坂唯一の魚市場になりました。大坂は江戸時代の海上交通の拠点であり、大坂湾はもちろん、瀬戸内海、日本海など全国各地の魚介類が集まりました。

攝津名所圖會

その他の魚市場

『摂津名所図会』には、雑喉場のほかにもいくつかの魚市場が描かれています。

そのうちの一つが川魚市場(現大阪市都島区)です。雑喉場から川を挟んで少し離れたところにあり、鯉(こい)や鮒(ふな)、鰻(うなぎ)などが持ち寄られて取り引きされていました。雑喉場と違って店舗はなく、露店のような雰囲気です。

攝津名所圖會

もう一つの魚市場は、「永代濱(えいたいはま)の干鰯市場」(現大阪市西区)です。

攝津名所圖會

日本橋魚河岸や大坂雑喉場と違い、魚の姿が見えないかわりに俵が積まれています。雑喉場からほど近い永代濱には主に魚肥の材料となる干鰯が集められました。鮮魚を扱う市場のスピード感と、干鰯を扱う市場の比較的穏やかな空気の違いがよく分かります。

コラム生産地から消費者へ

水運

水上交通は陸上交通よりも少ない人数で多くのものを運ぶことができるため、貨物の長距離輸送に重要な役割を果たしてきました。さらに、船の改良、航海技術の発達、航路の整備が進んだことは、鮮度を重視する魚介類の輸送を飛躍的に向上させることになりました。

たとえば、弁才船(べざいせん)という造りの船は中世末期から貨物の輸送に使われていましたが、17世紀末頃から著しく改良が進み、速度や積載量の向上、乗組員の削減など、海運業の効率化が実現されました。その後、菱垣廻船や樽廻船といった廻船が日本中で競うように輸送を担うようになるになった際も、この弁才船の形や積載量が標準となりました。

また、寛文12(1672)年に河村瑞賢(1618~1699)によって、東北の幕府領米を江戸に回送するための長距離航路が整備されたことも画期的な出来事でした。出羽(現山形県)の酒田から太平洋側を通って江戸に到達するのが「東廻り」、日本海側を通って瀬戸内海に入って大坂に到達するのが「西廻り」の航路です。大坂からは、すでに使われていた「南海路」を通って紀伊半島をまわって江戸に到達することができました。この南海路が当時最も交通量が多く、全国から大坂に集まった食品は「下りもの」として江戸にも送られました。

長距離航路

『江戸の料理と食生活』【GD51-H55】をもとに作成

寺子屋で地誌の教科書としても使われた『江戸往来』には、諸国の名物が記されています。これによると、江戸に運ばれていた生鮮魚は48種、加工品が21種と、合わせて69種にのぼります。なお、食品全体の119種のうち6割近くが魚介類であったようです。

江戸往来

江戸往来

諸国の名産を列挙した箇所です。左の画像には「浅草鯉」「芝肴」、右の画像には「丹後鰤(ぶり)」「能登鯖」「松前昆布」「小豆島串海鼠(くしこ)」「五島鯣(するめ)」「宇和鰯(いわし)」とあります。

江戸時代後半になると海上交通網はさらに広がり、北は蝦夷(えぞ)や択捉島(えとろふとう)、南は琉球(りゅうきゅう)、さらには清(中国)まで到達しました。北前船と呼ばれる貨物船は、北海道南端松前から日本海をまわり、いくつかの港に寄港しながら瀬戸内海に入り、大坂まで到達しました。北前船は昆布の輸送で活躍し、これによって大坂の料理は昆布だしがベースになったともいわれます。

六十余州名所図会 長門 下の関

西廻り航路の寄港地の一つ、長門(現山口県)の下関に停泊する船。

だしについては、鰹節の製造や地域ごとのだしの違いをはじめ様々な資料を紹介したミニ電子展示「本の万華鏡 第17回 日本のだし文化とうま味の発見」をご覧ください。

陸運

輸送は水上交通が主でしたが、内陸の地域には陸路でも運ばれました。特に有名なのは若狭から京都まで主に鯖を運んだ「鯖街道」です。京都では鯖寿司が好んで食べられ、祭礼にも鯖の供え物は欠かせませんでした。生の鯖に塩を振り、一日かけて京都に着く頃には食べ頃の加減に仕上がっていたようです。この街道を利用して、鯖のほかにも様々な魚介類が京都中心部の魚市場に運ばれました。

江戸時代の職業図鑑『人倫訓蒙図彙』には、陸路で魚を運んだ「魚荷持(うおにもち)」の仕事ぶりが記されています。

人倫訓蒙図彙

丹後、若狭より京に上るは負(おい)て来る。大坂より西南の魚を、大坂につきしを京に上すは、籠に入て夜通(よどおし)に走り来る。(丹後、若狭から京に上って来る者は背負って来る。大坂より西南の魚を、大坂に着いたものを京に運ぶ者は、籠に入れて夜通し走って来る。)

また、関東でも現千葉県東端の銚子周辺でとれた魚を江戸に運ぶ際は河川を利用して輸送されましたが、利根川と江戸川の間は馬で陸路を移動しなければなりませんでした。この道は「鮮魚(なま)街道」とも呼ばれ、銚子から1日半で日本橋に到達することができたそうです。

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第3章 食べタイ!



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