第2章 戦国時代から江戸時代へ ~錦絵や洒落本、歌舞伎から

武士の時代である戦国時代から江戸時代の初期には、男性の美意識にも豪壮勇武の気質が反映されていました。多くの武士が、貫禄をつけるためにひげを生やし、合戦の際には自らの存在・信条をアピールするために美麗かつユニークな鎧に身を包みました。また精神面でも、武士はかくあるべしという美学が生まれました。
その後、幕藩体制の基礎が確立されるにしたがい、次第に庶民の生活も安定するようになりました。町人階級は、支配階級をしのぐ経済力をもつようになり、それにともなって彼らの価値観が社会に大きな影響を与えるようになっていきます。男性の美意識にも、町人文化の影響を色濃く受けた変化がみられるようになりました。

武士の美学 命がけの晴れ姿

武士たちは功名を立てるために心身の鍛練に励み、いざ合戦となれば命がけで戦場に臨みました。常に死と背中合わせの生活を送る武士の世界では、独特の美学が形成され、その精神は、社会が安定した江戸時代の武士たちにも受け継がれて行きました。「いい男」とは、武芸に秀でた剛の者であることはもちろん、精神的にも強い男たちだったようです。

葉隠 / 山本常朝口述:和辻哲郎,古川哲史校訂 東京 : 岩波書店, 1965 【156.4-Y367h-W】

江戸中期に著わされた、武士の生き様について説かれた書物。「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」という言葉が有名です。髪に香を焚きしめるなど、平生から身だしなみに気を配ることは、一見しゃれ者のようにもみえるが、それは普段から必死の決意でいることの表れである、と記されています。

武具訓蒙図彙 巻1-4 / [湯浅得之][編](訓蒙図彙集成 8巻 / 朝倉治彦監修 大空社 1998.6【UR1-G54】)

貞享元年(天和4年)に京都の和算家の湯浅得之が著わした資料。戦場で着用された甲冑は、単に身を守る武具としてだけでなく、自らの存在を敵味方両方に知らしめるための道具としても使われ、武将たちの中には、ユニークな意匠を凝らした、いわゆる「変わり兜」を用いる者も多くいました。よく知られているものとして、加藤清正の長烏帽子形、黒田長政の一の谷形などがありますが、この資料には110種類を超える変わり兜が描かれています。
兎をモチーフにした兜もあり、実際に多数製作されていたようです。現代人の感覚からするとユーモラスな造形で、強面の武者が身につけているのを想像できませんが、これは兎の敏捷さにあやかろうという思いが込められていたものと考えられています。

慶長見聞集 / 三浦浄心(茂正)著 , 芳賀矢一校 東京 : 富山房, 明治39(1864).6 【94-112】

北条氏政の家臣であった三浦浄心が著わした随筆の復刻資料。戦国時代には、ひげが英雄豪傑の象徴としてもてはやされ、ひげのない男性は肩身が狭い思いをしたようです。この資料には、天正の頃、片井六郎兵衛という人物が、同輩の岩崎壽左衛門との言い争い中に、壽左衛門を「あの髭なし」とからかったことが原因で、二人とも刺し違えて死んでしまったという話を引き合いに、当時男性が「髭なし」と言われることは、臆病者と言われるほどの侮辱であったと記されています。 →該当箇所
江戸時代初期には、庶民の間でもひげを生やす風習が広まっていましたが、戦国時代の気風を払拭する政策の一環として、寛文10(1670)年に徳川家綱により「大髭の禁止令」が出され、その後も厳しく取り締まられたこともあり、ひげを生やす風習は次第に廃れていきました。

木村重成

木村重成肖像

豊臣家の重臣として活躍した武将である木村重成は、美男であったといわれていますが、それ以上に、その言動について賞賛するエピソードが多く伝わっています。特に有名なのは、大坂夏の陣で重成が戦死した後、徳川家康によって首実検が行われ、死を覚悟した重成が兜に伽羅の香を焚きしめていたことに気がついた家康が感嘆し、自分の部下たちにも見習うように指示したというエピソードです。

木村重成 : 一名・大阪落城史 / 芳賀八弥著 東京 : 民友社, 明治31(1898).7 【80-87】

木村重成のエピソードについてまとめられている資料。エピソードの多くは「慶元記 大阪夏冬両陣始末」や「常山紀談」等から抜粋されたもので、大坂夏の陣の際のエピソードも掲載されています。重成の容貌や人柄については、「実に大阪城内の桜花なりき、その年少にして儀容艶麗なりし所、心事の玲瓏なりし所、諸人に愛慕せらるる所、その愛慕せらるるの間殊に短日月なりし所皆相類せり、惜まるる内にこそ散れ桜花」と書かれています。 →該当箇所

コラムかぶき者 常識はずれの男たち

名古屋山三郎

名古屋山三郎をモデルにした歌舞伎「浮世柄比翼稲妻」の一場面

戦国時代から江戸時代の初期にかけて、「かぶき者」と呼ばれる男たちが一世を風靡しました。彼らの風体は、奇妙な髪型に大髭、派手な服装、さらに、並はずれて大きな太刀や槍を持つという、尋常ではない有り様で、かぶき者と呼ばれた戦国武将も少なくありませんでした。不破万作、浅香庄三郎と並んで、「戦国の三美男」と称された名古屋山三郎もそのひとりです。「蘿月菴国書漫抄」(日本随筆大成編輯部編『日本随筆大成 第1期 第4巻』【KG294-J28】所収)には、「なごやさんざと申て、なまめきたるいろこのみのをのこあり、まことにみにすぐれたるかぶきもの」で、出雲の阿国と恋仲であったと書かれています。

町人の美意識 東の「いき」と西の「すい」

町人のこだわりのおしゃれ

江戸時代の初期には、戦国時代の気風がまだ残っており、大名・旗本ら武士たちが羽振りを利かせていましたが、庶民の生活が安定し、町人階級が経済力をもつようになると、彼らの価値観が社会に影響を与えるようになり、男性の美意識にも反映されていきました。
当時の風俗は、洒落本や黄表紙等に描写されており、男性の流行りの装い等が読み取れます。通(つう)と呼ばれる人たちの間では、髪型や衣服、持ち物や履物等、細かいこだわりがあったようです。

時勢髪八体之図

『当世風俗』は通安永2(1773)年に刊行された洒落本。当時の流行風俗を紹介したもので、服装や髪型についてもかなり詳細な図絵を豊富に使って説明しています。「極上之息子風」の髪型として、当時流行していた本田風の結髪八種類を図解(「時勢髪八体之図」)で紹介しています。

鼠璞十種 / 国書刊行会編 東京 : 名著刊行会, 1970 大正5(1916)年刊の複製 【KG294-2】
(参考:鼠璞十種 / 国書刊行会編, 1916【049.1-So627-K】)

所収されている「反古のうらがき」は、昌平坂学問所の教授を務めた旗本の鈴木桃野の著作。文政13(1830)年頃の江戸の風俗について触れられている箇所によると、当時は、戦国時代にもてはやされた強面の武張った男性でなく、体型や顔立ちが小作りで小ざっぱりしている男性の方が好まれていたようです。

歌舞伎にみる江戸と上方の「いい男」像

出雲の阿国の歌舞伎踊りに始まり、女歌舞伎、若衆歌舞伎、野郎歌舞伎へと変転していったといわれる歌舞伎ですが、劇場が整備され、社会情勢も安定した元禄のころ、大衆の圧倒的な支持を受けて大きく開花しました。江戸と上方それぞれの気風を反映し、江戸では初代市川団十郎が創始したとされる「荒事」が、上方では初代坂田藤十郎が確立した「和事」が、人気を獲得しました。
江戸時代後期に当時の風俗について書かれた『守貞謾稿』にも、「京坂は男女ともに艶麗優美を専らとし、かねて粋(すい)を欲す。江戸は意気(いき)を専らとして美を次として風姿自づから異あり」とありますが、江戸と上方の嗜好の違いは、江戸時代の初頭からあったようです。それぞれの地で贔屓にされた歌舞伎役者を通して、江戸と上方の「いい男」像について考えてみます。

市川団十郎

市川団十郎の助六

初代市川団十郎が創始した「荒事」の豪快で胸のすくような演出は、新興都市であった江戸の気風に合致し、江戸歌舞伎を一気に盛り上げました。以後、市川団十郎の代々は荒事を「家の芸」として確立し、伝承してきました。その中でも特に二代目市川団十郎が初演した「助六」は、江戸っ子の美学が凝縮されたものであり、当時の理想的な色男を体現したものであったといわれています。

江戸歌舞伎の美意識 /服部幸雄著  東京 :平凡社, 1996.3 【KD484-G5】

江戸歌舞伎と庶民の美意識との関係について述べられている資料。江戸の庶民が団十郎の演じる助六を熱狂的に支持した背景について、助六やその他の登場人物による小気味のいい啖呵や意気地の張り合いの爽快さが、江戸の気風に合ったと指摘しています。また、紫の鉢巻をはじめとした扮装の格好よさも助六のトレードマークになっていますが、これは二世団十郎が作りだしたスタイルと伝えられており、若者たちがこぞって髪型を真似し、鉢巻きの色が「江戸紫」として女性の小物の色として大流行するなど、市井風俗に与えた影響についても紹介されています。

坂田藤十郎

初世坂田藤十郎は、上方で活躍した立役(善人で思慮深い立派な男役)で、傾城買狂言(遊女買いの場面が含まれた歌舞伎のこと)などを得意とし、元禄期上方歌舞伎の和事(恋愛・情事を演じる役柄・演出)を完成したといわれています。元禄6(1693)年頃から近松門左衛門の作を多く演じ、当時の役者評判記で、藤十郎は「傾城かいの第一」「今のよの随一此人の上有まじ」と絶賛されています。
藤十郎の演技は写実的であったと言われており、さまざまな工夫をしたと伝えられています。特に有名なエピソードのひとつに、藤十郎が不義の男役を演じることになった際、茶屋の女将に偽りの恋をしかけてその役柄を体得したというものがあり、これに着想をえた菊池寛によって戯曲「藤十郎の恋」(菊池寛『菊池寛 短篇と戯曲』 1988.3 【KH261-E1】)が作られました。

コラム艶二郎 モテたい男のどたばた劇

地紙売りを始める艶二郎

天明5年に刊行された山東京伝の黄表紙。主人公の艶二郎は、大店の若旦那ですが、だんご鼻の醜男という設定。艶二郎は、お金の力を使ってでも浮名を流そうと、最新のファッションに身を包み、通人ぶってあの手この手で挑戦しますが、ことごとく失敗します。その様子をおもしろおかしく描いた作品で、本作のヒットにより、だんご鼻を「京伝鼻」、自称色男のことを「艶二郎」と呼ぶことが流行しました。
今回、画像でご紹介したのは、女性にもてる仕事をしようと考え、地紙売り(扇の骨に張る紙を売る仕事。売り子には洒落た身なりの男性が多く、女性客の人気を集めた夏の商売)を始めますが、かえって笑い物になってしまい空回りする場面です。

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第3章 近現代



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