第1章 鎌倉以前~古典文学から

鎌倉時代以前の貴族社会において、男女の美貌の理想はとても似通っていたようです。妹は若君、兄は姫君として、性別を入れ替えられて育った瓜二つの容貌の美貌の兄妹が、性別を偽ったまま出仕した後、周囲に気づかれることなく元の性別へ入れ替わり、兄は大臣、妹は中宮へとそれぞれ栄達する「とりかへばや物語」などは、男女の美貌が似通っていたことを示しています。

主人公は美しい 王朝文学

容姿が美しいということは、単なる外見上だけのことではなく、美貌が内面の心映えや、才能等と一体のものとされていた貴族文化の中では、主人公は美しくなければなりませんでした。「竹取物語」「伊勢物語」「宇津保物語」など、美男美女が登場する物語が作られ、「源氏物語」で1つの頂点を迎えます。

在原業平

在原業平像

平城天皇の皇子阿保親王の息子で在原姓を賜って臣籍に下り、在原業平と称しました。「伊勢物語」の主人公「男」のモデルとされ、美男子、色男の代表としてのイメージが定着し、「今業平(現代の世の業平ともいうべき美男)」「業平作(美男子めかしたなりふり)」(日本国語大辞典)など美男を表す言葉にもなりました。明治になると、軍国主義の世相を受けて「忠君の人、美男子、軍人、詩人、此四者を兼ぬ」(栗島狭衣著『詩人業平』 (1901.12) 【30-194】)と評されることもあったようです。→該当箇所

伊勢物語 / 福井貞助校注・訳 (新編日本古典文学全集. 12 小学館, 1994.12 【KH2-E9】)

在原業平の没後、業平の歌や逸話をもとに成立した歌物語です。「むかし、男ありけり」の書き出しで始まる多くの短い段で構成されています。「西の対」「芥河」などの段の、天皇の后との許されぬ恋など、後世史実と混同されて語られた段も多く、色男・業平のイメージの形成に非常に大きな影響を及ぼしました。

光源氏

光源氏・頭中将

平安中期(11世紀初頭)に紫式部によって創作された長編物語「源氏物語」の主人公です。桐壷帝の第2皇子でしたが、元服に際して源姓を賜って臣籍に降下しました。「世になく清らなる玉の」ような絶世の美貌の持ち主であることから、「光る君」「光源氏」と呼ばれました。
源氏物語は長く読み継がれている間に、原文のまま読むことが難しくなり、後の世に様々な注釈書や訳本が作成されました。ここでは、鎌倉時代から伝わっている古写本を活字になおしたもの(翻刻)と現代の作家が現代語訳したものとを並べ、美貌の描写を比べてみます。

①源氏物語 . 1/ [紫式部][著] ; 柳井滋[ほか]校注 (新日本古典文学大系. 19 / 佐竹昭広[ほか]編 岩波書店 1993.1 【KH2-E3】)

②源氏物語 : 全訳. 1 /紫式部 [著] ; 與謝野晶子訳 東京 : 角川書店, 2008.4 【KG58-J11】

③源氏物語. 1 / [紫式部][著] ; 円地文子訳 東京 : 新潮社, 2008.9 【KG58-J42】

<紅葉賀より>

①(翻刻)色色に散りかふ木の葉の中より、青がひ波のかかやき出でたるさま、いとおそろしきまで見ゆ。かざしの紅葉いたう散りすぎて、顔のにほひにけおされたる心ちすれば、御前なる菊を折て左大将さしかへ給。
②(現代語訳) いろいろの秋の紅葉の散りかう中へ青海波の舞い手が歩み出た時には、これ以上の美は地上にないであろうと見えた。挿しにした紅葉が風のため に葉数の少なくなったのを見て、左大将がそばへ寄って庭前の菊を折ってさし変えた。
③(現代語訳) 色々に散り交う木の葉の間から、源氏の君の青海波が輝くばかりに舞い出た有様は、恐ろしいまでに美しい。挿頭の紅葉がひどく散り乱れて、お顔の眩しいほどの輝きに気おされて見えるので、お前の菊を折って、左大将がさし替えられた。
①(翻刻) 宮も、此御さまの常よりもことになつかしううちとけ給へるを、いとめでたしと見たてまつりたまひて、婿になどはおぼしよらで、女にて見ばやと色めきたる御心には思ほす。
②(現代語訳) 兵部卿の宮もこれまでよりも打ち解けて見える美しい源氏を、婿であるなどとはお知りにならないで、この人を女にしてみたいなどと若々しく考えておいでになった。
③(現代語訳) 兵部卿の宮も源氏の君の御様子が常より格別なつかしげに打ち解けていらっしゃるのを、大そうあでやかだとご覧になって、娘の婿になどとはゆめにも思召されず、この君が女であったらさぞ素晴らしいであろうと、色好みな御心にはお思いになるのであった。

光源氏は架空の美男子ですが、作者の紫式部は全くの無からこの理想の貴公子を作り出したわけではなく、その時代以前の多くの人物を元に光源氏を造形したのだろうとされています。モデルとされた人物の中で美男であった、もしくは美男であったろうとされる人だけでも、大津皇子(天武天皇の子)、源融(嵯峨天皇の子)、在原業平、源高明(醍醐天皇の子)、藤原伊周、敦康親王(一条天皇の子)などを挙げることができます。

コラム誰と誰が同一人物?

やまと絵の技法として広く認知されている「引き目、鼻鉤」の技法は、上流貴族を表す一種のコードでした。やまと絵で描かれた人物は、みな同じ顔をしていますが、これは、具体的に美しい人を描写するよりは、見る人がそれぞれ、自分が最も美しいと思う人を想像して楽しむことを前提にしているためだそうです。
ただ、表象としての絵画にも時代の影響はあり、江戸時代に描かれた源氏物語の錦絵を見ますと、貴族の服装をしているものの、平安時代に描かれたものより顔はより長く、細く、いわゆる瓜実顔へと変化しています。

問:この画像の人物は以下の3人の誰と同一人物でしょうか。

新訳絵入伊勢物語

源氏物語五十四帖 空蝉
1

前賢故実
2

武者かゞみ 一名人相合 南伝二
3

正解:3

敗者の方が美しい? 軍記物に現れる男たち

平安後期、貴族が天皇の外戚として政治をとる摂関政治が終わり、譲位した天皇、つまり上皇や法皇が政治をとる院政へと政治形態が変わります。院政の過程で武士が台頭し、時代の表舞台へと出てくるにつれ、貴族層は没落し、貴族が持っていた「美しさ」もまた敗者のものとして描かれるようになりました。
この項では、軍記物語に描かれた敗者の中から、美しい人が多かったといわれる平家一門と、後世、美男のイメージが定着した源義経についてとりあげます。

平家一門

三位中将重衡・千寿前・若葉内侍・小松三位維盛

<平維盛>
平家の公達の中でも特に美男の誉れが高く、後白河院の五十の賀宴で青海波を舞った折の姿は源氏物語の光源氏もかくや、と讃えられました。しかし武将には向いていなかったようで、倶利伽羅峠の合戦で大敗を喫し、那智の沖で入水しました。
<平重衡>
風流に通じた公達として、また武将としても優秀でした。一の谷の合戦でとらえられた後、鎌倉へ送られましたが、その際の振る舞いが非常に堂々と、優雅であり、源頼朝らを感動させた話が有名です。後に京へ送り返されて斬首されました。重衡の死後、彼と関係のあった女性たちの多くは剃髪して仏門に入ったといわれます。
<平敦盛>
「平家物語」で語られた一の谷の合戦で討ち死にした際の逸話により、若く美しい武将として伝わっています。
<六代>
平維盛の子で、平家滅亡直後の残党狩りを文覚上人の取りなしで生き延びましたが、文覚上人が失脚した後、斬首されました。

古写本を翻刻したものと現代語訳それぞれの「平家物語」の本文中から、容貌が讃えられた部分を抜き出しました。現代語で書かれたものと表現を比べてみてください。

①平家物語 上, 下 / 梶原正昭, 山下宏明校注 (新日本古典文学大系 44,45 / 佐竹昭広(ほか)編 東京 : 岩波書店, 1991,1993 【KH2-E3】)

②宮尾本平家物語 2, 4 / 宮尾登美子著 東京 : 文藝春秋, 2008 (文春文庫)【KH366-J184】, 【KH366-J205】

<平維盛>

①(翻刻) 露に媚たる花の御姿、風に飜る舞の袖、地をてらし天もかゝやくばかり也。(熊野参詣)
②(現代語訳) 上気した頬、凛々しい眉、引き緊まった紅唇、かの源氏物語の「紅葉賀」の光源氏もかくやとばかり

<平敦盛>

①(翻刻) 年十六七ばかりなるが、うす化粧して、かねぐろ也。我子の小次郎がよはひ程にて、容顏まことに美麗也ければ、(敦盛最期)
②(現代語訳) わが子小次郎と同年ほどに見え、そして顔かたちまことに美しい。

平家の公達については「平家物語」の他にも、以下のような、美貌やその風情を讃えた作品が残っています。

平家花ぞろへ (室町時代物語大成 第12 / 横山重,松本隆信編 角川書店, 1984.2【KG172-7】)

平家物語の主要な登場人物(平氏一門・貴族・女房たち)について、花や風景になぞらえています。
<平維盛=桜>
これこそ、まことに、花とても、けに、一かたに、よそへにくきまて、ありかたく、うつくしき人なれ。
(注:この維盛の段の中に桜という記述があり、また、平安時代は花といえば桜を指すことが多いため、桜としました)
<平重衡=牡丹>
ほたんの花の、にほひおほく、さきみたれたる、あさほらけに、初ほとゝときすの、一こゑ、をとつれたる、ほとゝやきこへん
<平敦盛=梅>
またとしわかき、ふゆ梅の、つほみ、ひらくる、よそほひを、はつかに見つけたる、こゝちしたまふ
<六代=桜>
露をふくみたる、桜の枝をおりて、見る心ちしたまふ、あてにけたかく、らうたく、うつくしうそ

平家公達草紙 (建礼門院右京大夫集 / 久松潜一,久保田淳校注 岩波書店, 1978.3. 【KG47-45】)

平家一門が栄華を誇った時代のエピソードがいくつかの物語としてまとめられています。
<平維盛>
青海波の花やかに舞ひ出でたるさま、維盛朝臣の足踏み袖振る程、世のけいき、入日のかげにもてはやされるかたち、似る物なくきよらなり。(青海波)
<平重衡>
かたちもいとなまめかしく、きよらなりけり。(重衡とその想ひ人たち)

源義経

源義経像

幼いころ、平治の乱で父・義朝が敗死し、京都の鞍馬寺にあずけられました。治承4(1180)年、兄頼朝の挙兵にかけつけ、平家追討に活躍しましたが、その後、頼朝によって追討されました。「平家物語」では「色しろう背ちいさきが、むかば(向歯)のことにさしいでて」(色白、小柄で出っ歯)と描写されていますが、死後200年ほど経った室町時代に成立した「義経記」では、すでに美男として描かれています。その後も、義経を扱った様々な作品や伝説が作られ、伝わっていく中で、美男の貴公子のイメージが定着しました。

①義経記 / 岡見正雄校注 (日本古典文学大系. 第37 岩波書店, 1959 【918-N6852】)

②義経記 : 現代語訳 / 高木卓訳 東京 : 河出書房新社, 2004.11 【KG174-H3】

源義経の生涯を、鞍馬山での不遇な幼年時代と、兄頼朝との不和から没落し、追討されるに至る後半生を中心に描いた物語です。

①(翻刻) きはめて色白く、鉄漿黒に眉細くつくりて、衣うちかづき給ひけるを見れば、松浦佐用姫領巾振る野辺に年を経し、寢乱れて見ゆる黛の、鴬の羽風に乱れぬべくぞ見え給ふ。玄宗皇帝の代なりせば楊貴妃とも謂ひつべし。漢の武帝の時ならば李夫人かともうたがふべし。
②(現代語訳) 色の白さはもとより、おはぐろでそめた歯、ほそくかいたまゆ、そうして被衣をかかげたそのすがたは、さながら、むかしの松浦佐用姫が、夫を見おくって領布をふったすがたも、こうかと思いあわされるほどであり、ことに寝みだれ髪の、どこかなまめかしいふぜいは、うぐいすの羽風さえいとう、いたいけな、あでやかさである。れいの、唐の玄宗皇帝のころなら楊貴妃に、また漢の武帝のころなら李夫人にくらべたいような、美しいすがたであった。

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