3 観て、食べて、遊んで ~もっと百貨店に居たくなる仕掛け~

  • 百貨店の楽しみ方は買い物以外にもあるよ。
    百貨店に丸一日いても飽きない理由は、上層階に散りばめられた、たくさんの仕掛けにあるんだ。

文化を楽しむ ~催し物会場~

  • ここは、展覧会、物産展、音楽会など、年間を通じて様々な企画が行われている催し物会場。
    どんな催し物をやっているのか早速見に行こう!

生活と芸術をつなぐ展覧会

明治末期以降、百貨店では、絵画、茶器、呉服、地方特産品などの展覧会が開かれるようになりました。これらの開催にあたっては、単なる集客にとどまらず、「商品」を魅力的に展示し、更なる販売促進につなげるという百貨店側の狙いがありました。

『みつこしタイムス』

明治41(1908)年11月、日本画の掛け軸を扱った「半切画展覧会」が大阪三越で開催されました。百貨店業界初の美術展覧会です。
『みつこしタイムス』11月の巻には、展覧会開催の告知とともに、作品図版と価格が紹介されています。掲載されている作品の中で、最も高価な今尾景年(いまおけいねん)の『翡翠に葦』の価格は24円です(明治33(1900)年頃の小学校教員の初任給は10~13円)。

日本初のファッションショー

『三越』

昭和2(1927)年9月、日本橋三越6階の「三越ホール」で、日本初のファッションショーが開催されました。『三越』によると、水谷八重子(初代)(みずたにやえこ)ら3人の女優がモデルとなり、一般公募の図案から選ばれた着物を着て舞を披露したとのことです。水谷らの衣装は、同時期に開かれた呉服の展覧会「染織逸品陳列会」でも陳列されました。
会場の「三越ホール」は、歌舞伎・日本舞踊、演劇、講演会などに利用され、当時の文化の振興に大きく貢献しました。「三越ホール」は「三越劇場」と名称を変え、現在でも舞台の公演やクラシックコンサートなどが行われています。

時代を反映する広告展

近代日本においては、図書館、美術館、博物館などの文化施設が十分整備されていなかったことから、百貨店がそれらに代わって「文化的使命」を担うとも考えられていました。
その「使命」には人々が文化芸術に親しむ機会を設けることに加え、時事に呼応した催し物を開くことも含まれました。

『店飾大観』

『店飾大観』

こちらは、昭和13(1938)年、松坂屋上野店で開催された「明日の広告博」の様子です。会場には多くの人が詰めかけ、企業の店頭装飾、広告、ポスターなどに見入っています。展覧会の公開前には舞台美術家、伊藤熹朔(いとうきさく)らによる審査が行われ、優れた店頭装飾を出品した企業には、「商工省杯」などの賞が贈られました。
時は日中戦争中。主催者側は長期戦と見込んだ戦争を危惧し、経済活動が萎縮しないよう人々の消費意欲を引き出し、商業を活気付けたいという意図があったようです。

おいしいものが食べたい! ~大食堂~

  • 店の中を歩き回っていると、だんだんとお腹が空いてきたかな?
    おいしい食事と共に、買い物の成果や展覧会の感想を語り合う――そんな場所も百貨店は提供しているよ。

注文の決め手は「見本棚」?

白木屋が、日本の百貨店で初めて本格的な食堂を開設したのは明治44(1911) 年のこと。その後を追うように各店で作られ始めた食堂は、床面積・メニューともに拡大を続け、大正後期には、複数のフロアにまたがる「大食堂」も登場しました。その過程では、現代にも通じる発明が次々と生まれます。
例えば、日本における「食品サンプル」と「食券販売」は、他店に先駆けて食堂を開いた白木屋発祥と言われています。大正半ば頃、海外のデリカテッセンを参考に、食堂の前のガラスケースにメニューの見本を陳列し、入口で食券を販売する方式を始めたところ、回転率が上がって売上も4倍になったそうです。白木屋の成功は瞬く間に評判となり、「見本棚」と「食券」は他の百貨店の食堂や全国各地の飲食店で採用されました。

『東京名物食べある記』

『東京名物食べある記』は『時事新報』(毎日新聞の前身)で好評を博した、都内各地の飲食店や百貨店食堂を巡る「食レポ」連載がまとめられた書籍です。松屋銀座の食堂の見本棚の前で注文を考える人々の様子がユーモラスに記されています。

『大東京寫眞帖』

関東大震災以後、食堂は百貨店を中心として一挙に増えたようです。写真は、ある百貨店の食堂と料理の見本棚です。豪華な内装と実物のような食品サンプルからは、百貨店が食堂に力を入れていたことが窺われます。

ウェイターの心得

『大・阪急』

『大・阪急』には、阪急の食堂で使用されていた「食券に就て」という店員用マニュアルの抜粋が掲載されています。
「料理を持參して引換券を回収する塲合」、「追加註文を依頼され食券なき塲合」、「食券を現金と取替る樣依頼された塲合」など、細かな場合分けに応じて店員の受け答えが定められています。給仕を担当する従業員は、「その一擧一動は直ちに阪急百貨店を代表して顧客の感情に反映する」として、特に教育に力が注がれていました。
当時の阪急の食堂は、休日には3000弱の座席が埋まるほど繁盛していたということですが、混雑時にも丁寧な対応や言葉遣いが徹底されていたことが窺えます。

都会を一望して ~屋上空間~

  • お腹を満たしたところで、そろそろ外の空気が吸いたい気分だね。
    百貨店の屋上からは、素晴らしい眺望を楽しむことができるんだ。
    憩いと賑わいが共存する屋上空間で、一日の締めくくりを過ごそう。

憩いを求めて ~屋上庭園~

『大三越歴史写真帖』

明治40(1907)年、三越は日本の百貨店で初めて、屋上を「空中庭園」として開放しました。花壇、藤棚、池、噴水などを備えた洋風の庭園には、創業家の三井家とゆかりの深い三囲稲荷(みめぐりいなり)神社も祀られました。
その他の百貨店でも同時期に屋上の活用が進められています。白木屋の屋上庭園には「清涼飲料水召し上がり所」や「盆栽陳列場」が作られていたようです。
当時は高層の建物が珍しかったため、屋上からの景色は百貨店の大きなアピールポイントになりました。

『茶会漫録. 第7集』

『茶会漫録. 第7集』

屋上庭園の中に茶室を構えた百貨店もありました。大阪三越9階屋上の「凌雲亭」は、大阪城に向かい合う形で建てられ、小庭から東大阪一帯を望むことができました。
『茶会漫録』の筆者野崎広太は、大正初期、三越の老大番頭として大阪三越の拡大・改装を指揮した実業家であり、「幻庵」として知られた茶人でもありました。『茶会漫録』には、野崎が参加した多数の茶会の様子が記されています。

活気と賑わい ~屋上遊園地~

百貨店の鉄骨鉄筋コンクリート化が進むと、屋上の役割はさらに広がりを見せます。遊園地、ローラースケート場、イベント用ステージ、音楽堂など、各店で趣向を凝らした設備が作られました。
昭和6(1931)年に開店した松屋浅草には、小動物園、ボウリング、野球遊び、射撃場など各種の遊戯施設を集めた「スポーツランド」があり、家族連れで大変賑わいました。

『松屋発展史』

屋上の両端を往復するケーブルカー。
浅草店を人々に印象づけるものを設備したいという希望から、ナイアガラの滝にあったケーブルカーを真似て設けた、とのことです。街を一望でき、狙い通り浅草店の名物となりました。

『現代商業写真帖』

1回10銭で園内を2周する豆汽車は、子どもに最も人気のアトラクションでした。線路脇の人だかりは、汽車に乗った子どもを見守る家族たちでしょうか。

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おわりに・参考文献



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