第2章 登山普及の双璧

第2章では、登山が明治日本に普及するにあたって大きな役割を果たした、ふたりの人物とその著作について紹介します。ふたりの人物とは、地理学者・ジャーナリストの志賀重昂と、イギリス人宣教師ウォルター・ウェストンです。
第1章でも見たように、開国後の日本では日本人、西洋人によるさまざまな登山が見られるようになっていました。そうした背景に支えられつつも、ふたりの行動と著作は日本の人々に大きな影響を与え、山岳団体の設立や、学校登山の普及にもつながりました。

志賀重昂と『日本風景論』

志賀重昂は文久3(1863)年の生まれで、明治13(1880)年に札幌農学校に入学しました。在学中、北海道内を旅行して観察した風景の記録などは、後の『日本風景論』にも反映されています。
明治20(1887)年、植民地化されつつある太平洋の島々などについて記した『南洋時事』【33-137】で文名を高め、翌年には三宅雪嶺らと雑誌『日本人』【雑54-36】を発行して「国粋主義」を掲げました。彼の言う国粋主義とは排外・復古的なものではなく、西洋の文明を自主性をもって受け止めようとするものでした(「「日本人」が懷抱する處の旨義を吿白す」)。
そして明治27(1894)年、日清戦争勃発後の10月に、『日本風景論』【45-67】が出版されます。

志賀重昂全集
志賀重昂

南洋時事
『南洋時事』

4) 志賀重昂『日本風景論』政教社, 明27.10【45-67】

日本風景論

この資料は表題のとおり日本の風景について論じたもので、景観論に自然科学的な視点を取り入れた嚆矢であると言われています。「気候、海流の多変多様なる事」「水蒸気の多量なる事」「流水の浸食激烈なる事」と並び、「火山岩の多々なる事」を日本の風景の特徴として挙げています。
火山岩が多いということは、すなわち火山が多いということであり、その火山を「「名山」とは火山の別称なり」と称揚しています。多くの山を紹介し、「君請う登臨し、火口湖の晶明なる冽水に漱(すす)ぎて、太古の雪を嚼(か)み、天風に独嘯して、長空に向かい浩歌せんか、君や人間の物にあらず」「自然の「大」を収悟せんと欲せばこの山に登臨すべし」などと流麗な文章で登山を奨めています。
また、「火山岩」の章に続いては、「登山の気風を興作すべし」と題した附録があり、登山の技術なども紹介しています。附録とは言うものの、章と同じくらいの分量があり、学術書としてだけでなく登山に導く実用書としても受け取られたと言われています。学校登山に関しても、「学校教員たる者、学生生徒の間に登山の気風を大いに興作することに力めざるべからず」と訴えています。
なお、この資料では志賀は「富士実は全世界「名山」の標準」と唱え、各国の自然や名勝も日本に劣るとするほか、中国の風景にはことに厳しい批判を向けており、日清戦争当時の時代の空気を感じさせます。内村鑑三は同書の批評で「日本は美なり……然れど吾人をして他洲に譲る所あらしめよ」(『六合雑誌』165号【YA-79】)と、日本とは異なる美が海外にもあるとしており、それぞれの風景美に関する論調がうかがえます。

日本風景論
「登山の気風を興作すべし」末尾、武甲山の図

『日本風景論』は好評のうちに版を重ね、いわば当時の「ベストセラー」本となりました。版によって文章や挿絵の変化などもあります。国立国会図書館デジタルコレクションで、各版を読み比べてみることができます(デジタルコレクションの検索結果へ)。
登山をするよう情熱的に訴えかける内容を含み、ベストセラーとしてその訴えが多くの人々に読まれたことから、『日本風景論』は近代日本に登山が普及するための一転機を画した作品とみなされています。その評価を裏付けるように、後に志賀は日本山岳会の名誉会員にもなっています。

志賀はそれ以降も地理を論じる活動を続けたほか、衆議院議員に当選し政界で活動したり、日露戦争を実見して観戦記『大役小志』を著したりもしています。『大役小志』では、歌会始の勅題が「新年山」であることを戦地で知った際などに、山岳と登山について記しており、そこでは『日本風景論』とは異なり中国の景色や詩も評価しています。
昭和2(1927)年3月、63歳で死去し、日本山岳会の機関誌『山岳』【Z11-375】にもその死を悼む記事が掲載されました。「山の先覚者として我等に「山」といふものを力強く教え且つ味はして呉れた」と、明治時代の人々の景観意識を一変させたとも言われる『日本風景論』の影響力を高く評価するものでした。

大役小志

ウォルター・ウェストンと『日本アルプス登山と探検』

世界写真図説.雪
ウォルター・ウェストン

ウォルター・ウェストン(Weston, Walter, 1861-1940)は1861年にイギリスで生まれ、ケンブリッジ大学在学中にヨーロッパアルプスに挑むなど、登山を行っていました。明治21(1888)年に宣教師として来日してからも、山への関心は持続しており、九州や中部地方の山々を巡りました。
明治27(1894)年にいったんイギリスに帰国し、王立地理学会で報告を行ったり、アーネスト・サトウらのA Handbook for travellers in central & northern Japanの改版に協力したりと、日本の山を紹介しました。また自らも、Mountaineering and exploration in the Japanese Alpsという本を著します。

5) Weston, Walter. Mountaineering and exploration in the Japanese Alps. J. Murray 1896【特38-0181】

Mountaineering and exploration in the Japanese Alps

この資料は、ウェストンが明治24(1891)年から同27(1894)年までの日本滞在中の登山について記したものです。(外部サイトボタンInternet Archiveで全文が閲覧できます。)
タイトルのとおり、現在「日本アルプス」として知られる中部地方の山々、槍ヶ岳や穂高岳の記述が中心ですが、富士山などにも登っています。イギリスで発行され、”Japanese Alps”をヨーロッパの人々に紹介することとなりました。
内容は登山の行程に関することだけではなく、案内人や宿の提供者としてウェストンの登山を助け、時には信仰などの理由から登山を阻みもする、明治の日本人の姿も克明に描かれています。さらには日本文化についての記述も多く、「草津温泉は唯一つを除く一切の病気を癒すと云はれてゐる。そしてその唯一つと云ふのは――恋の病である!」などユーモアも感じられます。これはウェストン自身が登山の後で(草津とは別の)山腹の温泉につかった記述に続くくだりですが、現代でも下山後に温泉を楽しむ登山者は多く、明治の外国人も同様だったのかと思うと親近感を覚えます。
なお、日本で『日本アルプス登山と探検』【639-222】として翻訳出版されたのは、登山がより一般に普及した昭和8(1933)年のことでした。登山家の田部重治が寄せた跋では「未だ登山が日本において顧みられない、交通が極めて不便な時代の登山の記録」として、「日本の山岳に関する著述の内で最も興味深いもののひとつ」と評されています。「日本アルプス」という呼び方が国内外で広く知られるようになるには、ウェストンの活動が大きく寄与していたようです。

日本アルプス登山と探検
「本書訳出に関するウェストン氏より小島烏水氏への消息の一部」

ウェストンは明治35(1902)年に再び来日し、宣教や飢饉救援活動、そして登山を行います。その時期に、偶然から登山家の小島烏水と印象的な出会いを果たし、「日本山岳会」創設のきっかけを与えます。この出来事も、近代日本に登山が普及する重要な転機となりました。小島烏水や日本山岳会については、第3章で詳しく紹介します。

6) 「余が日本の登山」『東京朝日新聞』明治45年3月11日~16日【YB-2】

東京朝日新聞
「登山姿のウェストン氏」(連載第4回)

この記事は、明治44(1911)年から大正4(1915)年まで、3度目の来日をしていた時期にウェストンが寄稿したもので、6回にわたって連載されています。内容は『日本アルプス登山と探検』などと共通する部分も多いですが、当時はまだそれらの著作が邦訳されていなかったため、彼の経験を日本語で読むことができる貴重な機会だったのではないでしょうか。ウェストンは登山の魅力を伝えるために講演会なども行っており、同紙の明治45年2月27日号には、講演会が行われるという記事も掲載されています。

ウェストンは帰国後も、日本人が欧州を訪れた際に登山の手助けをするなどの活動をしていました。2度目、3度目の訪日の経験も、The playground of the Far East【特38-0182】(邦訳に『極東の遊歩場』【GB645-311】、『日本アルプス再訪』【GC117-G20】)など何冊かの本として書き残しています。
これらの活動から、ウェストンもまた、近代日本における登山の普及に大きな役割を果たしたと言えるでしょう。昭和12(1937)年には勲四等瑞宝章を授与され、同年、日本山岳会も上高地に記念碑を設置しました。

昭和15(1940)年、ウェストンはイギリスで没します。第二次世界大戦後には上高地の他にも各地に碑や彫刻が設置されたり、「ウェストン祭」が行われたりという動きがみられ、没後もその名を日本に留めています。
なお、2度目の来日からは夫人フランシス・エミリーを伴っており、彼女も登山家でした。第1章でみたように、すでに日本の山は女性にも開かれていたため、槍ヶ岳に女性初登頂を果たすなどの成果を残しています。

第1章では、西洋の人々ばかりではなく日本人もさまざまな形で山に登っていたことをみてきました。この章の主役である志賀とウェストンもまた、その著作で当時の日本の登山者や伝統的な登山技術について触れています。いくつかの例を見てみましょう。

山の人々

ウェストンが山中に分け入る際には、その土地に精通した人々の助けを受けており、中でも案内人の一人である上條嘉門次との交流はよく知られています。『日本アルプス登山と探検』の中では、穂高岳の登頂を目指す際に嘉門次の案内を受けており、藪を山刀で切り開いたり、垂直に近い岩壁を下ったりする彼の高度な技術が描かれています。また、2度目、3度目の来日の際にも嘉門次と出会っており、『極東の遊歩場』などの著作の中でもその専門性や善意について賞賛しています。
嘉門次の他にも猟師など多くの山の人々と出会っており、衣服や雪に対応した履物など、彼らの装備についての記述や写真がみられます。
志賀もまた、札幌農学校時代の経験からか、『日本風景論』中の「北海道登山中の苦楽、及び注意」という項目で、登山者に対して「先導の蝦夷人」の技術をもって小屋を建て、狩猟や採集を行い山中に入ることを奨めています。「立山火山脈」の項でも、「山下の民」が案内を行ってくれることや、衣服や麻縄などの装備について記しています。
登山が広く行われるようになる上で、こうした人々の知識と助力が大きな役割を果たしていたことがうかがえるのではないでしょうか。

The playground of the Far East
上條嘉門次

Mountaineering and exploration in the Japanese Alps
猟師の姿

履物

登山のためには良い履物が不可欠ですが、彼らはいずれも、日本の伝統的な草鞋(わらじ)に注目しています。ウェストンは「水で擦り減つた丸石の上を渡るには、平頭鋲を打つた靴よりも草鞋の方がずつと滑らないと云ふ事実を、はっきり経験した」と書き、志賀は曲亭馬琴の「草鞋は旅人の甲冑也」という言葉を引き、複数備えることを奨めています。
草鞋と靴の優劣については、ウェストンは「草鞋は、滑りがちの岩には平頭鋲の靴よりももつといゝ足がゝりになるが、普通歩くには後者が一番いゝ」、志賀は「個々人々の尚好あり」としているあたりは、西洋人向けに書かれたアドバイスと日本人向けのそれと違いもあるのでしょうか。
靴の歩きやすさと草鞋の滑りにくさ、それぞれの長所を生かそうとしたのか、ウェストンは靴に草鞋を結びつけることもありました。著作の記述や写真のほか、新潟県糸魚川市の親不知にあるウェストンの銅像でも、その姿が確認できます。
なお草鞋に注目した西洋人はウェストンだけではなく、ドイツ人旅行者ヴィルヘルム・シュタイニッツァーの著書『日本山岳紀行』【GC81-L3】や、第1章で紹介した西洋人向けの旅行ガイドブックである『日本旅行案内』にも草鞋についての記述があります。小島烏水は、『日本山水論』【99-106】や『アルピニストの手記』【712-60】で、実際に草鞋が外国人登山者に用いられていたことを書き残しています。

親不知のウェストン像
親不知のウェストン像(筆者撮影)

親不知のウェストン像の足元
足元(筆者撮影)

信仰

志賀は『日本風景論』の中で、「日本人の自然拝崇」として、日本では多くの山で神仏を祀っており、さらには山伏や巡礼者が登って礼拝することについて触れています。これは自著『地理学講義』【68-327ロ】からの抜粋とあり、『日本風景論』初版の出版と同じ明治27(1894)年発行の第6版からその記述があるようです。
キリスト教徒のウェストンにとっては異教となりますが、『日本アルプス登山と探検』では、こうした日本の信仰は決して否定的ではない筆致で描かれています。生物を踏んでしまう可能性を低めるため、一本歯の下駄で山に登る巡礼についての記述などは、西洋の巡礼とも比較して敬意を払っているように思われます。写真も掲載されており、白装束で杖を持った一行の姿が確認できます。
彼らの著作からは、江戸時代に盛んであった信仰登山が、明治期にもなお盛んであったことがうかがえます。近年でも礼拝のために集団で登山する例は見られるほか、御来光を拝むことなどは当時も今も行われており、自然に対する敬虔の念は現代の登山にとっても大切な要素なのかもしれません。

Mountaineering and exploration in the Japanese Alps
巡礼の写真

後世の視点

当時人気を博した『日本風景論』ですが、登山技術の面などについて批判も受けています。例えば、志賀自身は登山の経験が乏しく、山の描写や登山技術については先ほども紹介した『日本旅行案内』や、タイトルどおり旅行の技術を詳解したThe art of travel【60-99】(外部サイトボタンInternet Archiveで全文が閲覧できます)などの洋書に多くを負っているとの説や、登山を勧める部分は附録に過ぎないとの説です。確かに、それぞれの資料の図版を比較すると、その類似は明らかであるように見えます。

『日本風景論』【45-67】および『The art of travel』【60-99】から抜粋
『日本風景論』【45-67】および『The art of travel』【60-99】から抜粋

志賀に影響を受けて登山を始めたと自認している小島烏水も、この点については「『風景論』の……山中光景の記事は、倫敦(ロンドン)ジョン・マーレイ出版の『日本案内記』[先述の A Handbook for travellers in central & northern Japan のこと:引用者注]の英文を反訳されたものである」(『アルピニストの手記』)と指摘しています。
ウェストンについても、西洋人登山者としては第2期に属し、日本人と直接交流して各地の山を見出していった第1期の人々に比べると、英語で旅行案内が読めるという点で容易さがあったと指摘されたり、日本人・西洋人とも多くの登山者がおり、彼ひとりを特別視する必要はないと主張されたりしています。ウェストン自身、著書の序文でガウランドやサトウに感謝の意を表明しています。
しかし、第3章でも見ていくように、明治時代の登山者たちは、しばしば志賀とウェストンの存在に言及しています。『日本風景論』が広く読まれたことや、現在「ウェストン祭」が各地で行われていることからも、彼らの行動と著作の影響力がうかがい知れます。現代の視点からは、時代の制約などもあるかもしれませんが、やはりふたりが近代日本における登山の普及を促した双璧であったと言えるのではないでしょうか。

コラム靴に生卵?

『日本風景論』で紹介されている登山技術に目を通すと、「長靴」の項にある「生玉子を割りて靴の中に投じ而して後穿てば足痛すること少し」という記述が目を惹きます。当時、皮革をなめすために生卵を用いることがあったようですが、現代の感覚からすると、靴の中に生卵を入れるというのは抵抗があるのではないでしょうか。(悪臭がするため、現在では生卵を用いたなめしはあまり行われていないようです。)
この記述は、種本とされる The art of travel に”A raw egg broken into a boot, before putting it on, greatly softens the leather”とあるのを訳したものです。同じ方法は、米国の将校が編集したMilitary dictionary【64-26】にも採録されています。欧米の旅行者や軍人にとって、靴は毎日履く重要なもののはずですが、臭いは気にならなかったのでしょうか。
『日本風景論』と同様に The art of travel の記述を利用しているとみられる、小島烏水『日本山水論』【99-106】や村上濁浪『冒険旅行術』【96-45】などでは、靴に生卵を入れるという記述は削られています。その一方で、これらには The art of travel にはない草鞋についての記述があり、また『日本風景論』にも草鞋についての記述があるのは第2章で確認したとおりです。
靴への生卵投入と、草鞋の利用。これらの資料の履物に関する記述は、現代から見れば奇妙にも思える西洋のやり方も丸写ししたり、逆に日本の伝統をうまく活用したりして、試行錯誤を重ねていた登山草創期の特徴なのかもしれません。
……それにしても本当に生卵を投じた人はいたのか、いたとすれば実行後の臭いについてどう感じたのか、気になるところです。

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山岳会の設立と登山の普及



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