第2部 近現代

第8章 文芸家(2)

与謝野晶子(よさの あきこ) 1878-1942

与謝野晶子肖像歌人。本名は、しょう。旧姓はほう。与謝野鉄幹が創立した『明星』に短歌を発表するようになり、大胆で奔放な愛をうたった処女歌集『みだれ髪』は大きな反響を呼んだ。『源氏物語』の現代語訳でも知られる。鉄幹と結婚し、生涯で11人の子供を育てあげた。

91 与謝野晶子書簡 昭和2(1927)年3月28日【鶴見祐輔関係文書(書簡の部)1111-1】「与謝野晶子書簡」の封筒

晶子の母親としての一面がうかがえる書簡。当時26歳の長男(のちの医学博士与謝野光)が郊外の荻窪で病気になったおり、麹町区富士見町の自宅からわざわざ赴き看病し、そのために「失礼」したことを詫びている。宛名の鶴見祐輔は後藤新平の娘婿。鉄道省退官後、著述・講演活動に専念し、のちに衆議院議員となった。

「与謝野晶子書簡」
「与謝野晶子書簡」の翻刻

芥川龍之介(あくたがわ りゅうのすけ) 1892-1927

芥川龍之介肖像小説家。大正4(1915)年末頃より夏目漱石に師事する。翌年発表した『鼻』が漱石に激賞され、文壇で認められる契機となった。代表作は『羅生門』、『河童』など。昭和2(1927)年に睡眠薬を飲んで自殺。芥川の死は、時代の転換を示す一大事件として世間に衝撃を与えた。

92 奉教人の死 大正7(1918)年【本別3-92『奉教人の死』の表紙

自筆原稿。大正7(1918)年9月発行の『三田文学』に掲載された。いわゆるキリシタンものの系列に属し、芥川の歴史小説の代表作とされる。長崎の教会で養われていた孤児「ろおらん」(単行本化の際「ろおれんぞ」に改称)が、人々の誤解と迫害に耐えつつ、大火の中で殉教を遂げる物語。作中に、筆者所蔵のキリシタン版『れげんだ・おうれあ』を元にこの物語を書いたと解説があるが、この書は芥川の創作である。しかし多くの人がこのキリシタン版の存在を信じてしまい、中には買い取りを希望して手付金を送った人まであったという。

『奉教人の死』の自筆原稿巻頭

豆知識

原稿用紙

作家が原稿用紙を使い始めたのは明治20年代、また、今のような400字詰め原稿用紙が主流になったのは明治末から大正だといわれています。なぜ400字になったのかは諸説ありますが、印刷所で用いられる文選箱(原稿に従って活字を拾い納めておく箱)のサイズに合わせたという説があります。原稿用紙は、1文字1活字の活版印刷が普及したため、文字数が計算できるようにするためのものなのです。
しかし、それ以前にも升目が印刷された紙はありました。現存する最古のものは藤貞幹とうていかん(1732-1797)の『好古日録』の稿本だといわれています。くずし字やつづけ字ではなく、1文字ずつ書く場合は、字数計算や美しさのために升目が必要だったのでしょう。
また、木簡をルーツとする縦の罫線だけを引いた紙もあります(川路聖謨田村藍水東久邇宮稔彦王など)。書いているうちに行が斜めになったり、行間がまばらにならないようにするためです。罫線入りの巻紙もあり、それで書かれた手紙も掲載しています(黒田清隆)。

谷崎潤一郎(たにざき じゅんいちろう) 1886-1965

谷崎潤一郎肖像小説家。明治43(1910)年、第2次『新思潮』同人として文壇に登場。退廃的な美を描いて「悪魔主義」と呼ばれた。関東大震災後は関西に移住し、古典文化に関心を寄せて作風が変化するが、晩年に至るまで名作を発表し続けた。代表作は『春琴抄』、『細雪』など。

93 二人の稚児 大正7(1918)年【本別3-82『二人の稚兒』の表紙

自筆原稿。『中央公論』大正7(1918)年4月号に掲載された。瑠璃光丸るりこうまる千手丸せんじゅまるの2人は、幼い頃に比叡山に預けられ兄弟のように育ったが、年ごろになるにつれ俗界、とりわけ「女人」を見てみたいという煩悩に悩まされる。人間の善と悪、禁欲と快楽について描いた作品。
谷崎は本作品を執筆する前年に母を亡くしている。最後に登場する「女人」には、母への追慕が込められているとされる。この原稿には、細かい語句の訂正跡などが見られ、文章にこだわりのある谷崎の執筆過程がうかがえて興味深い。

『二人の稚兒』の自筆原稿巻頭

佐藤春夫(さとう はるお) 1892-1964

佐藤春夫肖像小説家、詩人。初め浪漫的な抒情詩人として文壇に登場したが、小説『田園の憂鬱』、『都会の憂鬱』などで大正期を代表する作家となる。大正6(1917)年頃谷崎潤一郎と知り合い、処女創作集『病める薔薇』(大正7(1918)年。のちに補訂されて『田園の憂鬱』となる)には谷崎が序文を寄せている。2人の交友はお互いの生活と創作に大きな影響を与えたとされる。谷崎が妻千代を佐藤に譲った「細君譲渡事件」は特に有名。

94 思ひ出のなかから 〔大正8(1919)年〕【本別3-97『思ひ出のなかから』の表紙

自筆原稿。「私の父と父の鶴との話」という小題がついている。この物語は最初、小説「わが生ひ立ち」の一部として、大正8(1919)年7月の『大阪朝日新聞』夕刊に掲載されたが、改題と加筆修正を経て、翌年発行の雑誌『サンエス』に再度発表された。掲載資料は『サンエス』に掲載した際の原稿と思われる。幼い頃、医者であった父が連れてきた1羽の鶴と父との交流、その鶴が死んだ時の家族の様子などを、静かで落ち着いた筆致で描いている。のち、佐藤にとって初の童話集『蝗の大旅行』(大正15(1926)年)に収録された。

『思ひ出のなかから』の自筆原稿巻頭

土井晩翠(どい ばんすい) 1871-1952

土井晩翠肖像詩人、英文学者。姓は本来「つちい」だが、昭和9(1934)年、通称に従い「どい」と改めた。東京帝国大学卒業後、第1詩集『天地有情』を刊行し、島崎藤村と並び称される詩人となる。「荒城の月」の作詞者としても著名。のちに詩壇の主流を離れるが、晩年の『イーリアス』、『オヂュッセーア』などの訳業が高く評価されている。

95 イーリアス 昭和11(1936)~13(1938)年【本別3-63『イーリアス』第1冊の表紙

ホメロスの『イーリアス』をギリシャ語原典から訳した際の草稿。晩翠は独学でギリシャ語を習得し、大正3(1914)年、日本初の韻文による『イーリアス』部分訳を発表した。しかし、全24歌のうちの1、2歌を訳したのみで中断。約20年後、途絶していた訳の完成を再び決意し、昭和14(1939)年に全文訳を成し遂げた。完成まで足かけ25年を費やした訳は、今もなお日本におけるホメロス訳の金字塔とされる。
当館は、大正2(1913)年頃の草稿ノート3冊、昭和11(1936)年頃から始まる草稿類11冊などを所蔵する。

『イーリアス』第1冊の自筆原稿

大佛次郎(おさらぎ じろう) 1897-1973

大佛次郎肖像小説家。本名は野尻清彦。昭和期大衆文学の代表作家であり、特に『鞍馬天狗』、『パリ燃ゆ』、『天皇の世紀』などが著名。鎌倉の大仏裏に住んでいたことから大佛の筆名を用いたという。時代小説のほか現代小説にも優れた作品を遺す。豊かな西欧的教養をもとに、大衆文学の質的向上に貢献した。

96 風船 〔昭和30(1955)年〕【YS1-16『風船』の拡大画像

自筆原稿。『毎日新聞』朝刊に、昭和30(1955)年1月20日から9月10日まで連載された。アメリカ占領期の日本を舞台に、「漂流して行く先さだめないゴム風船」のような人々の生を描いた小説。大佛が特に力を注いだ作品で、「私の代表作と見られている『帰郷』よりも『風船』が遙か上の作品だとひそかに信じている」と書いている(「私の現代文学」(『日本名作自選文学館 [6]』【KH6-59】))。「おさらぎ」銘入り原稿用紙を使用。作者自身が修正した跡も多く残っている。なお、朱は新聞社で入れたもの。

『風船』

豆知識

原稿用紙に書かれた記号たち

原稿整理という作業があります。広義には、表記の統一、見出しをつけるといった編集作業ですが、狭義では自筆原稿中の文字をわかりやすく指定する作業のことです。
今回掲載した自筆原稿の中には、赤でたくさんの記号が入っているものがあります。これは、印刷所で文字と記号の区別等がつきやすいように編集者が入れた「整理記号」です。達筆な作家の文字も、この記号でわかりやすくなります。整理記号は会社によって違うものもあるようですが、大体、句読点や括弧には「<」や「>」を使うなどと決まっていました。