コラム「巨大農協――コチアとスール」

巨大農協――コチアとスール

日本移民のブラジルへの貢献は、何といっても農業である。ジャガイモ(バタタ)、トマト(トマテ)、果実、花卉の栽培、養鶏を普及させたのは日本人である。

そして、こうした日本人の農業の発展を支える上でとりわけ力を持ったのが日系の巨大農協 コチア産業組合と南伯農業協同組合中央会(スール・ブラジル)であった。両農協は、戦後のブラジル農業界に君臨した。

草創期

日本人集団地に続々と農協が誕生したのは1920年代後半から1930年代にかけてで、在サンパウロ総領事館が日本の産業組合をモデルにして補助金を交付して設立を奨励したことによるものである。

産組設立を熱心に主張していた日伯新聞社長の三浦鑿は、サンパウロ市郊外のコチア村に組合をつくらせようという意図から1926年(昭和元)9月に同新聞紙上に「イモ礼賛」という訪問記を連載し、コチア村のバタタ(じゃがいも)生産者が、倉庫がないために商品をかかえこむことができず、商人に不当に買いたたかれるとして、共同で倉庫建設の必要性を説き、組合設立気運を盛り上げた。ちょうど1925年からのいも景気でもうけた金で一時帰国し、郷里高知県で産業組合の活動を見てきた下元健吉(当時28歳)が中心となってジャガイモ(バタタ)生産者の組合設立運動を起こし、1927年(昭和2)12月11日コチア村で「コチア・バタタ生産者産業組合」が設立された。その2年後の1929年(昭和4)12月には同じくサンパウロ市郊外のジュケリ地区でスール・ブラジルの前身ジュケリー農業組合が設立されている。

その後、コチア組合はバタタ生産者以外の野菜生産農家の加入もうながし、名称も「コチア産業組合(Cooperativa Agricola de Cotia 略称 CAC)」に改称した。さらに通常、農協の事業区域は一地域に限定されているところを、事業区域を隣接の郡まで拡大し、地方事務所を設置し組合員を勧誘した。こうして設立時にわずか83人だった組合員数は、設立10周年の1937年(昭和12)には1,303人に達し、ブラジル一の農協となった。

この間、1934年(昭和9)11月にはサンパウロ市の仲買人がコチア産業組合からの購入をボイコットするという「最大の試練」が訪れた。だが、組合側は、組合員以外の生産者とも団結して州当局も味方につけて、出荷停止で対抗し勝利した。

コチアは、1938年(昭和13)には事業区域を州全体へと拡大し、唯一の大消費地サンパウロ市への販路を求める奥地の生産者が加入することで、さらに成長を続けた。この時期、日本から技術を導入して養鶏の普及にもつとめた。

一方のジュケリー組合は設立から1939年(昭和14)中沢源一郎が専務理事に選出されるまでの10年間は内紛にあけくれ、組合員数も49人が93人になったにすぎなかった。

戦時中の組合

戦争による日伯間の国交断絶後も、コチアは、食糧生産に従事し、国内資本による団体であることから資産凍結を免れ、政府派遣の監督官の監視下に置かれはしたが、活動を継続した。役員を全員ブラジル人とすることも義務づけられたが、他の日系組合が適当なブラジル人を見つけることができないなかで、顧問弁護士をつとめていたフェラースを理事長とし、これを切り抜けた。戦時中もサンパウロ州の人口の急激な増加にあわせて組合は発展し、組合員も開戦当時の約2,000人から終戦時には約3,000人となっていた。

戦後の発展

戦後になってもコチアは成長を続け、1952年(昭和27)に組合員数が5,000人を突破し、サンパウロ州以外の近隣州にも進出した。一方のジュケリー組合は、1946年(昭和21)からアンジェロ・ザニーニ理事長、中沢源一郎専務理事の体制となり、コチアの後を追って急成長を遂げた。1951年(昭和26)以降、養鶏(鶏卵)により奥地に進出し、1954年(昭和29)には「南伯農業協同組合中央組合(Cooperativa Central Agricola Sul-Brasil)」と改称し、1966年(昭和41)パラナ州パラナバイーに進出した。両組合はジャガイモ、野菜、養鶏に加えて、戦後は果樹、花卉の栽培も普及させた。

1973年(昭和48)、コチアは、ミナスジェイラス州、ゴヤス州、マットグロッソ州などにわたって分布する熱帯サバンナ気候のセラードに組合員を入植させ、セラード開発に進出した。1980年代後半には、組合員数は、コチア14,470人(1986年)、スール40単組、10,704人(1988年)となっていた。

  • 画像『コチア農業協同組合の倉庫、農業協同組合の販売部』

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両組合の解散

ところが、1980年代後半の農業不況、経済不況の影響で、両組合とも多額の負債を抱え、経営不振に陥り、突如1994年(平成6)3月30日にスール、同年9月30日にコチアと相次いで解散し、日系社会に大きな衝撃を与えた。

【参考文献】(<>内は当館請求記号)

  • アンドウ・ゼンパチ編著『コチア産業組合三十年の歩み』 サンパウロ コチア産業組合 1959 <DH71-62>
  • コチア産組中央会刊行委員会〔編〕『コチア産業組合中央会60年の歩み』 サンパウロ コチア産業組合中央会 1987 <移(一)-661>
  • 「南伯農協中央会六〇年の略史」『アグロ・ナッセンデ』Set / Out 1985