コラム「在伯日本人同仁会と日本病院」

在伯日本人同仁会と日本病院

日本人植民地では、マラリアをはじめ、十二指腸虫病、トラホーム、アメーバ赤痢、肺結核などの伝染病がしばしば猛威を振るった。しかし、海外興業(海興)やブラジル拓植(ブラ拓)といった会社経営の植民地には日本人医師がいたが、大半の日本人集団地には医師はいなかった。
そもそも戦前期サンパウロ州の地方には医師が少なく、医師に往診してもらうと法外な費用を請求された。そうした中、多くの移民が医者にかかれず、医者にかかれたとしてもブラジル人医師では言葉が通じないために適切な治療を受けられず、落とさなくてもよい命を落としたものも少なくなかった。日本人医師の配置は、移民たちの差し迫った要望であった。

同仁会の設立

大正末期、日本移民の渡航者数が急増していくなかで、医師問題は、日本政府にとっても解決すべき課題であった。医師のいない奥地では黙認されていた例はあったが、公式にはブラジルの医師免許を持たない日本人医師の開業は許されなかったので、日本政府は、大正12年度にブラジルの医師免許を取らせるため、リオデジャネイロの大学医学部に日本から4人の留学生を派遣した。同時に移民の衛生費補助として3万6千円を支給した。この補助金は、在サンパウロ総領事館により医療衛生機関ブラジル日本人同仁会を設立するために使われた。サンパウロ市の日本人たちにはこれ以前から日本病院建設の構想があり、実際には同仁会もその目的のために設立されたのである。
ところが、同仁会の設立がサンパウロ市在住の日系社会の有力者のみに諮って行われたところから、奥地のノロエステ線の移民のパイオニアである上塚周平、鈴木貞次郎らが反発し、ノロエステ病院建設運動を起した。この運動は1927年(昭和2)の大干ばつにより頓挫し、サンパウロ総領事の斡旋により最終的にはサンパウロ市に大病院を設置する案で決着した。

日本病院の建設運動

同仁会は、地方の医療環境の改善にも力を入れ、1930年(昭和5)8月バウルー、リンス、1932年(昭和7)7月サントス、プレジデンテ・ブルデンテに直属の地方医局を置き、巡回診療を開始した。
一方、サンパウロ市の大病院の建設用地は、早くも1926年(大正15)にサンパウロ市ヴィラ・マリアーナ区に確保されたが、その後、進展がなかった。1931年(昭和6年)、内山岩太郎(1947-1967神奈川県知事)が総領事に就任し「聖市日本病院建設期成同盟会」を結成し、日系社会で寄付金の募集を開始してから、病院建設の運動が本格的に始まった。
1934年(昭和9)、皇室から5万円の御下賜金があり、建設への機運が盛り上がり、1935年(昭和10)3月には在留邦人社会の有力者を集めて聖市日本病院建設委員会が発足した。建設費80万円、そのうち日本政府からの補助金25万円、日本からの寄付金40万円、在ブラジル邦人寄付金10万円という費用の分担も決まった。これを受けて1935年(昭和10)8月、外務省の斡旋で日本に「サンパウロ」日本病院建設後援会(会長 斎藤実前首相)が発足し、日本での募金が開始された。

日本病院開院

病院建設工事は、1936年(昭和11)8月に着工、1939年(昭和14)4月竣工し、診療を開始した。総工費は4979コントス(約100万円)にふくらんだ。正式名称「日伯慈善会サンタ・クルース病院」、敷地面積1,460平米、地上5階地下1階、病室76、病床200の総合病院で、戦前期における海外の日系の建物としては最大であった。
1942年(昭和17)太平洋戦争開戦によるブラジルと日本との国交断絶後、敵性財産として接収され、日本病院の経営権は日本人の手から離れた。その後も、長きにわたり経営権は日本人に戻らなかったが、日系社会の長年の努力が実り、1990年(平成2)2月、再び日系人の手に帰ってきた。