写真の中の明治・大正 国立国会図書館所蔵写真帳から

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コラム<東北>

5 東北の鉱山

複雑な地質と火山活動で形成された北上山地を擁する東北地方は、多様な鉱物の産出地として、古来より知られていた。古くは奈良時代に成立した『続日本紀』に、「陸奥の国初めて黄金を貢す」の記述が見られる。

東北の金

鹿折鉱山
鹿折鉱山『東宮行啓記念宮城県写真帖』より

世界遺産にも登録された平泉の栄華を支えたものは、東北で産出する「金」であった。
平泉は、奥州藤原氏の拠点として平安時代には京都に次ぐ日本第2の都市となり、数々の壮大な仏教建築が造営された。奥州藤原氏による建築の中でも、特に、屋根や壁・柱を金で覆った中尊寺金色堂は、マルコ・ポーロの『東方見聞録』に「屋根は黄金色で葺かれ、窓飾りなどもみな黄金で作られている」と描写された"黄金の国ジパング"のイメージの元になったとも言われ、絢爛たる平泉の栄華を象徴する建築として今に伝えられている。現在の岩手県南東部に位置していた玉山金山で産出される金は奥州藤原氏の主要な財源になったと言われる。

その後も東北各地で金の産出が続き、江戸時代には気仙沼、大船渡の「伊達の四金山」(雪沢、玉山、坂本沢、今出山)が伊達氏の財政を支えた他、会津石カ森金山は会津藩の主要な財源となった。前述の玉山金山などとともに奥州藤原氏三代の時代から知られた宮城の鹿折(ししおり)金山は、昭和に閉山されるまで金を産出し続け、明治時代には、重さ約2.25kg、金の含有量約83%の"モンスターゴールド"がなお採掘されるほどの豊かな資源量を誇った。

東北の銀銅

東北では金の他に、銀や銅も豊富に産出した。それぞれ、阿仁銅山(秋田県)、院内銀山(秋田県)が、江戸時代以降多量の産出を誇った一大鉱山として知られている。

江戸時代中期に開発が進んだ阿仁銅山は、11の鉱山を総称したもので、そのうち本山となった小沢山だけでも、当初年4,000~9,000個(1個=16貫、240,000~540,000㎏に相当)を産したと言われる。開発のきっかけは、謎の老人が商人の夢枕に立って鉱石の存在を教えた、人間の姿となって暮らしていた狐が夫であった商人に鉱床の存在を教えたなどの伝説として残っているが、地域を行商していた大阪の商人が偶然鉱石を発見したことが実際の開発の端緒であったようである。

阿仁銅山よりも少し前、江戸時代初期に開発された院内銀山は、開発当時1年の産出が5,000貫(18,750㎏に相当)を超えたと言われ、銀山の発展とともに15,000名に達したと伝えられる人口は、秋田城下町を上回る程であったということからも当時の繁栄がしのばれる。

時代を下ると、小坂鉱山(秋田県)が、1880年代初頭には「本邦屈指の一大銀山と唱えらるる」(『鉱山発達史』)ほどの繁栄を見せていた。明治期には、坑道を掘っての採掘ではなく大規模な露天掘りによる採掘が行われ、日々の採掘量は当時進行中であったパナマ運河の掘削工事にも匹敵すると言われた。その後、小坂鉱山自体の採掘量は徐々に減少していくが、付近に建設された大規模な製錬設備と製錬技術を生かして、北海道や東北各地の鉱石を集約して製錬する独立の製錬所として発展を続けた。当時の小坂鉱山の繁栄ぶりは、明治38年(1905)に竣工した小坂鉱山事務所に窺うことができる。事務所は、ルネッサンス風の壮麗な建築で、平成14年(2002)には重要文化財に指定された。

小阪鉱山
小阪鉱山(掲載資料のママ)『大日本写真地理』より

一方で、鉱石の製錬作業には煙害も伴った。小坂鉱山では、一時付近の森林が枯れて山が丸裸になった他、近隣の農作物にも深刻な影響が及んだ。大正15年(1926)には、鉱山の操業による煙害の補償を農民組合が要求し、鉱山側が雇った警備団員との衝突によって農民多数が負傷するという事件が起きている。この衝突に際して、鉱山側は3,000ボルトの電気が流れる鉄条網を設置した他、在郷軍人会など約200人を武装させて溶鉱炉を防御し、鉱山周辺は戒厳令下のような趣を呈したと言われる。

東北の鉄~釜石鉱山と製鉄

金銀銅の貴金属と並び東北の主要産物として知られるものは鉄である。

元々、東北地方の中央に位置する北上山地の大部分は、岩石の風化によって生じた砂鉄が豊富に採れる地として知られ、江戸時代にたたら吹き(木炭を使用して砂鉄から鉄を製造する日本独自の製鋼法)が導入されて精製効率が上がると、鉄は仙台藩や南部藩の主要産品となっていった。

中でも、釜石鉱山は、全国的にまだ砂鉄からの製鉄が多かった江戸時代末期に、いち早く鉄鉱石から製錬する洋式高炉を導入し、鉄生産のメッカとなった鉱山である。このとき高炉の導入に尽力した大島高任(たかとう)は、「日本近代製鉄の父」とも言われ、明治維新後も工業技術の第一人者として活躍した。

釜石鉱山高炉
釜石鉱山高炉『大日本写真地理』より

釜石鉱山の特徴は、極めて良質な鉱石が近くにあり、簡易な露天掘り法によって容易・大量に採掘できたことである。また、製錬に必要な木炭の原料となる森林が近くにあったこと、高炉建設に必要な花崗岩(かこうがん)が近くにあったこと、さらに送風装置の動力源であった水力・水流が近くにあったことなどの条件もあり製鉄業も盛んになった。

明治初期には、三池鉱山(福岡県)、阿仁鉱山(秋田県)、院内鉱山(秋田県)と並んで明治政府の直営鉱山となっている。官営期には損失の続いた時期もあり、遂には民間払い下げとなったが、払い下げ後はイギリス式の最新式製錬施設が建設されて再び勢いを盛り返し、後の「釜石製鉄所」に発展していく。

明治33年(1900)頃には、「現今本邦の鉄山中第一位を占むるの盛運に達するに至れり」(『鉱山発達史』)と謳われ、日本近代の鉄鋼・製鉄史上にその名を留めている。

引用・参考文献