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江戸時代のはじまりが徳川家康によるならば、江戸博物学のはじまりもまた、彼の影響からでした。

慶長12年 (1607) 、すでに将軍職を退いて“大御所”となっていた家康のもとに、本草書の決定版「本草綱目」が献上されました。もともと本草好きで、いわゆる健康マニアだった家康 (当時70歳) は、これを座右に置いて愛読したといいます。
家康に続いて、秀忠、家光までの3代は皆そろって相当な花好きだったようで、秀忠については「
さて、博物学は本来実利を目指すものではないので、日々の暮らしに事欠かない人でなければ参加できません。また、博物学の精華の多くは図譜というかたちで今に残されていますが、こうした図譜をつくるためには費用がかさみます。こういった意味で、博物学は暮らしに余裕のある殿様向きの学問だったといえるでしょう。今回の展示に関係が深い殿様だけでも…
など、実にたくさんの殿様方が博物学に携わっています。
殿様博物学者の多くは、専門の絵師や、絵心のある家臣に図譜を描かせました。ですがなかには、増山雪斎や牧野貞幹のように自ら筆をとって秀逸な動植物画を描いた奇才もいました。
それでは、彼らの本職である治世のほうはどうだったのでしょうか?
堀田正敦は42年間も若年寄を務めた有能な官僚で、老中松平定信による寛政の改革を補佐した傑物でした。松平頼恭と前田利保は、ともに幾度も領地を天災に見舞われながらも、産業の振興や学問の奨励などを推し進め、藩の立て直しに献身しました。名君として名高い徳川吉宗の功績は、歴史の教科書でもおなじみですね。
こうしてみると、彼らは単にお金と暇をもてあましていたから博物学に打ち興じていた、というわけではなさそうです。豊かな知性と教養、産業の育成という目的、そして何よりも、あふれんばかりの好奇心が、多忙な政務に追われる彼らを博物学へと駆り立てたのではないでしょうか。