第1章 新しい登山の姿

開国後の日本では、これまでにない新たな登山のかたちが見られるようになりました。
来日した海外の登山愛好家が各地の山を巡って紀行文を残しています。それらの著作は、より多くの外国人へと日本の山の魅力を伝え、近代化の流れから女性による登山、調査研究のための登山も始まります。
第1章では、このような新たな登山の姿を紹介します。

外国人による登山

18世紀の西洋では、ルソーの小説『新エロイーズ』などの文学作品に描かれたアルプスの美しい自然や景観が関心を集めて、山麓でのトレッキングが広まりました。やがて、高峰を極めることを目指す登山家も現われます。
開国後に来日した西洋人にも、登山を愛する人たちが多くいました。その中から有名な、ラザフォード・オールコック、アーネスト・サトウ、ウィリアム・ガウランドの三人を紹介します。

ラザフォード・オールコック(Alcock, Rutherford, 1809-1897)

The Englishman in China during the Victorian era, as illustrated in the career of Sir Rutherford Alcock
ラザフォード・オールコック

ラザフォード・オールコックは、イギリスの初代駐日公使で、外国人で初めて富士登山をした人物とされています。
医師の家庭に生まれたオールコックは、ロンドンとパリで医学を学び、軍医としてスペイン、ポルトガルに赴任します。しかし、その間に患った病により、両手に麻痺症状が残り、医師の道を断念して外務省に入ります。
中国各地の領事を務めた後、安政6(1859)年に初代駐日総領事として来日し、万延元(1860)年には特命全権公使に昇格します。一時下賜休暇で帰国しますが、元治元(1864)年までの約3年半の間日本に滞在しました。休暇帰国までの在日期間の記録はThe capital of the Tycoon : a narrative of a three years' residence in Japan【A-72】(外部サイトボタンInternet Archiveで全文が閲覧できます。邦訳『大君の都』【210.58-cA35o2-Y】)にまとめられています。

1) “Japan―the Ascent of Fusi-jama,” The Times, November 29, 1860【YB-F3】

Japan―the Ascent of Fusi-jama

オールコックは、万延元年9月11日(1860年7月26日)に富士山に登頂します。この記事は、イギリスの新聞『タイムズ』に掲載されたもので、富士登山に同行した記者が、旅の様子を紹介しています。オールコックが富士登山を希望した理由については、日本人が愛し尊ぶ富士山について、語られていることが真実であるか確かめようという好奇心からとあります。

«山頂での様子(抄訳)»
神社に参詣し、噴火口の最高点まで進んだ。ここでオールコック公使は、旗手として英国国旗を掲げ、我々はこれに敬意を表し礼砲を撃った。最初に公使閣下が火口に向けて拳銃を5発撃ち、他の者もそれにならって合計21発撃った。それから万歳三唱し、国歌を歌い、女王陛下の健康を祝して富士山の雪で冷やしたシャンパンで乾杯した。このように厳粛な儀式を見たことのない日本人たちは仰天していた。

オールコックは、パリ留学時代に日本文化に接し、来日する前から日本への造詣が深かったようです。『大君の都』20章では、エンゲルベルト・ケンペルの『日本誌』【GB391-G93】で富士山が「美しい点ではおそらく他に匹敵するものがない」と評されていることに触れており、日本に関する文献を読んでいたことがうかがえます。
しかしながら、この富士登山は、日本文化への関心だけから実行に移されたわけではなく、安政5(1858)年に締結された日英修好通商条約が定める外交・領事関係者が日本国内を旅行する権利を、身をもって確かめることも目的であったようです。

アーネスト・サトウ(Satow, Ernest Mason, 1843-1929)

A diplopmat in Japan
アーネスト・サトウ

イギリス人のアーネスト・サトウは、文久2(1862)年に通訳担当の下級事務官(通訳生)として来日し、その後、駐日公使まで昇進を重ねながら計25年間日本に滞在します。
サトウが日本を目指すことになったきっかけとして、次のような話が伝わります。学生だったサトウがある晩家に帰ると、兄の一人がローレンス・オリファントの Narrative of the Earl of Elgin’s Mission to China and Japan 【951.037-O47nなど】(外部サイトボタンOxford Google Books Projectで全文が閲覧できます。日本関係部分のみの邦訳『エルギン卿遣日使節録』【GB391-98】)という本を図書館から借りて読んでいました。何気なくその本を手にとったサトウは、魅力的な文体と鮮やかな挿絵に惹かれ、憑かれたようにその本を読み、極東の国を目指すようになります。間もなく大学の構内で中国、日本での通訳生募集の掲示を見つけて応募し、選抜試験に合格して、在日領事部の通訳生となります。

19歳で念願の日本にやってきたサトウは、日本中を旅します。その間、富士山をはじめ、御嶽(おんたけ)山、赤岳、浅間山、赤城山、庚申山、そして南アルプスの山々に登ります。この旅の経験をもとに、サトウは、退役海軍士官のA.G.ハウスと共編でA handbook for travellers in central & northern Japan【A-51】(外部サイトボタンInternet Archiveで全文が閲覧できます。邦訳『明治日本旅行案内』【GB648-G5】)を刊行しました。原書の出版社マレー社は、旅行案内書の刊行で有名でしたが、日本についての旅行案内はこれが初めてのものでした。初版発行の1881年から、最後の第9版補遺発行の1922年までの約40年間、多くの来日外国人に活用されました。旅行におすすめのさまざまなルートが紹介されており、例えばルート8「東海道から身延山を経て甲府へ」では七面山、中白根山、農鳥(のうとり)岳、間(あい)ノ岳、鳳凰山、北岳と多数の山名が挙がっています。もちろん富士登山もルートの1つとして紹介されています。
サトウの次男武田久吉は、後に日本山岳会創立発起人の一人となります。

ウィリアム・ガウランド(Gowland, William, 1842-1922)

ウィリアム・ガウランドは、明治5(1872)年、新政府に請われ、造幣寮で硬貨を鋳造するために化学者として来日し、明治21(1888)年まで日本に滞在します。もともと、美術や考古学に興味をもっていたガウランドは、来日後に日本文化の研究を深めていきます。各地の遺跡を回り、その成果を論文として発表したことから、「日本考古学の父」と呼ばれています。
健脚だったガウランドは、日本国内のいくつもの山に登りますが、明治11(1878)年、外国人として初めて槍ヶ岳に登頂します。上述のアーネスト・サトウが編集した『日本旅行案内』では、山岳についての記述を担当しました。飛騨山脈一帯を「この帝国において、もっとも重要な場所であり、日本アルプスと呼ぶことも可能であるかもしれない(the most considerable in the Empire, and might perhaps be termed the Japanese Alps)」と表現し、「日本アルプス」の言葉を初めて使った人物として知られています。

女性登山の容認

明治初期の登山に見られた大きな変化の一つに、女性の姿が見られるようになったことが挙げられます。修験道や山岳仏教の中心地は女人禁制とされることが多く、その伝統が江戸時代まで維持されてきました。しかし、登山口近辺の寺社でも、より多くの参詣客を誘致したい、そのためには女性の登山も許容していかねばならないとの思惑もあり、徐々に女性登山を許容する考えが広まっていきました。例えば富士山では、「庚申の御縁年」にあたる万延元(1860)年に、女性の8合目までの登山を認めました。その人気を当て込んで、戯作者・仮名垣魯文は『滑稽富士詣』【京乙-75】で男女の登山を描いています。

滑稽富士詣
女性登山者が虻に襲われるシーン

また、外国人女性の登山も、女性登山容認の流れに拍車をかけます。慶応3(1867)年9月、第2代英国公使ハリー・スミス・パークスは、夫人ファニーを伴い富士山に登頂します。外国人女性としては初登頂であると思われますが、彼女の富士登山については、登山口は苦情を出さなかったのみならず、外国人女性の前例がある以上、日本の女性にも庚申年以外の登山を認めたいという趣旨の願書を当局へ提出しました。
そして、明治5(1872)年3月に太政官布告第98号「神社仏閣女人結界の場所を廃し登山参詣を随意とす」によって多くの山で「女人禁制」が解かれるようになりました。こうして徐々に女性登山者の姿が増えていきます。
幕末期から各地の山に登っていた探検家・松浦武四郎が、明治18(1885)年に奈良県の多武峰(とうのみね)を訪れた際、「昔は女人結界の地なりしも變りて、花中屋、紅葉やなど云る行燈かけたる家に赤前垂しめたる女ども、御休なされ、御泊りなされと曳あひければ、世の外の御山も今は昔しにはかはりゆきしとかたらひの峯」(『乙酉(いつゆう)掌記』【特67-482】)と山で女性の姿が見られるのを評して歌を詠んでいます。かつての女人禁制のタブーも少しずつ薄れていったようです。

法令全書
1872年3月太政官布告第98号
「神社仏閣女人結界の場所を廃し登山参詣を随意とす」

2) イー・ピー・ヒューズ(緒方流水訳)「登山の説」『英国の風俗』知新館,明35【96-138】

英国の風俗

イギリスの女性教育家エリザベス・フィリップ・ヒューズ(Hughes, Elizabeth Phillips, 1851-1925)が、教育事情視察のため来日した際に日本婦人衛生会総会で行った講演を翻訳したものです。これは『国民新聞』【YB-188】に明治35(1902)年3月11日から3回にわたって連載されました。
ヒューズはもともとヨーロッパにいる頃から登山を楽しみ、日本人の友人を連れてアルプス登山をしたこともありました。来日してからも富士山、浅間山などに登っています。この講演では、日本はこれほど素晴らしい自然に囲まれているのであるから、登山を「どうぞ度々御試み下さる様に願いたいのでございます」と述べています。登山の効用を説く中で、山に登ることは体に負担を与えるが、これがかえって体のために良く、特に体を使う仕事の少ない女性に向けて登山を勧めています。
また、登山の際の装備として「油」が挙げられています。「山に登るに従ひて日が近くなって日に焦けるから、十五分間位までに顔に其油を塗るので御座います」とあり、今も昔も変わらない女性の悩みがうかがえます。

調査研究のための登山

明治時代には、調査や研究のために山に登る例も多く見られるようになりました。ガウランドらのようないわゆる「お雇い外国人」の指導や海外留学などを通じて近代科学を学んだ人々が、地形・気象・地質・鉱山・植物学などの調査研究を行いました。

測量

国土地図の作成を担った陸地測量部(現在の国土地理院の前身)では、測量作業のため全国各地の山に職員を派遣しました(『官報』1459号【YC-1】)。測量のために置かれる三角点は遠くから見通す必要があり、山頂付近など高所に設置されることが多かったためです。当時の測量方法を定めた『三角測量法式』【特25-127】には、「選点ハ成ルヘク平カナル温山又ハ火山体ノ高山」にすべきであると、山に登る必要性について書かれています。
陸地測量部員による登山の中でよく知られているのは、測量官・柴崎芳太郎の剣岳登頂ではないでしょうか。前述の『三角測量法式』に、登山の障害として「突兀(とっこつ)タル岩石ノ起伏」が挙げられていますが、剣岳はその典型のように険しい山峰であり、登頂は容易ではありませんでした。新田次郎の小説『剣岳 点の記』【KH718-J141】に描かれたため、その行程はよく知られています。剣岳登頂には、柴崎ら陸地測量部員の努力はもとより、現地で山案内を務めてきた宇治長次郎らの人々の協力が必要不可欠でした。
このような現地の山案内人の助けは、他の山でも見られます。下の画像は、陸地測量部員の館潔彦(たてきよひこ)が三角点選定のために飛騨山脈の穂高岳に登ったところを、自ら描いたものです。背広に蝙蝠傘という洋装で登る館と、伝統的な装束の山案内人・上條嘉門次の姿が描かれています。日本全土を測量するという大きな任務には、数々の山に登る測量官の忍耐、そして現地でかねてより培われてきた知恵や伝統が必要だったのです。
なお、国立国会図書館では陸地測量部が作成した地図を多数所蔵しています。

官報
陸地測量部条例

気象観測

日本では明治17(1884)年に天気予報が開始されましたが、当時は観測データが不十分で信頼性は高くありませんでした。明治28(1895)年、気象学者の野中至は私財を投じて富士山頂に簡素な観測小屋を作り、冬期の気象観測を行って高層気象観測の可能性を示そうとしました。越冬観測を目指したものの、山頂での低温や強風に脅かされ、82日間におよぶ苦闘の末、野中の試みは挫折します。その記録は後に『富士案内』としてまとめられました。

たかねの雪
野中夫妻の肖像

3) 野中至『富士案内』春陽堂,明治34【88-192】, 訂正再版,春陽堂,明治40【88-192イ】

富士案内
訂正再販【88-192イ】の表紙

書名が示すように、この書物の一部は登山者のためのガイドブックのような体裁をなしていますが、富士山頂における高層気象観測の意義、その実現性を探るための冬期の富士登山記、観測所建設の経緯や実際の観測記録、過酷な環境によるさまざまな障害、高山病や栄養失調の症状等も克明に記され、ドラマチックな内容となっています。野中は観測に先駆けて厳冬期の富士山に2回登頂を試みますが、それまで真冬の富士山に登った例はなく、それだけでも登山史に残る大きな事績と言えます。1回目は5合目で引き返し、2回目は、新たに用意した鶴嘴(つるはし)や自作した釘底の靴等が奏功して登頂を果たしました。末尾には「寒中登岳を勧む」との一節まであり、気象観測同様、登山記録としても極めて先進的な事例となりました。

野中の気象観測はもともと単身での計画でしたが、開始まもなく妻千代子が夫の身を案じて来訪し、思いもかけず夫婦二人三脚での挑戦となりました。計画自体は失敗に終わったものの壮挙として話題となり、多くの文芸・映像作品に取り上げられました。なお、富士山頂に測候所が開設され、通年での観測が実現されたのは実に37年後の昭和7(1932)年のことでした。

コラム登山の先駆者松浦武四郎

開国前後の日本において、すでに各地の山に登り、多数の紀行文を残していた人物がいました。幕末に当時の蝦夷地内陸部を調査探検し、「北海道」の名の原案をつくったことで知られる松浦武四郎です。
松浦は、文化15(1818)年、伊勢国一志郡須川村(今の三重県松阪市小野江町)に生まれます。16歳で家出して江戸を見物し、帰郷の途次、信州の戸隠(とがくし)山に登ってから70歳で最後の富士登山をするまで、計66回の登山の記録が残っています。自伝には、16歳の家出以降「木曾の山水、東海道の風景目に在る故遊歴の志ざし止まず」と述べられ、旅への思いがおさえきれない様子がうかがえます。
弘化2(1845)年、28歳の時に蝦夷地入りを果たし、以来、14年間に6回蝦夷地へ渡ります。和人によるアイヌ政策の過酷さに心を痛めた松浦は、この地の様子を克明に記録し、『近世蝦夷人物誌』(『日本庶民生活史料集成. 第4巻』【382.1-N6882】所収)をはじめ、さまざまな書を刊行します。
久摺(くすり)日誌』【特1-73】(「久摺」は釧路のこと)では、安政5(1858)年、北海道東部の地理を調べるために、釧路から、網走、斜里、摩周、西別、弟子屈、阿寒湖を探査し、再び釧路に戻るまでの紀行をまとめています。旅には健脚のアイヌを8人連れ、いくつもの険しい山に登りました。神威岳(かむいだけ)登山の際には、8合目まで登ったあたりで、岩が崩れ、落石もあり、登頂は難しく思われたため、同行のアイヌに本当にこの先まで行けるのか確認したところ、「昔から、この山の頂上に登った人なんてひとりもいません。それなのに、あなたが先に立って登っていくから、私たちも仕方なくあとをついてきたのです」との答え。松浦自身は、アイヌが止めずについてくるから、登れるのだろうと思って先を進んでいたのに、思いがけない答えが返ってきたので、笑ってしまいました。あきらめて下山しようとすると、一人のアイヌが先頭に立ち登り始めたので、一行は這いつくばって後を追い、やっとのことで山頂にたどり着いたそうです。

久摺日誌
武四郎が描いた山の図

また、『丁亥(ていがい)前記』【GB391-75】には、明治20(1887)年5月2日に松浦がガウランドに面会し、山談義で盛り上がったことを推測させる次のような記述が残っています。 「午後三時なり。通辞(通訳)某来る。我を曳て造幣局官舎ガブランドの客館に到る。主人大に悦び談、先、古物に始て諸国の廟窟(びょうくつ)のことに及ぼす。(中略)其外名山大岳をよく知る。釈迦岳に登り、飛騨国、乗鞍、越中の方等くわしく探索したる人なり。夜ふけ再会を約して帰る。」

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第2章 登山普及の双璧



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