実名は国忠のちに啓、号は象山。父は松代藩の祐筆。天保4(1833)年に江戸へ出て佐藤一斎の私塾に入るが、3年後には松代に帰る。10年江戸に塾を開く。老中となった藩主真田幸貫より海外事情の研究を命じられ13年に「海防八策」を上書。安政元(1854)年吉田松陰の事件に連座して松代に蟄居。文久2(1862)年赦免。元治元(1864)年幕府の命を受けて上洛し開国論を主張したが、尊皇攘夷派によって暗殺される。