史料にみる日本の近代 -開国から戦後政治までの軌跡-

[日米和親条約写]

[日米和親条約写]



第九
亜墨利加
条約

約条
一 亜墨利加合衆国と帝国日本、両国の人民誠実不朽の親睦を取結ひ、両国人民交親を旨とし、向後可守ヶ条相立候為め、合衆国より全権マテュカルブレトぺルリーを日本に差越し、日本君主よりは全権林大学頭、井戸対馬守、伊沢美作守、鵜殿民部少輔を差遣し、勅諭を信して双方左之通取極候。

第一ヶ条
一 日本と合衆国とは其人民永世不朽の和親を取結ひ、場所人柄の差別無之候事。
第二ヶ条
一 伊豆下田、松前地箱館の両港は、日本政府に於て、亜墨利加船薪水、食料、石炭、欠乏の品を日本人に而調候丈は給候為め、渡来の儀差免し候。尤下田港は約条書面調印之上即時相開き、箱館は来年三月より相始候事。
一 給すへき品物直段書之儀は、日本役人より相渡可申、右代料は金銀銭を以可相弁候事。
第三ヶ条
一 合衆国の船、日本海浜漂着の時扶助致し、其漂民を下田又は箱館に護送致し、本国の者受取可申所持之品物も同様に可致候。尤漂民諸雑費は、両国互に同様の事故不及償候事。
第四ヶ条
一 漂着或は渡来の人民取扱の儀は、他国同様緩優に有之、閉籠め候儀致間敷、乍併正直之法度には伏従致し候事。
第五ヶ条
一 合衆国の漂民其他の者とも、当分下田箱館逗留中、長崎に於て唐和蘭人同様閉籠窮屈の取扱無之、下田港内の小嶋周り凡七里の内は勝手に徘徊致し、箱館港の儀は追て取極め候事。
第六ヶ条
一 必用の品物其外可相叶事は、双方談判の上取極め候事。
第七ヶ条
一 合衆国の船、右両港に渡来の時、金銀銭並品物を以て入用の品相調候を差免し候。尤日本政府の規定に相従可申、且合衆国の船より差出候品物を日本人不好して差返候時は、受取可申候事。
第八ヶ条
一 薪水、食料、石炭、並欠乏の品を求る時には、其地の役人にて取扱、すへて私に取引すへからさる事。
第九ヶ条
一 日本政府、外国人え、当節亜墨利加人え不差免候廉相免し候節は、亜墨利加人えも同様差免し可申、右に付談判猶予不致候事。
第十ヶ条
一 合衆国の船、若し難風に逢さる時は、下田箱館両港の外、猥に渡来不致事。
第十一ヶ条
一 両国政府に於て、無拠儀有之候模様により、合衆国官吏の者下田に差置候儀も可有之、尤約定調印より十八ヶ月後に無之候而は、不及其儀候事。
第十二ヶ条
一 今般の約条相定候上は、両国の者堅く相守可申。尤合衆国主に於て長公会大臣と評議一定の後、書を日本大君に致し、此事今より後十八ヶ月を過き、君主許容の約条取替し候事。

右之条、日本亜墨利加両国の全権調印せしむる者也。

右条約本文十二ヶ条は、帝国日本全権林大学頭、井戸対馬守、伊沢美作守、鵜殿民部少輔と亜墨利加合衆国全権マテユカルブレトペルリと、嘉永七年甲寅三月三日、武州横浜村に於て取替候事相違無之、此度議定之書面、豆州下田港に於て為取替之儀は、井戸対馬守へ委任せしめ、以後両国互に条約急度相守可申事、尤追て下田に於て取極め候条約附録は、別紙にこれを記候、右
大君の命を以て
安政元年甲寅十二月  阿部伊勢守 花押
牧野備前守 同
松平和泉守 同
松平伊賀守 同
久世大和守 同
内藤紀伊守 同

日本国へ合衆国よりの使節提督ペルリと、帝国日本の全権林大学頭、井戸対馬守、伊沢美作守、都筑駿河守、鵜殿民部少輔、竹内清太郎、松崎満太郎、両国政府の為、取極置候条約附録

第一ヶ条
一 下田鎮台支配所の境を定めんか為、関所を設るは、其意の儘たるへし、然れとも亜墨利加人も、亦既に約せし日本里数七里の境関所出入するに障ある事なし、但日本法度に悖る者あらは、番兵是を捕へ其船に送るへし。
第二ヶ条
一 此港に来る商船鯨漁船のため、上陸三ヶ所定め置き、其一は下田、其一は柿崎、其一は港内の中央にある小嶋の東南に当る沢辺に設くへし、合衆国の人民必日本官吏に対し叮嚀を尽すへし。
第三ヶ条
一 上陸の亜墨利加人、免許を請すして武家町家に一切立寄へからす、但寺院市店見物は勝手たるへし。
第四ヶ条
一 徘徊の者休息所は、追て其為旅店設るまて、下田了仙寺、柿崎玉泉寺二ヶ寺を定置くへし。
第五ヶ条
一 柿崎玉泉寺境内に亜墨利加人埋葬所を設け、麁略ある事なし。
第六ヶ条
一 神奈川にての条約に、箱館に於て石炭を得へきとあれと、其地にて渡し難き趣きは、提督ペルリ承諾いたし、箱館にて石炭用意に及はさるは、其政府に告へし。
第七ヶ条
一 向後両国政府に於て公顕の示告に、蘭語訳司居合さる時の外は、漢文訳書を取用ふる事なし。
第八ヶ条
一 港取締役壱人、港内案内者三人定置くへし。
第九ヶ条
一 市店の品を撰むに、買主の名と品の価とを記し、御用所に送り、其価は同所にて日本官吏に弁し、品は官吏より渡すへし。
第十ヶ条
一 鳥獣遊猟は、都て日本に於て禁する処なれは、亜墨利加人もまた此制度に伏すへし。
第十一ヶ条
一 此度箱館の境、日本里数五里を定置き、其地にての作法は、此条約第一ヶ条に記す処の規則に傚ふへし。
第十二ヶ条
一 神奈川にての条約取極の書翰を差越し、是に答ふるには、日本君主に於て誰に委任あるとも意の儘たるへし。
第十三ヶ条
一 茲に取極置く処の規定は、何事に依らす、若神奈川にての条約に違ふ事あるとも、又是を変る事なし。

右条約附録、エケレス語日本語に取認め、名判致し、是を蘭語に翻訳して、其書面合衆国と日本全権双方取替すものなり

右条約附録十三ヶ条は、帝国日本全権林大学頭、井戸対馬守、伊沢美作守、都筑駿河守、鵜殿民部少輔、竹内清太郎、松崎満太郎と亜墨利加合衆国全権マテユカルブレトペルリと、嘉永七年甲寅五月廿二日、豆州下田港において為取替候事相違無之、此度規定之書面、下田港において為取替之儀、井戸対馬守え委任せしめ、以後両国互に条約急度相守可申事、右
大君の命を以て
安政元年甲寅十二月  阿部伊勢守 花押
牧野備前守 同
松平和泉守 同
松平伊賀守 同
久世大和守 同
内藤紀伊守 同

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