第2章 明治、大正、昭和の化粧

明治から昭和にかけて、日本の化粧は欧米のスタイルを取り入れて大きく変化していきました。

明治期

お歯黒は時代遅れ?

幕末以降、日本にやってきた欧米人の目には、お歯黒や剃り眉が奇妙なものに映りました。そこで、明治政府は風俗面の西欧化を進め、化粧に関しても、明治6(1873)年、皇太后や皇后が黛(まゆずみ)やお歯黒をやめたことが発表されました。しかし、欧米人など見たこともない庶民にとっては、日常的な慣習であるお歯黒や剃り眉が変だと言われてもピンときません。明治半ばごろになっても、水で溶くだけで黒く染まる粉末タイプのインスタントお歯黒が発売されるなど、お歯黒の習慣は根強く残りました。

風俗三十二相 かわゆらしさう 明治十年以来内室之風俗

これは、明治10(1877)年ごろの女性の風俗を描いた錦絵です。皇后がお歯黒をやめたという発表の4年後ですが、よく見ると女性の歯が黒々と塗られているのが分かります。

石鹸から始まる洋風化粧

明治初期、政府は海外から技術者を招いて、欧米の技術や知識の導入に力を入れました。それは化粧品の研究開発にも生かされ、国産の洋風化粧品が開発されるようになりました。石鹸もその一つです。石鹸が日本に伝わったのは江戸時代ですが、そのころは一般には普及しませんでした。しかし、伝染病のコレラの流行により人々の衛生意識が向上したことで、伝染病予防用としても推奨された石鹸への認知が高まりました。『虎列剌病報告書』【特38-172】では、コレラ予防として「見舞ひし後には(中略)顔面をも洗ひ次て石鹸にて洗浄すへし」とされています。しかし国産石鹸は、スキンケアのための洗顔料としての品質がまだ確立できず、伝統的なぬか袋や洗粉も引き続き用いられました。

石鹸のほかには、化粧水やクリームが発売されました。化粧水には、サリチル酸やアルコール、グリセリン、フェノールフタレイン液が配合されるなど、西洋処方が取り入れられていました。

読売新聞

蘭方医が処方した化粧水「小町水」は、そばかす・吹き出物・あせもなどに効果があるとされて明治10年代に人気となりました。

また、『新選速成製法秘訣』【25-266】には、化粧水の製法が次のように書かれています。

製法左の如し
アンモニア水 二分 薔薇水 二分
倶利私林(グリスリン) 一分 杜松子精(トシャウシセイ) 十六分
ベイラム(香鼠火酒の名) 二分 硼砂(ホウシャ) 二分
蒸溜水 十六分
右薬品を順和す(じゅんにまぜ)脂膩(あぶら)を去り色を白し雀斑(そばかす)を除き面皰(にきび)の出来ることなし

エステのルーツ「美顔術」

明治期の洋風化粧で話題になったものに、現在のエステのルーツといえる「美顔術」がありました。美容家の遠藤波津子が明治末期に開業した理容館などで行われましたが、一度の施術が高価であったため、顧客は政財界関係者の夫人や役者などに限られていました。

欧米最新美容法

施術に用いられた器具、バイブレターです。『欧米最新美容法』【31-463】によると、このような電気器具を用いた「電気美貌術」には、血行促進やしわの除去などの効果があるとされました。さらには、鼻汁や耳垢の分泌が減るという経験談もあったようです。

大正から昭和初期

婦人雑誌の創刊と関東大震災

主婦之友

婦人倶楽部

婦女界

大正時代に入り、『主婦之友』や『婦人倶楽部』などの大衆向け婦人雑誌が相次いで創刊されたことから、新しい化粧法が庶民へと急速に広まりました。婦人雑誌では、人気女優たちが自身の化粧法を紹介したほか、一般女性からの美容にまつわる質問に専門家が答える相談コーナーもありました。

主婦之友

こちらは、美容家への質問コーナー。
「問 米国製のクリームは粉白粉だけによく、水や煉白粉には適せないさうですが、水や練白粉もよくのるやうなクリームはございませんか。(横濱、清子)」
新しく入ってきた洋風化粧の方法を模索する一般女性たちの様子がうかがえます。

また、大正12(1923)年に起こった関東大震災は、洋装が注目されるきっかけの一つとなりました。当時一般的であった和装は動きにくく、逃げ遅れた女性が多かったためです。洋装への関心の高まりも、新しい化粧法の浸透に拍車をかけました。

健康美の時代

大正から昭和初期にかけて、政府は近代化政策の一環として、欧米人に見劣りしない体型を目指す健康な体づくりを推し進めました。高等女学校では体育が奨励され、美容や健康によいとしてテニスやゴルフが流行するようになりました。女性の美しさの基準として、「健康美」が重要なポイントとなったのです。化粧では、自然な肌の色に近い「肉色白粉」が明治末期から話題になっていましたが、「健康色」「オークル」など濃い目の色が加わったのはそのころでした。

主婦之友

こちらは昭和9(1934)年の粉白粉の広告です。右下に「カカオ色 日ヤケした方 モダン化粧に」と書かれています。
また、左上に「スピード化粧で直ぐ行くわ」とありますが、人々の暮らしがどんどん便利になっていった当時、日々の様々な作業がスピードアップすることは近代化の象徴でした。

モダンガールの登場

関東大震災の後に近代化が進んだ日本の都市では、断髪に洋装という先端的な出で立ちの女性が登場し、「モダンガール」と呼ばれました。彼女たちの洋風化粧は、こんなふうでした。口紅はおちょぼ口のように小さく塗る従来の方法から一転、唇の形に合わせて薄く幅広に。眉は細くこめかみまで垂れ下がるように引く「引眉毛」。また、それまであまり定着していなかった頬紅も、当時流行した「健康美」を表現する1つのポイントとなりました。これらは洋行帰りの上流階級の女性などによりもたらされ、大正デモクラシーの教育を受けた進歩的な思想の女性や芸術家、職業婦人やカフェーの女給たちへと広まっていきました。しかし、こういった先端的な装いは日本の伝統化粧と相反するため、保守的な人々にはなかなか受け入れられませんでした。

婦人グラフ

婦人グラフ

ちなみに、大正14(1925)年に銀座の通行人を対象に行われた服装調査(『モデルノロヂオ : 考現学』【562-136】)では、女性の洋装率はたったの1%でした。その後徐々に洋装化が進み、昭和8(1933)年には19%まで増加しました(『今和次郎集 第8巻 (服装研究)』【GD1-17】)。

男性用化粧品の始まり

断髪・洋装のモダンガールに対応して、当世風の男性は「モダンボーイ」と呼ばれました。大正4(1915)年、資生堂が日本初の男性用ヘアケア化粧品「フローリン」を発売しました。また、同じころ、平尾賛平商店の「レート」をはじめ、男性用のスキンケア用品が各社から発売され始めたほか、女性用化粧品を男性向けに販売する動きも見られるようになりました。

平尾賛平商店五十年史

主婦之友

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右下の広告は、一見女性向けのようですが、「薄化粧下に おヒゲ剃り後に」と書かれています。

昭和──戦時中の化粧

さて、昭和12(1937)年以降の日本は日中戦争から第二次世界大戦へと進んでいきましたが、戦争が始まった途端に化粧のできない厳しい暮らしになったかというと、そうではありませんでした。むしろ、戦地へ赴く男性の代わりに外で働く勤労婦人が増え、短時間でベースメイクを済ませられる製品や持ち運べる化粧品など、新たな需要が生まれたのです。

戦時中は、戦前に流行の兆しを見せた洋風のメイクが姿を消し、再び白粉やクリームなどで肌を整える「身だしなみ」重視の化粧に取って代わられました。

婦人倶楽部

婦人倶楽部

しかし、戦争が長期化し戦時統制が進んでくると、化粧をめぐる状況は厳しくなりました。昭和15(1940)年、東京では化粧品営業取締規則に広告規制条項が加えられ、広告が軽佻浮薄にならないように求められました。『化粧品工業120年の歩み』【DL535-G3】の統計によると、戦時中にもかかわらず増加していた白粉類の生産も、昭和17(1942)年をピークに減少し始めました。

外部サイトボタン「化粧品工業120年の歩み(資料編)」東京化粧品工業会ウェブサイト

婦人倶楽部

婦人倶楽部

化粧品の宣伝とは思えない地味さです。右のものに至っては、購入を促すどころか節約を呼びかけています。

また、化粧品の入手が困難になったことから、化粧品を自作する方法についての記事も見られるようになりました。へちま水やきゅうり水については第1章でも紹介しましたが、物資不足のさなかで再び脚光を浴びました。昭和19(1944)年ごろになると、いよいよ化粧についての記事や広告はすっかり姿を消し、化粧文化における空白期間となりました。

戦後の多様化する化粧

アメリカにならえ!

戦後、進駐したアメリカ軍の影響でアメリカの文物が大量に流入し、多くの人々がそれに夢中になっていきます。化粧も同様です。戦後の物資不足の時代、おしゃれの第一歩は口紅でした。真っ赤な口紅を唇いっぱいに塗る方法は、進駐軍の女性兵士や家族の化粧をまねたものでした。このアメリカ式の大胆な化粧法は、保守的な人々からは批判されましたが、昭和21(1946)年には国産口紅の生産が再開し、若者の間に広まっていきました。
化粧品の生産が復活してくると、広告にはアメリカ由来であることをアピールする謳い文句が踊り、モデルに欧米人を起用するものも注目を集めました。

主婦之友

婦女界

少女の友

少女の友

色とりどり、「カラー」の時代へ

昭和35(1960)年、日本でテレビのカラー放送が始まりました。ほかにも、映画のカラー化が進み、雑誌のグラビアページも増えるなど、我が国における「カラー時代」の幕開けとなったのがこの時期でした。化粧品業界でも、マックスファクターの「ローマン・ピンク」を皮切りに、流行色を設定したキャンペーンが行われるようになりました。

主婦之友

カラー映画が出てきたころ、それは「天然色映画」と呼ばれていました。それまで白黒だったハリウッド女優の化粧がカラーで見られるようになったことは、人々が「色」に注目するきっかけとなりました。

婦人倶楽部

こちらは白粉の広告ですが、色のバリエーションが10色あり、「カラー化粧」がうたわれています。

装苑

綺麗な紫のアイシャドウが目を引きます。1962年の流行色とされた、シャーベットトーンの1つです。この年には、帽子や靴、アクセサリーから食品、電機、レコードにいたるまで幅広い業種がタッグを組み、この流行色を売り出すキャンペーンを行いました。

婦人倶楽部

「アイシャドウはグリーン」「口紅はアップル」という鮮やかな色調。寒色系の「シャーベットトーン」に対して、果物のような温かみのある色合いを加えた「フルーツカラー」が翌年(1963年)の流行色でした。日本の伝統化粧が赤・白・黒を基調としていたことを思うと、ずいぶん華やかになりました。

おわりに

2021年現在では、新型コロナウイルス感染症対策としてマスクを着用する時間が長いことから、アイメイクを重視したり、口紅はマスクにつきにくいものを選択したりといった傾向が生まれています。また、「化粧は女性がするもの」という固定観念は変化しつつあり、男性向け化粧品の市場も拡大しています。
これからの時代、人は何のために、どんな化粧をするのでしょうか。これまでの変遷から、化粧の未来を想像してみてはいかがでしょうか。

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