『源氏物語絵巻』から、帝と中納言源薫の対局の場面
(出典:世尊寺伊房 詞書;藤原隆能 画『源氏物語絵巻』【ん-98】)
中国から日本に伝えられたとされる囲碁。その伝来については諸説ありますが、古代より囲碁は多くの文学作品に登場してきました。
第1章では、物語にも取り上げられた囲碁の名人、文学作品や日記に描かれた囲碁について、古代から中世に至るまでの資料を中心に見ていきましょう。
日本で初めて「碁聖」と呼ばれた僧・ 延喜4(904)年9月24日条が最初とされています。
(醍醐天皇が)寛蓮と 。
ここでは内裏の紫宸殿で宴遊が行われ、その場で囲碁の対局があったという事実のみ書かれていますが、寛蓮とはどのような人物だったのでしょうか。
寛蓮を「碁聖」と称した作品のうちもっとも古いものは『源氏物語』【WA7-279】 で、「
。囲碁の達人の高僧、といった意味の語句ですが、『源氏物語』の注釈書は、その最古のものである『源氏釈』【KG58-G40】をはじめとして、この部分は寛蓮を指すとしています。
宇多法皇と寛蓮
(出典:『大和物語』1【WB36-1】)
『今昔物語集』巻24に登場する寛蓮の奇談
(出典:水野忠央 編『丹鶴叢書』中屋徳兵衛[ほか],[1847-1853]【117-2】)
寛蓮の「碁聖」としての逸話を後世に残したのは『今昔物語集』(『丹鶴叢書』【117-2】) です。「碁
。二つ目は寛蓮が女性と対局した逸話ですが、次のような不思議な話です。
寛蓮が禁裏から宇多上皇の御所である仁和寺へ向かう途中、女童に呼び止められ、とある屋敷で女人から対局を求められます。けれども打ち進めていくうちに寛蓮の石は全滅の形勢になってしまいました。その後仁和寺に逃げ帰った寛蓮が上皇に次第を話すと、上皇も不審に思われ翌日使者を遣わしました。しかしその屋敷には老尼がいるのみで、前夜いた女人についても
これに影響を与えたと思われるのが、『集異記』【特1-2224】 という中国唐代の奇談集にある、
。積薪が一夜の宿を借りた山中の老女の家で、姑・
空蝉(女性同士で囲碁を打つ様子を『源氏物語』の場面に見立てて描かれた浮世絵。これはよく知られた古典的な題材を当世風になぞらえて表した絵で、見立絵と呼ばれる。)
(出典:歌川豊国『源氏五十四帖』佐野喜,[1852-1854]【寄別8-3-1-2】)
桜を賭けた対局
(出典:紫式部『源氏物語』林和泉掾,[1660]【856-10】)
前節で『源氏物語』に「碁聖」の語が登場することを紹介しました。この時代、女性が残した文学作品に囲碁に関する描写が多くみられます。
『源氏物語』で囲碁が登場する場面は「手習」の巻だけではありません。「 。二人の間で何気ないやりとりが交わされますが、そこに囲碁用語が飛び交うところを見ると、紫式部に囲碁の素養があり、また物語の読者にとってもこうしたやりとりは自然に理解されていたことがうかがわれます。
また、「竹河」の巻では藤侍従の姉妹が庭の桜を賭けて碁を打つ場面がありますし 、「宿木」の巻では帝と中納言源薫との対局場面が描かれています
。
御前対局
(出典:藤原良房ほか編『続日本後紀』8,林和泉掾【839-3】)
手談賭物
(出典:藤原時平[ほか]撰『日本三代実録』17,寛文13[1673]跋【839-4】)
室町時代の公家の対局
(出典:『看聞日記 乾坤』宮内省図書寮,1931-[1935]【貴箱-14】)
古代においては囲碁の対局に金品を賭けた記録が多く見受けられます。
例えば承和6(839)年10月に、仁明天皇(810-850)の御前で催された囲碁の対局について、次のような記録があります(『続日本後紀』【839-3】 )。
天皇が紫宸殿に出御し、群臣に酒を賜わった。
このように、一局ごとに銭が賭けられていました。
『日本三代実録』【839-4】 にも囲碁の対局に銭が賭けられたという記録があります。貞観16(874)年8月21日条に「後院に詔し新銭十貫を賜い、
この後、囲碁に賭けたお金は「 には、「御産養、三日は例のたゞ、宮の御私事にて、五日の夜は、大将殿より屯食五十具、碁手の銭、椀飯などは世の常のやうにて」とあり、祝儀に碁手銭を添えることが当時の習わしとなっていた様子が読み取れます。
さらに時代が下って室町時代や戦国時代の公家の日記を見ると、囲碁の対局に金品が賭けられたという記述が多くみられます。一例として伏見宮貞成親王(1372-1456)によって書かれた『 永享3(1431)年2月17日条には、「其の後囲碁を打つ。余、中納言、持経、廻し打つ。持経勝ち、予、懸物(
「爛柯」の逸話
(出典:梁任炳 撰;明商濬 校『述異記』2巻,淺野彌兵衞刊,安永4【853-223】)
紀友則の和歌
(出典:紀友則ほか撰『古今集』(巻第18、雑歌下)【き-15】)
囲碁は詩文の中にも古くから登場します。その中には囲碁そのものではなく、囲碁に由来する言葉が本来の意味を離れて使われるようになった例もあります。
その一つが第2章で取り上げる本の題名にもなっている「 という資料に見つけることができます。晋の時代に、信安郡石室山(現在の中国浙江省衢州市)で王質という男が木を
囲碁の勝負に時間が経つのを忘れることを例えた「爛柯」の語が初めて日本の詩文にあらわれるのは、天長4(827)年に成立した勅撰漢詩集である『経国集』(秋雲篇 示同舎郎 滋野貞主)【寄別15-5】 です。その後、最初の勅撰和歌集である『古今集』(巻第18、雑歌下)【き-15】
にも次の和歌が詞書とともに収められました。
「筑紫に侍りける時にまかり通ひつゝ碁うちける人のもとに京に帰りまうできて遣わしける」紀友則
古郷は 見しごともあらず をの(斧)のえ(柄)の
くちし所ぞ 恋しかりける
また、和歌の勅撰第二集である『後撰和歌集』(巻第20、賀歌)【837-2】 にも次の和歌が入集しています。
「院の殿上にてみやの御方より碁盤出ださせ給ひける、こいしけ(碁石笥)のふたに」命婦清子
をののえの くちんもしらず 君がよの つきんかぎりは 打心みよ
『後撰和歌集』にはほかにも「斧の柄」が詠み込まれた和歌が入集していますが、それらは囲碁を離れて「時の経過の長さ」の表現として使われるようになっています。