高拓1回生の引率者 越知栄の回想

Reminiscências de Sakae Ochi, líder do primeiro grupo de estudantes da Escola Superior de Colonização

Reminiscences of Ochi Sakae, leader of the first set of Kotaku (Kokushikan Koto Takushoku Gakko(Kokushikan Colonization School)) graduates

越知栄は、高等拓植学校1回生の引率者、アマゾニア研究所のアンディラー植民地支配人、戦後は、日本海外協会連合会アマゾン支部勤務

高拓第一回生

                    越知栄

目 次

 はしがき

 昨年パリンチンスで行われた高拓生五〇年祭では感銘深い数々の出来事に出会ったが、中でも私にとって忘れ難いのはワイクラッパへの舟遊で、ポンタ・ダ・エスペランサの力スタニャの巨木の下に立った時のことであった。

 ワヅカ二〇センチの幼苗がこんなに大きくなろうとは!!、試みに大人3人が手をつないで抱えてみたが、未だ余りがあったので、根廻り三抱え半という処であろうか。

 この巨木の五〇年の年輪には吾が高拓第一回生の波乱に満ちた歴史が深く刻まれていることを思い、感慨無量で、暫し立ち去りかねたのであった。

 この四百本の苗をこの地に植えた高拓第一回生二十名の中、今尚このアマゾンに生き残っているのは、飯田義平、大石隆人、工藤講一、金子亥三生、越知栄の五人である。

 何れも老齢で五十年前のことなど忘却の彼方に追込まれようとしている現状である。これは誠に残念なことである。

 

幸に私の手元に極めて断片的であるが当時の日誌の一部やメモの端くれなどクピンに食われながらも少々残っているので、之等のものを参考として、第一回生がアマゾンに着いた頃のヴィラ・アマゾニヤの環境や、ワイクラッパ時代、アンジラ時代を経て、ジュート産業が始まる前までの一時期のことを、記憶を掘り返し掘り返し書き綴ってみたのである。

 一般に五十年も経った記憶など当てになるものでないと言われるかも知れないが単純社会のアマゾンでは事実が雑音で歪曲される度合も少く、殊にこの文の主体は筆者自身に関することが多いので、案外忘れていない部分もあったりするので、出来るだけ事実をそのまま伝えることを主眼として書いた積りである。

 然しながら、発生した事柄についての記憶は充分であっても、それが何時発生したか、発生の時日についての記憶も資料も皆無に等しいには閉口した。

 そんなわけで、足らざる処、間違った処など多々あると思われるので、生残って居られる諸兄の御叱声と御是正を請うこと頻りである。

 実はこの拙文は、秋山桃水氏が苦心編集されている高拓会々報の百号を記念して、秋山氏の慫慂もあって書き出したものであったが途中で病気したり、思わざる障害にあったりして、随分おくれ、百号記念としての意味合いを失くしたことを残念に思っている。

 然し一般に第一回実業練習生の生活実態など同じ高拓生の仲間の間でさえ余りよく知られていないと思われるので、百号記念とは関係なく高拓会会報の読者のみを対象として書くことにした。それがため書き出しから、いきなり『高拓第一回生』とし、その高拓が如何なる学校で、如何なる性質のものか、第三者にわかるような説明が省略されているのもそれがためである。文中至る処そうした省略がなされているのでご了承を願いたい。

 アマゾン川のあさぼらけ

 高拓第一回生は約二ヶ月の長い船旅を終えて、一九三一年六月二十日の夜半、現地ヴィラ・アマゾニヤに到着した。この日からアマゾニヤ産業研究所の第一回実業練習生としての生活が始まったのである。いいかえれば、当時の日本としてインテリの部類に属する学生の一集団が、自分の将来はどうなるか、全く予想のつかない未知のアマゾンに、上塚所長の理想と熱意に全幅の信頼を托し、運は天にまかせてやって来た独身青年ばかりの一集団のアマゾンに於ける団体生活が、この日から始まった、ともいえるのである。

 河岸から緩やかな坂を約百メートルくらい登った台地に、日本の田舎の小学校舎を思わせるような、横に長い二階建ての家が立っていた。これが実業練習所の本部とも称せられた建物であった。中に入ると中央に大きな階段があり、これを登って二階へ上るとヴァランダを兼ねた部屋があり、その部屋を挟んで東西に大部屋が二つあった。練習生が起居するのにこの大部屋が当てられたのである。

 ママ根があるので一応家という格好はついているが、一歩中に入ると総てが未完成のままであった。床などただ板が並べてあるだけで、釘で固定されていないので、歩く毎にバタバタと音がする、これが多勢のことだから可成り騒音となった。食堂も炊事場も便所も総てが未完成で不便この上なかったが、練習生の中で不服をいうものは一人いなかった。夜露が防げるだけでも儲けものだといったような顔をしていたのである。

 『草を踏んではいけない、ムクインにやられるから』とは誰も教えてはくれないし、注意もしてくれなかった。夜半についた一同は、道のぬかるみを避けて殊更選り好んで草むらを踏んで歩いたからたまらない、カンテラの下で荷物の整理を始める頃から、足、股等皮膚の弱い処がムヅムヅと痒くなり、遂に狂ったように掻きむしった。

 かくして上陸第一夜から、アマゾン生活に於て不快指数第一(ナンバー・ワン)といわれるムクインの洗礼を受けたのであった。

 だだっ広い所に板を敷いただけの大広間、柱の上に屋根を乗っけただけで四方は開けっ放し、壁もなければ壁に代る板張りもない広間とも部屋とも呼べない場所に適当にコルションを並べアマゾン初夜の身を横たえたのだが、ウトウトしてどのくらい時間が経ったか、突如としてスコール襲来、まずアマゾン大江に面する側から凄い勢で雨が横殴りに吹込んで来た為、大慌てでコルションを雨のかからぬ側に引張って行って一安心と横になる。やがて急に風の向きが変り、今度は折角コルションを敷き直した側から雨を吹込んで来てまた場所替え、コルションの濡れるのは諦め、兎に角もうくたくたに疲れ切った身体に毛布を捲いて寝入って了う。

 荷物整理や夜半のスコール、ムクイン等で、まどろむ暇もなく、何やら興奮した頭を冷すべく夜の白むのを待って前庭に出た。数歩踏み出して目を上げたら其処には白幕を張ったような朝霧にかすむ大アマゾン川が視界一杯に広がっていた。何という広々とした景観だろう!、何処が水平線か、対岸かわからない。川面はズッと天まで続いているようだ。上を見ても下を見ても、右も左も水ばかりである。一体、流れているのだろうか、流れているとすれば、両岸一杯の水が静かに移動しているといいたいような状景である。

 吾々はべレン市からパリンチンスまで数日間アマゾン河を遡航したので、船上でアマゾン河はいやというほど眺めてきているので珍らしくもないのだが、岸に立って眺めるアマゾン河はこの朝が初めてであった。まるで別のアマゾン河を初めて見たような感覚で、昨夜の不眠もムクインも忘れて、この茫洋たるアマゾン河の曙の景観に、或種の威圧さえ感じながらしばし佇んだのであった。

 寒村

 未完成の本館を背にして大江に向い右斜め前方に大工のママ梁たる増永栄次郎氏一家の住む椰子葉葺き、板壁のバラック一棟あり右斜め後方には現地研究所長、粟津金六氏家族の社宅あり、これも同じ椰子葺き板壁の家であった。

 また左斜め前方には元地主・バチスタ氏が建てた管理人住宅兼売店の古い赤煉瓦葺きのダダ広い家があり、左斜め後方には本館附属の井戸、炊事場、便所があり、その後方に現業員用の、これもバラック建ての宿舎があった。

 前岸船着場近くに現地人ブラガ氏が住む堀立小屋を含めて当時のヴィラ・アマゾニヤ部落は、瓦葺き家屋2棟に、バラック建4棟という極めて過疎の寒村であり、これ等の建物が、アマゾン本流とラモス河に挟まれた一角台上に、本館を中心にしてヒッソリ、より添うように配置されていた。

 ヴィラ・アマゾニヤの人々

 第一回生が現地に着いた時、既にこの地に住んでいた先住者即ち現地アマゾニヤ産業研究所の職員は左の通りであった。

 (1)職員

  研究所々長   粟津金六
  庶務会計主任   村井道夫
  農事部長   亀井満
  医務部長   笹田正数
  学生監   岡田英定
  建築班長   増永栄次郎
  炊事班長   小佐々良衛
  現業員   岡田四郎   河崎信次
    増永栄正   田端長之助
    田中三作   岸田義夫

右職員の中家族数は岡田英定氏家族4人、増永栄次郎氏家族5人、粟津金六氏家族3人で計十二人で、職員数十三人と合わせて全人口は二十五人であった。 註=岡田英定氏と家族はリオから第一回生と同船して現地に着いたのであるが、此処では便宜上、先住者の中に含めた。

 (2)練習生の人員と班制

 着いて間もなく作業の配分、連絡、統制上の必要から左の様に班制がしかれた。

  第一班  
   飯田義平(班長)  大石隆人
   大平茂登吉  工藤講一
   木村光  岩村茂木
   
  第二班  
   吉松明(班長)  中嶋敏三
   佐竹基  園宗惇
  ○椎名勤  
   
  第三班  
   大森克己(班長)  吉村利夫
   金子亥三生  久我桃水
   
  第四班  
   岸田好明(班長)  林健一
   日高正治  佐藤行夫
   小山松喜  
   
  第五班  
   矢野武雄(班長)  山本紀雄
   山本一郎  渡辺祐郎
   
  第六班  
   橋本俊次(班長)  木村一則
  ○有田忠夫  栗崎一正
   
  第七班  
   御園福衛(班長)  泉桂治
   馬場三郎  越知栄
   
  第八班  
   鹿野勇(班長)  佐藤信市
   木内謙一  松本哲哉
   星野広美  宮下弥門
   溝内利太郎  

 右表中○印の二氏については、どの班に属していたか、記録もないし、記憶もない。大石隆人、工藤講一氏を訪問して尋ねたが「忘れた」の一言でとりつく島もない、従って此処では○印の2氏については大体の見当をつけて仮に編入しているので正確ではない。御存知の方があれば御教示願いたい。

 以上(1)、(2)を合わせて、当時のヴイラ・アマゾニヤの人口は、職員二十五人と新来の高拓生三十九人(筆者を加え)、で計六十四人であった。

 戸数の割合に人口が多いのは練習生が全部合宿生活であること、人口の割合に家族持ちが3家族と云う、人口95%は男性単身者ばかりで構成されている異状社会であった。未開地開発には、何処でも、何時でも、必然的に表われる変態的人口構成社会である。正に女護ヶ島ならぬ野郎ケ島である。

 渡航高拓第一回生の構成

 高拓第一回生の中には農大組と称する組があった。前記班制の第8班に属する鹿野勇、佐藤信市、木内謙一の三氏である。

 東京農大を卒業後高拓第一回生の中に編入され、渡航中、又一ケ年の練習生々活をも共にした人達で、普通一般に第一回生と呼んでいる。

 その第一回生に含まれているのに仙台組と称せられる一組があった。千葉彦洋、庄司二郎、熊谷忠、田中正夫の四氏である。宮城県の有名な学者、田中館博士が上塚所長のアマゾン開拓の理念に共鳴し、宮城県海外協会をして前記四名の練習生を選抜せしめアマゾンに送り込もうとしたのであったが、時既に第一回生は日本を出発した後であったので、已むなく第二回高拓生の中に編入し、共に約三ケ月間、二回生と机を並べ学習したのである。

 処が、同年秋、現地笹田ドクターが退職したので、その後任医師として現地に赴任する江藤良成ドクター並に客員として江村良造の両氏がアマゾンに直行すると云う好便があったので、これに請うて同行が許され、現地に着いたのは同年の十二月であった。

 着後直ちに各班に配属され、練習生と同じ待遇で、同じ作業に従事したのであった。

 通常高拓第一回生とはこれ等農大組3名、仙台組4名、それに筆者を加えた8名を加算して四十三名と云われているが、東京の国士舘高等拓植学校の一ケ年の学業を終えて渡伯した正規の高拓第一回生はこれ等8名を除いた三十五名である。

 別に荒木衛門氏がある。同氏は高等農林を出て、特に上塚所長の特命でアマゾンでジュートの試作試験[を]するために同年十月に来着した様に思う、色々の書類に同氏を第一回生のリストに入れられているのをよく見る、同じ年に来て同じ水で共同生活をしたのであるから、それはどちらでもかまわないとしても、筆者は、同氏は職員の部に入れるのが至当だと思っている。

 又有田豊次郎氏がある、兄の第一回高拓生である有田忠夫氏の呼び寄せで来てワイクラッパで同じ作業をした仲ではあるが共に生活した期間は短かいし一回生に入れるべきではないと思う。
 色々の文献に高拓第一回生で来伯したものは四十七名であると書いたものを多く見るが、何処から来た数字であるか筆者には正確にはわからない。多分、マウエスに行った原田順平、庄野和雄、武田喜一郎、吉岡栄の一行八名(吉田栄氏のみは家族持ちで家族五名)に高拓生三十九名(当時仙台組は来伯していなかった)を加え、四十七名と云う数字が割り出されたのではないかと推測される。これは大阪商船サントス丸の乗船者名簿に基準された数字であって、右八氏はパリンチンス下船後直ちにアマゾン興業KKのマウエス植民地に入植されたのである。従って同船はしたが高拓第一回生の範疇の中に入れるべき性質の人達ではないのである。

 重複するが、来伯した高拓第一回生とは、準高拓一回生―八名(農大組、仙台組、筆者)正規高拓一回生―三十五名。計四十三名である。

 練習生の日課

 朝五時に起床の鐘が鳴り、五時半には前庭に班毎に整列してラジオ体操が始まる。これは所長以下全職員並に一部の家族の人も集り、一二三の調子に合わせて元気な声が早暁の空にこだました。体操後、その日の作業分担の指示があった後、散会してトマ・カフェーとなる。

 トマ・カフェーが終れば一同ドヤドヤと二階の自室にもどり労働着に身を固めて作業に出るのである。

 伐採作業が始まるまで作業は午前中だけであった。午後は学科で主として葡語の勉強で、パリンチンスからアガセ・リマと云うインテリ青年が教えに来て会話中心の学習がなされた。又粟津所長は伯国並びにアマゾンの政治経済事情、風俗習慣など実際的問題について講義され、笹田ドクターからも時々衛生講話がなされた。

 夜は自由な学習時間であった。

 以上は七月中旬伐採作業が始まる迄の日課であって、伐採が始まってからは伐採作業に重点を置いた日課に組み替えられた。即ち二キロメートル東方の原生林地帯の伐採地に於て午前七時に作業が開始されるので、朝の時間は、起床、体操、トマ・カフェー、労働仕度、伐採地までの行進と仲々忙がしい。

 七時から十二時まで午前中の作業で、九時に約三〇分の休憩があり間食が出される。午後は十三時に始まり~十七時に終る。合図は総て四十四口径単発銃でなされた。作業終了後は本館に戻り水浴、夕食。夜間は十九時より二十一時まで学科であったがいねむりするものが多かった。十時が消灯でその間一時間自由時間があったが、多くのものはその一時間も惜しむように直ぐ就寝した。以上のように伐採が始まってからは可成ハードな日課であった。

 作業

 着伯第二日目から実習作業が開始された。労働衣も、巻脚絆も、地下足袋も、総べて新品を身につけて、アマゾン学入門一年生のピッカピカの姿で前庭に出た。待っていた亀井部長を中心に円陣を作り、部長からサンパウロの労働事情などの話があった後、早速エンシャーダの柄のスゲ方の実習に移った。

 山から切り出された生木の柄とテルサードが各自に渡され、柄をエンシャーダにつけるのであるが自分の背の高さによってエンシャーダと柄との角度を決めることが〝コツ″の一つで、他に重要なことは楔(クサビ)の打ち込み方である。この二つのコツを呑み込んで仕上げれば能率は充分にあがる。サンパウロに於けるコロノ生活の一人前と云うのは、この柄のスゲ方如何にかかわっているそうだ。

 柄スゲが終ればやすりでの歯立てであり、如何に鑢を効率的に、経済的に使用するかの実地指導があり、各自夫々歯立てをなして漸く一本のエンシャーダが出来上った。

 全員各自使用のエンシャーダが出来上った処で今度は除草の実習となった。

 本館裏の草原に出て一列横隊に列んで除草実習だった。その時刻には太陽は相当上っていた。焼きつく様な直射日光の下での最初の作業には参った。筆者はこの実習に於て自信喪失のスランプに陥った事を白状しなければならない、ものの五メートルも除草しない中私の身体は骨でも抜かれた様にクタクタになったのである。こんなに汗をかいた事は一生の中にない。まるでふき出る様な汗だ。エンシャーダを握る手を時々ズボンでふかなければ汗でズルズル滑るのだ。とても堪えられたものではない。あえぎあえぎ作業は終ったものの、こんな調子でアマゾンに挑むことが出来るだろうか?、とても自信がない、と意気消沈したことを告白する。

 然し乍らその自信喪失も一気消沈もその夜の中に大分解消された。雑魚寝ざこねの大部屋で皆が就寝する時、「今日の除草はキツかったナ」、「俺、死ぬかと思ったよ」、「焼ける様に熱かったナ」、等の言葉を聞いたからである。即ち私だけではなかったと云う事を知ったのと、二カ月間の永い船の旅での運動不足で身体がたるみ、筋肉が弛緩し切っていたからと自覚したからである。今日の異状さは作業第一目のことであり、その中、環境に慣れることによってキット克服出来ると確信し、安心に似た気持で寝についた。

 第一日目に次いで二日以降は左記の作業を班単位で分担して作業した。

  大工作業…増永棟梁の指揮の下で大部屋の床板張りを手伝う。
  食堂改良…食堂兼教室兼講堂(階下)をコンクリート床にし、且つ窓に金網を張って
          蚊の進入を防ぎ安心して自習、勉強出来る様にする。
  除草………本館付近を美化する。
  道路作業…本館から伐採地迄約二キロメートル間の再生林地帯に道路を造る作業で、
         此の期に於ける最重要作業であり、前記食堂、大工さんも手伝いも、
         終ればこの作業に合流して仕事を急いだ。

 この道路作業が終る頃には、初日の様なダラシなさはなく、環境にも慣れて立派な拓士としての心身が春先の新芽の様にグングン伸びつつあった。道路作業が終り伐採作業に移るのであるが、伐採作業は別項に述べよう。

 [以上 1 第105号 1983年(昭58)1月31日]

 

 炊事当番と食事

 アマゾンでの仕事は朝で「決まる」、と云われているほど一般に朝が早い。朝の涼しい中に能率を上げようと云うアマゾン人の智慧であろう。

 練習生も朝が早い。八ツの班に分かれたその中の一班は、一日交替で班単位の炊事当番が廻って来るのである。五時に起床した一般練習生が早暁の体操を終り食堂に流れ込む頃には朝のトマ・カフェーが何時でも飲める様に準備を整へておかねばならぬ、之がため炊事当番に当った日は午前3時に起きて準備にかからねばならぬ。アマゾンに来て文明から原始に逆行した様なものであるから薪の割り方から、カマドの火のつけ方まで新規に学ばねばならぬし、電気がないから早朝の暗闇でカンテラの光を頼りの仕事に習熟しなければならない。炊事当番は仲々楽ではないし、又危険でもあった。

 或る日、第八班の木内謙一氏が炊事当番の時、過まって熱湯を浴びて大火傷した事があった。木内氏は農大組の白ママ、痩身の貴公子然とした青年であった。繃帯にくるまった同氏を病室に見舞った粟津所長の奥さんが、両眼に涙を一杯溜めて「コイタード」「コイタード」と連呼していた姿が今でも目に浮ぶ。余談になるが、その時筆者は「コイタード」と云う葡語が何を意味するかわからず、急いで自室に帰り辞書を引いてそれが「気の毒に」とか「痛々しい」とかの意味であることを知り、爾後五〇年間絶対にその言葉を忘れないし、その言葉を聞く度にその時の情景が脳裡に浮び上ってくるのである。

 余談は扨ておき炊事当番のことに戻ろう。

 他人より朝は早く起床し、普通でさへ重労働であるのに、伐採作業が始まったら、四〇人分の昼食を二キロメートルの道を担いで伐採地迄運ばねばならない。馬車も牛車も運搬器具として名のつくものは何にもない。各自の肩と足が唯一の運搬機具であり而も十二時には正確に伐採地の中心部に着いていなければならない。昼食が終れば空鍋さげて、炎天下二キロメートルの道を走る様に炊事場に帰らねばならない、タ食の仕度のためである。電気釜やガスレンヂのない時代で、案外一食の準備に時間がかかるものだ。

 この涙ぐましい努力をする炊事当番を指揮するのは小佐々良衛と云う炊事班長であった。氏は敬虔なクリスチャンで率先実行の人であり、皆からも敬愛されていた。炊事班長をしているからと云って、同氏の前身が料理に関係ある仕事をしていられたわけでもない。吾々よりも数ケ月早くアマゾンに来られたと云うことだけで、アマゾンの料理や材料に詳しいわけでも何でもないのである。その人が吾々数十人(現業員も含めて)の若者の三度々々の食事を受持たされたのであるから大変だったろうと思う。

 扨て、これ等炊事班の努力によって吾々にどんな食物が供されたか、単的に言って吾々は三度々々、どんなものを喰べたのか?食事以外の事については五〇年前のことも或る事柄については昨日のことの様に記憶しているのに、食事については殆んど記憶が蘇って来ないのはどういうことだろうか、只一ツ、またかと思うほどピラクルーを喰べさせられた事と朝のトマ・カフェーに丸い輪になった様なロスカと称する乾パン状のものを喰べた事だけはよく憶えているが、他の食事については全然憶えがない。

 三度三度の食事に何を喰べたか記憶がないと言うことは、とりもなほさず、過不足があまりなかったと言ふことが出来るだろうか。喰い物の怨みは深刻だと云う。食い意地のきたない私など、若し変なものでも喰わされていたら、五〇年は愚か、百年経っても忘れないかも知れない。限られた数少ない材料で数十人の若者の胃袋を満足させるため、小佐々班長がどれだけ苦労された事か今思つても頭が下るのである。

 十八才以下の娘に手をつけるな

 粟津金六所長の葡語に堪能なことは当時の在伯日本人社会では随一であり、伯人社会でも有名であった。又法律、経済にも明るく、その上弁説、誠にさわやかであったので大変人気があった。聞き手が年若い青年であるので伯国の風俗習慣、男女の性道徳、性習慣など熱が入り過ぎてY談に近い論議に脱線すること屢々あり、それが又練習生に大いに喜ばれたのであった。

 「十八才以下の未青年子女に手をつけるな」、とは所長の講議中、一回や二回ではない、毎度の講議中、口をママっぱくして吾々に発せられた警告であった。

 日く、アマゾンでは女性人口の方が多く、結婚難で、日本から来た諸君は大いに目をつけられている。ウッカリ罠にかかってはいけない。たとえ諸君側にそうした事実がなかった場合でも、未青年子女の親が伴うて警察に訴え出た場合、警察は一方的に娘側の言い分を聞いて即座に警察に於て結婚の形式をとらされるのが一般的警察結婚の実態である。言葉の関係で抗弁さえ充分でない諸君であるから、それに近い行為も、疑われるような場所にも出入りしない様注意すべきであろう。

 サンパウロでは警察結婚させられたため、一生を棒にふった青年を沢山知っている。これらの人達は、その後、たとえ良い伴侶を見付けたとしても重婚になるから正式の結婚は出来ない、従ってまともな家庭生活も営めず、悶々として人生を送っている人が沢山あるのである。くれぐれも注意すべきであろう。と云うのが所長の大体の論旨であった。

 筆者はその後数年間、後続高拓生を毎年迎えた。三回生以後は夫婦者高拓生が多かったが、それでも独身高拓生も可成り居た。その間、高拓生の中で警察結婚させられたケースはアンヂラ時代に一件あったばかりで外に聞いた事がないのはこの粟津所長の訓が各年毎に新たに来る高拓生に口コミで伝えられ大いに歯止めの役をしたのではなかろうか?、少くとも一回生については大きな抑止力となったことは否めないと思う。

 合理的に、打算的に

 第一回生は日本を出国する直前に在伯実業練習所の一ヶ年分の授業料としていくばくかの金額を前納して旅立って来たのであった。

 それが授業料であったか、生活費であったか、ハッキリした名目を了解しないまま出国したと云うのである。

 七月九日午後七時より食堂に於て班長合議が召集され、右の件に関し所長の説明と質疑応答がなされた。

 所長……諸君が日本で前納した経費は、あれは授業料である、その授費料は授学料、舎費、農業実習に必要なる教材料、炊事使用人の経費などが含まれているが食費は含まれていない。食費は練習生各自の収穫物を以って支払われなければならない。その計算は収穫が終って決算される。

 優秀なる心身を有する第一回練習生にして若し食料の自給自足が不可能とすればアマゾンに於ける植民事業は考えものである。諸君の自重を希う。

 大要右の様な声明とも宣言ともつかぬ所長の発言であった。

 右に関し左の様な質疑応答があった。

 御園第七班々長=天災など、やむを得ざる事故により食費を払うことが出来ない場合、どうなるか。

 粟津所長=温情的に処理したい。但し具体的に起り得る各場合を述べて処理法を約束することは出来ないが誠意を以って解決したい。水臭い感じはするが、此の問題は植民事業の根本問題で、経営者となる諸君にはよい研究教材である。

 鹿野第8班々長=生産物が不足して食費を補い得なかった場合、如何、

 粟津所長=原因如何を調査して後決定したい。

 橋本第6班々長=午後の学科の中に農業の科目を入れられたし。

 亀井農事部長=実地に指導する方が効果あるべし。

 粟津所長=練習生の農閑期には諸君の労働力を要求する場合があるかも知れない。そんな場合には諸君に報酬を支払う。諸君は額に汗して得た報酬を得るのに恥かしい思いをする様なことがあってはならない。植民地は徹頭徹尾、経済上、合理的で打算的であらねばならない。

と結んで当夜の会合は散会した。

 右質疑応答で明らかな様に現地所長粟津さんは飽くまで、現実主義であり、打算を基調としているに反し、本部上塚所長はこれとは全く対照的であった。即ちアマゾノ開発の如き困難な事業は計算や技術のみによって成し遂げられるものでない。理想を高く掲げ、その理想達成のため、如何なる困難も打ち破って突き進む青年特有の火の様な情熱によってのみ成し遂げられるものである、と云うのが上塚所長の持論であった。従って百万町歩のコンセッションに「大衆移民導入に伴う指導者となる」、「新日本の建設」、「血の通う村造り」、等々が強く鼓吹され、あふられ乍ら一ヶ年の高拓生活を終った第一回練習生であり、アマゾン開拓と云う大義名分のためには所長も職員もなく一様に同志であると思って現地アマゾンに着いたのである。

 処が着いてみれば、未だ一ヶ月も経たない中に、諸君の特別労働については労賃を払うの、諸君の伐採地に於ける労働は食費を払うため、だと云う所長の恰かも吾々が雇傭関係にある様な言動に著るしく吾々のプライドが傷けられ侮辱的だとさえ受取り乍らも所長の言う合理的、打算的との言は植民地造成の過程に於ては一種の説得力に富んだ言葉だと心の奥に肯定していたのであった。

 筆者註=この時期から約一ヶ年後、粟津所長はアマゾンに沢山の高拓生を残したまま、亀井部長と共にサンパウロに退出した。理由は色々あり一概に無責任とは云えないまでも、粟津所長の打算がそうさせたことは間違いない。粟津所長の云う合理的、打算的と云うのは、その事に無関心な吾々の人生途上に一種の教訓として示唆されたものと思っていたのであるが、実はこれは粟津所長の性格的本心であったのである。理想家肌の上塚所長と合う筈がない、後足で砂をかける様な調子で上塚所長の下から逃れ去ったのである。粟津所長の打算が逐に十年の知己を失い去ったのである。

 打算もホドホドにと云うことであろう。着伯早々で抽象的な考えの練習生にはよい薬であったかも知れない。

 伐採

 千古不鉞せんこふえつの原生林に立ち向う伐採作業こそは練習生の本業であり、本命である。

 雨期も漸くあがった七月中旬頃、愈々伐採作業が始まった。一同勇躍して原始林にいどんだのである。

 本館付近の再生林地帯を東方に約2キロメートル進んだ先に原生林帯がある。その地帯に東西に貫く中央道路が作られ、その道路を挟んで南側に四区、北側に四区、都合八区が区割され、練習生の8ヶ班が各々一区画を受持って伐採することになったのである。

 一区画約五町歩、練習生一人当り約一町歩、総面積約四〇町歩の原始林を約二ヵ月を予定して之を切り払い、一ヶ月間乾燥して十月中旬過ぎに山焼きを行い、山焼き後の跡地を整理して雨期の来るのを待って米の植付けをしようという開拓地作業プログラムの一ページの始まりである。朝、現地時間の七時に始まり、午後五時迄、その間、昼食時は一時間、九時に卅十分の間食時間の休憩がある丈けで実働九時間の可成ハードな労働であった。

 伐採作業は植付けまで大体左の行程を経なければならない。ロッサ(テルサードで下草刈り)、デルーバ(斧で大木を切り倒す)、枝下し、山焼き、寄せ焼、植付、の順となる。

 ロッサ作業=下草刈りで、テルサードで一打ちで切り倒せる程度以下の雑木やシッポー(蔦)等を切り開き、大木を斧で伐採する時に邪魔になるものを除去する作業である。

 この作業の大敵は蚊と蟻である。ジャングルの常で空気は停滞して微風もない。絞る様な汗だ。その上蚊軍の襲来でたまったものでない。ここらの蚊は人の血に初めてありついたのであろう、追っても、払っても無数にたかって来る。麦ワラ帽子をかぶった額の処は蚊の刺戟で凸凹になっている。動作を停止してはならない。動いていればいくらか蚊軍の襲撃をまぬかれる。

 筆者はある時蚊軍襲撃を軽減するため狂うが如くテルサードを振り廻していた時、頭の帽子の上にバラバラと何かが振りかかる音がするのに気づいた。急いで帽子をとって見て仰天した。大きな蟻が帽子一杯に真黒くたかっているではないか。筆者は帽子を捨てて一目散飛び退った。

 以上によればロッサ作業はつらい事ばかりの様に思われるが、これは日がダンダン経つに従い、それを避けるための要領を覚えて来るものである。大体蟻の巣をかぶるが如きことは初歩の中の初歩で一週間も経つと笑い話となるものである。

 一般に日本人はセッカチで、テルサードを振るにしてもピッチが早い。木の切り口だけに目を注ぎガムシャラに前進しようとする。それが蟻の巣をかぶる原因となるのである。もっとピッチをゆるめ、頭上に蟻の巣があるかどうかを確め、あればそれを切り下してから前進すべきである。

 次に蚊の問題である。筆者はこの項以来五〇年間アマゾンに住み、殆んどの自治州、直轄州を踏査し、その原生林を隈なく歩いたが、このヴイラ・アマゾニアの原始林ほど蚊の多い処は他になかった。アマゾンは奇妙な処で、ワズカ数キロの距離にある甲村は蚊が多く、乙村には蚊が全然いないという地域現象が至る処にある。アマゾンの不思議なことの一つとされている。

 第一回練習生はアマゾンでは珍らしく蚊の多い原生林に最初からブツカリ尊い試練を受けたこととなる。

 因にこの山の蚊はマラリヤとは全然関係がないので危険はない。何しろ山の中で獣や樹の汁、果汁などで生きて来た蚊で、今回突然日本人のうまい血にありつき、追っても逃げる様な蚊ではない。死んでも喰いついていると云った様な吸血蚊である。刺される事よりもうるさい蚊である。

 蚊とママに煩され乍ら作業を進める中に少しづつ光線も林間を通じて差し込む様になり風通りもよくなって蚊の襲来も減少し、何分にも作業に慣れて来て蟻の巣をかぶる様な事はなく、作業が終る頃には作業自体に興味を覚える様になって来るものである。手首大の木を磨ぎすましたテルサードで一刀の下に切り倒す爽快味を覚える頃には大体ロッサ作業も終りに近い頃である。

 デルーバ作業=全伐採作業中最も豪快で男性的な作業である。テルサード[を]持つ手がマッシャード(斧)に代り、亭々たる巨木に立ち向うのだ。

 先ず頃合いの大木を見つけ、それが倒れる方向を見定めて、その側面にV字型に深く切りつける。一方、この大木の倒れる方向にある大中小の木に切り傷をつけて将棋倒しにする計画を樹てるのである。

 傷つけが終り、大木が倒れ様とする寸前に「行くゾ!」と大声で相棒に警報するのである。その声を聞いた相棒は一目散に危険区域外にのがれる。

 一大轟音と地響きがして巨木が倒れ、大小の木は将棋倒しとなり、一瞬、風塵と木ッ葉が舞い上り目を覆う、深淵の様な静けさが訪れるのはその風塵が収まった直後である。誰彼となく「オイ々々」と相棒を呼び合い生存を確め合い乍ら木蔭に集まって腰を下す。その時の一服は又格別だ。

 マッシャードの柄の端を左手にシッカリ握り右手を添えて半円に加速度を加えて打ち込む時の充実した力。或る木は深く力一杯に打ち込んただめ抜くには骨が折れるほど深く喰い込める柔らかな樹もあるし、又打ち込んだ瞬間火花が散るような堅い木もある。慣れるに従い、樹相と樹皮を一見して木質の堅、柔がわかる様になるものである。

 三抱えもある様な巨木を三人掛りで、ピッチを合わせて、ユックリ、強く、コツンコツンと音楽的調子に合わせて切り進む爽快さはデルーバ作業ならでは味えない妙味である。

 枝下し作業=伐採したばかりでは、枝が空中に突き出ているのがあったり、蔓がからみ半倒れの木もある。これらを切って地上に伏せる作業をすることは山焼きの成績をよくするために必須のことであると同時に、山焼き後の寄せ焼きをする場合に能率をあげることに役立つからである。

 木は生の中に切れば容易に切れるが、一たん枯れて焼け残った木は堅くて歯が立たない。枝下し作業が充分行われていれば寄せ焼き作業の時、切らずに只積み上げるだけで済むから能率はグンと上る。農業成績を挙げるために枝下し作業を徹底的に行うことが必要なことは充分に知り乍ら一般的にこの作業はなほざりにされ勝ちである。何故かというと、この作業には、これでよい、と云う限度がないからである。

 練習生も、特に高く飛び出ている枝を地に伏せ、半倒の木を倒し、一応枝下し作業を終り、九月中旬、二ケ月に及ぶ伐採作業を終了することを得た。

 伐採作業開始当時、一同のピッカピカの労働衣は何時しか汗と汚れと丸洗いの繰り返しで、殊勲の連隊旗の様にボロボロとなり、顔は日焼けし、筋肉は隆々となり、何処に出しても恥かしくない、自信に満ちた、立派な開拓士の容相に変貌して来た。

 鰐に出遭った話

 筆者は御園班長下の第七班に属して伐採作業に従事していた。朝のトマ・カフェーだけでは腹が空いて仕事にならぬと皆が云うので九時に間食をすることにした。筆者は朝、一たん作業に出て八時頃本館に引返し、炊事班から間食のファリニヤ(マンジョカ粉)を砂糖でいためた様な間食を大バシヤ(金ダライ)に入れて、それを頭に乗せて作業場に行き、中央道路の中間に置いて、四十四口径単発ライフル銃でドーンと発砲するのである。その合図で練習生がアチコチの山から出て来て金ダライを中心に円座を作り、手でそのファリニヤを掬いパクパクやるのである。

 そんな毎日を続けての或る日、例によって頭にバシヤを乗せて再生林の間道にさしかかった処、路上に棒状のものが横たわっているのが目についた。跨ごうとしてヒョイと気付くと、何と、鰐ではないか、仰天して一歩退いてよく見ると、眠むそうな目をしているが正しく鰐である。一米突メートル位の身長だから鰐の子供であろう。筆者はその時、アマゾンに来て漸く一ケ月余の日本人である。少年時代に冒険、探険小説や物語りに鰐は地球上で一番恐ろしい、怖い動物だと教えられて来ている。子鰐と雖も生れて初めて見る本モノの鰐がここにいるのである、動てんせざるを得ない。

 暫し思案の末、付近に格好の木片を見付けて、それを振りかぶり、地もくだけよとばかりに力一杯に打ち据えた。飛び下って、よく見ると小鰐は脳天を砕かれてグシャッとつぶれて死んでいて尻尾だけ神経質に振っていた。まるで蛙が踏みつぶされた様な恰好だ。余りの他愛なさに拍子抜けがしたのである。

 鰐の話しが出たので、ついでにそれから二、三ケ月後に行われた鰐狩りの話しをしよう。確かに十月の半ば頃のことだと思う。

 伐採がすんだので、山が乾燥する間、約一ケ月間暇が出た。練習生は思い思いに付近を探索したり、パリンチンスに遊びに行ったりした。そうした或る日、第二班の佐竹基君が鰐狩りに土人から誘われたので見物に行ってよいかと言って来た。その頃は既にアマゾンの鰐のおとなしい事は誰でも知っていたので、筆者は気をつけて行く様にと云って出してやった。二、三人の友達と共に対岸に行ったらしい。

 帰ってからの彼等の話しを綜合すると次の様であった。

 アマゾン河のヴァルゼア地帯は、乾燥期となり、水が減退して行くとアチコチに大小の湖沼が表われる。十月半ば頃になり乾燥が進むと沼の水深も膝下位になり、遠くから見てもわかる様に大小の魚がグジャグジャむれているそうだ。その沼に鰐の大群が侵入し魚を食べてしまうのだそうだ。

 付近の住人にとっては魚は彼等の唯一の食糧資源である。彼等は近所の住人を召集し、イプシロンと称する形の共同作業で鰐狩りを行い、生命線を確保するのである。

 住人約三〇人ばかりが一列横隊に並び、各自、自分の背の高さ位の棒を縦に持ち、自分のツマ先あたりの沼底を上下に突きつつ一寸刻みに前進して対岸に鰐を追い上げるのだそうだ。鰐を追う彼等は奇妙な気勢をあげ、ダンス様に腰を振り、お祭り気分で、怖ぢ気など微塵も感じられなかったと佐竹氏は云っていた。

 気の弱い鰐は追われ追われて対岸の岸辺にゾロゾロと這い上る。待ちかまえていた二人の若者がマッシャード(斧)を振って頭を割り、殺し乍ら歩くので対岸の砂浜は鮮血で真赤になるそうだ。追い上げが終ったら、皆で之等の屍を数ケ所に積み上げて、その日のイプシロンが終了するのだそうだ。

 以上が佐竹氏の鰐狩り報告である。その報告にある様に、当時鰐は無用の長物で、殺して積み上げて腐るに委せたのである。勿体ない話しである。

 一回生が着伯して、三年後にアマゾン鰐皮の商品価値が表われ、鰐皮ブームとなり、濫獲を重ねた結果、五〇年後の今日では、人間の目のとどく処に姿を見せなくなった。

 又、佐竹君が撮った此の時の写真は各方面に珍重され、その後出版されたアマゾン事情の本には多くこのワニ狩り風景が復製転載されたものである。池田重二著、アマゾン邦人発展史もその四十八ページに、高拓第一回生の鰐狩りと題して此の時の写真が載っているのは御承知のことと思う。

 アマゾンの鰐がこわくないと知ってから、冒頭の筆者の小鰐退治の武勇伝は正に滑稽を通り越して馬鹿々々しい。アマゾンの事情がよくわからなかったと[は]云え、一メートル余の小鰐に対し大の男が渾身の力と勇気をふり絞って打撲している図など正に漫画的であり、今でも思い出す度に苦笑を禁じ得ないのである。

 [以上 2 第106号 1983年(昭58)3月2日]

 

 常夏のアマゾンで、
     夏休み、2題

 七月中旬より九月末まで約二ケ月半、可成の重労働であったが伐採作業は一人の事故者もなく無事終了した。

 四〇メートルの直立樹も、五人抱えの板根樹も、練習生の一斧々々で尽く切り倒され、当初、目の前に立塞がっていた原生林は今は既に無く、眼を遮ぎるものは何もなし。只畳々と重なり合った倒木の広野と化し、遥か彼方に霞に煙った別の山の原生林が遠望出来る景色となった。
 「してやったり」、「遂になし遂げた」、と云う喜びと、ホットした表情はかくそうとしてもかくせない。その日焼けした顔は、アマゾン開拓の第一段階の試練を果したと云う自信と誇りに輝やいていた。

 山焼きの良否は向う一ケ年の営農を左右するものであることは既に述べた。何としてもよく焼かねばならぬ。よく焼くためにはよく乾燥しなければならぬ。そんなわけで、伐採地を向う一ケ月間乾燥することにした。そして練習生には十月の一ケ月間は休暇となったのである。

 常夏のアマゾンで暑中休暇とは珍妙である。若い練習生にとっては、嬉しい様な、悲しい様な、アマゾン生活の一コマであった。去年までは東京の学生として、夏休みとなれば、喜々として故郷に帰省したものであるが、今は帰省するには故郷は余りにも遠く、地球の裏と表ではとても手足のとどく処ではない。結局、皆の家郷はこのヴィラ・アマゾニヤであると云う新らたな自覚を待つより外仕方ない。

 帰る処がないから出掛けるより仕方がない。狩猟に出掛ける者、奥地探険を計画するもの、パリンチンスに日参し、伯人の娘さんと友好を深めるもの、等々個人乃至は数名又は団体でそれぞれプランが練られることとなる。

 (1)アンヂラ川探険行

 「アマゾン河の本流筋は確かに廿世紀であるが一歩南に或は北に直角に十キロメートル進めば、そこには原始がある」、と誰かの著書で読んだことがある。少しオーバーな云い方だとは思うが、本流筋からズット奥地に進めば、そこには、およそ文明と云うものから断絶に近い状態にある別の生活体が存在することは疑う余地がない。それ等の人々の生活の実態はどんなものであろうか?、モトモト文明に背を向けて日本からアマゾンまでやって来た練習生だ。そんなものの探究に興味がなかろう筈がない。こうした事から夏休みを利用してアンヂラ川探険隊が組織されたのである。

 アンヂラ川とはブラジル中央高原を水源として北流し、ラモス水道を経て、ヴィラ・アマゾニヤの附近で殆んど直角にアマゾン大河と交わっている川である。即ちこの川を遡航すれば、アマゾン河の本流から略々直角に南へ南へと進むことになり、或は冒頭に語るが如く『原始』にぶっつかることになるかも知れないのである。

 一行は二〇名、十月初旬、バテロンに乗って出発した。バテロンとは牧牛の移動用に使用される頑丈な舟で、一回に五〇頭位運搬出来る手漕ぎ兼帆舟である。高台の牧場は乾燥期に牧草が枯れるので、低湿地の緑草地帯に牛を移動するのがアマゾンでの牧場経営の基本的作業である。バテロンはその作業に不可欠の運搬舟である。勿論、天蓋も、キャビンも、腰掛けに類するものも何もなく、只舟底に部厚な板が敷いてあるだけで、吾々はそれにあぐらをかいて舟行することになる。

 アマゾンの旅行には水筒の用意は無用だ。舟端から手を出せば、そこに流れている川水は皆上等の飲料水であるからである。一同、飯盒と米とピラクーとハンモックを纏めれば旅装が整ったことになる。

 バテロンには二人の漕ぎ手がいた。一人はポパイ映画のポパイの相手方の様な大男であった、顔も胸も腕も毛だらけで腕など吾々の二倍もある様な怪人である、身体に似合わぬ愛嬌もので、髭を分けて大笑いする顔など柔和そのものである。もう一人は助手で主として梶取りをやっていた。

 この旅行は往きはアンヂラ川の奥地に達する道、始終、流れに逆らって行くので漕ぎ手は大変である。又流速の抵抗を避けて河岸スレスレに進むので梶取りも亦一刻の油断も出来ない。

 練習生はアマゾンに着いて三ヶ月半と言う新米のホヤホヤである。ヴィラ・アマゾニヤからパリンチンス間を往復する定期航路以外の地には行ったことがない。今回初めて南に逸れてラモス川を舟行するのであるから見るもの総べてが珍らしい。

 始めの二時間位はガヤガヤ騒いでいたが、ノロノロ舟行とあたりの景色が単調なのでダンダンとウンザリしてくる。山がないので景色に立体感がない。視界の中央を横に、帯を敷いた様に対岸の森の一線があり、その線の上は空で、下は水である。大体この景色に変りがない。バテロンはラモス西岸をスレスレに遡航するので、五キロメートルの間に一軒位、民家の前を通ることがある。素朴な家の前にハダカの沢山の子供が、これ亦沢山の犬、豚、鶏などと雑居して、盛んに手を振ってくれるのに応えるのも慰めの一つでもある。変化に富む日本からやって来た若者にとって、この単調さは正に苦行である。現代なら差当りテープ・レコーダーを取りだして、音楽でも楽しみ乍ら行く処であろうが、五十二年前の昔のこと、そんなシャレたものはない。これもアマゾン学入門の一修業と心得て、天を睨んで、黙って舟の行くままに委せるより他仕方がない。

 ラモス川は曲りくねった川である。時々曲り角をまがると方向が変ったので順風に恵まれることがある。帆は満を張り舟は勢いよく川面をすべり出す。梶取り君は急に忙がしくなるが口髭君はやおら櫓を舟端にあげて一服するのである。

 ある時、舟が順風に恵まれた時、口髭君は櫓をおいて、その手を差し述べ「チラ、ラッタ」「チラ、ラッタ」と叫んだ。一同は口髭君が何か歌でも歌い出したと思い、次に何が出てくるか待っていると、口髭君、益々いきり立って「チラ、ラッタ」、「チララッタ」とわめいている、傍におった村井さん(一人だけ同行している職員)がたまりかねて、「そこにある空罐をとってくれ」と云っているのだと教えてくれた。急いで空罐を差し出すと、口髭君はそれを受けとり、さも甘そうに川の水を汲んで飲んだ。そして「こんな子供でもわかる様なやさしい言葉がどうしてこの人達にわからないのだろうか」と不思議そうな顔して何かブツブツ言っていた。

     「駕籠にゆられてゆらゆらと
           行くや千里の山の上」、

 これは上塚所長が、かって支那大陸漫遊中、四川省の天山山脈の嶮峡をカゴで踏破された時作られた長い作詩の中の一節であるが、カゴを舟に代え、山を川にかえれば、妙に吾々の現時の気分に合致するので、幾度か口づさんだのであった。

 直射日光をまともに受け、身動きならぬ舟底に座して、単調に飽きた苦行を八時間位続け、相当ウンザリしている頃、バテロンは方向を変え、南に梶をとり、ラモス川を横断してアンヂラ川の河口に達した。ラモス川の三分ノ一の河幅で、何の変哲もない小さな河口である。唯一つ異なっている事はラモス川の水が濁水で泥色なのに反し、この川の水は清水で黒褐色である。曲りくねっていることはどちらも変りない。一時間位遡行しただろうか?、左岸に格ママの民家を見つけ、舟をとめて一泊を交渉し、快諾を得たので、探険隊の第一夜を此処で過ごすことに決定した。一同バテロンから飛びおり、跳上る様に河岸をママけ登った。

 民家は住居の方は椰子葉葺き土壁の家であるが、住いの外に壁なしの屋根丈けの小屋がある。これは応接間であるし客間でもあり、且つ作業場でもあり、ダンスホールでもあるのである。床は赤土で固めであるのでコンクリート床の様だ。ハンモックが沢山吊れる様設備しであるので三〇人は楽に寝れるだろう。

 一同飯盒炊餐が終り、ブラ下げたハンモックに腰を下ろして暫し雑談に花が咲く。アマゾンの旅行は何と云っても夜が快適だ。寒からず暑からず、乾いた涼風が壁のない小屋を間断なく吹き抜けてくれる。遠く近く吼え猿の啼く声を聞き乍らウトウトした時、突然、「ヤッ蟻だ。フォルミーガ・フォーゴだ」とスッ頓狂に叫んで手で背中をバタバタたたき、おどる様に足踏みしている者が出た。よく見ると第一班の木村光君である。フォルミーガ・フォーゴが刺すと火を当てた様に痛い。木村君はハンモックを持って来なかったので地べタに横になったらしい。それがフオーゴ蟻の巣の上だったのだ。猛り狂うのも無理もない、と云って辺りのものが手伝えることは何もないのだ。どこか隅の方でクスクス笑う声も聞こえる。

 かくてアンヂラ川探険隊の第一夜が更けて行く。先輩が、アマゾン旅行にはハンモックは他の何ものよりも必需品だと云ったが、うなづけることだ。

 朝の涼しい中にウンと舟足を伸ばそうと云うことで民家を早朝出発し、第二日目の行程についた。以後数時間にわたる曲折蛇行の行程は両岸の風景と共に昨日と変りないので、ここでは省略させて載くことにする。

 午後一時頃バテロンは広い湖に達した。一同予期しなかった風景の突然の変化に総立ちとなって行く手を眺めた。湖というよりも大海原である。青く澄みきった水面は大きくうねっている、時々、舟の舳先を波にツッ込むのでないかとヒヤヒヤするほど波が高い。バテロンは帆まかせでツッ走る、口髭君は行く先に小さな部落があるからそこに行こうと霞の奥を指さす、こうなると一同口髭君の言うことに委せるより外はない。

 アンヂラ川の「大」を更めて認識しつつ波涛と戦うこと約三時間でバテロンは白砂青松の砂浜に到着した。これは又雄大な砂浜である。水は清く遠浅で、白銀白砂は延々と続いている。今夜の泊りはこの砂浜でと云うことで、ハンモック吊り用に木立のある処を選んで舟をつけた。下流一キロメートル位の処にフレゲジアと云う戸数約十数戸の部落があるそうだ。

 舟から飛び下りると、素足に心持ちよい無垢の砂の感触が伝わる。人類が嘗て足跡を印しなかった砂浜であろうか? 歩く度にキュッキュッと砂の音がする。

     アンヂラ河の高台に
        斜にかかる三日月は
     世の移つろいを他所にして
        椰子の葉蔭に白銀の
     砂を蹴りつつ舞い狂う
        太古の民を照すかな

と云う上塚所長作詞、アマゾニヤ産業研究所々歌の第四節が真に迫ってくる。

 乾燥期の旅行は雨の心配がないから楽だ。野外でも、砂の上でも、楽に一夜を過ごすことが出来るのだ。一同夕食後、部落を訪問したり、散歩したり、水浴したり、談笑したりして、おそく上った月影に太古の昔を偲び乍ら二日目の夜を過ごした。木村君よ、砂浜には蟻はいないから安心して寝よ!!

 三日目の朝は誠にさわやかであった。湖面はサザ波さえなく鏡の様に静かであった。

 昨夜、部落の古老達の話した所を総合すると、ここからインヂオの部落に行くには昼夜漕いで(カノア)七日間かかるそうだ。吾々の今回のこの装備ではとてもインヂオ部落の探険は不可能だ。それで一同砂上に車座に坐り、左の事項を協議決定した。

  1、第二次探険隊を組織することとして、今回はこれから引返す。
  2、次回は隊員を数名に限ること。
  3、モーター船を何とか都合すること。
  4、少くとも二〇日間位の装備を整える。
  5、葡語の日用語を修得すること。
  6、日本に注文して、女性用首飾り、腕輪、指輪等服飾等の安物で、ピカピカ、
    ギラギラしたものをプレゼンテ用に沢山持って行くこと。

 引返しの出発の準備をしている時、部落の方から一人の女が手に鶏卵を握り何かわめいて舟に近寄って来た。久我君が卵を受取ってから、何かを試す様な動作で、左手に塩を盛り、右手に銅貨を載せ、両手を女の前に差し出した。二〇人の視線が一斉に久我君の手に注がれた。するとその女は何の不自然さもなく、さも当り前と云った態度で右手の銅貨に見向きもせず左手の塩をすくい取って、クルリと後を向き、砂を蹴って走り去った。一同ウンと唸って、貨幣価値経済社会の、その前の時代に、何の疑いも無く生きて行く彼女の後姿を見送った。

 帰途は速い。水流に乗って下るのであるから楽なものだ。殊に、ラモス河に出ると、川幅の真ん中の急流に乗って進むので、舟は矢のように進む。斯くして同日、陽のある内にヴィラ・アマゾニヤに帰着した。二泊三日の第一回アンヂラ河探険旅行は斯うして終ったのである。

 [以上 3 第108号 1983年(昭58)5月10日]


 (2)パリンチンス通い

 夏休みともなれば、大部分の練習生はパリンチンス市訪問を唯一の楽しみとした。「葡語の実地勉強のため」と言う大義名分を振りかざしてセッセとお通いである。

 研究所からは手紙の発信、受信、買物、郡庁との連絡のため隔日、或は用事次第では毎日モーター船(セレージャ号)がパリンチンスに派遣されて殆んど定期的に往復するのである。練習生はその定期船を利用してパリンチンス通いをするのである。

 粟津所長は練習生の着伯当初より服装には極めてやかましく、パリンチンス訪問には必ず背広服に帽子、ネクタイ着用のことを厳命した。その上、街路を歩くとき、両側にある住宅の窓に婦人が姿を現わしていれば、その婦人が未知とか既知とかに関係なく必ず帽子の縁に手をやって敬意を表せよとの厳命である。練習生は多少の不満はあったが、そんなものかナと思ってその儘実行したわけである。こんなことから東洋の紳士が来たと云うわけで全市が湧き、殊に娘さん達の間では大変な評判になった。

 伯人家庭と親交が進むに従い、一部の者は定期船を利用しなくなった。定期船では帰途の時間に制約されるからである。エッサエッサとカノアを漕いでのパリンチンス詣でが始まったのである。それでも最初の中は消灯の時間には帰って来たが、それも次第に不履行勝ちになって来た。

 アマゾンでは、夜中に突風が起きることが屢々ある。突風にあえばカノアなど一たまりもなく転覆し、人は川に呑まれ、溺死する前にピランニヤやカンジルー等の猛魚に襲われ、死体は永久に上らない。従って死の確認さえ出来ない場合が多い。これがアマゾンの無気味な処であり、一見おだやかな流れに見えるが落ち込めば無惨である。

 筆者は帰館の遅れたものがあった場合にはカンテラ下げて港の浮桟橋に立って彼等の帰るのを待つ様なことが屢々あった。

 高村正寿氏の労作で国士舘大学新聞所載の「高拓生とアマゾン開拓」の(五)に前記の状況が誠に如実に書き表わされているので、左に転載させてもらうことにする。

  『学生のパリンチンス遊びが、時たま夜おそくなると、越知指導員は心配でもあり、監督の上からも放っておけないので、夜中起出でて大江岸の港で待っていると、夜中過ぎてから七、八名の学生がカヌーをゴトンゴトンと漕いで帰ってくる。

 港が近くなって、学生が指導員の姿を認めると、学生の中の一人が越知指導員好物のピンガ(火酒)をふところから出して突き出しながら「越知先生、ピンガ、ピンガ」と呼び乍ら港に舟をつけるのである。

 越知指導員は彼等のたわいない行動に対して、頭から叱りつけることもならず、「どうしておそくなったか?、モット早く帰れよ」ぐらいの小言で、彼等といっしよに寝室に帰り、寝るのが常であった。』

 パリンチンス通いも、心配した様な変事も起らず、ピランニヤのお世話になる様なこともなく、一同無事であったことは何より幸であった。

 以上でアマゾンでの夏中休暇の二態を述べたが、四十三名の練習生の中には、それ以外に、ある者は牧場に臨時就職し、牧夫として実地修業したり、ある者は州都マナオス市を見学したり、或は狩猟に行ってアリンコルンと云う怪鳥を射止めたりして、各々娯楽に、修業に最も有効に休暇を利用した様だった。

 特筆すべきは、練習生の一人がパリンチンスの娘さんと熱烈な恋愛をし(後述)、後のことになるが、遂に結婚にゴールインしたと云う熱い物語りは、此の夏中休暇中に芽バエたものであった。

 何れにしてもこのアマゾンでの、第一回の夏中休暇は練習生にとって硬、軟、共に稔りの多い一ヶ月であった。

 [以上 4 第109号 1983年(昭58)6月15日]

 

 山焼き

 夏休みは終った。空も地上も、万物がカラカラに乾き切っている。アチコチに山焼きの煙が真直ぐ一線をなして天に昇っている。風のない絶好の山焼き日和が訪れたことを示している。この機を逸せず十一月初旬のある日、吾々の伐採地も山焼きを実施した。

 一年中で一番暑い月、その月の中で一番風のない日を選び、一日中で一番直射日光の強い正午を期して火付けは開始された。而も手には燃えさかる炬火をもって、倒木を飛び越え飛び越え火をつけてママけ廻るのであるから、火つけ役は命がけである。

 練習生は在伯四ヶ月の新米であるから、逃げおくれて火に呑まれてはいけないと云う配慮で、今日は見学の側に廻された。火を点けるのは現業員の人達と、もの慣れた現地人の労働者達であった。

 中央道路入口の小高い処に陣取って高見の見物である。合図の号砲と共に、最初南側の原始林と伐採地との境界線に白い煙があがったのが始まりで、その白煙は恐ろしい速力で東方に点火されて行く、と見ると、最初の点火地点付近は既に黒煙をあげ、火焔は扇形に拡がり、中央道路方面に猛烈な勢いで拡がって来る。一陣の風と共に、火勢は地を這ったかと思うと、次の瞬間には冲天を焦がしている。忽ちの中に全伐採地は火炎地獄の様相を呈した。何しろ発火点に近い乾操し切った伐採地であるから、火のひろがりは早く、全域に火がまわるのは一時間も要しなかったであろう。
 練習生は日本に於て幾度か火事を見た事であろうが、それは悲劇の火であり、陰気な火であったが、此処での火は燃えろ燃えろの希望の火であり、陽気な火であった。

 四〇町歩と云えば日本の後楽園球場の七―八倍の面積である。その伐採地が一瞬の中に火の海と化したのであるから、その凄絶さはものにたとえ様がない。

 火勢は一応全域をなめ尽したとしても、まだまだ至る処、火のかたまりが大きく炎をあげて燃え続けている。倒木の重なりが大きいほど何時迄も燃え続けている。

 火のかたまりが燃えつきた午後五時頃、今まで見物していた現地人の大人・子供が一斉に先を争って焼地に飛び出して行った。何事かと聞いたら、丸焼きになった亀(ジャボチー)を拾いに行ったのだと云う。トカゲや蛇など逃げおくれたものは悉く灰か炭になるが、亀だけは別である。甲羅が焼けて中の肉は丁度食べ頃の丸焼きになっていると云うのだ。今夕の食卓の饗宴を思い浮べ、各々2頭乃至3頭の焼け亀を背にかついで、ホクホク顔で帰って行った。

 それにしても、隣接した原生林に、何等防火設備もしてないのに火が移らないのが不思議である。

 亀井部長に今日の山焼きの成績はと尋ねたら八〇点と云う処だろう、上々だ、との事であった。

 黒い汗

 山焼きの成績が八〇点の成績だったと云っても全伐採地の倒木の八〇%が灰になったと云うことでは決してない。落ち葉、下草、小枝、シッポー等は灰になっているが、腕大以上の大枝や、大木は外皮は真黒く焼けているが、木の芯は焼けずにそのまま残っている。従って焼け跡に立てば、目をっぶっては数歩も歩けないほどこれ等の木々が折り重なり、立ち塞がっている。それで、これらの焼木や突き出た枝などを切りおろし、一ケ所に寄せ集め、積み上げて焼却し、少しでも播種作業を容易にし、旦つ播種面積を拡げようと云うのが寄せ焼き作業の眼目である。

 前述の如く筆者は第七班に属して作業をしていた。班長の御園君も、班員の泉君、馬場君も何れも一騎当千の拓士で、背は余り高くないが三人共同じ様に頑丈な体格であった。殊に泉君は皆からマッシャード(斧)と敬称を奉まつられるほど超弩級の頑健さであった。

 筆者は何かの都合で、二、三日おくれて作業場に入り、三人の姿を見てビックリした。顔も手も足も全体が真黒ケで、頬は寄せ焼きの火で照り焼かれ赤銅色に輝き、目だけが白く光っていた。どれが御園君か、泉君か、馬場君か、暫らくして、声を聞くまで区別がつかないほどであった。

 全伐採作業中、デルーバ作業は最も力を必要とする作業で、エネルギーの消費も大であるが、何しろ巨木倒壊と云う爽快味があり、而も日蔭の仕事である。それに反し、この寄せ焼き作業は痛快味もなく、日蔭もなく、直射日光にさらされて、燃えさかる火を相手の仕事である。マッシャードを振る毎に、消し炭の細粉を浴び、たまに吹く風は灰塵含みで、全身真黒になる。持参の水をガブガブ飲み、流れる黒い汗を手拭いで絞りつつの作業である。正に良い所無しの、骨の折れる仕事である。

 それでもどうやら十一月末までに終り、遅い班を含め、十二月初旬には全班の寄せ焼き作業は終了。あとは雨を待って、播種、植付けの作業に移るばかりとなった。

 (編集者注。本稿に一回生は直接山焼きには参加しなかったようになって居ますが、吾々も火付け班と消火班に別れて参加した事を書添えます。)

 [以上 5 第110号 1983年(昭58)7月10日]

 

 絶食三日

 此の問題に就いては筆者(以下私と謂ふ)は直接の当事者であるので仲々思う様に書けないこともあるし、相手側の人も公表される事を決して喜ばない事情が良くわかるので、書こうか書くまいかと随分考えさせられたのである。然乍ら此の「高拓第一回生」は、第一回生がアマゾンに来ての種々の出会いや体験、見たもの、聞いたもの等を細大漏らさず書き残すと云う意図の下に駄筆をも顧みず書き出したものであるので、この特筆すべき事件に触れもせず、伏せて通り過ぎることはこの稿の主旨に反することとなり、且つモウ五〇年も前のことで既に時効になっている?と云った気やすめ的考えも手伝って、今まで誰にも語ったことのない、この事件の後日談をもつけ加えて公表すること[に]踏み切ったのである。

 扨て本題にはいろう、
 私はアマゾンに行くことを決心した時、アマゾンに行ったら暴力の認められない社会を作ろうと心秘かに誓ったのであった。上塚所長の言う新日本植民地の建設とか、そうした大げさなことが私に出来よう筈はないが、お互いの心の持ち様で、暴力の認められない社会を造ることは何だか難かしいことではなさそうに思えたのである。然し乍ら、誰でも暴力の許される社会を好むものはない筈だ。そんな当り前のことを取り立てて、何故心に深く誓を立てる様になったのであろうか。

 それを説明するとなると、私の過去の環境や少年期、青年期を通じての考え方の変動などに触れることなり、とても少々の紙数では説明し切れなくなり、本筋から逸脱しそうになるので、そんなややこしい説明は他の機会に譲ることとし、ここでは、ただ私が暴力の空しさをツクヅク感じ、極端に暴力を嫌って、アマゾンにやって来たこと丈けを理解していただきたいと思うのである。

 現地着後の一回生のことは本稿に述べた通り、次から次に表われる新らしい経験に追われ数ケ月は夢中に過ぎた。

 それは休暇中であったか、その後であったかは記憶にないが、そんな或る日、熟睡している夜半、夢、うつつの中に、バサッ、バサッと人を殴る様な音が続け様に聞こえ、同時に堪へ忍ぶ様な、妙に内にこもった男の泣き声が聞こえて来た。私は夢を見ていると思い、夢の中でこれは夢だ、と自分に納得させ乍ら、夢ともつかず現ともつかず、その中に又眠りに入ってしまったらしい。

 翌早朝、一人の練習生が私の処に走って来た。そして昨夜第六班の橋本俊次君と木村一則君の2人が、第五班の山本紀雄君に鉄挙制裁を加へました、と注進した。

 私は全身の血が一時に頭に逆流した様な思いがした。

 前庭に出てラジオ体操を指揮し、終って全員を整列させた。そして私は「橋本君、木村君、三歩前へ」、と命令し列前に立たせ「君等二人は昨夜暴力をふるった。理由の如何は問はない。ここでは暴力は許されない。君等2人に絶食三日を命ずる」、と厳命した。

 散会後私は食堂に入らず、真直ぐ階段を上って自室にもどり、コルションの上に正坐していた。

 下の食堂で何かが起っている様だが、何も私にはわからない。その中、年長の練習生が一人やって来た。そして「あなたの気持ちはよくわかりますし、皆もあなたを支援しています。然し絶食三日はひど過ぎると思います。何とかなりませんか」、と云うことであり、私は、「私もするから、いい」、と云って引取ってもらった。

 階下では午前も午後も、粟津所長と岡田学監との間に、又岡田学監と練習生との間に、色々と協議相談がなされている事は、内容はわからないが、気配でよく感ぜられた。

 午後五時頃、私の体調は殊に上々でこの分なら向う二日間の断食など大丈夫、困難ではないと自分を励ましていた。丁度この時岡田学監が私の処に来られた。

 岡田学監は神戸高商(後の神戸商大)で学監として三〇年間も奉職され、青年の心理の把握や青年の指導には全くのべテランで老練熟達の老師であった。老師は私の心をほぐす様に色々と人生のことを話した後、私の腕をとり、「サァ行こう。食堂では皆が箸に手をつけず待っている。サァサァ」、と言われ、まるで老師に引きづられる様にして食堂に行った。食堂に入ったら拍手で迎えられた。老師はユーモアたっぷりの話しを永々となされ、皆が笑わずにいられないと云う風の雰囲気が出来上った処で、私の皿に飯を盛り、サァーと云って促され、皆に合図して御自分も食事を始められた。私はこれ以上、頑な態度をとることはもう出来なかった。そして箸を取った。よく見れば橋本君も木村君も忙がしそうに箸を動かしている。

 斯くして絶食三日事件は落着した。毎日の日課も作業も前日通り続けられること[と]なった。

 外見上この事件は一応解決されたかに見えたが、私にとって解決されないものが残されていた。それは私の越権行為に対する処置である。

 練習生に対する命令系統は、所長→学監→練習生、である。職員でもなし、何等の権限も与えられていない私が、その朝、所長、学監の面前で、事前に両職の了解を得ることもなく、独断で、絶食三日を命じた事である。これは明らかに越権行為である。当然何等かのお咎めがあるものと覚悟していたが、不思議なことに、其後に至っても何らの処罰も訓戒もなされなかった。

 それよりも、私にはモット重大なことが私の心の内面の問題として起った。それは、突如としておそって来た反省であるが、まるで天からの啓示の様に私の心をつきさした。「何だ、お前のやった事は(絶食三日のこと)。橋本、木村両君がやった暴力行為以上の暴力ではないか」、との天啓に私はすっかり参って了った。そうだ。私は重大な暴力を犯したのである。その事を悟った私は戦慄し、そこらを転がり廻り、柱に頭をブッつけたい衝動にかられた。

 爾後私は誰にも言えないが、慚愧と反省にさいなまれて、残りの人生に自ら十字架を背負う破目となったのである。

 それから幾星霜、一九七三年五月、愚息、健が、アマゾニア病院の医師となり、同病院の用務でパラ州、アマゾナス州の全日本人植民地を巡廻し、健康診療することとなり、私はこれに随行することになった。モンテ・アレグレ、アレンケール、サンタレンの昔懐しい日本人植民地を経て、五月中旬、パリンチンスに着いた。そして木村一則君に会ったのである。一別以来四十二年ぶりの再会である。あの事件(絶食三日)当時、私は二十六才の独身であったが、今は息子のカバン持ちで、六十八才の老爺となっている。

 木村一則君は、練習生時代から独立心の強い青年で、自分は練習所を終えたら一人で牧場に行き、牧夫として働き、牧場経営を研究し、将来は大牧場主となるのだと豪語していた。

 一九三二年六月、一ヶ年の練習生としての修業を終り、一部の練習生は共同でワイクラッパに入植したり、サンパウロ方面に行ったり、思い思いにアチコチに四散した。木村君は前言通りパリンチンス付近の牧場に牧夫として一人で修業に出た。

 爾来四十二年、彼なりの大苦闘したことであろう。彼は今、マナオス下流、バイショ・アマゾーナス一帯に於て、押しも押されもせぬ大実業家になっている。大牧場経営、製氷会社々長、清源飲料グワラナの製造会社経営、パリンチンス市内の二つの映画館経営等々八面六臂の活動である。

 空港で彼に迎へられた吾々親子は、早速アルモッサに招待された。べレンに長く住む私は、久し振りに生粋のアマゾン料理に舌鼓をうった。食後、昼休みせよとて別室に案内されたが、吾々を感激させたことは、木村君が吾々の部屋の外側に、街路に面した処に立って、吾々の安眠を妨げない様に、悪童等の放つ騒音に対し、シッ、シッと制止していたことであった。斯くして木村君の下にもおかぬ厚遇に接し、二泊三日後、丁度息子の健康診療も終ったのでマナオスに向け出発した。

 この期間中、食事中、食後、夕涼みなどの時間にアマゾンの過去、現在、将来について数多く談笑したが、木村君も私もあの問題(絶食三日)をハッキリ意識し乍らも、その問題に近づこうとする毎に話題を変えた。お互いに余りよい追憶ではないので、よい空気を汚したくなかったのであろうか。
 それから三年位経って、木村君の死をべレンで知った。ガンだったらしい。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 パリンチンスで木村君に会ってから六年目、即ち一九七九年は邦人のアマゾン入植五〇年祭で、べレン、マナオス、トメアスーで賑やかな祭典が催された。日本から奉祝使節団が来たり、又パラ州政府も積極的に祭典に参加したりして、アマゾン日本人社会は湧きに湧いた。サンパウロの高拓関係者も団体を組んで乗り込んで来た。パラ州の高拓会は、一夜、サンパウロ高拓会を招いて歓迎会をジョッキー・クラブで催した。その時私は橋本俊次君に四十七年振りに会ったのである。私は既に七十四才になっていた。

 私はサンパウロへは度々行き、その度毎に高拓会の皆さんが歓迎会を催してくれるので、サンパウロの高拓会の人で、アマゾンで別れて以来、初対面と云う人は殆んどなかったが、橋本俊次君とは一別以来初めてであった。その時、その事をなじると同君は「だって絶食三日を喰わされたんだもん」、とズバリ言い放ち、そしてその語尾の「だもん」を尻上りに発音しニッコリ私を見て笑ったのであった。その笑顔には怨讐の一片のカケラさへない、すみ切った顔であった。

 橋本君は剣道二段で、和歌山高商を卒業して高拓校に入学し、アマゾンに来たと云う変りもの、達観した様なその心境は剣道から来たものであろうか?。ともあれ私は同君の顔を見て、その言葉を聞いて、何だか安心し、人生の重荷を下した様な気持ちとなり、嬉しくなって、同君がお土産にと持って来てくれた「ハダンキョウ」をむさぼる様に食べた。

 [以上 6 第111号 1983年(昭58)8月8日]

 

 お正月

 遠くアマゾンまで来て、お正月に雑煮を喰べようなど思いもしなかったし、期待もしなかった。毎日喰べている米の御飯でさへ赤米混りのボロボロの下等米であるので、モチ米なんかあろう筈がないのである。

 元日の朝、簡単な祝賀式が行われた。これも一向に気分が出ない。一同これがアマゾンのお正月か?とポカンとした顔[を]している。

 お雑煮も、おせち料理も何もないからセメテもと云うわけで、第3班の人達が先頭に立って「しるこ」を作ってくれた。そのしるこが又尋常な代物ではなかった。小豆の代りにフェジョアーダ用の大きな豆を煮て、小麦粉を練って作ったダンゴを入れたしるこである。甘いからしるこの「如きもの」が出来たが、白玉粉がないからダンゴが固い。それでも一同汗をフキフキ黙ってよく喰べた。隅の方にいた十八、九才の一番若いY君はしるこの湯気で曇った眼鏡をフキフキ、今にも泣き出しそうな顔をしている。去年迄の元旦の朝の一家団欒を思い出しているのではなかろうか。

 お正月気分は、日本に於てのみ味える、独特の伝統的雰囲気であって、日本を一歩外に出ればモウお正月はなくなる。況んやアマゾンでは、よしんばモチや雑煮があったとしても、汗をふきふきではサマにならない、お正月気分を味いたい意欲は早く捨てるべきであろう。

 去年(昭和六年)は練習生にとって、その永い人生に於て、一大飛躍を試みた年であったことは云う迄もない。当時の日本は満州事変が起る直前であり、非常手段を用いてでも、何等かの突破口を見出さなければ、国家としても又民族としても、生きる道がない、と云う八方塞がりの時代であった。

 軍部は、北に突破口を求めて、満州の地に進出しようとしたが、吾が上塚集団は、南に突破口を求め、南米アマゾンの地に、平和裡に日伯共存の大植民地を建設しようと試みた。高拓第一回生はその植民地建設の尖兵の様な役割を荷うので、国民の盛んな声援を受けてアマゾンにやって来たのであった。

 着伯後は、伐採其他肉体的鍛練や自然界との戦のため、相当困難な条件に出会い乍ら、それらのものはモット価値ある目的に到達するための一つの過程に過ぎないと云う考への下に、快活に、朗らかに堪へ忍んで来たのであった。そして国民の歓呼の声がまだ脳裡から消え去らない中に、早くも一九三一年(昭和六年)は暮れたのであった。

 扨て一九三二年への展望はどうであろうか。どう考えても、この年は昨年の様に、晴れがましいことはなさそうだ。第一、この年の六月には第二回生がやってくること確実である。吾々一回生は、二回生に現在の居住地を明け渡さねばならぬ。そして何処かに行って一人立ちしなければならない。独立営農資金は殆んどの者が持っていない。営農資金の有無とは関係なく、何処かに出て行かねばならぬことはハッキリしている。皆が待望している会社は、近年の中に設立せられる事を期待出来る様な情勢にはないらしい。会社設立後の経営論や抱負については、在学時代から随分聞かされて来たが、会社が出来るまでの間、高拓生をどう誘導するか、についての確たる指導方針が現地研究所にも、東京本部にも無いらしい。一体、吾々は何処に行ったらよいのか、どうしたらよいのか。

 サンパウロ其他、南部諸州の様に、既にその地に農業があり、農法の確立された処では、差し当り先輩の営む農業や農法によればよい。アマゾンの吾々にはそれが出来ないのだ。大体アマゾンには農業らしい農業は皆無と云ってもよい。あるものは、原生林の中にある自然ゴム樹からゴム液を採取する様な、採取農業ばかりだ。それは農業とは云えない。高拓生の使命の中に、アマゾンに新らしい農業を確立する、と云う項があった様だが、それはウンと年数と経験を重ねてからの事で、現在の練習生にとっては一種の題目に過ぎない。わづか一カ年の経験しか有しない日本人青年が、未知のアマゾンに放り出されて、而も徒手空拳では何が出来ると云うのであろうか。

 以上の様に、本年の六月前後のことを想像する時、一九三二年への展望は極めて暗い。着伯して以来六カ月間、ズット乾燥期であり、空は毎日カラッと晴れて、すがすがしい毎日であったが、十二月から曇り勝ちの雨期に入り、新年から本格的に雨が降り出し、空は低く、雲が垂れ、鬱陶しい日々であった。練習生の心も、雨期の空の如く晴れ間の少い、暗い一面を持つ毎日が続きそうだ。

 営農資金の問題

 営農資金の問題は、何も新年に入ってから事新らしく起った問題ではない。昨年の着伯早々の時から、亀井部長により盛んに論議された問題であったが、練習生には、次から次へと、新らしい肉体的体験にふり廻わされて、切実な問題としてはその当時は取り上げられなかった。

 その頃、本館の練習生の居室の真ん中のヴェランダに事務所があったので、粟津所長と亀井部長とが毎日口角泡を飛ばして、東京本部を攻撃しているのが筒抜けに聞こえて来る。寧ろ吾々に聞こえよがしの議論の様にも受取られた。粟津所長は、本部が現地の事情を認識せず、必要な金を送らないと云うことに起因した議論を繰返していた。多数の人命を預る現地所長の言として肯かれる論旨として一同同情もしたが、練習生は東京の事情もよく知っているし、金集めのことは、人が思っているほど順調に集らない事情と、時代の背景もわかるので、現地対本部、のどちら側にも組みせず、中立の立場をとって現地所長の議論を聞いていた。

 一方、亀井部長の論議は、当初(三十一年七、八月頃)は極めてはげしく本部を攻撃していた。『いやしくも移住者を取扱う移民会社(本部研究所のこと)が、送り出す移住者(高拓生)に独立営農資金を携行させずに送り出すとは何事だ。アマゾンはサンパウロの如くコロノ制度がないから、練習所を出たら直ちに独立営農資金が必要なことは当然のことだ。本部が、営農資金の携行を義務づけずして、移住者(第一回生)を送り出した事は、本部の大失態である』と云う論旨であった。

 この議論は、サンパウロの様な、既成社会で苦労した人のする議論であって、アマゾンには当嵌まらない。農業のない処にどうして営農計画を建てるか。営農計画の建たない処に必要資金の割り出しなど出来様筈がない。東京本部が、営農資金の携行を義務づけしなかった事も必ずしも失態とは云えないことが、時日が経つに従い、亀井部長にもダンダン了解させられて来たのであった。その頃、練習生が現在携わっている営農、即ちカスタニャ植林の間作に、米作をする農法を、来年から各自やるとして、営農資金の必要額と収支計算書の提示を亀井部長に申請した処、三十二年一月、苦心作製の上吾々に提示された。その収支計算書が現在手元に残っていれば大変都合がよいのであるが、消滅して何も残っていない。右営農による初年度一カ年間の支出の必要額は二コントス五百ミルレースであり、一カ年間の大人一人の生活費は七二〇ミルレースとされている事は、次に述べる身元調査書の中から取り出すことが出来た。右数字により、当時の物価や生活状態など充分にうかがい知ることが出来ると思う。

 筆者はその当時(多分一九三二年一月前後)練習生一人一人につき身元調査をした事がある。その調査書の大学ノート一冊が、五十二年前の資料として、完全な状態で、只一つ手元に残っている。それを読むと興味津々たるものがある。絶対未公表の約束で調査したのであるから個人のことを公表するわけには行かぬが、総括的なことは発表出来ると思う。調査対照者四十二人の中、営農資金を携行して来た者は只一人であり、送金を期待出来るものが三人、練習所修了後、即ち六月以降の身の処し方について、ハッキリした態度を表明しているものはいない。牧場に就働すると言明する者[が]一人丈けあった。入植資金については、必要であると云う事は聞いた様だが、必須なものと強く要求されなかったので心にも止めなかったと云い、又鍬を取って百姓するとは思わなかった、と告白するものとある、と云った具合で、この調査表で見る限り、送り出す方も、送り出される方も、総べての事が鮮明でないので、「行けば何とかなる」と云う、極めて安易な考えが双方共に支配的ではなかったろうか?

 次に各自の手持金の現在高を調べているが、一コント以上所持のもの1人。五〇〇ミルから九九九ミルのもの3人。百ミルから四九九ミルのもの22人。百ミル以下のもの11人。所持金0のもの2人。

 同調査は、前記のもの以外に、家族の状態、将来の配偶者について目当てはあるのか?、営農資金のことに関し、現地研究所から実家にその必要なことを通知することも出来るが、その必要性があるかどうか?、現在の所待金の漸減を防ぐため、班の仕事以外の特別労働に従事し賃銀を稼ぐことを希望するや否や?等々について各自の回答が記載されているが実に興味深いものがある。

 何れにしても、今から家郷に手紙を出しても、営農資金の送金を期待することは全体的に見て極めて少い。各自現在の所持金でも、今から六月までに底をつくものが多いなどのことは自明のことである。第二回生に明け渡す前後の第一回生の処置について考えさせられる事の多い一九三二年が始まったのである。

 [以上 7 第112号 1983年(昭58)9月4日]

 

 播種、植付、執政官来訪、其他

 はじめに、記事の間違いを訂正します。
 高拓一回生の(5)の「山焼き」の項に、一回生は山焼きには直接参加しなかった様に書きましたが、これは全く事実に反することがわかりました。筆者自身、いくら記憶をたどっても、火付けした記憶が蘇って来ないので、皆さんもそうであったかの様に早合点して書いたのが誤りでした。

 先日、大石隆人氏を訪問し、当時の事情を聞きました処、編集氏の御指摘通り、消火班と火付け班に別れて大いに奮闘したとのことでした。さう云うことで、前記山焼きの項は第一回生は火付け其の他に主力となって活躍した事に間違いありませんので、仝項をその様に訂正させて戴きます。高見の見物したのはどうやら筆者一人丈けで、横着をきめこんでいたことになります。

 扨て本文にもどろう。
 雨期に入ったので、いよいよ播種、植付けが始まった。カスタニアと云う永年性作物を間隔広く植えつけて、その間作に米を播くと云う、アマゾンで最初に試みられた農法であった。農法と云っても、或る程度の計算の基礎があって、それによって打ち樹てられた農法でなく、何もわからないから、兎に角これでやってみようと云う、漠然とした意図の下に計画された農法であったが、当時としては、事情止むを得ないことであったのだろう。

 それにしても、吾々が試作すること[に]より、アマゾンに於ける農業に或る程度の基礎が判明すると云うのであるなら、吾々のこれからの作業にも張り合いが出ようと云うものだ。

 先ずマナウスより取り寄せた籾種で米播きが始まった。この時、吾々はプランタ・マキナを始めて使用したのである。

 此の手動器は両方に把手があり、これを両手に握り、歩きながら播けると云う仕掛けのもので、木製に金具をつけた簡単なものであるが仲々よく出来ている。両手を開けば下の播種口が塞がるのでこれを地中に突込み、次に両手を合わすことにより下の播種口が開かれ適量の種子が落ちて地中にもぐることになる。歩き乍ら一歩に一穴宛播種して行くことになるから、慣れると相当歩度を速めて播種出来ることとなる。

 数日後、突然、この米播きは中止する様にとの農事部からの命令である。籾種の発芽率が低く、劣悪であるからとのこと、漸くプランタ・マキナの操作に習熟しかけた処で残念ではあるが中止した。マウエスに新たに注文した籾種が到着する迄の期間、カス夕ニヤ植付けに取り掛った。

 距離間隔十五メートル(筆者の記億では二〇メートルであるが記録には十五メートルとなっている)に測量された植付地点に、縦四〇センチ、横三〇センチ、深さ三〇センチの穴を掘り、マナウス試験場より取り寄せた苗をその穴に植え込むのであるが、この植付けは至極簡単である。竹籠(椰子の径で作った縦二〇センチ、深さ二〇センチ)の中に既に根を張っている、高さ三〇センチ位に迄生育した苗を竹籠のまま穴底に定着し、付近の表土、焼け土、焼き灰を掻き集め、この苗を固定し、地表下に植え込むのである。

 植付けが終ったら、付近の木片を集め、或は五〇センチ位の長さの薪状の木片を作り、之等を穴の四辺に積み上げ、高さ四〇センチ位の櫓を組み、天井を数片の薪で覆って直射日光を避ける装置を為す。之でカス夕ニヤ樹の植え付けが終ったのである。

 カスタニヤの植付けが終了したので、マウエスへ注文した新籾種の着荷を待ったが、アマゾンのこと、仲々期待通りには着かない。

 丁度その期間を埋めるかの様に、現地産業研究所では、開所以来の大きな出来事が訪れた。それは現アマゾナス州の連邦執政官アントニオ・コインブラ氏一行二十数名の来訪を受けることになったからである。

 吾が研究所は、歓迎式、午餐バンケッチ、武道披露、ダンス会等の催し物をして一行を迎えることとなった。何しろ此の片田舎で、公式のバンケッチをやると云うのであるから大変である。食卓用の一切の器具、料理の材料、調味料、椅子、机等々は勿論、料理長、料理人、給仕長など一切バンケッチに必要なものはマナウスより直接取り寄せたのである。酒の注ぎ方から料理の運び方まで総べて定まった方式があり、仲々ややこしいものであるが、現業員から田端長之助、河崎信次、練習生から久我桃水、松本哲哉、金子亥三生、林健一等が選ばれて給仕係となり、数日来熱心に配膳練習して之に当ることになった。

 他の練習生は本館の前面と背面を広汎にわたり美化作業を為し、殊に大観台に東屋などを設け、一帯の公園化に没頭した。斯くして、前日迄に桟橋より本館までの道路両側を万国旗で飾り、本館内の午餐会場の装飾設備を一切完了した。

 二月廿三日(一九三二年)午前十一時、執政官一行はパリンチンス有志二十数名と共に来着、先ず本館前にて歓迎式を行い、第8班の佐藤信市氏が練習生一同を代表して葡文歓迎の辞を朗読した。一行は少憩の後、十一時半より午餐会に臨んだ。数日前より熱心に練習した給仕人により、バンケッチはいともスムースに進み、最後のデサートに粟津所長が立って流暢な葡語による歓迎の辞を述べ、吾人のアマゾン開発に関する意見開陳の演説があり、これは多大の感銘を与えた様であった。午後は二時半頃バンケッチは終了し、少憩の後、余興として柔道及び剣道の型及紅白試合に移った。始めて武道なるものを見たと云う人も多く、異常の共感を深めた様であった。次に社交ダンスに依る日伯の親善と友愛の交歓がなされ、やがて陽の傾く頃、午後六時、予定のプログラムを渋滞なく終え、記念撮影の後一行はパリンチンス向け出発された。

 新籾種が着荷する迄、執政官一行の来訪などで相当の日数を費したが、執政官歓迎の行事が終っても仲々籾種は着かない。余りおくれると播種期を失する憂があるので焦慮している中に、三月十一日になって漸く到着した。マウエス在住の山内登氏が、仝日早朝着港したアイモレ号にて籾種二〇俵を持って来てくれたのだった。

 仝日、全員一斉に籾播きを開始した。急がねばならぬ。プランタ・マキナの操作は既に習熟している。把手を開いたり閉めたりする度にポコンポコンと独特の音を発する。四〇人が一斉に開始したのであるから、奇妙な音の混声が林間にこだまし、時ならぬ単音の演奏会が始まったようだ。鳥獣もさぞかし驚いた事だろう。

 アマゾンに来て不思議なことの一つに、雨に濡れても気にならないことがある。濡れては乾き、乾いては濡れても一向に身体に障らない。寧ろ雨に濡れた方が能率があがることもある。アマゾンに来て雨期になって雨を怖れる様では仕事にならぬ。

 新着の籾種を得、午前も午後も、雨にもめげず播種に狂奔した結果、早くも三月十六日までに四十町歩全域の播種を完了した。

 初日に播いた処は、全体が終る頃には既に針の様な新芽を威勢よく地表に出しスクスクと伸びていた。

 新本圃(この米作地のこと)に於ける米の播きつけ後の作業は芽かき作業である、一般農業の除草に類するもので、此処は焼け跡で雑草がない代り、焼株の根本から新らしい芽がゾクゾクふき出す。何しろ大木を育てるに充分の根張りをしているのであるから新芽に全生命力を集中し、恐ろしい勢いで伸長する。ウッカリ芽かき作業を怠ると、何時の間にか稲の上にかぶさり、著しく稲の成育を阻害することになる。油断もならないのである。

 [以上 8 第113号 1983年(昭58)10月10日]


 五月頃ともなると、後一ケ月で一ケ年の練習所生活を修了し、各々何処かに自活の途を探さねばならぬ。団体で入植しようとする者達は新入植地の調査などでいよいよ忙がしくなって来た。その合い間合い間に新本圃に来て見れば、全域見渡す限り緑のジユータンを敷きつめた様な稲の緑野と化し、そよ風に波うっているのが見渡たされた。あの黒い焼野ケ原がかくも豊饒の緑野になろうとは、正に天のひろい地の恵みである。

 練習生はこの頃、気の晴れる間もない日々であったが、一たびこの米作地に来て、風にそよぐ新緑の稲穂の波を見渡せば、何処からともなく、新しい希望と勇気が心の中に湧いてくる様であった。練習生は一ケ年の修業を終り、六月にワイクラッパや其他各方面に退去したので、自らの手で播いた稲作を、自らの手で収穫することが出来なかった事は残念であった。

 以上をもって練習生が携わってきた作業の項を終ることにしたい。今までの記述は、伐採、山焼き、寄せ焼き、播種、植付と練習生が携わって来た作業の中の骨幹となる作業に就いてのみ記述して来たが、練習生はそれらの作業以外に、ジュート試作、野菜園の経営、マモナ、棉、煙草の試作、アバカシー、密柑等果樹の試作管理等々、研究所にて行われる作業のあらゆる部門に関与したのである。

 筆者の手元にある昭和七年八月一日発行のアマゾニア産業研究所月報の第二年第八号は原田公三氏から貸与を受けた月報綴り(昭和九年三月から昭和十三年十月一日までのもの)の中から一冊だけ分与された誠に貴重な資料である。その月報の中に練習生の昭和七年三月一日から四月十二日までの日誌が載っている。それを左に摘録して第一回練習生の携わった骨幹作業以外の作業全般の模様をうかがって見たい。

三月一日(一九三二年)、蟻殺し、カスタニヤ畑(旧本圃)のロッサ、アバカシー畑の除草、
  野菜は、中島、有田両名の努力により頗る良好なる成績を挙げつつあり、赤大根、
  カラシ菜の如きは毎日皆の三度の食膳に供しつつあれども尚余りある供給力を示せり。
  荒木、木内両君は三月のジュート栽培のためイリア・フォルモーザ島に向い、越知視察
  のため随行す。

三月四日、新本圃にマモナ、棉、落花生等を播種す。一部は砂取りに行く。午後第一班より
  第四班までトマト手入れを行う。

三月十一日、本日より新本圃に籾播き開始。一部は煙草播種(ヴァルジヤ)に従事。

三月十六日、本日を以て籾播作業終了。之を以て練習生受持区域の全作業完了せり。
  先般幹線道路を挟んで両側十五メートルの土地にマモナ、マモン、ゴマ、ゴム、ミーリョ等
  播種せしが、何れも成績良好に生育せるも、ミーリョは稍々不良なり。

三月十八日、新本圃の作業完了したるため、本日より本館付近の除草に従事。
  一部旧本圃、一部は煙草移植に従事。

三月十九日、全員除草。岸田、山本、大平、工藤の四名豚屠殺。

三月二十一日、猛雨。全員除草。栗崎、工藤、岸田、星野は煙草移植。御園蟻殺し。

三月二十三日、全員除草。夜、食堂に全練習生集合。入植問題につき協議。

三月二十八日、全員新本圃の芽カキ作業。全面積悉く青々と緑波を打てるは
  愉快なり。

三月三十日、全員除草。三十人一列に並びて前進。競争ママ草を行い
  大いに能率あがる。

三月三十一日、煙草苗圃の手入れに御園、吉村、大平、国宗。蟻殺しに大森、金子。
  他は全部除草。午後、御園、星野、有田、山本(一)、金子、岸田の六名を指定して
  煙草移植の特別労働を為さしむ。午後は大雨に襲われたれど継続す。

四月一日、全員新本圃の芽カキ。木村光はカマラーダを監督す。特殊業務につけるもの
  左の如し。久我桃水=商事部。林健一=薬局、木村一則=建築部。中島敏之=野菜部。
  荒木、木内=ジュート係。右六名は一般練習生の作業外にあって各その業務に専念する
  こととなる。

四月二日、各班共新本圃の芽かき。特別労働志望者の熱心なる努力により、本館付近一帯の
  広い面積の雑草は殆んど刈り尽された。

四月四日、各班とも新本圃の芽カキ。第五班は本日中に終了す。午後は、田中、千葉、大森の
  三名特別労働としてバナナ畑の除草を為す。

四月八日、野菜園に第一、第四、第五班出動。トマト消毒とキャボの除草を行う。
  他班は新本圃の除草。佐竹は台湾島にジュートの写真を撮るために荒木と共に出発す。

四月十一日、隣人の牛、新本圃に進入し、稲作を荒しつつあるため、現業員、労働者、練習生、
  全員出動して柵造りを開始。

四月十二日、全員柵作りに従事、一千メートルに及ぶ柵完成す。夜七時、粟津所長近く家族と
  共にサンパウロ方面に出発され、帰途、第二回生を迎えて来られるにつき、練習所に於ける
  一ケ年の生活を近く終らんとする第一回生のために極めて懇切な挨拶ありたり。

 檄

 一九三二年に年が改まって、その年の六月には第2回生と入れ替って、吾々は何処かに転出しなければならぬという動かし難い現実に直面して、アマゾンに残るか、或はアマゾンを出奔して自由行動をとるか、生涯の運命を決める重大な岐路に立って、各人各様に思いなやみ、重苦しい生活が続いたことは前項に述べた通りである。

 三月頃の状態では、未だ自己の方針を決定しかねている者もあるので、ハッキリした色分けは出来兼ねるが、大体に於て、アマゾンを出奔して自由行動を希望する者は全体の三分の一で、飽くまでアマゾンに踏み止まろうとする者が全体の三分の二の三〇名近く数えられ、大勢を占めていた。

 そして踏み止まるものの全員が、アマゾンの各地に各個分散して入植することを嫌い、集団で入植することを希望した。

 扨て集団で入植するとして、どんな処に、如何なる形態で入植するかについては、焦眉の問題として大いに研究されなければならないし、且つ内外の状勢から、研究所本部に余り期待出来ない昨今のことであるから、集団入植を遂行するからには、とても予想もつかぬ様な困難に襲われるであろうことも各自が充分に覚悟してかからねばならぬ問題であった。

 筆者は何とかして資金面を解決して、私有地を買収し、之に入植するのが最良の方策だと考えた。

 当時のアマゾンでは、河岸の地理的、経済的に枢要の地は殆んど私有地で占められている。大体、ポルトガル人、ユダヤ人、シリア人、レバノン人等が主な地主である。之等の大地主達は乾肉業、カカオ栽培加工業、大牧場経営兼商業等で、相当の資本を注入し、大規模の施設をしたのであるが、ゴム景気廃退後のアマゾンの大不況に遭い、施設したものの、事業開始に至らざる中に放棄したものや、事業は始めたが不況の波を乗り切れず廃退したもの等、至る処に散在し、何れも想像以上の安値で売りに出しているのである。彼等の私有地は、何れも数万町歩の背後地があり、原始林のままで手がつけられていないのが普通である。

 上塚所長の獲得した百万町歩のコンセッションとは、これら私有地以外の州有地百万町歩に仕事してよいという契約であって、これが開発には大きな会社を設立し、道路、鉄道の施設からかからねばならない大事業である。

 吾々の今言っている私有地購入は、買収の手続きさえ終れば直ぐに吾々の自由になるのである。而も相当の既施設があるので、三〇人の練習生を今すぐ収容出来るのである。而して三〇人が力を合わせて、背後地の開拓に励めば、相当見るべき成果があがるだろう。

 問題は買収資金である。会社設立に狂奔している上塚所長にお願いすることは憚れるので、此の際日本の朝野に呼びかけてはどうだろうか、これだけ真面目な若い青年が、一致団結してアマゾン開拓に先陣し、後続大衆移民導入の窓口を開けようと、真剣に考えている吾々の意向が、日本の朝野の理解ある有志に感応しない筈はない。

 そんな考えで筆者は三日間、向う鉢巻で手紙を書き、苦衷を訴えて、独立資金の援助方を政界財界の大物宛に、十数通発信し檄を飛ばしたわけである。どんな内容のものであっ[た]か?、又宛先は誰であったか?、コピイも無いし記録もないので、現在では知る由もないのは残念である。

 これに対しての反応はどうであったか…。
 三月中旬頃、大日本雄弁会講談社社長、野間清治氏より誠実溢れる書翰を受取った。同氏は周知の様に、当時一世を風靡した大衆雑誌「キング」を発刊し、これが世に受けて、講談社を率いてメキメキ実業界に乗り出し、その中、報知新聞社を買収し、或は太平洋横断飛行を計画したりして、当時、潮に乗った実業家の一人であった。和風巻紙に毛筆で書かれた古風の書翰で、左に全文を掲げよう。

 「貴翰拝誦。御丁寧なる御挨拶、有難く拝謝奉り候。承れば昨春御同志の方とアマゾン開拓の御雄図に鹿島立たれ、爾来御地にて諸般の準備を了へられ、将に来る六月を以て原始林の開拓、新文化の建設に御着手の御運に相成候由、邦家のため将又同胞発展のため慶賀に堪えず、将来を御期待申上候次第に御座候処、此の度御申越しの資金御用立の件につきては御衷情十分拝察申上候。
 実は一昨年来両社をかけて矢つぎ早やの新計画達成のため出資非常に相嵩み、報知新聞に於ては新らたに飛行計画やら輪転機増設など多額の経費を要し、その上小社に於ては社屋新築の必要に迫られ、巨額の経費捻出に日夜苦闘罷りある場合に之れ有り、他に御力を致す余裕全くこれ無く候。御同情申上げ乍らその意に任せず、遺憾乍ら此の儀は御ゆるし願上ぐる他無き次第。何卒当方の事情御賢察賜り、御ゆるし下され度く呉々も御諒承願上候。
 本好便を以って小社出版の図書左記の通り贈呈仕り候間御暇の折り御覧賜らば幸甚と存じ候。
 先は取敢えず事情…(脱落)…御挨拶斯の如くに御座候。
 末筆乍ら益々御多祥に御事業御発展の程蔭乍ら御祈り申上げ候。
                                     敬具
   二月二日
                                   野間清治
  越知栄 様

         記

   一、修養全集   一揃
   一、講談全集   一揃
   一、喜劇全集   一揃
   一、英雄待望論 一部
   一、一粒の麦   一部
   一、世界十傑伝 一部
   一、明治大帝   一部
   一、社長著書   四部

 右書籍は同年四月二日、海路吾々の手元に着いた。驚いた事に、全集など一纏めに包装されずに、一冊宛厳重に油紙で包装され、細ヒモでくくられ、全四十四冊の本が四十四個の小包みとして到着した事である。地球の裏側迄行く遠路の便船を配慮した心のこもった処置だと思われるのだが、更に驚いた事は、各小包に貼附された郵便切手を或る練習生が計算し、換算した処吾々の一人一人が一年間に費消する営農資金にほぼ相当する額であったことである。

 結局当方の要請に対し日本からの反応は右の野間清治氏以外誰からも来なかった。従って私有地買収による入植計画は実現不可能となり、入植計画は〇点に戻ったわけである。

 如何に有為にして有望な事業であっても、一面識もない見ず知らずの人間に金を出して援助するという人は先ずあり得ない。世間はそんな甘いもんではないというキビシい教訓を世間知らずの筆者に与えられたものと素直に受取って、その後はタダの土地(州有地)に入植することを皆と共に真剣に検討することになった。

 [以上 9 第114号 1983年(昭58)11月7日]

 

  耐乏生活の日々

 1. マッチの棒を二つに割って使用

 ブラジルに着いた当時は、見るもの聞くもの、珍らしいことばかりで、日常生活の些細なことの中でもアッと驚く様な事にブツつかることが屢々あった。

 ブラジル製のマッチの軸棒の太いこともその中の小さな驚きの一ツであった。日本で見慣れた軸棒の二倍は充分ある太さであった。棒先の発火薬品の坊主頭も相当大きく、又値段もスゴク高かった。こんな粗雑な工業製品では、世界の産業の進展について行けぬぞ、と伯国工業の尻を叩きたい気持ちになったことを覚えている。

 処が、これから数ヶ月後に、諸事節約のため、この棒太を利用して、これを二つに割り二本にして使うことを考え出すほど窮乏の日々が訪れ様とは、当時誰も想像もしなかったことであった。

 この六月に練習所修了後自由行動をとろうとする一派も、集団入植しようとする一団も、先立つものは金である。身寄りも知人も少いこのアマゾンで、頼りになるものは金のみである。今まで所持し[て]いる金を減らしてはならぬ。出来れば増さねばならぬ。と嘗てなかった様な切実感と緊張感を持って、節約、倹約と云う問題と対決しなければならなくなって来たのである。

 こんな時、誰が始めたか、マッチの棒を二つに割って使い始めたのである。それが忽ち拡がり、全喫煙者の間に流行となった。

 就寝前に床の上にウツ伏せになり、カンテラを引き寄せて、小さな板片れの上にマッチの軸を横たえ、安全カミソリの刃でマッチの坊主頭の方からサッと二つに割るのである。これには要領がいるし、熟練が必要である。ウッカリ割り損ふと二本に使える処か一本にも使えない様にもなるのである。マッチ箱の一箱には大体四〇本の軸棒が詰めてある。いくら上手に割っても八〇本に割れることは先づあり得ない。七〇本に割れれば先づ大成功で、割り方の上手の部類に入るのである。

 朝、作業場へと歩き乍ら、昨夜のマッチ棒の割り率を誇示しあい、上手に割れた日は、何かその日によいことがある様な気がして、歩く足どりも軽やかになるのであった。

 2. 棒タバコ

 この頃にはもう紙巻タバコ(シガレット)を喫う者は一人もいなかった。皆棒煙草である。煙草の生葉を蔭干ししたものを、椰子の繊維で固く巻いて作った約一米突メートル位の長さの棒状煙草である。これは経済的で慣れれば仲々うまい。

 朝、作業に出る前に一つの作業が増えた。それはこの棒煙草を鋭利なナイフで削り、これを両手で揉んでほぐす作業である。

 その頃バリンチンス市に「27」と云う名の紙巻煙草が売られていた。その煙草は二〇本入りの薄いブリキ製のシガレットケースに入って居た。少し高価だがこれを買って、そのケースが重宝がられたのである。そのブリキケースに、ホグした煙草を詰め、ヴアヂと云う小冊のタバコ巻き紙を入れて作業に出るのである。うすいケースであるからズボンのポケットに入れて行っても邪魔にはならないし、又、汗や雨に濡れる心配がないのである。

 棒煙草喫煙には、先づ紙に適量の削った煙草を並べ、これをクルクルと巻き、舌先で糊づけして火をつけると云う仲々めんどうな過程を経なければならぬので、喫煙常習者がよくやる、いつの間にか次のシガーロに火をつけていた、と云う様な悪習もしぜんと矯正され、ニコチンの含有量には気になる処であるが、それはそれとして、この棒煙草の常用は経済的にも大いに助かるのである。

 3. 特別労働

 班の仕事以外の労働に従事して、賃銀を稼ぎ、六月以降の独立資金に備えようと云うわけで、特別労働の志願者がダンダン増えて来た。

 殊に三月以降は米の播種が終り、班の仕事は新芽カキ作業のみとなり、本格的作業が一段落ついてからの後は、この特別労働の種類も範囲も志願者数も一段と増えて来た。

 当時のアマゾンでは、恒久的に労働力を供給する労働者らしい労働者はいなかった。不定期に現われる労働者は、何れも附近に住む農家であり漁夫でもあったのである。これら漁猟農家は自給自足の生活を基調として暮しているものの、時たま日用品(布や石油)の取得の必要に迫られた時、週に二日、三日、随時に、不定期に働きに出ると云うのが当時の労働事情であった。

 これらの労働者相手では、年間定められた予算で仕事[を]する研究所では予算実行上甚だしく支障を来たすのであった。

 その外、荒木、木内両君が携はるジュート試作試験や、中島、有田両君が従事する野菜園や、トマト、煙草園の移植消毒などキメの細かい仕事には現地労働者は全く不適当で使いものにならず、あれやこれやで、何れの部署も労力補ママ問題については困り切っていた際であったので、練習生の特別労働が始まり、志望者が増大するに従いこれらの難点は次から次と解決されて行ったのである。研究所にも練習生にも双方に喜ばれる制度として、この特別労働は大いに歓迎されたのであった。

 三月以降、これら特別労働の強化により、試験園や苗圃のみでなくヴイラ・アマゾニヤの中心部一帯も、一段と美化され、附近の様相は一変したのであった。

 4.伐採費支払い拒否

 練習生が独立を前にして窮乏している現状を見るに見兼ねて、現地研究所当局は何とか救う途はないものかと考慮、検討した結果、名案を得たのであった。それは昨年度研究所々有地の原生林の伐採を練習生が行ったので、それに要した労力を金に換算して各自に支払おうではないかと云う案である。

 元来農地の伐採費は造成賃であり、地主側の負担になるのは当然である。練習生の場合はチト趣きを異にしているとは云うものの、合理主義の粟津所長として見れば、此の期に於ける伐採費の支払いは第三者に充分説明の出来る合理的処置であると判断し、或夜練習生一同を集めて此の件を発表したのであった。

 マッチの棒を二つに割って使用するほど困っている練習生達だからさぞかし喜ぶだろう、と感謝の歓声を期待したのであったが、結果は裏目に出た。感謝どころか怒声と罵声が飛び交い、「吾々を労働者扱いしている」、「お情けは蒙りたくない」、まではよかったが、東京本部の対アマゾン植民政策の批判に飛び火して喧々轟々の坩堝と化した。

 結局、伐採費は受けとらぬこととなった。

 粟津所長も亀井農事部長も、事態が意外な方面に発展したことでビックリし、粟津所長は「いまにわかるよ」、と云って退席し、亀井部長は「くれると云うなら、もらったらよさそうなものだのに」と云い、「わからんわからん」と連呼し、頭をふりふり出て行った。

 練習生が日本高拓在学時代に聞かされたアマゾン経綸の話と、現地に来てからの様子とは天と地の違いがあることなどで、日頃からモヤモヤしていた欝憤が、こうした機会に一度に爆発したものと云えるだろう。

 特に最近、裸一貫で原始林に飛び込まねばならぬ事態に直面したことなどから、異質の昂奮を引起し、結論的には現地研究所当局の純粋な心情から出た好意を無視する結果となってしまったのである。

 何しろ東京の高拓では、大植民地の指導者ともなれば自動車の運転位は出来ねばならぬと云うので、実際に自動車の運転を実習させられて来た彼等であるから、そんな事を基調とした夢を大きく胸にふくらませて来た彼等が現地に来て或種の幻滅を感ずるのもうなづける処である。

 前述の伐採費受取り拒否など一見「ひねくれ」と見られても致し方ないことでもあろうが、後年、アマゾンを訪れた視察者や作家達の間で、アマゾンには「高拓気質」と云う一つの気風が脈々と流れている、と書いている。そうしたものが若しあるとすれば前記伐採費拒否の頃から姿なき型として芽ばえて来たのではなかろうか?

 [以上 10 第115号 1983年(昭58)12月1日]

 

 新入植地創設費要請

 高拓生と東京本部(上塚所長)とは高拓校創設の当初より終始、運命共同体と云ふ型の紐帯で固く結ばれ、両者共信頼を基調として独特の機構の中に育てられて来たものであった。

 今回第一回生が独立入植することも、本部研究所の機構から全然離れて独立入植し様と云ふものではなく、本部機構の発展強化の一部面として、現地本部から少し離れた処に集団して入植しようと計企するもので、飽くまで本部機構の中の出来事に他ならないのである。

 以上のような関係から、東京本部に対し、ワイクラツバ植民地創設に関する経費の負担方を要請したのである。三月廿九日付、公信「練第四号」を以ってなされた同要請事項は左の通りであった。

 第一項、ワイクラツパ方面を第一回生の入植地とすること。
 事二項、本部第卅八号(昨年の)の入植予算を実行されたきこと。
 事三項、左の施設は其の中の(4)に属する「研究所にて施設すべきもの」と見做し、
      拓務省の補助金の廿五コントスを以って施為されたきこと。

    (1) 合宿住宅及穀物倉庫建築費  二〇、〇〇〇ミル
    (2) 害虫駆除器及薬品代        二、〇〇〇ミル
    (3) 自治団維持費            三、〇〇〇ミル
                     小計  二五、〇〇〇ミル

 第四項、左記のものは研究所より第一回生に対し無料貸付けなされたきこと。
     (無料貸付不可能の場合は五ヶ年後より三ヶ年間に分割返済すべき無利子の
     貸付けとすること)

    1. 開拓費、百二十町歩、二五ミル替 三、〇〇〇ミル
    2. 食費、三〇人、月二五ミル替    九、〇〇〇ミル
    3. 農具費                 二、〇〇〇ミル
    4. 大工道具費                 五〇〇ミル
    5. 種子、種豚、種鶏費         一、五〇〇ミル
    6. 衛生費                 一、〇〇〇ミル
    7. カノア及漁獲具            一、〇〇〇ミル
    8. 燃料費                 一、〇〇〇ミル
    9. 其他予備費              二、〇〇〇ミル
                     小計  二二、〇〇〇ミル
                     総計  四七、〇〇〇ミル

 第五項、委托入植資金流用不可のこと。
 第六項、右予算は第一回生の独立会計とされたきこと。

 以上の要請は当時の本部の財政状態を勘案しての最低の良心的要請であり、これ丈けはどうしても本部で面倒見てもらはなければならぬと云ふギリギリの要請であり、これに対する回答の如何に三〇名の運命を托したのであった。

 当時の郵便事情は日本までの航空便で一ヶ月前後の日数を要した。従って「練第四号」の回答は五月末乃至六月初旬に得られることとなるので、承認されると云う前提の下に、向ふ二ヶ月間、新入植地選定、実地踏査を行うこととした。

 新入植地選定調査

 先輩、経験者の言により三月頃までは大体ワイクラッパ方面を最適地と決定していたが、その後、ジョゼ・アッスー方面とカルバーリョ地方の二候補地が現われたので、将来を左右する重大な問題であるから、慎重に慎重を期すべしと云ふことで、この二地方を実地に踏査することになった。但しジョゼ・アッスーは研究所の地続きで、一部は研究所の土地であるから調査の必要はないので、ワイクラッパ方面とカルバーリョ方面を実地踏査することになった。
 幸に筆者の手元に当時の日誌が保存されているので左記にそのまま記載しよう。

四月廿五日、亀井、田端、岸田、荒木、越知、岡田、一行六名、ワイクラッパ方面踏査、
  午前七時出発、十一時サンタ・ルシヤ着、附近調査。

四月廿六日、ワイクラッパA地区、同B地区探査。

四月廿七日、C地区、D地区踏査。

四月廿八日、適地見受けられず、帰途につく。

四月卅日、カルバーリョ地方調査に午前八時発。一行は亀井、田端、荒木、木内、越知。
  十一時間を費し午後七時現地着、民家に一泊。

五月一日 カルバーリョ地区附近一帯を踏査す。アマゾン河本流筋であり、交通の便と
  食糧自給可能の点有利である上、一帯の地質も良好であるが、遠隔の地点である事が
  多少不利なり。

五月二日 尚は附近一帯を踏査したが、私有地の多きは不利なり。東京に於ける会社設立
  のことが、現在余り希望を有し難き状勢にあることは遺ママなり。

五月三日 帰所、ジョゼ・アツスー方面の有力説騰まれり。

五月九日 亀井氏と入植問題に就き協議す。亀井氏はジョゼアスー方面を、越知は
  カルバーリョ方面を固執。遂に決せず、午後二時、練習生一同を召集し、両者を比較検討
  の結果、カルバーリョ地方を適地となすと決定したが、念のために練習生代表団を組織し、
  明日カルバーリョ地区の調査に赴くこととなる。

五月十日 亀井、大石、吉村、金子、佐藤、山本(一)の六名カルバーリョ地方向け出発。

五月十三日 カルバーリョ地区調査団帰所、同地方を不適切と断定す。一同会議、議論沸騰、
  甲論乙駁、仲々決定せず、遂に夕方に至り、ワイクラッパ方面に衆議一決す。
  

 新入植地決定と前進基地設営

 前項日誌にある通り、五月十三日の会合によりワイクラッパ方面に入植すること[に]決定した。
 当時の入植適地調査の作業は、ここが適地だとの判断に導く主要作物と云うものがなく、而も調査する人達が一様にアマゾンでは一年内外の経験者達ばかりであるので議論は紛糾するばかりで結論は仲々出なかった。これが後年の如く、ジュートがあり、ピメンタ・ド・レイノの如き主作物があり、これを主作物とする入植地の適地調査となると、目的がハッキリしているから適地も亦自ら限定され、誰が見ても、適地か否かは容易に判断することが出来るのである。

 その当時そうした作物がなく、米は播種したばかりで、その収支は未だ判明していない。そう云った時代であったので、適地については、各々が自己の主観を以ってガヤガヤ論議はしたものの、確たる客観的根拠など無かったのである。従って、土地購入費が不必要だと云うことで、ワイクラッパ方面に衆議が傾けば、それまで反対して居た者もスンナリ同調し、衆議は忽ち一決したのであった。

 ワイクラッパ地方は、川か湖かわからぬ様な水流の両岸に無限に広がる土地があるが、それは皆州有地で、地券を有する私有地など一つもない。誰でも、何等の法的手続きなしに、何時でも、随時に、無償で、占拠居住出来るのである。土地は恰も空気の様なものであった。

 扨て、ワイクラッパ地方を入植地と決定したが、この広大な地方の、何処の地区を入植地とするかを決めるためと、三〇名が仮住いをするバラックを建てる作業をするため、第一次設営隊が組織され、現地に派遣された。手許にある当時の日誌に依れば、

五月十四日 昨日ワイクラッパ方面入植と決定せるため、本日、亀井、越知他練習生八名、
  同方面の入植地選定と基地設営のため出発、午後、第一候補地着。

五月十五日 第一、第二、第三、第四の候補地を詳細に踏査した結果、第四候補地を
  入植地と決定す。伯人マノエル氏の小屋に寄泊し、毎日設営地に通うことにする。

五月十六日 以後十日間、バラック建設のため伐採、敷地ナラシ、バラック建築に従事。

五月二十七日 バラック二棟未完成のまま一応ヴイラに帰る。「練第四号」の要請に対する
  本部からの回答未だ来らず焦慮す。
  バラック完成のため第二次設営隊を派遣す。
  留守中決定せる日程を変更し、六月八日を修業式とし、六月九日、ワイクラッパ入植者
  全員ヴイラ・アマゾニアを撤退し、入植と決定す。
  留守中、江藤医師の媒介にて数名の練習生が附近の牧場に牧夫として就働を決定
  せるに驚く。

六月五日 第二次設営隊がバラック二棟を完成して帰って来た。六月八日の修業式を控へ、
  全練習生の最終的動態を一人々々調査した処、ワイクラツパ入植者は当初三〇名で
  あったところ、二十二名に減少した。本部よりの回答のないことに対する不信と、
  ワイクラッパの余りにも孤独なことに起因しての減少ならん。
  日誌にもある通り、第一次設営隊は、予期せざる困難な当作業に遭遇し、予期した様に
  作業は進歩しなかった。何しろ河岸に舟から降りて一歩進めば原生林である、バラックを
  建てる前に先づ伐採から始めねばならぬ。
  河岸から台地に登る坂道及バラック敷地附近を相当広範囲に亘り伐採した。この時ほど
  山焼きの効果が身にしみたことはない。
  乾燥させる暇がないから伐採地は焼けない。倒木の生木を斧で切断して、数人掛りで
  敷地予定地外に運び出さねばならぬ。又、大木の切株の堀り起し作業などに予想外の
  手間がかかった。
  設営地に露営することが出来ないので、附近の土人の小屋を借りて毎日十キロメートル
  設営地に通っての作業で時間的ロスが多い。
  かてて加へて経費節約のため、一切釘を使用せず、山から採って来たシッポー(蔦葛)で
  釘の代用した事など、時間的ロスや経済的事情で、予定の十日間ではバラック二棟の
  完成を見ず、食糧が欠乏したので一応ヴイラに引揚げたが、直ちに第二次設営隊を組織し、
  バラックの完成を急ぎ、六月五日に第二次隊がバラック二棟を完成して帰って来たのは
  日誌にある通りである。

 [以上 11 第116号 1983年(昭58)12月31日]

 

 練習生修了式

 高拓第二回生は六月十二日に現地着と予定されていた。(後ほど遅延する事が判明し、結局ヴィラに着いたのは七月三日であった)。右日程に合わせて一回生は六月八日に修了式をなし、六月九日から撤退を開始することになった。

 粟津所長が二回生を迎えにリオに行って不在のため、修了式は簡単に行われた。夜、送別茶話会が食堂で催され、日本とアマゾンと合せて二ケ年、苦楽を共にした級友と別れを惜しみ、各々かくし芸など披露して賑やかな一夜を過ごした。

 アマゾニヤ産業研究所の事業が順調に進み、会社が出来ていれば、会社の経営に主導的役割りに任じ、全員これに参加したであろうが、会社の設立が思わしくなく、満州事変勃発と云う不利な時代的背景の下、会社設立も今、明日中には実現すると云う見通しもなし難き現状にあるので、粟津現地所長は三月中旬、練習生全員を集め、これ以上諸君を拘束することは出来ないので、練習所終業後は自由行動をとる様にと宣言をしたのであった。

 修了式の時点に於ける練習生の動態は左の通りであった。

  ワイクラッパに入植する者       二十一名
  農大組 三  
  ヴィラに残るもの 仙台組 四      九名
  その他 二  
  近隣牧場に就働するもの        五名
  マナオスに行くもの        二名
  サンパウロ、べレン方面        六名

 ヴィラに残る者の中、農大組はあと一ヶ年研究、調査したいと云うし、仙台組は昨年十二月練習所に入所し、未だ一ヶ年を経過して居ないので、残り六ヶ月を練習生としてヴィラで働くもので、残りの二名は現地研究所の機関内の部署に働いているので当分これを続ける。

 ワイクラッパに入植する者とヴィラに残る者以外は何れも流動的で、変更される可能性が強い。

 ワイクラッパ入植者の氏名左の通り

  飯田義平      岩村茂木
  泉桂治      馬場三郎
  大石隆人      大森克己
  大平茂登吉      金子亥三生
  吉村明      工藤講一
  国宗惇      小山松喜
  有田忠夫      有田豊次郎
  佐藤行夫      佐竹基
  岸田好明      御園福衛
  日高正治      熊谷忠
  越知栄  

 以上二十一名であるが、ある記録には二十二名となっており、外一名の入植者があったかも知れないが、何れにしてもその一名と熊谷忠君の二名は入植後二、三ヶ月目に退植しているので、真実ワイクラッパで終始活動したのは二十名である。

 ヴィラ撤退

 修了式の翌日即ち六月九日、ヴィラ撤退が開始された。セレージャ号は小型モータ船で、人員と荷物の全部を一度に運ぶことは出来ないので本日と翌十日と二日に分れて出発した。

 十一日はブラガ氏がパリンチンス市に郵便物を受取りに行く日だから、筆者と飯田義平君とは出発を一日延ばし、東京からの回答を待ったのであったが遂に何の回答もなかった。

 東京を不信し、上塚社長を疑い、焦慮して、本館から船着場までどうして走り下った[か]憶えがない。針の様な小さなものにも、つきかかりたい様な激情に顔をゆがめてモーター船に乗ろうとしたら、其処に村井庶務課長が筆者を待っていた。村井氏は筆者の袖を引いて云った。「江藤医師がおこっている。別れの挨拶に来ない様なら、今後ワイクラッパには診療に行かない」と。「しまった」と思い、常識的にも挨拶に行くべきだったと反省したがもうおそかった、筆者の激情の方が先走って「来てもらわなくてもいい」と言い放ってモーター船に乗り込んだ。

 註、上塚社長は当方の「練習四号」を受取って直ぐ「越知氏申越し承知した、六月末一部送金す委細文」を発電し、「本部第卅八号」を以って粟津さん宛に委しく項目別にママ付し、当方の要請を殆んど全部承認した公信を発せられたのである。
   その電報も公信も、吾々には知らされなかった。即ち現地幹部によって握りつぶされたのである。粟津さんはサンパウロに行くに当り留守幹部にその事を厳秘にして行ったらしい。
   ヴィラを退去する最後の瞬間まで待ち焦れた筆者の憔悴した姿を横目で見乍ら、公信の来ていることをヒタかくしにかくして、剰さへ挨拶して行かぬと怒った幹部のツラの憎くさョ。
   筆者は本部よりの回答の未着を信じワイクラッパに入植した。
   そして数ケ月が経過した。
   筆者は上塚社長の余りにも無情な仕打に憤懣やる方なく、東京の石橋、西津の両友人に上塚社長のやりかたをぶちまけ悲憤の手紙を書いて送った。
   その手紙を石橋、西津の両君は上塚社長に見せたらしい。それによって上塚社長は公信も電報も、知らされてないことを始めて知り仰天して、血の出る様な悲痛な手紙を筆者宛よこされた。その手紙は長文であるが、此の拙稿の進行が、その発覚の時期に達した時点に於て、本稿に全文発表する積りである。

 [以上 12 第117号 1984年(昭59)1月31日]

 

 ワイクラッパ植民地入植

 六月八日(一九三二年)に第一回実業練習生の終了式を終り、翌六月九日から三日間、ヴィラ・アマゾニヤ撤退、ワイクラッパへの入植作業が続けられた。筆者は三日目の六月十一日の舟で多量の食糧を積んで出発した。

 ヴィラ撤退の最後の日まで東京本部からの「練第四号」に対する回答を待ったが何等の音沙汰がないので、万事休す。本部に頼ることを諦めて、現地研究所に対し、吾々二十一名の生命を維持するに足る最低の基本的食糧(米、塩、砂糖等)の供給方を請願し、その了解をとりつけて、ワイクラッパに向ったのであった。

 この新入植地は船着場から約三〇メートルの急坂を登った台上に合宿バラックが建っている。米や砂糖は六〇kgのサッコだから、これを担いでこの急坂を登るのは頑健な青年でも仲々の難業である。二日前に先発した彼等は、余りの孤独と淋しさに打ちひしがれて、低声でヒソヒソとささやいているのではないかと心配して着いたが、何のその、一同は大声を張り上げて台上と台下と叫び合い、カラッとした声で騒ぎ乍ら荷物を担ぎ上げている様子に接して心は和らいだ。筆者個人の荷物も何時の間にか台上に運ばれていた。

 その夜は懇談会となった。

 第一に決定したことは、炊事係を岩村茂木氏に依嘱し、専任にあたってもらうことであったが、これは同君の快諾により即座に決定した。

 第二は炊事用水のことであるが、皆が水浴乃至は洗濯のため河岸に下りる時は必ず空缶、空鍋を下げて降り、用済後帰る時は必ずこれらの器に水を満たして登ってくること。

 第三は、バラックはもう一棟を至急建増しすること。既述の様に、半永久的合宿住宅の建設費を東京本部に要求したが、今日迄何等の回答に接しないので、これはあきらめて、別にバラックを一棟、新築しようと云うわけである。設営隊が建てた二棟のバラックは、その中の一棟は、食堂並に集会所に当てているので、一同の起居には他の一棟があるばかりで、その小さなバラックに二〇人のハンモックが、ひしめき合って吊られ、極めて窮屈であるので、金を一文も費さず、吾々の腕一本で出来るバラックなら直ちに建てて、貧しい乍らもユックリした環境造りが第一だと云うわけである。

 第四は、伐採開始のため、伐採面積四〇町歩の確定と地形を認識するための測量の開始。

 以上四項目を決定し、三、四項目の実行のため、バラック建立には材料採取班8名、地ナラシ班に8名、その外第四項の測量に四名を夫々人選し、翌日より作業を開始することになった。

 この懇談会は、ワイクラッパ植民地創設第一回の会合であっただけに、前記四項目の決定以外に、ワイクラッパに新らしい村を創設しようとする強い希望や意向、実現に対する心がまえなどにつき各々意見を開陳し、真剣に討議され、極めて有意義な第一回の懇談会であった。

 因に今朝ヴィラ出発に際し、江藤医師が「挨拶に来ないなら、今後ワイクラッパへは診療には行ってやらない」と云ったこと、それに売り言葉に買い言葉、「来てもらわなくてもよい」と言い放って来た経緯を今夜一同に報告する積りであったが、本夜の一同の朗らかで、且つ建設的な意見に圧倒され、遂にそんな不愉快なことを持ち出す機会を失い、発表することなく独り筆者の胸の中に収めることになった。

 第二回生との出会い

 高拓第二回生ははじめ六月中旬に到着の筈であったが、何かの都合で延着し、七月二日の夜半、パリンチン[ス]に着港との確報を六月三十日のモーター便で受けたので、数名を留守番として残し他の十数名が出迎えのため、同船で研究所に向った。

 僅かに廿日間、吾々が居らぬ間に、ヴィラは雑草が繁茂し、幾分荒廃した感じになっていたので、こんな状態で第二回生を迎えるのはチト恥かしい気がして、誰云うとなく、除草しようと云うことになり、自発的に十数名全員エンシャーダをとって本館附近一帯の除草に従事した。

 無心に除草している処に白い服を着た江藤医師と村井庶務課長が、満面笑を浮べ、さも満足そうな顔をして除草現場に現われ、一同と除草し乍ら賑やかな談笑のひとときが持たれた。「先生、吾々の新しい村を見に来て下さいョ」「ウン必ず二、三日中に行くョ」と云った様な会話が次ぎ次ぎと交わされた。

 先日ヴィラ撤退の際、「診療には行かぬ」、「来なくともよい」と、ギクシャクした応待のことを一同に話していなかった事が幸した様に思えた。若し話していれば、こんな無心な、屈託のない会話は出来なかった筈だった、何はともあれ、江藤医師との間に心の和解が成立したことはよかった。

 翌七月二日は、午前中除草し、午後出迎えのため一同パリンチンス市に向った。

 予定通り二回生の来船は夜半に着いた。河の中流に碇泊している本船にバテロンを横づけにし、五十数名の荷物と人を、而も夜半に下す作業は極めて困難な作業で、予期以上の時間と、忍耐を必要とするものである。人と荷物を受取り、共にヴィラ・アマゾニアに着いためは翌朝の午前九時であった。

 当日は荷物の整理や休養に当てられ、翌四日に、第一回生と第二回生の顔合わせ茶話会が催された。日本から新来の二回生は男も女も皆、色白で美男美女ばかりの様に見えたが、彼等は吾々を見て色の黒いのにさぞかしビックリした事であろう。

 当日午後、一同はワイクラッパに帰った。

 翌五日は現地研究所幹部のワイクラッパ初訪問の日である。一行は現地研究所所長粟津金六氏、江藤医師、亀井農事部長、小佐々班長、太田第二回生引率者、平山現業員等であった。筆者は右諸氏を案内して午後二時頃着いた。バラックの建っている処以外の地は全部原生林なので別に案内する処などなく一同食堂に集って懇親会様のものを開く。和気アイアイ裡に談笑が続いた。一同は、理想郷なりと云って激励して帰った。

 二回生出迎え其他で数日を費やしたが、既に第三棟目のバラックが完成していたので、各棟に一〇人宛割当てられユッタリした環境を得たので、残るは只伐採作業丈けとなった。

 測量班により四〇町歩の山が測量区画されていたので、二班に分れ、東西より伐採作業が始まった。

 ここの原生林は、文字通り千古不斧せんこふふのもので、亭々として天を衝く様な巨木が多かった。ヴィラ・アマゾニヤのそれの様にジャングル状の下草がなく、従って蚊も少ない。ロッサ作業が楽な代りに、巨木が多いので、デルバー作業には旺盛な体力と気力がいる。

 早暁に起きて、先ず眼下にかすむワイクラッパ河畔に向い深呼吸し、トマカフェーがすむと労働服に身を固め、マッシャードを担いで山に向う、人を制せず、自らを律し、恰も誰かに命ぜられた様に、同じ時刻に揃って山に向う。

 青春のハケ口をブっつける様な、巨木を相手の無言の戦いが始まり、続くのである。

 不平や不満も、夢も理想も、もう誰もそれを語るものは居ない。伐採作業に励むことが彼等の人生にとって重大なことであることは誰も思っていない、只、体力を消耗して、思うこと、考えることを少くしなければならない。と思っている。従って斧の振り方も異様に鋭く、狂気の如く木肌深く打ち込まれた。

 斯くして三カ月に亘る伐採作業は遂行され、九月末迄に全四十町歩の面積の伐採が終了した。

 [以上 13 第118号 1984年(昭59)3月3日]

 

 花咲けワイクラッパの恋

 ワイクラッパ湖に照りはへる月や星の妖し[く]も美しい姿は他の何ものにも譬へようがないほどだ。アマゾンの月の美しいことは世界一(上塚社長説)と云はれているが、アマゾンでもこのワイクラッパの白浜に立って眺める月は又格別神秘的で美しい。

 吾々の立つ砂浜も吾々以外の人類の足跡に汚されない白砂だし、そこに輝く月も、地上塵埃の層を通した光でなく直接の月光だ。凄く青味を帯びた輝きであり、大輪でもある様だ。そして日本で見て来た月よりもモット手近にある様に観ぜられるのはどう云ふことであろうか。

 月夜には誰云ふともなく白浜に下りて、三々五々、円座を作って語り合ったり、月を仰いで散策したりすることが楽しみの中の最大のものであった。無風流の吾々でも、この月を仰ぐと何となく幼児の時の歌を口づさんだり、又涙ぐんだりするのである。

 ある時この白浜の円座で有田忠夫君が
 「此処では早暁に鶏鳴を聞けませんネ」
と妙なことを云い出した。
 「当り前ではないか、近処には住民が居ないのに鶏の鳴き声は聞こえよう筈がないではないか」と突剣ドンな返答はしたものの、考えて見れば異様である。

 物心ついてこの方、渡伯航海中を除いては、早暁には必ず鶏鳴が聞こえる社会に育って来ているのである。日本でもブラジルでも朝の鶏鳴は同じである。ヴイラアマゾニアの一ケ年の生活でも朝は鶏が鳴いていた。それがワイクラッパへ来てからは聞かれなくなった。何でもないことの様であるが、今更、人跡未踏の地に来たものだとの実感が湧いてくるのである。

 先年(一九八一)高拓生入植五〇周年記念祭の行事の一環として、大型モーター船二隻でワイクラッパに舟遊した時はワヅカに三時間足らずに着いた様に思ふ。ワイクラッパも近くなったものだと、時代の推移を実感したものだが、五〇年前の当時の吾々は遠い人跡未踏の孤島に住んでいるかの様に思っていたのである。

 一週間に一度連絡に来る小型舟セレージャ号が唯一の他界とのコムニケーションであって、吾々は此のモーター舟でなければ、ヴイラやパリンチンスには行けないものと思い込んでいた。

 そんなある時、金子亥三生君がカノアでパリンチンスに行くと云い出したのである。その冒険心に一同仰天した。

 金子君は昨年のヴイラでの暑中休暇中にパリンチンスの或る娘さんと知り合い、恋仲となったのである。吾々と行[動]を共にしてワイクラッパに来たものの恋情抑へ難く、悶々としていた。一週間に一度のモーター舟を利用してパリンチンスに行けば、次週のモーター便まで、一週間の協同作業を怠ることになるのでそれは出来ない。考えた末、土曜日の午後カノアで出発し、日曜日の夜或は月曜日の早朝帰ってくると云う計画である。

 土曜日の午後は作業がないので、昼食後は卓を囲んで雑談に一時を費やすのが慣習である。一時間位経って、激励して送り出した金子君の行方を見ると、遥かワイクラッパ湖の沖合に罌栗けし粒の様な黒一点が、未だワイクラッパ湖を横切りきらずに浮かんでいるのが見えた。

 佐渡情話のアマゾン版である。それでも往きはラモス河の流れに沿って下るので助かるだろうが、帰りは逆航なので、パリンチンスから優に九時間乃至十時間孤独な深夜のカノアの一人旅が続けられるのである。とても恋の情熱なくして出来るものではない。

 彼は斯くして危険な恋の逢ふ瀬を重ね、一年後一九三三年、日伯官民の祝福を受けて結婚にゴールインし、実を結んだわけである。高拓生と伯人女性との結婚第一号である。

 後述=金子君は爾後五〇年間アマゾンに住み続け、九人の子女を育て上げ、去る一九八三年五月一日、他界した。

 にぎりつぶされた本部公信

 九月に入り伐採作業は全域的に三分の二を終了した。作業は順調に進行している。

 しかし東京からの回答は依然として来ない。もうこの頃では、焦れて待つ心は遠く去り、吾々の存在を無視する上塚所長の冷たい態度に対し心中全くおだやかでなくなって来たのである。

 この時勢に金集めが思うにまかせないであろうこともよくわかる。そう説明があれば、事情を了解するにやぶさかではないのである。「練第四号」による吾々の真剣な要望に対し、受信の返事さえ寄越さないとは何事だ。激昂せざるを得ない。

 筆者は憤懣やるかたなく、東京在の親友、石橋、石津の両氏宛に手紙を書き、現地の事情をブチまけ、上塚所長を罵倒し、日頃の鬱憤をはらしたのである。処が、筆者のこの私信を石橋氏が上塚所長に披露したことは前稿の「註」に一寸触れた通りである。

 大いに驚いた上塚所長は「東京と現地、殊に第一回生諸君との間に、斯くも意志の疎通に欠くかに驚き且つ痛嘆久しうしました」との書き出しで長文の公信第七十九号が筆者宛に発せられ、且つその公信には半年前に発せられた「本部公信第卅八号」の写しが同封されていた。これを吾々は十一月初旬に受取ったのである。

 ワイクラッパ湖畔の一夜、暗い灯ママの下に一同集り、前記二通の公信を読み来り読み去り、結果はどうであろうと、何時に変らぬ上塚所長の誠意と情熱に打たれ感涙にむせんだのであった。

 それにしても現地幹部は何故に本部からの、吾々に関する公信や送金電報をヒタかくしに秘匿しなければならなかったのか、その真相は正に奇々怪々の一語に尽きる様だ。(後述する)。
 次に半年間、吾々に秘匿された問題の公信第卅八号を公表すれば、

 (本部第卅八号)昭和七年五月十四日
                                  東京本部 上塚司
  粟津金六 様

     第一回練習生入植の件

 第一回練習生の処置については種々御配慮を相煩わし、結局ワイクラッパ方面に入植せしむることと相成候次第感謝罷在候。最近越知氏より練第四号通信を以て詳細其の方策につき申来り候間、本部は大体其方針を認め、希望に添うよう取計うべく左の如く貴下宛打電致し置き候。
 「越知氏申越承知した。六月末一部送金す。委細文」
 越知氏よりの申越条項左の如くに有之候

  第一項 ワイクラッパ方面を第一期生の入植地とすること。
  第二項 本第卅八号(昨年)の入植予算を実行されたきこと。
  第三項 其の中(イ)に属する「研究所にて施設すべきもの」を拓務省補助の
       廿五コントスを以って左の施設をされたきこと。

   (1)合宿住宅及穀物倉庫建築費   二〇、〇〇〇ミル
   (2)害虫駆除器及薬品費        二、〇〇〇ミル
   (3)自治体維持費             三、〇〇〇ミル
                      小計 二五、〇〇〇ミル

  第四項 研究所より左記のものは第一期生に無料貸付け下されたきこと。
       (無料貸付不可能の場合は五ケ年後三ケ年間に返済すべき無利子貸付のこと)

    1. 開拓費(一人四町歩、計一二〇町歩、二五ミル替) 三、〇〇〇ミル
    2. 食費(一ケ月二五ミル替、三〇人分)         九、〇〇〇ミル
    3. 農具費                           三、〇〇〇ミル
    4. 大工道工費                           五〇〇ミル
    5. 種子、豚・鶏種費                     一、五〇〇ミル
    6. 衛生費                           一、〇〇〇ミル
    7. カノア及魚獲具費                     一、〇〇〇ミル
    8. 灯油費                           一、〇〇〇ミル
    9. 其他予備費                        二、〇〇〇ミル
                                小計 二二、〇〇〇ミル
                                総計 四七、〇〇〇ミル
  第五項 委托入植資金流用不可なること。
  第六項 右予算は第一期練習生の独立会計にされたきこと。

以上六項に就きて本部の意向左の如くに確定致し候。

  第一項 ワイクラッパ方面への入植は別に異存無之候。
  第二項 本部第卅八号の入植予算を大体承認実行可致候。即ち左記二項に申述候。
  第三項 二五コントスを第一期生の入植のため流用する件は貴下より提案し来れる
       ものなれば別に御異存なきことと存候、其の金額は自治体維持費と削除して
       結局二二コントスとし、残の三コントスは第四項費の方に振り当て候。
  第四項 越知氏申込みの無料貸付とは無返還貸付のことと存候え共、此の費用は
       五ケ年据置三年賦にて返還の義務を負わしめ度と存候。結局二〇コントスと
       査定して総計四二コントスと相定め候。この中の二五コントスは貴所に対する
       予算中より御支出相成度く、一七コントス丈は当方より貴下宛御送付可申上候
       間貴下保管の上適当に御支出被下度候。
        但し一度に全部送金の必要なしと見て、六月末先づ一五コントスを御送付申上げ、
       他は二、三ヶ月後に御送付申上度候。其の必要の時期は更に改めて御申越
       被下度候。
  第五項 以上四二コントスの予算を実行すれば委托預金の流用の必要なきやに
       見受けられ候間説明の必要無之候。
  第六項 以上の会計を練習生の独立会計となすことは距離其他の点より尤もなるも、
       常に協議の上事を進め、監督権を有して一定の組織の下に取扱わしめられ度、
       くれぐれも御願申上げ候。

 以上が公信第卅八号の全文である。この公信が、受信と同時に吾々に披露されて居れば、あのヴィラ撤退の際に交わされた「往診に行かぬ」、「来てもらわなくともよい」と云ったヒステリックな応答もなかったであろうし、又入植希望者が三〇名であったのに二二名に減少することもなかったであろうに、残念なことである。

 次に筆者の石橋、西津両氏宛の私信を読んだ上塚所長の公信を左に全文公表すれば、

  本部第七十九号
         昭和七年十月十一日
                                   東京本部 上塚司
   越知栄 殿

 越知君、貴君が石橋、西津両君に宛てた書面は石橋君の厚意により、今日初めて拝見する事を得ました。あの書信を見て、小生は東京と現地、殊に第一回生諸君との間に斯くも意志の疎通を欠けるかに驚き且つ痛嘆これ久しふ致しました。以下第一期生諸君全部に見て頂くつもりで書きますから御回覧願います。

 一、本部公信について

 本部より公信即ち「本部第  号」の番号を追った書面は全研究所員並に練習生へ送る本部よりの通信でありまして、之れは研究所員及練習生に公開さるべき性質のものであります。而して本部よりは一々各位個人々々に手紙を送ることが出来ませんから此の本部公信を以て全員に報道を致しているのです。故に此の通信を一々ご覧下されば本部の近況や日本の事情を相当に詳しく御了解を得る筈であります。昭和七年一月一日から今日まで過去九ケ月間に本部よりは合計七十八通の公信を送って居ります。公信は必ず「写」を送って居ります。此の書面が果して七十八通共貴君等の目に触れていますか。恐らく諸君はそれを読んで居ないのではないかと思います。総べての誤解はそれから来ているのです、どうか粟津副所長に相談して、順を追って右の本部公信を読んで戴き度いのです。

 二、入植資金について

 貴君は「第一回生入植資金に関しては東京本部に献言しましたが本部は是れに対し適当な指令を発しないばかりか必要な丈けの金さえ送りません」と訴えて居られますが、貴君が練習生四号を以って申送られた詳細熱心なる希望に感激し、当方として直ちに貴君の申出を認め五月十四日付を以て取敢えず電報にて粟津副所長宛「越知氏申越し承知した。六月末一部送金す。委細文」と申し送り、同時に同日付本部第三十八号にて極めて詳細に貴君の申し出の個条々々につき当方の指令を申し送りました。之れは十分念を入れて、本書を粟津君宛、副書を貴君宛送ったのでありますから必ず貴君は之を見て居られると思いますが、今参考のために重複ながら本部第三十八号の写しをここに御送りしますから御一覧下さい。右書面にて御覧の通り本部に於ては貴殿の申し出は殆んどそのままに承認致し然も諸経費は可なり潤沢になっているのです。即ち貴君の申出は、

 (一)研究所にて施設すべきもの
   一、合宿住宅及穀物倉庫建設費 二〇、〇〇〇ミルレース
   二、害虫駆除及薬品費        二、〇〇〇ミルレース
   三、自治体維持費           三、〇〇〇ミルレース
                    小計 二五、〇〇〇ミルレース
 (二)研究所より貸付くべきもの
   一、開懇費               三、〇〇〇ミルレース
   二、食費                 九、〇〇〇ミルレース
   三、農具費               三、〇〇〇ミルレース
   四、大工道具費               五〇〇ミルレース
   五、種豚鶏種費            一、五〇〇ミルレース
   六、衛生費               一、〇〇〇ミルレース
   七、カノア及魚獲具費         一、〇〇〇ミルレース
   八、灯油費               一、〇〇〇ミルレース
   九、其他予備費            二、〇〇〇ミルレース
                    小計 二二、〇〇〇ミルレース
                   合 計 四七、〇〇〇ミルレース

 右各項に亘り合計四十七コントスを見積り来れるに対し、当方に於ては(一)の三の自治維持費三コントスを削除して合計四二コントスを承認し、内二十五コントスは粟津副所長の申し出により、研究所内に建築すべかりし宿舎建築費の一部より支出する事を本部にて同意したる故、残りの十七コントスを入植資金として送ればよいことになりました。右に対して当方よりは七月十四日付を以てニ〇コントスを電報にて送金し、その中一〇コントスは入植資金であるから貴君に之を渡すよう電令し、且つ同日付本部公信第五十五号を以て第五回送金に就いて詳報申送り、且つ二十コントス中一〇コントスは第一回生入植資金の一部なる旨を明記してあります。今当日当方より発したる電報を再録すれば、
 「二十コントス送った。十コントスは入植資金、為替相場回復次第残部送金す。財団法人計画中なり。
 本事業の成立には現地諸君の御自重を最緊要とす。江藤部長の留任を切望す。上塚 司」

 然るに、其後研究所並に貴君の報告により、当初入植者三十名の予定であったものが二十二名に減少したる由の報告に接したので、七月二八日付本部第六〇号を以って、それに伴う多少の減額(約六コントス)を申し送りました。此の減額は甚だ不本意でありますが、目下為替相場が極端に暴落して、予算実行の上に非常な困難を伴って来ましたので右の通りに決定したのです。其の結果、第一回生二十二名の入植資金は、合計三十五コントス六〇〇ミルレースとなり、今日の為替相場を以てしては、邦貨一万二千余円に上るのです。所が貴君の手紙によれば、粟津氏に金を請求しても、金が来ぬ云云と云って渡さない。東京本部の所置は誠意を欠くとありましたが、当方より昭和七年度分研究所及練習所経費として九月末までに粟津君の手許まで送った総額は別紙明細の通り、第二回生預り金は別途金として、諸機械類購送まで通算すると、合計百八十六コントス余になっております。今日の為替相場によると邦貨六万五千余近くになります。いる丈けの資金を調達するのに本部がどれ丈け苦心しているか、現地の人々は本部が補助金泥棒をしていると酷烈なる言葉を濫発して居るそうですが、本部が政府より今年度受けている補助金の額は僅か二万三千二百円に過ぎません。其の残部を作るのに小生は全く心を焦がし身を砕いて居ます。

 経営上について現地と東京本部との間に意見の相違がある様に貴君も考えて居られる様ですが、小生は決して現地を無視して仕事を進めんとするものではありません。今日の急務は一日速やかに大衆植民を送るべき拓植会社を設立せしめ、第一線に立ちて日夜奮闘努力を続けている第一期生、第二期生を安心して、当初の所信に向って邁進せしむるにあるのです。会社の仕事の内容や、其の実行方法は、総て会社が出来てから考えてもよいのです。会社が出来るまでは、本部も現地も心を一にして、一意会社の設立に努力すべきです。然るに現地の方では、本部が現地幹部の意見を尊重せぬとか何とか云って、不平不満を大ピラに外部に発表するばかりか、之を政府当局にまで持ち出すに至っては、夜の目も寝ずに続けて居る我等の努力も、唯片っ端から破壊せらるるのみです。小生は、今少し現地の人々の自重を祈ると共に、我々が、認識不足の内地財界の人々を説いて、真のアマゾンを知らしめ、政府の承認を得て、所期の拓植会社を作り上げるまで強き背景となって本部を援助されん事を切望して止みません。
                                                以上
 [以上 14 第119号 1984年(昭59)4月5日]

 

 営農資金の行方

 前記公信第七十九号(これには公信第卅八号が仝封されていた)を受取った次便のモーター船で、追いかける様に、粟津副所長から公信第卅八号が送られて来た。五ヶ月前に受信し乍ら現在迄吾々に秘匿されていた例の公信である。今更、何のために送ってよこしたのであろうか。而も仝公信には赤鉛筆で左記のことが筆者宛に書かれていた。

  「本部送金の件は全然アテにならず、本年度予算送金に於て、今日迄送金不実行額は
 実に五十八コントスに達せり。送金の約束と送金とは全然別個のものと考えるべきですから、
 金のことは来てからでないと何とも出来ませぬ」と。

 暗にそんな金は受取っていないと云うことを仄めかしてある。送った。受取らぬ。の問答である。
 地球の表裏をかけての係争である。会計上のことは深く立ち入る立場も権限もない吾々で
 あるから、なりゆきを只見守るばかりであった。

 何故にあの公信が吾々に秘匿されねばならなかったか、の点について憶測が許されるならば左の点を挙げることが出来ると思う。即ち現地最高幹部たる粟津副所長、江藤医師、亀井部長の3名は本年(一九三二年)三月頃より研究所辞職、退出のことが協議され、五月に至ってそれを最終的に決定し、先ず江藤、亀井両氏が七月頃決行し、二、三ヶ月目に粟津副所長が退出することを決められた様である。

 粟津副所長は右両氏の退職に関し、何れも本部の意向に反して退所するのであるから、退職に伴う手当など現地で調達しなければならぬし、その他の後始末に関し資金繰りに頭を悩ましていた処、東京本部より第一回生の入植資金送付の通知があったので、これに飛びついたのであろう。そして第一回生への入植資金は差し当り緊急に必要ではないと判断し、もし送金があれば第一回生には渡さず、前記現地本位の資金繰表に編入し緊急度に応じて支出する予定であった様である。

 以上のことを第一回生に知らせれば、彼等は俺達が要請し、それに応へて送金された金であるから俺達に寄越せと騒ぐこと必然であるから、厳に秘匿する様他の幹部にも指令されたであろうことも間違いない。

 本部公信七十九号によれば、七月十四日付けで二〇コントスの現金が電送され、中、拾コントスは入植資金であるから、越知氏に渡す様指令してあるに係らず、吾々に渡さず、七月二〇日前後、江藤、亀井の両氏が退去された事実とを照会すれば如何に幹部の退出に吾々の入植資金が流用されたかはほぼ想像がつくのである。

 副所長ともあろう人がすぐバレる様な幼稚なことを何故必死に秘匿したのであろうか、その答も誠に明らかなことである。粟津さんも近く退職を決意していたので、バレても自分の退職した後のことになると計算していたのであろう。事実、粟津副所長は仝年々末(期日不詳)に退出しサンパウロに向ったのである。これで現地最高幹部三名は、アマゾンに第一回生と第二回生、並に多数の職員を置き去りにして逃げるが如く退去すると云う前代未聞の事態を惹起こした事は衆知の通りである。

 残されたヴィラ・アマゾニアは首、頭無き烏合の集団と化し、一時期ではあったが、アマゾン邦人社会に暗黒時代を出現せしめたのである。吾々ワイクラッパ組一同は、幹部諸公の退出と、それに伴う暗黒時代とは関係なく、毅然として日常作業を継続したものの、本部が苦心して送金した入植資金が、後にも先にもビタ一文吾々の手に受取ることが出来なかったことは誠に残念であった。物質的被害は勿論のこと、精神的に受けた打撃も相当大きなものであった。

 入植祭

 実働日数四〇日、延作業人員七六九人、現地人労働者を一人も使傭せず、一人当り三へクタール、総面積六〇町歩の伐採を終了し、十月二十六日に山焼きを終り、ホッとしていた矢先、前述の様な東京本部からの公信を接受し、一同の心は雀躍した。久し振りに上塚所長の情熱に接し、その真意を知り、不信も不満もフッ飛んで入植以来初めて晴々とした気持ちになった。

 そんな時、誰かが入植祭をやり、ダンス会をやって一夜踊り抜こうではないかと提案した。一同その突飛な提案に息を呑んだが、怱ち、やろう、やろうと言ふことに決まり、早速行事日程と責任部署が決められた。

   十二月三日(土)入植祭
      午前九時  式典
      午後六時  ダンス会

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 愈々その日が来た。
 式典=焼け跡の比較的平担な処を選び、抜根し、地ナラシをして式場とした。大きな切り株の上に祭壇を設け、日本から持って来た宗像神社の白木造りの社殿を設置し、供へ物をなし、山から採って来たシッポー(蔦葛)を周囲に張り廻し、これに各自が持つ風呂敷や色物の切布を吊り下げ万国旗がわりとし、式場を飾りつけた。

 ワイクラッパ地方の警察事務取り扱いのマノエル・シケーラ氏の参列を得て、日伯両国々歌合唱、各自礼拝と進み、一同記念撮影をして式を終った。

 この頃、ワイクラッパ日本人植民地はポンタ・デ・エスペランサ(希望の岬)と命名されていたが、別名「仙人の村」とも言われていた。髭も髪も伸びるにまかせ手当せず、几帳面な青年でも、三日に一度が遂に一週間に一度となり、又、一ケ月に一度となるのである。第三者の目のないこの社会環境に住んでいると誰でも知らず知らずの中に不精者になるものである。これが別名「仙人の村」と称せられる所以のもので、皆、髭も髪もボウボウであった。

 処が此の日は別であった。お互いに髪を理髪し合い、髭を剃り、行李の底から背広服を引き出し、靴をはき、ネクタイをしめて、見違える様な立派な姿で神前にぬかづいていたのであった。

 黙々としてアマゾンに取り組み、原生林にいどむ此等青年の神前に契を立てる姿は、神々しいまでに、あたりを払う敬虔な雰囲気を醸し出した。

 次に祭文であるが、片肘を張り、いやに力んだ祭文で気恥かしいが左に掲げよう。

 祭文

   謹ミテ申ス

  東亜ノ帝国、日本ニ祖先ヲ有ツ大和男子等二〇名、ココニアマゾン開拓ノ使命ヲ帯ビ、一九三一年四月二〇日、祖国ヲ発チ、海ノ彼方ナル伯国ニ向フ。仝年六月二十一日、アマゾナス州、パリンチンス、アマゾニヤ産業研究所着、爾後一ケ年、同所附属実業練習所ニ在リ、開拓ニ要スル修練ヲ経、越エテ一九三二年六月九日、同所修了シ直チニワイクラッパナル当地ニ入植、独立開拓ノ実際ニ入レリ。

 当時、此ノ地未ダ人跡ヲ見ズ、千古不ママノ原生林重畳タリ。各員ノ協心力闘旬日ニシテ之レヲ伐リ、合宿所三棟ヲ建立、次イデ八月一日伐採開始、九月三〇日、之ヲ完了セリ。

 伐採面積独力以テ六〇町歩ニ達セリ。之ノ間各員ノ悟勤努力、能ク困難ニ耐へタルハ神明ノ能ク知リ給フ処ナリ。今ヤ整理ヲ終リ播種ヲ前ニシテ寸暇ヲ得、依ッテココニ十二月三日ノ吉晨ヲ選ビ、謹ミテ入植の祭典ヲ行ヒ、以ッテ天地神明ニ報ヒ神意ヲ迎エントス。

 抑々未開地ノ開発タル、之レ人類ノ斉シク共有スル天与ノ使命ナリ。今ヤ当アマゾンモ吾等日本男子ノ手ニヨリ着々人文ノ啓拓ヲ受クルニ至ル。之レ豈独リ吾人ノミノ快トスルニ止ルべケンヤ。

 翻ッテ世界ノ大勢ヲ観ルニ、人類文化廿世紀ノ歴史ハ今日ニ及ンデ遂ニ重大ナル危機ヲ醸造スルニ至ル。我日本マタソノ類ニ漏レズ、人心ノ迷悶ソノ極ニ達ス。

 吾人能クソノ弊ノ依リテ来ル処ヲ知ル。今ニシテ新理想ノ確立、新文化ノ建設、新社会ノ再建ノタメ巨歩ヲ新天地ニ求ムルニ非ズシバ吾人ノ理想、延イテハ祖国日本ノ将来ソノ行ク処推シテ知ルべキノミ。

 当初、師上塚司コレヲ憂イ、新天地の開拓ヲ唱導シ、多大ノ困難ヲ排シテ自ラ調査探険ノ途ニ上リ、遂ニ之ガ具現ノ地ヲ当アマゾンノ百万町歩ノコンセッション地帯ニ定ムルヤ、吾人狂喜シテソノ旗下ニ馳セ参ジ。進ンデ当地ニ先駆セリ。蓋シ一貫セル同憂同志の一飛躍ト云ウべシ。

 同志二〇名、飯田義平、岩村茂木、泉桂治、馬場三郎、大石隆人、大森克己、大平茂登吉、金子玄三生、吉村明、工藤講一、国宗惇、小山松喜、有田忠夫、有田豊次郎、佐藤行夫、佐竹基、岸田好明、御園福衛、日高正治、越知栄、相結ンデコノ地ニ入ルヤ一致協同、異体同心、伐ル者、耕ス者、炊グ者、各々分担精勤、一人トシテ額ニ汗セザルモノ見ザルナリ、秩序整然、渾然融和、麗ワシキ精神結合ノ小社会ヲ現出シ、共同団体生活ノ楽土ヲ建設シ、理想ノ実現ニ邁進セリ。

 惟ウニ開拓事業タル、コレ云フニ易クシテ行フニ難シ。幾多ノ難行前途ニ横ハルヲ知ル、サレド今ニシテ此ノ難ニ服シ、コノ美風ヲ捨テンカ、百年ノ理想一朝ニシテ影ヲ失シ、アマゾン亦悠久ノ神秘ニ放任サルべシ。之レ人類ノ汚辱タリ。

 吾等能ク当初ヨリ此ノ難事ヲ予期シ、之レガ克服打開ヲ志シ、挙グルニ勤労、協和、節倹、卓識ノ四項ヲモットートシ以ッテ爾今ニ処セントス。

 即チ勤労ハコレ他ニ先ダツコト最タルモノニシテ、偉大ナル大自然、原生林ニ立チ向フ微々タル人為ヲ以ッテスルモノ瞬時ト雖モ怠ルべカラズ。一日ノ勤労ハ即チ一日ノ自然征服ヲ意味スレバナリ。協和ハ之レ吾ガ郷ヲシテ真ノ楽土タラシムル根幹タリ、宜シク隣人、朋友相扶ケ、相和スべシ。節倹ハ之レ、鞏固ナル新理想社会基礎確立ノ要素タリ。卓識ハ、コレ高遠ナル理想ノ依テ生ルル起源タリ。常ニ世ノ変新ノ因ヲ極メ、宇宙万象究理ニ努メ、着眼ヲ高所ニ、卓絶セル見識ヲ有シ、以ッテ現実ニ当ルべシ。

 勤労、協和、節倹、卓識、コレ入植以来既ニ吾等ノ実践シ来リシ不文律ニシテ、実ニ各員ノ教養ニヨリ自ラモタラサレタル美風ナリ、コレ実ニ吾ガ郷ノ鉄則ニシテ新社会建設ノ基礎タリ。

 カリソメニモ忽ニスべカラズ。一ハ以ッテ後来人士ノ範タリ、他ハ以ッテ天命達成ノ法タルニ欠ケル処ナケレバナリ。コノ朝ヤ旭日東天ヲ紅シ、薫風徐口ニ面ヲ洗フ。此処ニ祭壇ヲ設ケ万象ノ神霊ヲ奉ジ、謹ミ畏ミテ入植ノ祭典ヲ営ミ、吾人ノ理想ト信条ヲ奉献シ、併セテ経過ヲ報告ス。

 冀クバ天地神明ノ吾等ガ上ニ加護アランコトヲ。

  昭和七年十二月三日
                                    恐惶頓首
                                        越知栄

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ダンス会=アマゾンでの催し物に時間励行を強いることは無理であろう、午後四時頃と云うのに早くもアチコチからカノアが人を満載して次から次へとやって来る。日が暮れぬ中に数十艘のカノアが崖下の白浜に舳先を列べている。崖上の吾々の合宿所の附近は娘達の赤や原色トリドリの服装の色で花が咲いた様に色どられた。聞くと、マムルー河や、アンヂラ河、マサワリ地方、マウエス河の各方面から、二日がかり或は三日がかりで来たと云う人々であった。何れも吾々の肩をたたいて隣人としての親愛の情を交換した。これ等隣人の中には、日本人がどんなこと[を]やっているのかと好奇心を持って来たものもあるだろうし、又、日本人が全部独身だと云うことで胸をときめかせて来た娘さん達もいることだろう。

 午後七時、ダンスが始まる頃には有に二〇〇人位の老若男女が集まり、独特の音楽に合わせてダンスが始まったのである。終夜息つく隙もなく踊り狂い、翌四日朝、盛会裡に、且つ親善並に宣伝効果満点の入植祭ダンス会は終了した。

 このダンス会を通じて吾々が感じた事は「時間」とか「距離」に関する感覚が現地人のそれと吾々との間に想像以上に懸隔があると云うことである。吾々は現在まで、此のワイクラッパの入植地を、人里離れた孤島の様に思い込んでいたが、彼等現地人は二日がかり、三日がかりの数百キロメートルの遠隔地から、まるで隣に来る様な手軽さで来て、吾々に古くからの隣人に会った様な懐しさと親しみを示すのである。

 原住の人達の感覚まで引下げる必要はないにしても、吾々はこれからも現地に住む以上は、吾々日本人の箱庭式感覚に幾分修正の必要を痛感したのであった。

 [以上 15 第120号 1984年(昭59)5月13日]

 

 天女が舞い降りて来た

 十二月三日と云う日は何という佳日であろうか。この日、入植祭の他に、これに優るとも劣らない画期的な出来事がこの仙人村を訪れたのである。

 それは大石隆人君と飯田義平君の二人に新妻が遥々日本からやって来たことである。大石君は奥さんの他、奥さんのお母さんと生後一年の長女房子さんも一緒に来たのであった。従って女子の大人三人に幼女一人、都合四人の女性が吾々の仙人村に仲間入りして来たのである。

 白い砂浜に降り立ったこれらの婦人達を見て、一同感に打たれて呆然とした。アマゾンの自然を背景に立つこれら女性達の姿は男と女の感情を抜きにして、この世のものとは思えないほど美しく映え輝いていた。まるで天上から舞い降りて来た天女達を目のあたりに見る様であった。

 幸に本日は入植祭で一同は髯をそり散髪して容姿を整えて居たので、これら新入居者達に悪いむさくるしい印象を与えなかったであろう事は幸であった。

 山から切り出した椰子の葉で屋根を葺き壁を張り、丸太棒で床を造った、所謂掘立小屋であるが、これでも一同が一週間の共同作業で誠意をこめて作った小屋である。二ヶ月に亘る長い旅路、女子供丈けの心細い、頼りない異国への長途の旅を終えて、漸く夫の懐に辿りついた彼女達にとってはこんな小屋でも久し振りに足を伸ばして休息出来る安息のホームであったろうことは間違ない。

 ワイクラッパ植民地は独身青年達ばかりの仙人村から、老若男女の住む植民地らしい植民地に変貌したことを誇示するが如く、赤、青、黄色と、色とりどりの洗濯物が朝の湖風を受けて翩翻へんぽんとひるがえる日々に蘇った。

 福原八郎氏と前田光世氏の来訪

 四日の朝、ダンス会が終った。その翌五日に、突然南米拓殖会社々長の福原八郎氏と、柔道で有名な前田光世(コンデ・コマ)の両氏の来訪を受けた。

 福原社長は、隣州パラー州のトメアスー(当時アカラと云っていた)に日本植民地を開設し、ここ一両年間に日本からの一般農業者を入植せしめて、植民地経営に苦闘中の人であり、植民地開設に先立ちパラー州全域を隈無く踏査されたので、各地域の地理的特性や経済的優劣について委しく話された。特にモンテ・アレグレ地方の地質の優秀なことなど、パリンチンスとワイクラッパ以外の地域を知らない吾々井の中の蛙にとって啓発される処が多かった。

 前田光世氏は柔道で世界武者修業中、べレン、マナウスでボクシング、レスリングなどの大きな実戦試合に優勝し、名を成した柔道家で、武芸者に似合わず、温和な人格者であったので、伯人の間では専らコンデ・コマと尊称されて居た。同氏は伯人社会の一般生活様式や日常生活上のタブーなどについて話してくれた。

 両氏共、吾々の、物質的困難に堪えて、所期の目的に邁進している現状に、最大の賛辞と激励の言葉を繰返えされた。

 最後に吾々を大いに力づけたことは、福原氏が此処の地質は一般にマサッペと称する土質の中でも中の上の即ち八〇点位の上質の土地であり、米でも何でもよく出来る土地だと保証された事であった。

 高拓生は海底百尺下の潜水夫

 ワイクラッパ植民地の一同が、十二月初旬の一連の慶事に浮かれている時でも、ヴィラ・アマゾニアはこことは反対に、依然として暗雲に閉されていた。モータ船便の度に、ヴィラからかんばしからぬニュースが伝えられた。第二回生の誰それがこんなことをしたなど到底平常心では考えられない様な乱行が、白昼公然と行われている現状のニュースであるが、吾々ではどうすることも出来ない問題であるので、唯何となく焦慮するばかりであった。

 第二回生は着伯当初より不幸であった。着伯第一港のリオ・デ・ジャネイロには粟津現地所長が迎えに来ていて、リオからアマゾンまでの長い旅を同氏と同船して来たのであった。

 アマゾンで仕事する意欲を失い、反アマゾン的にさえなっていた粟津氏の、船中に於ける高拓生への話しがどんなものであったかは容易に想像することが出来る。この粟津氏の話しで先づ出鼻を挫かれた格好の二回生であった。

 現地ヴィラに着いて一ケ月も経たぬ中に、亀井、江藤の両幹部が退去するし、その年の終り頃には粟津氏自身も退出した。

 ここに於て、筆者の云う暗黒時代が到来したのである。即ちアマゾニヤ産業研究所の現地本部は責任者の居ない烏合の集団と化したのである。

 世間では「二回生が騒いだ」と云うが、二回生が遭った様な境遇に出遭えば、二回生たらずとも、或はそれ以上に騒いだかも知れない。二回生に罪はないのである。

 この騒動の打撃をマトモに受けたのは東京本部の上塚所長であろう。

 政治家を説き、財界の理解に訴え、会社設立に狂奔している矢先、脱退した粟津、亀井、江藤氏等は現地公館に訴え出、盛んに研究所を非難し悪宣伝をする。それが外務大臣、拓務大臣に報告され、非常な苦境に立たされたのである。

 その間の事情を詳しく説明し、血の滲む様な心境を述べられた筆者宛の公信を左に掲げよう。

   本部第九号
        昭和八年三月十四日
                                    東京本部
                                        上塚司
   越知栄 殿
     外第一回生諸兄

 拝啓、十二月十五日附貴書並に練第六号、将に落手、読み行く中に熱涙滂沱として止まる所を知りません。粟津副所長の所為には昨年春以来幾度か変調を認めましたが、小生は之を疑う事すら天に恥づべきものと考え、只管同君が正道を踏み、其の実務を全うすべきを祈念して止まなかったのです。然るに、彼は遂に彼の持前を極端に発揮して、最後迄道義を蹂躙し、幾多の忌まわしき跡を残してアマゾンを去り、サンパウロに帰還して後も自己弁解の為アマゾンを誹謗して居ます。彼の背徳行為は自ら清算せらるる時がありませう。小生は今彼について口にすることすら快しとしません。唯小生の不明の為に人選を誤り、諸君を苦しめ、且事業の進展に少からず障害を来たせし事を思うと腸九回(?)するの思いがあります。

 想えば昭和七年は実に悪戦苦闘の一年でした。諸君は良く耐へ、良く忍び、よく奮闘してくれました。然し本部の努力も決して之に劣るものでは無かったのです。

 先づ年初より、国士館財団より分離独立の事端が発生致しました。此の件については辻氏より詳細報告されると思いますが、要するにアマゾンに対して何等の理解なく、同情なく、只自己の権勢慾と所有慾のために利用せんとする者と、命がけで大業のために精進しているものとの間には思想上、信念上非常なギャップがあります。殊に過去二ケ年の経験は、国士館に於て拓殖教育を徹底せしむることの到底困難な事を痛感せしめ、若し此のまま推移せば、アマゾン開拓の大業を覆すべきを慮り、断乎として新校の建設を企図するに至ったのであります。

 昨年の三月以後今日まで、柴田君がアマゾンの事業に対し、如何に深刻なる妨害を加え、卑劣なる中傷、讒誣ざんぶを逞うし、術策を弄せるかは諸君の想像以上です。若し吾々が大信念の絶対境地に立って居なかったならばアマゾンの事業は恐らく根底から覆へされて居たでありましょう。

 然し之は外部よりの迫撃に過ぎません。一番困ったのは、日に日に本部の非を報ずる現地よりの通信であります。粟津は早尾領事を経てリオ大使館に研究所の内幕を讒誣ざんぶします。脱退練習生の数名は、サンパウロ総領事館に行ってアマゾニア産業研究所破壊論を述べる。江藤医師や亀井君の如きが、極端に本部を曲解して、至る所に悪宣伝をする。而して是等の報告は、刻々夫々の機関を経て外務大臣、拓務大臣に報告されて来ます。第二回生到着後はそれに一層の拍車をかけ、上塚はうそつきだと、ゴーゴーたる非難の声と共に、其の節度の極端に乱れて居る事が強調されて報道されて来ました。

 総て此等の事象は、渾身の努力を傾注して、研究所の整備充実と拓植会社の設立に奔走して居る小生の前路に黒雲の如く、又断崖絶壁の如く突き立って妨げをなしました。私は幾度か天を仰いで時運の非なるを嘆いた事でしょう。然し之れではいかぬと思い返しては、毎朝太陽が輝かしい光を投げると小生は希望に満ちて飛び起き、今日こそはと、自らを鼓舞し激励しつつ一日の戦闘にかかりました。然し世の中は決して暖い手を持って我々を迎えません。殊にアマゾンの如き万里の異域に対して無理解です。唯小生は人事の尽すべきを尽して、夜遅く眼りに就きます。それでも夜半フト眼を覚まして万籟ばんらい寂たる所、小生の頭を占領するものは何であるか。熱汗を奮って原生林に突撃している諸君の姿です。此の姿は走馬灯の如く小生の眼をかすめ、強い責任感は小生の胸を圧します。

 諸君がアマゾンの原始林中に奮闘して居るのは、丁度河底百尺の下に努力している潜水夫にも喩へられます。而して陸上にあって、之に空気を送っているのが小生です。若し陸上に於てポンプを突く腕が挫けて、命をかけた一本の管から、空気が送れなくなれば潜水夫の呼吸は立ち所に絶えて仕舞うのです。それを思うと小生はジッとして居れません。林大使の如き、又練習生、高拓生の一部にも、小生が何故に東京に居るか、何故南拓の福原君のように現地に行って現地の人々と共に奮闘しないのか、と申します。既に会社でも出来て、資金等につき小生が居らなくとも差支無きに至らば兎に角、今日までの状況下に於て小生がアマゾンに飛び出すことは、陸上にあるポンプの手が、ポンプの柄を振り棄てて自分も亦海中に飛び込む様なもので、ポンプ手も潜水夫も同時に死滅してしまいます。小生は今に至って、死に就く事の極めて易く、生を撰ぶ事の甚だ難きを痛感します。誰でもよく命がけでやる、命をすててかかると申しますが、小生が一命を棄てた位でアマゾン開拓の大業が出来るものなら何を此の命を惜みましょう。然し今日の小生は死なうとしても死ぬことの出来ぬ絶対の立場にあるのです。

 幸いにして外務大臣も拓務大臣も大蔵大臣も総て小生の苦衷の存する所をよく理解し、他よりの讒誣ざんぶ中傷には一切耳をさず、終始援助を惜まれなかったのと、諸君及在校中の第三回生も亦小生の心情を掬んで奮励して呉れたので、兎に角大業を潰滅に導かずして今日に至ったのです。而して今日第一回生諸君の悲壮なる決意を承知し、又第二回生諸君も漸く自覚し、その本来の面目に復帰せんとするとの報道に接し、欣快に堪えません。私は諸君が飽く迄今日の心境を保持し、之を益々美化し、善化し、以て所期の目的に邁進せられん事を熱望して止まないものであります。一言胸中の磊塊らいかいを述べて諸君に敬意を表します。

 [以上 16 第121号 1984年(昭59)5月31日]

 

 二度目の正月とその頃

 入植祭が済んで間もなく正月が来た。アマゾンに来て二度目の正月である。

 アマゾンでは正月の様子を思い出すことはタブーだと、去年の正月以来心に云い聞かせて居たのであったが、いざ正月が来てみると何となくソワソワしてジットしてはいられない。

 みんなの中には陸上競技に秀でたスポーツマンも数人いるが、何しろ焼株と焼倒木で、尺寸の広場さえない此処では運動会や競技会などの開催は諦めるより他はなく、結局、無限に広がる湖面に競技場を求めて、水泳大会、カノア競漕をすることになった。

 開始と同時に一同一生懸命に競漕し、競泳したが、所詮は兄弟同士の相撲である。勝っても負けても一向にパットしない。大体、観客のない競技会なんか全く意味のないことをツクヅク知らされた。しらけで始まり、しらけで終った。勝った組のもの、うれしいのか、かなしいのか、無理に笑おうとして顔を歪めて崖を登ってきた。

 カスタニヤ、其の他の植付

 正月が終れば雨期もいよいよ本格的となり、毎日降雨が続く。植付けを開始せねばならない。

 先ず最初に、マナウスより取り寄せた四〇〇本のカスタニャの苗の植付けに取掛った。

 その頃、寄せ焼きがすんだ耕地は、各自の受持ち区が個々に区切られていたが、カスタニャの苗は各自の受持ち区とは関係なく二〇メートル間隔に全区的に測量され、植付け個処が決められていた。

 植付けは、練習生時代に経験ずみであるので、手順よく作業は進んだ。

 このカスタニヤの苗が、根回り3抱え半の巨木に成育し、今日まで残っているのである。

 話は一寸逸れるが、一九八一年十月に高拓生のアマゾン入植五〇年の祭典がパリンチンスで行われた。五〇年の歳月は決して短いものではない。人生の幾山河を越え、頭に霜をいただいた高拓生が全伯から集まって来た。その時、筆者も参集し、このカスタニヤの巨木に五〇年振りに対面したのであった。

 本稿の冒頭の「はしがき」にその時の感慨を述べさせてもらったし、又駄筆を省みず、クドクドと本稿を書き続けているのも、そのキッカケとなったのはこのカスタニエイロであったのである。

 あと書きはこの位にして本筋にもどろう。
 亀井農事部長がサンパウロに退出したので新らしい農法が生れよう筈がない。従って吾々は去年やったと同じ農法を踏襲するより他に方法がない。それがよい農法かどうかなど、知る由もないのであった。

 唯一つ、新らしくここで試作したものにガラナーがある。これは附近の農家、或はマウエヌ方面から買い集めた苗で、五メートル間隔に植えた。これもその後繁殖し、その子孫が現在まで残っている。

 多年性作物の植付けが終れば後は米播きである。来る日も来る日も米播きに明け暮れる日々が続いた。

 模範植民地創設の構想

 第一回生は、ワイクラッパに入植することが究極の目的で入植したわけではない。会社が出来て、アマゾンに大きな新らしい開発の流れが出来た時、その流れに乗って、あらん限りの力を出して開発事業に挺身する、と云うのが日本を出発する時の考えであった。

 そして二ケ年余、現地に住み、開拓の事業に従事したものの、会社が出来ると云う気配は全然ないし、悲観材料ばかりが耳に伝わる今日、この頃であった。ワイクラッパに入植する時、半数の者の所持金は零に等しかった。金を持っている者が出しあって、必要品を分け合って暮していたのであった。そんな生活が永く続こう筈がない。その中、持っている者も、日が経つに伴れ、ダンダン底をついて来たのである。何しろ二ケ年余にわたり、ビタ一文の収入もない生活を余儀なくされて来たのであるから無理もないことだろう。

 こうした窮乏の極にあった彼等は、ヴィラ・アマゾニアの最近の乱脈と無秩序を見せつけられ、且つ会社が仲々出来ないことなどから、研究所そのものの機構を疑い出し、早くアマゾンに見切りをつけ、個人的に進出する道を探そうとする者が二、三現われても不思議では無い。現に米播きの終了した頃から、夜半までカンテラの下で家郷に手紙を書き、旅費送金を依頼しているものを二、三見ることが出来たのである。

 アマゾニア産業研究所の状況は正に危険状態を示している。生え抜きの開拓青年が集まっているというワイクラッパ植民地に於てですら、斯くの如き、アマゾン離れの現象が芽ばえつつあったのである。

 而も第三回生が近くアマゾンに来着することになっている。無垢の三回生を混乱のヴィラの中に投ずることは絶対適当でない。要は第一、第二、第三回生達が「安んじて居処を得る機構」を造らなければならない。

 そうした状況の時に、東京から辻小太郎氏が、家族を伴い、永住の態勢で現地に赴任してくるというニュースがあった。このニュースで、本部の態勢挽回のための腰の入れ方が如何に本気であるかを窺い知ることが出来たし、このニュースを追打ちするように第一、第二、第三回生を収容する模範植民地創設を決定した旨の通知があった。

 何処に植民地を創設するかは、尚お土地調査の結果決定されるが、差当り同植民地の目標、同植民地の社会機構、指導原理、植民地の選定について、又、入植資金について、詳しく説明された本部第十号を少し長文であるが左に掲げたいと思う。但し、どうしたことか、同十号の最後のページが脱落紛失しているが、全体には大した影響がない様なので尻切れトンボのままであることは御諒承願いたい。

 本部第十号
      昭和八年三月十四日
                         財団法人アマゾニア産業研究所
                                       理事長 上塚司
 越知栄 殿
  他 第一回生諸君

 拝復、十二月十五日附、練第六号にて御申越の件、正に了承しました。然るに、昭和八年度以降の事業計画に就ては、昭和七年本部第九六号を以て通達致し置きました通り、新らたに、ジュートを主要産物とするモデル・セッツルメント(Colonia Modelo 模範植民地)を建設し、其処に船着場、学校、病院、製材所、精米所、発電所等諸般の施設を行い、第一回生を中心として、第二回、第三回生と順次入植せしめ、以て世界の植民史上に誇るに足る立派な植民地を作り上げ、一は以て今後に来るべき大衆移民に範を垂れ、他は大和民族による新文明発祥の地たらしめたいと考えております。

 諸君が昨年七月以来、困苦欠乏の間にあって、よく協力一致し、希望岬の一角に、内外人の驚嘆に値する植民地を建設し、大いに其の発展向上に努力しつつあることは、小生の深く敬意を表する処であります。従って諸君の熱汗精進の跡は飽くまで之を尊重し、諸君のママ志を貫徹する事に協力すべきは論を俟たない所でありますが、既に前述の如く、昭和八年度以降の事業計画も決定しましたに就いては、一応小生の意の存する処を披露し、諸君の賛同を得、小異を棄て、一意大業の達成に精進したいと考えます。

 [以上 17 第123号 1984年(昭59)8月1日]


 一、模範植民地の目標について

 模範植民地のみならず、我々のアマゾン進出の目標は我が大和民族に依る新文明の建設であらねばなりません。今日まで我が大和民族が進出したる所は、既に白人其他の民族によって占有せられて居るが、我々は土地の所有権も、生産分配のコント口ールも悉く此等先住民族に関係なく支配し得る新天地に大和民族として初めて先鞭をつけ、大和民族のみの社会を作り、新文化を樹立し、新文明を建設せんとするものであります。

 独逸のフンボルトが叫びし如く、「嘗てユウフラット、ガンジス、ナイルの沿岸に世界文明の発祥したるが如く、廿世紀以後の文明の発祥する所はアマゾン流域なり」との説を是認するならば、アマゾニヤの新文明を建設するものは、我大和民族以外にはないのであります。建国以来二千五百年、我が国民が海外に押し渡って、「大和民族による新文明の建設」というが如き大理想に燃えて大業に精進し得たことは未だ嘗てない事実であって、我等はアマゾン開発の使命のここに存するのを覚る時、実に勇躍を禁じ得ないのであります。

 二、模範植民地の社会機構について

 模範植民地は、当分の間(少くとも茲三ヵ年間)は実業練習所卒業生及びその家族を以って社会構成の主要素となし、之に極めて撰ばれたる少数の一般家族を配して、先ず以って麗わしき、教養あり、気品高き新社会を建設せねばなりません。

 惟うに、現アマゾニア産業研究所の如く、高等の教育を受けた者許りが数十人数百人と集まって、同じ目的のため、同じ植民地に入植し、共同して社会を作り、生活を営んでいるのは、世界の植民地史上未だ嘗て見ざる所であります。従て、我が一団の人々にして、真にその大使命を理解し、努力に怠りなきに於ては、どんな立派な社会をも作り上げ、世界に模範を示すことも出来ます。然しながら万一我々が、此の植民地の構成に当って失敗したならば、それこそ日本人は海外発展の機会を永久に失うに至るでありましょう。此の点より考察すれば、今回のモデル・セッツルメントの成否如何は、帝国の植民政策の上に、重大なる意義を有するものである事を御記憶願います。

 三、模範植民地の指導原理

 模範植民地は、広大無辺の愛を根幹とする隣保扶助、協調協和の大精神を以て指導原理とせねばなりません。

 凡そ、アマゾンの開拓は他地方と異り、各個人が、各自勝手の生活や経営振りをしては絶対に成功の見込みはありません。これは諸君が夙に経験せられている通りです。即ちアマゾンの開拓は、全くの原始林の伐採より始めて、自己の手に依り総べてのものを創業するの大業です。従って、学校や病院を建てるにしても、精米所、製材所、発電所等を設けるにしても、個人々々の力で完成せらるるものではありません。総て協同一致の力を必要とします。今度の模範植民地の諸般の施設でも、之れが創建に当っては研究所でやりますが、之を維持して行くには矢張り協力、協和、融合一致の力を俟たねばなりません。又、例えばジュートの栽培に当っても、之を海外に売り出すに際しては、各自勝手に売り出しても売れるものではありません。全植民地のものを纏めて相当の数量となし、それを荷造りして送り出さねばなりません。既に全植民地のものを一緒にする以上、其の品質も、種類も、皆同一のものでなくてはなりません。若し其の品質、種類が、まちまちになっていては商品的に価値はありません。従って各自が協調一致して、同じ種を択び、同じ方法に依って栽培し、同じ時期に収穫する様にせねば、ジュートを商品化する事は出来ないのであります。之を以て、アマゾンでは特に、入植者相互の緊密なる融和協同が必要とされるのであります。

 昭和五年末より同七年末までの二ヵ年間の経過を顧るに、現地に於ける練習生及び所員は全く唯物主観、個人主義、利己主義的の思想の持ち主によって指導され、其の影響を受けて、現地に於ける研究所の空気は、実に頽廃自棄、惨憺たる有様でありました。而してそこには何等の理想信念なく、雄大なる気魄なく、又感激も創造も無き生活が続きました。幾多の好しからぬ間題が続出したのは、全く之が為めであります。然し此の誤りたる指導原理が、僅々二ヵ年にして清算せられたるは全く天祐でありました。

 惟うに、人生に対する観方には、自分さえよければ他はどうなってもよい、自分の利益栄達のためには他のあらゆるものを犠牲にし、利用しても差し支えないとする極めて個人主義的、利己主義的の観方と、自分の此世に生れた事を感謝し、我を生んだる親に感謝し、育てたる師や社会に感謝し、国家に感謝し、君に感謝し、空気に感謝し、太陽に感謝して、所謂感恩報謝の功徳を積んで、法悦に浸らんとする愛他的、協同的の観方とがあります。而してその何れが善であり、何れが美であり、真であるかは小生の論ずるまでもない所であります。

 殊にアマゾンの社会機構が、絶対に個人主義的、利己主義的社会の出現を許さぬ以上、我々は、飽くまでも、愛という温い麗わしい心情の流露に依る隣保扶助、協調協和の大精神に生きたいと思います。そうして、今日まで繰返した如く、お互いに相反目し嫉視し、中傷し讒誣ざんぶするが如き醜悪の事のない社会を作り度いと念じます。

 四、植民地の選定に就て

 ジュートを以って主要作物とする以上、之が栽培に、最も適する場所を選定せねばなりませぬ。尤も、ジュートの栽培は、ヴァルゼアのみに限らないのであります。印度では、ジュートの大半は、テーラ・フィルメに生産されています。是等は辻君到着と共に村井、太田、越知と諸君会議の上、一番よい場所を選定して貰い度いのです。

 茲に一言第一回生諸君に懇願せねばならぬ事は、諸君が現在入植して居られるワイクラッパ河畔の希望の岬は風光明媚、水清く島青き所で、諸君に取っては実に熱汗の結晶であり、実に何者にも代え難き場所であり、又離れ難き地であります。然るにジュート栽培地がポンタ・ダ・エスペランサ又はその付近に選定せられたならば、何の問題も起りませんが、万一調査会議の結果、ジュート栽培地が他に選定せられた場合には、諸君は全員模範植民地に引越して其の先達となり、中心となって頂き度い。これは甚だ惨酷な言い分でありますが、前述のアマゾンの社会構成の上から見て、どうしても此の場合は小異を棄て、大同に就いて頂き度いのです。

 五、練第六号申出の入植資金について

 昨年、小生が血の出る様な金を工面して送った第一回生入植資金は、粟津前副所長の不信により、一文も諸君の手に入らなかった事は実に残念至極です、諸君は其の代償として三十六コントの入植資金を今年度に於て支給して貰い度いとの希望ですが、既に前段申述べた通り、今年度より模範植民地を建設する事になり、当然総べての事情が異って来た次第でありますから、右に対する諸君の意見を聞いた上で最善の方法をとりたいと思います。尚此の際一言したき事は諸君は飽くまで模範……(以下脱落紛失)

 [以上 18 第124号 1984年(昭59)8月31日]

 

 擱筆のことば

 以上の書翰により上塚所長の模範植民地創設にかける意気込みのほどが充分うかがえると思う。

 昭和八年四月十日、現地所長として辻小太郎氏が家族同伴でアマゾンに着いた。早速、模範植民地創設に関する具体策が提示され、色々と協議が行われたが、何はともあれ土地調査が先決ということになり、辻、太田、越知、御園の一行四名が、約一カ月を費やして、マナウス付近から下流パリンチンス付近まで詳細に調べたが、ジュート試作地と居住地、即ちヴァルゼアとテーラ・フィルメとがうまく連結されている地勢という制限があるため、広いアマゾンではあるが仲々適当な地域が見付からない。結局アンヂラ川の河口地帯が稍々その条件を具備している処から最終的に其処に模範植民地設立を決定したのであった。

 アンヂラ川河口地帯に模範植民地創設が決定されるやワイクラッパに居た第一回生の一団は、大石隆人君一家が同植民地管理と米の収穫のため居残ることになり、一部はヴィラ・アマゾニヤの職員となり、一部はサンパウロに出向き、其他の大部分はなつかしのワイクラッパを後にして筆者と共にアンヂラに向い、第二回生、第三回生の受け入れ作業に忙殺されたのであった。

 その中、ヴィラ・アマゾニヤに居た第二回生の大部分が続々とアンヂラにやって来た。

 昭和八年六月二十四日に第三回生八十四名が現地に着いた。第一回生の様に一ケ年間の練習生生活を経ることもなく、直接入植することとなり、一部はワイクラッパに入植し、大石隆人君に協力し、他の大部分はアンヂラ植民地に入植して来たのであった。

 昭和八年七、八月頃のアンヂラ植民地は、第一回生、第二回生、第三回生等約二百五十人の青年達が、宿泊の設備さえ不充分の処に入植し来り、ゴッタ返しの状態であった。

 筆者は、この模範植民地創設と同時に模範植民地支配人に命ぜられ、苦しい経営を任され、一回生、二回生、三回生相手の苦闘が続けられたばかりでなく、それ以後来植の高拓生の世話をも義務づけられたのであった。

 従って、これから先の事態の推移の記述は「高拓第一回生」という題名では適切でなくなったので、ここらで同題名の記述は打ち切ることにしたい。

 それにしてもアンヂラの後、第一回生はどうなったであろうか? アンヂラから道路中心の高台地植民地に率先入植し、高台地独立農の範を示し、その後ジュート産業が勃興するや、直ちに高台地を棄て、ヴァルゼア地帯に入植し、爾後一生の大半をジュート産業と取組んだのであった。現在、一九八四年十月の調べでは、ジュート産業と取組んだアマゾナス州の第一回生は全部死に絶えて了った。佐藤信市、大石隆人、飯田義平、越知栄のみがパラー州に生き残っている現状である。

 この稿を終るに当り、アマゾンに骨を埋めた第一回生の生前の面影を辿り、そしてその「心」をつたえるであろう遺族達の現状を詳細に調べ、これをシメククリとしてこの稿を擱筆したいと思う。

 而して模範植民地の創業と、それ以後のこと、約半世紀の波乱に満ちた歴史の一面は「回想録」といった様な表題で書き続けたい希望を持っているが、果して実現するかどうか?

 [以上 19 第126号 1984年(昭59)10月31日]