第5章 ナショナリズムの昂揚と日本人移民の排斥(2)

日米開戦前後の日系社会の状況

アジアへの再移住論

1939年(昭和14)2月日本軍が海南島を占領すると、にわかに海南島への再移住論が唱えられるようになった。日本人への排斥が強くなり住みにくくなったブラジルを抜け出し、日本軍が占領したアジアに再移住して、開拓の経験を生かしてリーダーになろうという主張であった。その後も満洲や東南アジアへの再移住がさかんに議論され、帰国熱が盛り上がった。1938年(昭和13)にサンパウロ州北西部のバウルー領事館管内の日本人のうち、85%が帰国を希望していたというデータがあり(輪湖俊午郎『バウルー管内の邦人』)、1939年(昭和14)の帰国者は2,011人と、移住者1,546人を上回った。

邦字紙の廃刊等

世界が戦争へと進んでいくとともに、日本人をとり巻く環境はますます厳しくなっていった。1939年(昭和14)には外国人登録が義務づけられ、1941年(昭和16)8月、邦字紙の発行が禁止され、ポルトガル語が読めない日本人にとって、得られる情報はごく限られたものになった。
同年8月13日にサントス港に入港した「ぶえのすあいれす丸」をもって日本からの移民船も途絶えた。

日米開戦と国交断絶

日米開戦直後の12月9日、ヴァルガス大統領は、「米大陸が日本軍により攻撃を受けたことにかんがみ、米大陸共同防衛の見地からブラジルは米国に対し連帯責任を負う」旨を表明した。これによりそれまで日本に好意的であった枢軸系新聞も反日の論調に転じ、日本人に対するさまざまなデマや悪宣伝が流され、ブラジル人の対日本人感情は悪化の一途をたどった。
翌1942年(昭和17)1月28日、ブラジル政府は枢軸国との国交断絶を通告し、日本の在外公館は閉鎖され、在留民との接触を禁じられた。これ以降在留日本人の権益は、スペイン大使館、スペインの参戦後はスウェーデン公使館が代表することになった。

枢軸国民の自由の制限

そんな中、サンパウロ州保安局は、枢軸国民に対し、自国語文書の配布、国歌の歌唱、公共の場所での自国語の会話や国際情勢についての議論の禁止、私宅内での集合の禁止、移動の自由の制限などを規定した取締令を発した。ブラジル人からの事実無根の密告により、スパイ容疑や取締令違反でのブラジル当局による日本人の拘引、拘禁が相次いだ。
3月11日、枢軸国財産凍結令(Decreto-Lei N. 4.166)が制定され、枢軸国による戦争被害の損害賠償に充当するため枢軸国民の銀行預金や債権の一部の強制的な供託、財産処分の禁止、公法人や在外居住者の財産の没収が行われた。
7月3日、日本外交団らが交換船で日本に引き揚げていった。移民たちは、自分たちが棄民扱いされ、取り残された気持ちになった。

抑留・強制退去

8月18日、アマゾン河口の都市ベレンではドイツの潜水艦によりブラジル客船が撃沈され、多くの死者が出た。これに怒って暴徒化したブラジル人が日独伊の枢軸国民を襲撃した。ベレンの日本人は、着の身着のままで官憲の保護の下に移民収容所に収容された。前述のようにトメアスー(アカラ植民地)が北部ブラジルの枢軸国民の抑留場所となり、アマゾン上流地方の日本人もここに送られた。
9月6日、サンパウロ市内で日本人が多く居住していたコンデ・デ・サルゼーダス街(通称 コンデ街)界隈からの日本人の立退き命令が出された。
翌1943年(昭和18)3月、枢軸国民が警察の許可なく国内旅行をすることを禁ずる命令が発せられた。
7月8日、ドイツの潜水艦がブラジル、アメリカの貨物船5隻を撃沈する事件が起き、同日、防諜上の理由から港湾都市サントス市から日本人を含む枢軸国民への24時間以内の立退き命令が出された。枢軸国民はサンパウロ市の移民収容所に一時的に収容された。
ただし、ブラジルでは、このような強制退去はあったが、ペルーなど他の中南米諸国のように日系人が米国の強制収容所に移送されるということはなかった。
枢軸国民に対するこうした規制や取締は、1945年(昭和20)5月7日のドイツ降伏により緩和、解除されるまで続いた。(ブラジルの日本への参戦はその後の6月6日)

ハッカ生産・養蚕農家への破壊活動

戦争中、日系社会の中では、ハッカ生産や養蚕に携わる日系農家が同じ日系人から襲撃されるという事件が発生した。米国は、戦前日本からハッカと絹を輸入していたが、開戦によりこれが途絶えると、輸入元をブラジルに切り替えた。その結果、価格が高騰し、ハッカ生産や養蚕に携わる日系農家は経済的に潤った。これに対し、日系社会の中でハッカは爆薬に、絹糸はパラシュートにそれぞれ使用されるので、これらの生産は利敵行為だとする言説が流され、1943年(昭和18)頃から「天誅組」、「青年愛国運動」などと名乗る日本人たちが、日系農家がハッカ生産や養蚕に携わるハッカ精製工場や養蚕小屋を焼き討ちする事件がサンパウロ州奥地で発生した。
1944年(昭和19)2月には、これらの「敵性産業」や「非国民的行為」をやめさせ「善導」するため、退役軍人の吉川順治らが興道社を結成した。興道社は1945年(昭和20)5月臣道連盟と改称した。