近衛公の憲法改正草案(『毎日新聞』)

近衛公の憲法改正草案
統治権は万民翼賛
草案内閣に御下渡し 一月中には成案

故近衛公は去る十月十一日内大臣府御用掛を拝命して以来、これを最後の御奉公として憲法改正草案作成に努力を傾け、よき協力者として佐々木惣一博士を得、箱根の山荘に篭ること約卅日の慎重な研鑚の結果、ここに『今囘の敗戦に鑑み帝国将来の進運を図るため帝国憲法を改正する必要あり、解釈、運用のみに俟つは不可なりと認む』との根本方針の下に改正草案の大綱は成り、近衛公は去月廿二日参内して陛下にこの大綱につき奉答、次いで佐々木博士はこれを条文に整理し、新たに地方自治の一章を加へた八章百ヶ条に修正増補して、同月廿四日陛下に拝謁仰付けられ、逐条御進講申上げた
陛下には即日内閣に御下渡しになり、更めて内閣に対し同改正草案を重要な資料として憲法改正を審議せよとの勅命を下されたと承る、憲法改正草案の最も基礎的な精神は天皇統治権は万民翼賛によることを明記し、この点において国体の絶対護持を確立する半面において徹底的民主化を図り、政治はすべて民意に基くべき方向を明かにし、総体としては極めて英国的立憲君主制に接近するものである、即ち天皇の大権事項は能ふ限り制限、一方衆議院の権限を強化すると共に、国務大臣の地位を明確化し、貴族院はその特権的名称を改め、人的構成にも全面的な修正を加へ、更に枢密院は可及的速かに廃止する、緊急勅令は貴衆両院議員による常置審議会(仮称)にかけ国民の自由を尊重し、憲法改正に関しては議会の発議権をも認める、これに関聯して国民投票による方法も考慮すべしとなすものである
この大綱を奉答し、内大臣府御用掛の任を解かれたとき、近衛公の憲法改正に関する重責は終つた、と同時に公の現世的任務も終焉を告げたのである、憲法改正のことは爾来内閣の責任に移り、御下渡しとなつた近衛公奉答の内容を参酌し松本国務相を中心として研究が進められつつあり、一月中には成案を得る運びとなつた

宣戦に議会協賛
"国民の自由"は法律に先行
改正の要点

第一章 天皇

一、天皇は統治権の総攬者であり同時に行使者であるが、その行使は万民の翼賛によることを特に明記する(新条文)
一、衆議院を解散し帝国議会を開会するのは専ら天皇の大権に属してゐるが帝国議会は自ら解散することを得ると共にいつでも開会を奏請することを得る如くする
一、天皇の解散大権は二囘或は三囘と規定し濫りに繰返さぬやうにする
一、緊急勅令は帝国議会に代るべき常置審議会(仮称)を設け、この諮問を経るやうにする
一、委任命令は一定の範囲あることを明記し立法機関を尊重する
一、軍の統帥、組織の大権は専ら帷幄機関の輔佐によりこれを行ひ国務大臣の職務に属してゐなかつたが軍の統帥及び組織も国務であることを特に明記する
一、宣戦、講和、条約締結は時機に投じ敏速を必要とする考へから天皇の大権事項であつたが今次戦争で明らかな如く軍は統帥権の独立を唱へ帷幄上奏により聖明をふさぎ今日の悲運を招いた、この宣戦、講和、条約締結は帝国議会の協賛を経て行ひ民意に諮る
一、その他の大権事項も帝国議会の協賛を経て行ふ

第二章 臣民権利義務

一、現行憲法に規定されてゐる臣民の行動上の自由は法律によつて初めて与へられてゐるやうな感があるが、この印象を払拭し国民の自由は法律に先行するものであることを明らかにする
一、外国人は自由に対し種々の制限を受けてゐるが外国人も本則として日本臣民と同様の取扱ひを受けることを明らかにする
一、非常の場合、国民の権利を停止する所謂非常大権はこれを撤廃する

第三章 帝国議会

一、貴族院の名を廃し組織は衆議院とは異なりたる選挙及びその他の方法により選任し例へば内閣総理大臣、貴衆両院議長、貴衆両院議員若干名を以て推薦母体を作り真に慎重練達の士を選ぶ
一、貴族院の組織も衆議院と同様に法律によつて定む
一、本来帝国議会に諮るべき事項にして議会開会の暇ない場合は緊急勅令を公布し次の議会で承諾を得てゐたが両院議員を以て常置審議会(仮称)を新設しこれに諮る

第四章 国務大臣及び枢密顧問

一、国務大臣は天皇にのみ責任を負うてゐたが帝国議会も国務大臣の責任を問ひ得る如くする(新条文)
一、内閣官制には内閣は国務各大臣を以て組織するとあるが、これを憲法に明記し総理大臣の選任に関しては一定の手続を経ることを明記する(常置審議会に諮る等)(新条文)
一、総理大臣の権限を憲法に明記し他の大臣は天皇に上奏する場合には総理大臣に報告するを要する如くする(新条文)
一、枢密院は廃止するを可とす

第六章 会計

一、皇室経費は増額する場合の外は帝国議会の協賛を必要としなかつたが帝国議会はこれの変更を提議することを得る如くする
一、衆議院の予算先議権を尊重する趣旨の下に貴族院の予算審議権を制限する(新条文)
一、予算不成立の場合は前年度の予算を踏襲することになつてゐるが、これを修正する

第七章 補則

一、憲法改正に関してはその発議の権は至尊にあるが帝国議会も発議することを得しめる、但し改正の手続はこれを慎重に取扱ひこれに関聯し国民投票による方法も考慮する


社説
微温に過ぎる憲法改正案

近衛公がその自決に至るまで皇室の事を憂慮した苦衷はよく判る。しかし皇室の尊厳が、今日までの天皇政治と不可分のものと考へた如き跡は、今囘の公の憲法改正案を見て明かである。いはば同公が上奏した憲法改正案は微温的の一語に尽きる。統治権の条章について何等触れてゐないことはその根本的欠陥である。われらの屡々いふとほり、天皇が統治権を総攬するといふ憲法の条章を存置することは、将来疑義の因となり、或は反動的分子の悪用するところとならぬを保し難いのである。これらの条章は、今日までの憲法、即ち民主政治に非ざる時代のわが憲法においてこそ、その根本理念を表明したものであつた。それは民主主義政治を否定する理念に出発してゐるのである。従つて、この条章を今後の民主主義日本に当てはめて行かうとするのは、抑々無理な努力であることは明かである。
近衛公等は、この改正を草するに当つて、議会の権能を拡大強化することにのみ力を払つてゐる観がある。民主主義政治の実現のためには、議会の権能を強化することが前提要件であると考へるのはよい。しかし、議会といふものは、民主主義政治思想が国民の間に完成した上では強いものであつても、その完成以前の道程においては、殊に軍国主義、右翼思想のあれほどに跋扈した直後のわが日本の議会といふものは、まだ決して強固な思想的地盤の上に立つてゐると考へてはならない。如何に法文の上で立派な権能強化を謳つたところで、それが直ちに議会の本質的強化となつたと考へるわけには行かないのである。現にわが国の軍閥は、今日まで如何に議会に対して憲法違反的抑圧を加へてきたか。議会の法文上与へられた権能も、軍閥が国家国民に強制した誤れる思想の前には、事実上無効に帰したのである。この意味において、われらは制度や条文の力に頼る前に、思想の力をおそれる。しかしてかかる誤れる思想の再興を防止するためには、かかる思想と過去において結びついたところの、しかしてまた将来において結びつき易いところの、統治権の条章を廃し、これに代ふるに、民主主義政治思想を象徴し、またその思想の完成を可能ならしめるやうな条章を以てすることが必要であると確信するのである。それによつて、新憲法と国民の民主政治思想とが時の経過において因となり果となつて相互にその実質的力を培養し合ふことの出来る条章が必要なのである。例へば、民間人で組織する憲法改正調査会がさきに決定した改正案のやうに、天皇は単に『栄誉の淵源として国家最高の地位にあり、国家的儀礼を司る』となし、また『天皇は内外に対し国を代表す』とするのも一案であらう。かやうにしても、天皇に対する国民の信仰は決して減殺されるやうなことはない。
天皇は、かやうにして国の元首として条約等において国を代表する。しかし、天皇は国務を親らせずといふことを憲法において明文化することが必要である。近衛公は、憲法改正を現行憲法の解釈運用によらず成文の上で改正する必要があると上奏してゐる。その趣旨は、成文とすることによつて、将来疑義の起ることを避けようといふのであらう。しかる上は、天皇の憲法上の地位を具体的に明確化すべきであつて、それが天皇に不測の累を及ぼさぬことともなるのである。
総じて近衛公の改正案は、公自身の政治生活の道程において、いつも痛切に感じてゐたに違ひないところの、軍の政治干犯や官僚の委任立法による議会軽視等の弊害を、改正憲法において除去することにのみ急であつて、今日のわが国が文字どほりの革命に際会してゐることを彼は実際に知らなかつたといへる。憲法改正に非ずして新憲法の制定とさへ考へてよいくらゐの今日なのである。政府が、もしこの近衛案を基礎にして立案するつもりならば、決してこの大問題は解決出来ず、従つて、わが日本を正しい民主政治の軌道に乗せることは出来ない。国家百年の大計を誤ることなきを政府に切望する次第である。
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