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名前 |
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通称:登、名:定静、字:伯登・子安、
号:華山のちに崋山、寓絵堂、全楽堂 |
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職業 |
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三河国田原藩士 |
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人物 |
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江戸半蔵門外、田原藩上屋敷裏門脇の長屋で生れた。生計のため画を修め、儒学を佐藤一斎、のち松崎慊堂に学んだ。天保3年(1832)江戸詰年寄役の末席となり、海防を担当した。高野長英(たかのちょうえい 1804〜1850)、小関三英(こせきさんえい 1787〜1839)ら蘭学者と交わり、海外事情を研究した。天保10年(1839)「蠻社の獄(ばんしゃのごく)」に連座し、田原蟄居を命じられたが、天保12年(1841)自刃した。年49歳であった。 |
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画家としての崋山 |
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画家として名高い。西洋画の技法を取り入れ、写実性を高めた。肖像画「鷹見泉石像」は国宝。 |
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蛮社の獄 |
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天保8年(1837)、米国船籍のモリソン号が日本に通商を求めるために来航し、幕府が「外国船打払い令」により砲撃して退去させる「モリソン号事件」が発生した。幕府の強硬論に対し、渡辺崋山は『慎機論(しんきろん)』、高野長英は『戊戌夢物語(ぼじゅつゆめものがたり)』を執筆し、慎重論をとった。蘭学者らと交友し、影響力をもっていた崋山の存在を警戒していた幕府は、これを理由に崋山と長英を処罰した。
「蛮社」とは、崋山らのサークルの呼称。 |