頼母木 たのもぎ 桂吉 けいきち

生没年
慶応3年10月10日 〜 昭和15年2月19日
1867年11月5日 〜 1940年2月19日)
出身地
広島県
職業・身分
政治家 実業家
別称
喜陽

解説

旧姓井上。後に頼母木源吉の養子となる。第一高等中学校卒業後、アメリカに留学。帰国後、報知新聞社に入社。明治39(1906)年に欧米を視察し、新聞事業を研究。帰国後、41年日本初の新聞代理業「ジャパンプレスエイジェンシ―」を創立し、以後東京毎日新聞社、帝国通信社などの社長を歴任。一方、東京市議を経て、大正4(1915)年衆議院議員に当選。憲政会政務調査会長・幹事長、立憲民政党筆頭総務を経て、加藤高明及び第1次若槻内閣で逓信政務次官に就任。昭和11(1936)年広田内閣では逓相を務めた。13年報知新聞社社長、14年に東京市長となるが在任中に病死。

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頼母木 たのもぎ 桂吉 けいきち

頼母木桂吉の肖像
  • 頼母木桂吉の肖像1枚目
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