秋山 あきやま 定輔 さだすけ

生没年
慶応4年7月7日 〜 昭和25年1月19日
1868年8月24日 〜 1950年1月19日)
出身地
岡山県
職業・身分
政治家 実業家
別称
秋山定輔(あきやま ていすけ)

解説

明治23(1890)年、帝国大学を卒業後、会計検査院の検査官試補、26(1893)年に大石正巳・稲垣満次郎を顧問として『二六新報』を創刊したが、経営難のため休刊となり、33(1900)年再刊、大衆的新聞となる。35(1905)年に衆議院議員となったが、37(1904)年に桂太郎内閣から日露戦争の際ロシアの嫌疑をうけ辞職(露探事件)。ポーツマス講和に対し『二六新報』は政府を攻撃する硬派の先頭に立った。大正政変に際しては桂内閣を支持した。

関連資料

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秋山 あきやま 定輔 さだすけ

秋山定輔の肖像
  • 秋山定輔の肖像1枚目
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