国立国会図書館憲政資料室 日記の世界

ロンドン海軍軍縮条約の締結とラジオ
――二人の日記と「雑音」

コラム

あるラジオを聞いた人

昭和5年10月27日条 「又新日録」【熊谷八十三関係文書49】 の画像
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夜半軍縮協約批准記念放送ヲ聞ク
濱口首相か十一時五十分カラ十分
米国大統領フーバーが十分ノ豫定が五分弱デ済ム
續イテ英国首相マクドナルドガ又少々早ク済ミ
續イテ松平恒雄大使が倫敦デ濱口首相演説ノ英訳、
其前後ニ日本陸軍戸山学校軍楽隊ノ行進曲国歌及君が代放送アリ
十二時半ニハ終了東京放送局デハ米英両国ノ演説ノ翻訳ヲ放送
米ハ能ク聞コエル 英ハ稍劣ル

昭和5年10月27日条 「又新日録」【熊谷八十三関係文書49】

昭和5(1930)年10月27日の真夜中、ロンドン海軍軍縮条約批准記念のラジオ放送の内容を記した日記です。

深夜の特別番組を聞いていた熊谷八十三

このラジオ番組の主役は、浜口雄幸(首相)、ハーバート・フーヴァー(米国大統領, Herbert Clark Hoover)、ラムゼイ・マクドナルド(英国首相, James Ramsay MacDonald)の3人です。夜中の23時50分から0時30分という、当時としては変則的な時間の特別放送です。

深夜に聞いているにしては、日記の記載は極めて克明です。この日記を書いたのは、ときの元老・西園寺公望の秘書的な役割を果たしていた熊谷八十三(くまがいやそぞう)であり、それだけに熱心にラジオを聴いていたように思われます。

雑音の差

熊谷八十三の日記には、「米ハ能ク聞コエル 英ハ稍劣ル」とあります。

主役の一人である浜口が愛宕山の日本放送協会で聞いた際にも、やはり海外からの放送部分の雑音について日記にしたためています。

「まずまず成功」との手ごたえ

本人の日記によると、浜口雄幸は、10月27日23時10分に官邸を出て、23時50分から8分間の自分の放送を終え、床に就いたのは深夜1時過ぎでした(「凡テヲ終了シタルハ十二時三十分ヲ過テ、就寝一時ヲ過グ」)。浜口の日記には「先ヅ先ヅ成功」と満足気な感想が綴られました。翌日の日記によると、次の日は、定例閣議に参加しました。

昭和5年10月27日条 「日記」【浜口雄幸関係文書3】の画像
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外国ヨリノハ雑音多ク、余リ明瞭ニハ聞キ取レ難カリシモ、始メテノ試ミトシテハ先ヅ先ヅ成功ト云フヘシ。

昭和5年10月27日条 「日記」【浜口雄幸関係文書3】

ラジオ放送史上の画期

ロンドン海軍軍縮条約の締結は、ラジオ放送史上、重要な画期となりました。

第一に、日本初の国際ラジオ中継の素材となりました。ロンドン海軍軍縮会議に首席全権として出席した若槻礼次郎の昭和5(1930)年1月の放送がその最初です。

第二に、東京、ワシントン、ロンドンを結ぶ国際交換放送の先駆けとなったのもこの昭和5年10月27日の演説でした。条約の批准書が寄託されたことを記念する放送です。

「軍縮記念の国際放送 今夜十一時二十分より」『読売新聞』第19280号 昭和5(1930)年10月27日 第4面「ラヂオ版」の画像
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軍縮記念の国際放送
 今夜十一時二十分より
  世界の隅々まで送られる平和の電波に聴く
   日英米三国首相の軍縮演説
プログラム 
◇後11:20 吹奏楽 陸軍戸山学校軍楽隊
◇11:50 演説 日本 内閣総理大臣 浜口雄幸氏
 米国 大統領 ハーバートフーバー氏
 英国 総理大臣 ラムゼー・マクドナルド氏
 駐英大使 松平恒雄氏
◇午前0:35 吹奏楽 陸軍戸山学校軍楽隊
 指揮楽長 辻順治
 ▲英国々歌、▲米国々歌、▲君ヶ代
◇米英両代表の演説翻訳紹介

「軍縮記念の国際放送 今夜十一時二十分より」『読売新聞』第19280号 昭和5(1930)年10月27日 第4面「ラヂオ版」

東京駅での遭難

浜口は、10月27日の日記で「自分ハ今夜ノ放送ヲ以テ一ト先ツ海軍々縮問題ノ結論ヲ着ケタリ。」と記しました。放送をもって軍縮問題に一区切りを付けえたという一定の満足感が読みとれます。

しかし、軍縮問題も一因となって政情は混乱をたどっていきます。

昭和5(1930)年11月14日、陸軍特別大演習に向かった浜口は東京駅にて銃撃され、日記の記載も(入院につき)いったん途絶えました。

12月28日には「始メテ寝台ヨリ下リテ歩行ヲ試ム」と、浜口が歩行練習を開始したことが分かります。無理をおして、昭和6(1931)年3月10日、登院した浜口は衆議院本会議と貴族院予算委員会に出席しましたが、浜口には統帥権干犯の批判も寄せられました。

しかし体調の悪化により3月28日の閉院式には出席できず、「此頃体力ノ衰弱其極ニ達ス、其原因不明」との同日の記載も体調の悪化を伺わせます。腸の癒着を防ぐ手術も行いましたが、病状は回復せず、4月13日に浜口内閣は総辞職します。6月28日の「退院、久世山ノ自邸ニ入ル」が浜口日記の最後の記述となりました(8月26日永眠)。

参考文献

  • 今井清一『濱口雄幸伝 上巻』朔北社, 2013【GK178-L90】
  • 今井清一『濱口雄幸伝 下巻』朔北社, 2013【GK178-L91】
  • 池井優[ほか]編『浜口雄幸日記・随感録』みすず書房, 1991【GK47-E24】
  • 『読売新聞』第19280号 昭和5(1930)年10月27日 読売新聞社【YB-41】