史料にみる日本の近代 -開国から戦後政治までの軌跡-

[日記 有馬頼寧]

[日記 有馬頼寧]

※ 展示史料は3年連用の日記帳であるため、昭和15年6月3日・4日の記述を中心に、参考として同頁記載の昭和13年および14年6月3日・4日の記述もテキスト化しました。



【下段】

皇紀二六〇〇年 昭和十五年 〔六月三日〕 月曜 天候 晴
雨が充分に降らぬため水道の水なく随分困難の模様。文化生活といふものも随分不自由なものと思ふ。
午前風見氏見えいろいろ相談。明朝近衛公に二人して面会することとす。
午後中央会に行く。周東部長より共済会の件につき相談あり。それより来客多し。新聞記者、山浦氏、板垣氏、産青聯の人々面会。新党問題について相談。夕五時半迄たてつづけであつた。夕帰宅。夜永井柳太郎氏来訪。近衛氏と軍部の事につき注意あり。

皇紀二六〇〇年 昭和十五年 〔六月四日〕 火曜 天候 晴
午前九時に風見と近衛邸にて談合。公の意思も大体定つた様に思はれたので此後の事について意見の交換をし、十時半辞去。中央会に行く。新聞社の人々に押しかけられた。午後は中央亭で警保局の人々と懇談。五時再び中央会に戻り、矢次氏と一時間程話す。しつかりした人物と思ふが、軍の事は自分だけが知つて居るといふ様な態度は少しいやだ。夕刊に大きく出たから近衛公も少々閉口して居られるかもしれぬが、びくびくせずに、やるなら明朗に進めたい。


【参考:上段・中段】

皇紀二五九八年 昭和十三年 〔六月三日〕 金曜 天候 晴
昨日や一昨日の暑さに比べて今日は初秋を思はせる様なよい天気であつた。昨夜の雨の為めであらう。
十時首相官邸の閣議に出席。別に何もなく、ニユースを見て官邸に戻り、午後は石黒さんと相当長く話をし、会館に行つて理髪をする。
六時姉上様と官邸にて御面会の後神田駅にて福田に会ひ、ドライブして千葉県の船橋の先きの海岸に行き、帰途茂升にて夕食。福田のところにより十二時帰宅。

皇紀二五九八年 昭和十三年 〔六月四日〕 土曜 天候 晴
午前十時官邸に行き午前中台湾の米の問題に関し米穀局長等の話をきき、正午首相官邸に行き新旧大臣集りて組閣一周年の記念会を開く。
午後は早慶戦の野球の放送をきき乍ら官邸にて休養。
夕五時半水交社に行き水難救済会の伏見宮の御招待に参列。
八時過ぎ帰宅。改造の原稿を書かねばならぬ。思つたが筆進まず、どうしたらよいかと心配。

皇紀二五九九年 昭和十四年 〔六月三日〕 土曜 天候 晴
午前十一時近く出勤。二時近くに退所、後楽園に行く。新人東西戦は東軍のP駄目で大敗す。松村はどうもコントロールがない。野口が出てやつと喰ひ止めたが、已に遅い。全日本東西対決は東軍の勝利となつた。ピツクアツプチームといふものは何となく気乗りがせぬ。選手自身にそれがあるので見物にも反応いして面白くない。何とか工風を要する。
夕、雷門水月の信愛会に出席し、十時近く帰宅。久し振りに神経痛ひどし。

皇紀二五九九年 昭和十四年 〔六月四日〕 日曜 天候 晴
昨夜は一晩中神経痛に悩まされ、一睡も出来ず、午前四時に喜多さんに来てもらつて注射をし、それから二時間程眠つた。起きたら工合がよかつたので、午後は百子と神宮球場に行く。早慶二回戦、早大は全力をあげて戦ひ、やつと勝ち、明日に決勝を持ち越す。満員以上である。オツト大使も来て居た。
帰途四谷により六時帰宅。頼義より電話で、東京に帰つたが二、三日帰らぬとの事。困つた人だ。
Copyright © 2006-2010 National Diet Library. All Rights Reserved.