史料にみる日本の近代 -開国から戦後政治までの軌跡-

政治日誌 壱巻

政治日誌 壱巻

※ 大正7年9月8日~17日の部分のみテキスト化しました。
※ 欄外の朱字による見出しはテキスト化していません。



【1コマ(6行目)~5コマ】

九月八日 予は午前七時山県公を古稀庵に訪ふ。時候の挨拶終り、
公は予に君、寺内は愈〃罷めるといふ事に極まつたかどうだと意外の問を発せられ、予は寺内伯と公との間に聯絡の欠如せるに心窃に驚きたり。依て予は本月四日原氏が寺内伯に面会されたる為め辞意を洩したるものの如く世間で言ひ触らすけれども、閣臣は更に何等承知せざるものの如く一向分らぬと申し答へたり。山公はいや寺内は辞するであろう、之は既に聞き及んだ、併し頗る秘密ゆへ洩さぬが宜しいと言はる。後≪あと≫はどうなるもので御座りませうかと聞いたら、公は余程面倒であろうが、曽て君にも言ふた通り政権の受授は円満でなけれはならぬ、而して出来上つた内閣は永く続かせるという事でなければならぬから、矢張挙国一致内閣が宜いに相違はないが、其人の無いのに困つたものだと言はる。予は仰せ御尤の次第なり、西園寺侯こそ可然と思ふと申したるに、公は西園寺侯は余程六ヶ敷いと思ふ、本年五六月の交、月日は記憶せぬが、西園寺侯が上京せられしを幸ひ、自分は侯に向ひ寺内の今日あることを承知して居つたから、殆んど激論的に侯の起つへきことを勧告した。其時に侯は自分は病気で迚も遣れぬと言はるるから、御病気と言はるるは(此時公は右の人指し指を以て卓を叩かれたり。公は談論熱して佳境に入る時は、指にて卓を叩くの習癖あり)何の誰の博士の不治の症といふ診断があるかと問へば、それは無い、激職に就けば三日寝て二日起きるといふ有様であるから、迚も駄目だと言はるる、仍て政務は寝て居ても見られる、私は此の歳になつて矢張り枢密院議長を持ち。事有るの日は奔走して居る、あなたは私より歳は若ひじやないか、又私は新平民ではないが(叩く)、つまらぬ士族より身を起して今日の栄職を辱うして居るが、申す迠もなく之は先帝陛下、今上陛下の賜物である。あなたは系図正しき公卿ではないか、皇室の藩屏国家の重鎮たることは申さずとも分つて居る訳である、故に三日寝て二日出られる位の病気ならば(叩く)、御受けなさるることは当然であると激論的に詰めれば、西園寺侯は返す言葉に窮され、先年違勅問題の起つてより、恐懼の余り今日にても宮内省を大手を振つて歩く事すら気が咎めて出来ぬ、それ故御断り申すと言はるる故、それは(叩く)有栖川宮様を経て先年忘れたといふ有り難き御諚を戴かれたではないか(叩く)と言へば、もう詰まつて何も答へられない。結局枢密院位ならば御受けしても宜しいと言はれ、遂に不得要領で分れた。其後西園寺侯は伊香保に行かれた、己≪おら≫は小田原に来た、斯くて止むへき事柄でないから、小田原より書面を認め、其当時度≪はか≫つては見なかつたが二間半か三間もある長ひ手紙を送つた。其郵便は何んとか云ふ受取の取れる、確かに届く郵便で送つた。其郵便の受取は来たが、侯よりは何等返事が無い。故に又々催促状を出したが、本月五日閣下の御説諭は御尤も千万、之に答ふる道がない、けれども遣れないと云ふ返事が来たから、之は六ヶ敷いだろう(叩く)と言はれたり。そこで予は然らば新聞に伝ふる候補者のようでありますが、平田子は如何であるかと問へば、断じて遣らぬと答へらる。依て伊東子は如何で御坐りましようかと問へば、それは君能く知つて居るぢやないか、彼≪あ≫れは誠意がない、組織が六ヶ敷い、彼≪あれ≫では駄目だと言はる。然らは清浦さんではどうで御座りますかと問へば、さうさ、清浦は先年失敗≪しくじつ≫た事はあるが、世間では同情を表して居る人もあるらしいから宜いかも知れぬが、組織が六ヶ敷かろう、寺内が本年の議会の済んだ所で頭≪あたま≫を換へて改造でもすると云ふ事ならそれでもよかろうが、今日となつては迚も駄目であろうと思ふと言はる。予は又然らば原総裁は如何で御座りましようかと問へば、可否何等答へずして両眼を瞑≪つぶ≫されたり。予は其一瞬間に電光石火の如く脳天に反応せる感覚は、却つて露骨なる答へよりも更に極印付きの断案を下し、山県公意中の人は原氏なりと確乎たる決定を與へたり。
午前十時半に上枢密院書記官長来れりと取次の者より公に報したり。予は此機に乗して切り上け時と思ひ、暇を告けんとしたるに、公は、まあ待てと言はれ、大浦氏身辺の事と中立取纏めの事を話さる。其時又取次の者入り来り下岡忠治氏の来訪を報し、下岡さんは今日は電話もかけず突然御伺ひを致しましたが、御都合にて午後に伺うてもよいと申されますが如何致しませうかと申せしに、公は下岡には此方≪こちら≫は用は無い、さう突然出て来ては困る、午後の三時頃でも出直して来て見るがよいと言へと命ぜらる。取次の者退席すれは公は口を開かれ、下岡は韓退之の出来損≪そこな≫ひ見たやうな書面を己≪おら≫に送り置きながら、寺内内閣が悪るいとて又々元老などに憐みを乞ふやうな不様≪ぶざま≫なことをしてはいかぬ、それ故過日人をして彼に忠告せしめ置いたと言はれたり。
十一時に暇を告けたるに、午餐を勧められたれども、予は之を辞して帰れり。此の日午後一時半、安広枢府顧問官予の宅に来訪され、内閣更迭問題、外交問題等を話さる。山県公の説と大同小異なるを以て略す。
九月十一日 予は原氏を腰越の邸に訪ひ、九月八日山県公を古稀庵に訪ひたる時の対話を洩なく原氏に伝ふ。原氏何等答へず、只だ今回は非常に紛擾を醸すことと思ふ、君の言ふやうに、そう旨≪うま≫くは行かぬものと思ふと言はれたり。原氏に会見約二時間にして分れを告ぐ。其時予は原氏に対し、予は帰途大浦氏を鎌倉に訪ふ積りであると申せしに、原氏は大浦君の話は参考の為め自分に移して呉れと申されたり。予は原氏の許を辞するに際し、意見書一封を氏の座側に置き、予の帰りし後にて緩々見て下さいと申述へたり。

【6コマ~10コマ】

同日夕刻六時半、大浦氏を鎌倉に訪ふ。大浦氏訪問のことは既に約束し置きたるが故にや、氏は既に食事をも済まされ予を待受けられたるものと見えたり。予は本日罷出たのは、当時政界に遠さかつて居らるる閣下のことであるから、斯様の事を申しては御迷惑かも知らぬが、御承知の如く山県公は非常に御心配ゆへ、閣下の御好きの道なれば閣下に良い智慧があるかも知れぬ、それ故また山県公の為めになることもあるならんと考へ、態々御尋ね申しました。愈〃近き内に寺内伯は辞表を出さるる事と考へます、而して西園寺侯はどうしても受けられないと云ふことを確かに聞及ひ居りますが(九月八日山県公に面謁せし時の公の話は、更に之を大浦氏に語らず。予は人の悪いようであるが、大浦氏が政治上に関する思想が最早古びて役に立たぬか、又は健全なる新らしき思想を蓄へ居るか如何を試むる為め故、さらに山公との対話の始末を語らざりしものなり)、どう云ふもので御座りましようかと問ひたり。氏は言下に、西園寺侯の出らるることは最も望む所であるが、事実として現はるることは六ヶ敷かろう、実は過日来平田も清浦も訪問して呉れられて色々研究して見たと話され、更に話頭一転、今回は原を以て最も適任者であると思ふと言はれたるより、予は一驚を喫し、原氏は此の大局を引受けて遣ることは迚も出来難いことと思はれますがと言へば、大浦氏は座り直り、そうではない、時世の推移と四囲の事情やら、寺内伯の意中を考へて見ても、原氏を擱て他適任者は無いと思ふ、他より聞くに、近頃は原氏の動作は郡制案時代の原とは違ひ、頗る錬磨の功を積んだ趣である、原にして起つとすれは、山県公は必ず援助を與ふるであろう、只寺内伯に大命の降つた当時、加藤子を黜けたる関係もあれば、原氏を推薦する方法に就き、山県公は非常なる苦心を要さるることであろうと言はれたるには、予は大浦氏の明晰なる頭脳能く時運を領解して、耄≪ぼ≫けて居る所ではない、益其老熟なるに感服したり。予は更に然らば将来は政党内閣のみにて行く御考へかと問へば、氏はそうは行かぬ、極秘密の話で憲政会の人々には斯様な事は言へぬが、仮りに原内閣か出来ると其次には憲政会に行くものと思ふたら大間違である、寺内伯が挙国一致内閣を遣るに付て原同様に加藤にも渡りをつけ、外交調査会へ加藤を入れようとしたが、之には寺内伯の遣り方が下手≪へた≫であつたかも知れないが、其当時加藤か拒絶したのは、抑も憲政会の遣り損ないである、そこで一旦原内閣が出来て不幸にもそれが仆れる時に、直に加藤へは持つて行かぬ、矢張り中間内閣即ち貴族院を中堅とする内閣を造らねばならぬ、其の次き位からが政党内閣をぽつぽつ遣るようになるであろう、何れ貴族院の改革なども叫はれるであろうし、向う三四年以内には政治上に大変革が来るであろうと思ふ、之は極秘密にして置て呉れ、田男は立派な人であるから隨分軀を大切にして、将来貴族院の為めに尽力して貰はねばならぬ。之も自分の考へだけを言ふのである。君の知つて居る通り、山県公は何等の野心なく一意専念国家を思うて忘れす、世間よりは進んてこそ行け、後れては居らぬ。既に昨年の選挙に際し君の知つて居る通り第三党樹立の政党論を草して居たではないか。自分は隠居の当時憲政の会を脱党したるゆへ、今日としては何等憲政会に関係なく、又政友会にも関係のあろう道理がないが、只恩を受けたる山県公の事を思ふはかりである。対話約二時間に亙り、辞して帰途に就く。同夜鎌倉よりの帰途汽車中、大船駅にて鮨と弁当を併食したる為めにや膓胃を害し、発熱を感し、帰京後病床に臥したり。
九月十二日 予は清浦氏を大森に訪ふ。最初の間、子は何等野心なきものの如くに話され、夫れより仝子は過日来伊藤巳代治子を推さんと奔走したが、世間一般に同情者が無いで困つたものだと思ふた、尚ほ山県公にも大浦氏にも行つて見たが、中々賛成しそうにもないと言はれたるを以て、予は八日に山県公を尋ねたる顛末中の原氏に関する事と原氏に面談したる事だけを除きて具さに話せしに、子は稍〃心動きたるものの如くに認め、尚再会を約して別れたり。
当日横田千之助氏は大臣官舎へ予を訪問されたるを以て、氏に大浦氏の談話の概要を原総裁に伝へられんことを予に托したり。
九月十四日 夕刻七時発大阪に行く。汽車中、安川敬一郎、山岡順太郎、今井嘉幸等の諸氏と寝室を同うす。談は内閣更迭に及ひ、後継者の誰なるやを評し、安川氏の発言にて西園寺内内閣なるべしと決定す。是は山県公が安川氏に今度は西園寺侯が遣るだろうと言はれたから、それに間違はなかろうと云ふのであつた。予は山県公としては何程えらい実業家でも実業家は実業家であるから、単に普通一篇のことを話されたに止まつたものであろうと思ふた。
九月十六日 午前八時最急行列車にて大阪を発し帰途に就く。大垣駅にて江木翼氏乗車し、室を同ふす。氏は寺内内閣の失政を攻撃し、純理論を縦横に振り廻はして、大命は当然加藤子に降下すへきものであると局を結ふ。
沼津駅にて東京の新聞紙を見るに、明十七日山県公は小田原を発し入京せらるへき記事あり。依て予は国府津駅にて下車し、自宅黄樹庵に入り、直に電話を以て老公に面謁を求めしに、公は明日入京の予定なるか故に、明朝早く来るへしとの返話あり。
九月十七日 午前七時、山県公を古稀庵に訪ふ。取次の人より公は本日入京の予定であるから短時間の話に止め置かれたしと言はれ、予は之を領承す。
予は先つ京阪地方へ旅行したることを述へ、汽車中に於ける安川氏の話をなせしに、公はさうか安川はもう帰つたか、先日己≪おら≫の所へ来たから西園寺侯であろうと言ふたに違ひないと言はれたり。予は汽車中新聞で本日御入京

【11コマ~15コマ(7行目)】

のことを承知しましたが、御入京後は定めて御多忙と存し、今朝拝謁を願ひましたと申せしに、公は先日君に二十日後に出京すると言ふたが、実は此十四日に、児玉の代じやと言ふて米村副官がきて、寺内が十八九両日の間に伺ひたいが都合がどうてあろうとの事であつたから、寺内は忙がしい躯ゆへ、態々来るに及ばぬ、十七日には己≪おら≫が東京へ行くと答へ、新聞がうるさいから極く密かに十六日に米村副官に、貴様自動車に乗つて東京より小田原迠どれ程の時間がかかるか験≪ため≫して来いと言ひ付けた。其時米村が云ふに、松方侯は十六日御帰京、西園寺侯は二十日頃御帰京で、之は何れも寺内伯より両侯に交渉されて、両侯よりの返事であると申したと言はれたり。予は西園寺侯が愈御受けになりますかと問ひしに、公はそれは過日話した通り、己≪おら≫は六ヶ敷いと思ふ。そこに(風呂敷包みを指して)在る通り、西園寺侯からは断りが来て居る。松方侯の考へは遣りようによつては西園寺侯が受けらるるかも知れぬと思はれて居るようである。今日か明日には松方侯が極秘密に牧野を西園寺侯へ使に遣る筈だから、己≪おら≫が入京して見なけれは分らないが、西園寺侯の受けらるるといふことは先つ六ヶ敷かろうと言はるるに依り、予は予て閣下の仰せの如く政権の授受は円満でなくてはならぬ。而して其産れた内閣は永く続かなければならぬ事であるが、西園寺侯ならば円満に政権の授受は出来るであろう、なれども政治に粘り気の無い不熱心の西園寺さんが此の次の議会なぞで八釜敷なつたからとて直に投出さるるような事があるかも知れぬ、そうなれば大変ではありませぬかと問ひたるに、公は其通り(叩く)と言はれたり。予は本月八日、公の意中を窺ひたるに、伊東子は駄目、清浦子も駄目、平田子も駄目、原氏に及ひたる時瞑目して答へなかりしを以て、今日は更に再ひ其事を問ひたるに、公はそうさ原でも宜かろうと言はれたり。予は此時公に決心の力を副へんが為め、実は本月十一日大浦氏を訪ひ、氏の意見を求めたるに、氏は今回は原なりと答へられたり、実に大浦氏の眼力は確かなもので御座ります、と申せしに、公は、君、大浦がそう言ふたか、大浦といふ者は実に惜しい事である、寺内内閣に大浦が居たならはこういう不様にはならなかつたであろうと言はれたり。
談は次第に佳境に入り、政治問題に移り、時間の経過するに心付かず、ふと時計を見れは九時半なるを以て辞して帰れり。直に東京の芝六十八番原邸へ電話を以て総裁の在否を問ふ。其答へに、閣下は本日午前九時半発の汽車にて腰越に参られたりと云へり。依て予は午餐を喫し、十二時の汽車にて腰越に向ふ。汽車大磯駅に停りし時、元田総務、窓外より一等車内を覗かる。既に発車するに、乗車せられたる模様なし。少時にして二等室より総務現はれ出て同室せらる。君なら宜かつた、実は今日山県公入京と聞き、汽車中で同車すると面倒で、新聞記者に彼是思はれるかと考へたが、誰か一人乗て居るから、避けて二等車に乗つたが、君だから這入つて来たと言はる。汽車藤沢駅に著する前に、予は是より腰越の総裁を訪ふ筈てあると言ひしに、総務は、君、原君に会つたら、おれは東京に帰つたと宜敷と言ふて呉れと言はれたり。
午後一時半、腰越の原邸に着す。来客更に無し。予は先つ口を開き、過日来種々なる事を申上るが、予は何等野心なく、又田男の為め、閣下に対して何等の求むる所なし。予は昨年の選挙以来の事もあれは、政友会員同様の心得を以て申上る、と申したるに、原氏は、君の事は能く了解し、今回の君の骨折は感謝す、と申されたり。依て予は山県公と閣下の間は充分了解もつき居る次第なれは、愈々今回は閣下に大命の下るへきこと請合なり。去る十一日に申上たる通り、確かに間違いなしと言ひしに、原氏は、うん自分の立場は伊東子、平田子、清浦子とは違ふて、政党の首領であるから、若しも大命が下るとすれは拝辞する訳には行かす、必す拝受せねばならぬ。又準備が無いとか、大臣に列すへき人が乏しいとか、普通の人が言ふような簡単な訳には行くまい。今回は余程紛擾を醸すであろうと言はるるにより、予は、決して然らず。西園寺侯は如何にしても御受け無いものとみとめられます。公の意中では、閣下の外に其人が無いと思ひます。ただ閣下を奏薦さるる形式が如何にすれは宜いかが問題になるのみであると考へられます。既に山県公の意中も決定したに相違なしと、今朝公を訪せし時の対談を詳細に語りしに、原氏は黙して答ふる所なし。少時を経て、ただ山県公と西園寺侯との交渉顛末は少しく聞いて居たが、君によつて精しき話を聞たのは感謝の外はないと言はる。尚予は去る十一日に貴邸よりの帰途に大浦氏を訪ふて面談したる概要を横田氏に語つて、横田氏より其概要を閣下に申上けたる筈であるが、大浦氏のぼけて居らぬには驚き入つた次第で、其事を山県公にも申上たが、公も首肯されました、と大浦氏の談話を述へたるに、原氏は君、大浦は惜しき男であると言はれたり。
午後四時辞して帰京の途に就く。
此の夜、横田氏来る。以上の顛末を同氏に報し、猶、野田卯太郎、村野常右衛門の両氏へ横田氏より通告され度き旨を依賴せり。
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