史料にみる日本の近代 -開国から戦後政治までの軌跡-

桂太郎自伝参 [北清事変記述部分]

桂太郎自伝参 [北清事変記述部分]



【1コマ(17行目)~5コマ】

明治三十三年の二三月頃より、清国山東省に団匪の起こりたるあり。彼等は排外思想を有する所の種類の嘯集せる者なりといへり。爾後団匪は何れの処に散乱せしか、将た潜匿したりや人の注意を惹起すにも至らずして、散乱したるが如き姿なりき。然るに五月中旬に及び、直隷省内に団匪蜂起し、稍や猖獗の模様ありて、清廷并に清国政府の内にも、之に連絡を通ずる者ありといふ如き諜報あり。然るときは曩に山東省に起りし者と同一種類なるべしと想像せしが、後果して其然るを知れり。五月下旬に及びて、其勢ひ漸く激烈を加へ、既に北京駐箚列国公使等も、警戒する所あり。各其本国の艦隊を太沽付近に招集する状況となれり。茲に於て我が政府に於ても、亦之に処するの方法を講ぜざるべからず。然れども其事態未だ判然たらざるを以て、先づ海軍に命じて軍艦を太沽に向け派遣せしめたり。且事小変動に止らざるべきが如き状況あれば、徐ろに其準備にも着手せり。然るに我は陸軍大臣として考量せし所は、今回の匪徒は直隷即ち京畿に起りしものにて、殊に排外思想を有する輩なるのみならず、宮中府中ともに之と関繫する者尠なからずといへば、容易ならざる動乱となるべし、果して然らば列国との間に意思の疎通を謀るの必要を来し、事甚だ艱渋ならん、而して之に処するには、為し得らるるたけは動き易きものを以てせざれば、変化に応ずること能はず、此れが為には、為し得らるるたけは海軍を以てし、陸軍を出すは不得策なれば、成るべく之を避けざるべからず。斯く思考したるを以て、海軍大臣に謀り、海陸方針を一にし、まづ海軍にてこの変に応じ、其甚だ容易ならざる時に及ばざれば、陸軍を出さざるべしとの考案を以て協議したり。延て六月二十日前後に至り、形勢益す穏かならず。北京に於ては彼の有名なる董福祥といへる統領が兵を率ゐて入京す。是即ち既に宮中にも政府にも連絡を通じ、排外思想の鋒芒を現はしたる徴候にて、或はその排外思想は純粋のものなるか、又は扶清滅洋を辞柄として、其実権勢争奪の意に出でたるかは、後に至りて多少の判断を要すべきものなれば、此事に就て我は茲に論定することをなさざるべし。
北京天津の間は益す穏かならざるを以て、各国公使は自衛の策として、各々その自国の海軍に通じ、護衛兵を北京に誘致する手段を取れり。清国にては太沽砲台その他天津等にも兵を集合し、又警備を厳にし、今にも戦端を発かん形勢を示し、六月下旬に至りて、列国は太沽を砲撃し、初めて清国と開戦せり。然れどもこの戦ひは清国政府と戦ひしか、将た団匪を伐つものか、古来に例無き一種の戦ひなりし。何となれば清国政府は決して表面列国と交際を絶ちたるに非ず。而して清国政府の力は、団匪を制馭するに足らざる有様なり。又他の一方には宮中府中にも団匪と声息を通ずる者あり。歴史上未だ見ざる所の現況を以て、兎に角開戦するに及びたり。列国も亦清国に対して宣戦を布告したるに非ず。我を妨ぐる者を正当に防禦したるが、太沽の砲撃となり、引続きて天津に至るまでの戦闘となり、又天津より北進したる列国の水兵は、多く中途に於て進路を遮断せられたる有様なり。
此時に際し我は陸軍大臣の職務として、如何なる思考如何なる決心を以て、此の事局に当るの議に参与したるかは、則ち左の如くなりし。今回期せずして同盟を形ち造りたるは、最初は英米独日仏なりしが、斯く数箇国の連合軍が世界に成立したる事は、歴史ありてより未だ嘗て覩ざる所のものなり。而して日本が此の同盟に加はるといふ事も、亦初めての事に属す。欧洲列国と我が日本とは、人種も同じからず。殊に自国の治外法権すら漸く撤去し得たる如き有様にて、今此の同盟に加ふるに就ては、十分なる決心と十分なる注意を以てせざるべからず。筆端や舌頭にてこそ、日本は東洋の覇権を握るとか東洋の覇者なりとかいふことを得べきなれ。是は唯論者の空言のみ。実際に於ては此を以て将来東洋の覇権を掌握すべき端緒なりとす。若しこの劈頭に一歩を誤らば、多年の事業も水泡に帰すべければ、最も慎重ならざるべからず。故に成るべきたけ海軍を以てして陸軍を出さず。何となれば一旦陸軍を出すことは、恰も刀を抜くが如く、其抜かざる已前に於て、予め之を鞘に納むることを思慮せざるべからず。陸軍を出して後は、之を引上る場合に困難なり。然れども是非列国の同盟には加はらざるべからず。故に前記の如く海軍大臣と協議し、海軍を以てして其力の伸び能はざるときは、我陸軍の初めて手を下す時機なり。さて太沽の砲台攻撃後天津の戦闘となり、北京列国公使館護衛の為め北進する兵は、途中に遮断せられ、到底海兵の力を以て為し能はざる時機に到達し、露も英も既に遼東・威海衛の守備兵を直隷に誘致するに及べり。之に連合せんには、我よりも陸軍を派遣する必要を来せり。我が考ふる所は、恰も千八百年間英仏伊等の連合軍が、セバストポール即ち露国に向ひて戦ひし時、伊太利は建国の初めなりしが、此の連合軍に加はりたる結果、世界に強国たるの基礎を立ることを得たる例に則とること最も宜き所なり。当時伊太利は少数の兵を出して連合軍に加はりしなり。先づ覇権を握るよりは之を握るの端緒なれば、列国の伴侶に加はるに在り。其伴侶に加はるには保険料を支払はざるべからず。将来列国の伴侶となる保険料を支払ふ心算なれば、成るべく少数の兵を出し、列国の驥尾に附き、伴侶たることを失はざる位置に立つは、外交上策の得たるものなり。翻て我が決心は到底目下清国の擾乱は、団匪の擾乱なれども、清国政府が排外思想を有する団匪の勢力に圧せられ、已を得ずして遂に列国と戦ふに至るやも、未だ測るべからず。若し然らんには、直隷付近の兵数を視るに弱兵とはいひながら、数の上よりすれば容易の力を以て打克つこと難し。必ずや多数の陸兵を要せん。而して列国が其本国若は清国付近の属地より之に応用すること難ければ、勢ひ我に借らざるを得ざることは、平素我が研究上知悉する所なり。露西亜の如きは満州・東西彼利亜に兵力を有すと雖も、地方の鎮圧にすら尚不足を訴ふ。加ふるに其新たに地を借て経営する所の遼東の地は清国政府にして動くときは、益す警戒を厳にせざるべからず。故に此兵を多数に北進せしむること能はず。列国が陸軍を以て清国の北部の擾乱を鎮圧することは、我が兵力を借らずしては為し能はず。我国は外交政略としては斯際成るべきたけ頭を擡げず、彼れをして援助を乞はしむるこそ即ち初めて頭を擡ぐる時ならめ。言を換ていへば我が覇権を握る端緒にして、所謂処女脱兎の策にて、初めは少数の兵を出すの計画なり。政府は我が計画を容れたるを以て、即ち福島少将に歩兵二大隊、及び之に付属する各種の兵を以て、一の枝隊を組成したるものを率ゐしめて之を派遣す。その発するに先ち我は福島少将に訓令して曰、子は列国に保険料を支払はんが為に赴くなり、宜く往て戦死すべし。子が小枝隊を率ゐて敗滅するとも、将来日本に対して偉大の功たるを失はざるべし。兎に角子は保険料として、列国連合の間に派遣を命ぜらるるなりとて出発せしめたり。
北清の形勢次第に非に陥り、我が予想したる如く、団匪の兇燄は意外に熾盛となり、北京なる独逸公使と我公使館書記官とは殺害せられ、欧洲なる連合軍の政府も、事の容易ならざるを感じたれども、諺にいふ盗を捕て縄を綯ふの類にて、万里の波涛を隔て速かに兵を遣はす能はず。之に依て我政府は列国に向ひて左の如き照会をなせり。曰、北清の乱は如何なるものなるか、列国は如何なる判断を下せしや、日本政府に於ては、徹頭徹尾善意を以て共同せむことを望むとの意味なりし。然るに英国の如きは我が出兵を請求し、その他の列国も稍や文辞の上に差違こそあれ、共同の下に於て為すならば、日本は大兵を派遣するも可なり、団匪は如何にもして之を鎮圧せざるべからず、故に此事を共同の下に成し遂んことを希望すとの旨を復答せり。又続きて英国の如きは、殆ど人道を重んじて出兵を望むといふ如き、切迫なる照会をなし来れり。是れ畢竟

【6~10コマ】

日本陸軍の力を借らざれば能はざるを以てなり。然れども英国を除くの外は、出兵を請ふといへば権を日本に握らるるが故に、共同の下に鎮圧するを望むとの意思は甚だ進退窮したることにて、将来の権利の維持の為なることは判然たり。故に終始共同の下にかくれて、皆共同ならば可なりと答へたるなり。
内には政府殊に我は陸軍当局者として、如何なる処置に出たりやと云に、福島枝隊の出発すると同時に、第五師団には出師準備をなさしめたれば、天津の益す急なる報知に接して、先づ第五師団に出征の命下だれり。此の時に際しては露国も為し得らるるたけの陸兵を集め、英国は印度兵、仏国は安南兵を派遣せしが、列国の兵を合して七月下旬より八月上旬に跨がり、集合し得るところのものは、三万乃至四万に達するのみ。而して尚兵の不足を告ぐ。若し清国政府が宣戦を布告するといふ事ともならんには、十万の兵を集るを得べし。弱兵とはいひながら、十に対する四にては敵するに足らず。敵の半数をば必要とす。その不足の兵を欧羅巴より送らんには、日数上より算ずるも間に合ひ難し。独国の如き公使の殺害せられしに驚き、遠征軍出発の準備を為し、一万五千ばかりの兵を出せしが、垂天の翼縮地の術あるに非れば、戦ひの間に合はず。我は兎に角一師団の兵、即ち精兵一万五千を出せり。斯兵にて到着すれば、優に連合軍第一等の地歩を占む。其一師団を出す時に、我は政府に向ひ左の要求を為したり。

曩に福島支隊を派遣したるときは、保険料を支払ひて連合に加入するに止れり。今一師団を出すは大数にして首位を占む。此時に方りては日本自ら団匪を鎮圧するの任を負はざるべからず。故に此の一師団を出すにあたり、更に二個の師団は何時にても出征するの準備を為さざるべからず。即ち保険料を転じて大株主の地位に立つものなれば、予め其覚悟をなさざるべからずと云に在り。この決議成りて第五師団は出征せり。

全体我は陸軍大臣として陸軍を出すことを好まざりし。何ともなれば軍事外交共に首位を取て進まざるべからざるを以てなり。軍事は為すに堪ゆべしとするも、外交に首位を占めて進まんことは困難なり。之に依て自然の結果に出るは可なれども、濫りに前進するときは、他の使役する所となりて、遂には外交に於て失敗を取ることとなるやも測るべからず。廿七八年の結果を視よ。軍事には全勝を得たれども、三国同盟の為に遼東の地は還付したるが如きことを再演するを戒めざるべからず。故に列国をして困難の極に陥らしめて後、初めて之を救ふ事となさざるべからず。形勢如何にも援助せざるべからざるに及びたるよりして一師団を出し、而して自ら任じて北清の乱を鎮圧せざるべからずとの要求を為せり。其実政府中陸軍大臣が最も持重主義を執りしと云も可なり。而して彼地の形勢如何を捜索し、列国の出征軍の指揮官等の意向をも確かむる必要ありとの議政府に起り、特に時の参謀本部次長寺内中将に北清出張を命せられたり。其任務は北清地方に在る列国指揮官に会して、北京合囲の時に連絡せんには、如何なる戦略に出るかを試検すべき任務を授けたり。同中将は直ちに出発して北清に向ひ、その一報に依て、後の二師団は何時にても出征し得る事となり居たり。同中将が彼地に到り、列国将官と協議し、且形勢を察するに、在来の兵を以て鎮圧の功を奏するに足るとの決心をなして帰朝復命せり。
之より先天津の団匪は益す猖獗を極め、北京の情況は音信通ぜずして知るを得ざれども、曩に公使館護衛の為に入京したる列国の兵員より判断するも、糧食も竭乏すべく、清国政府が縦使全く団匪化せざるにもせよ、現に或団匪の勢力と、之を率る所の勢力より考察し来れば、北京なる列国公使はじめ、其他居留民の生命財産は、まさに旦夕に迫ることを想像するに難からず。此を以て欧洲列国は、団匪の益す狼獗なる情況の知れ渡るとともに、益す警醒したる模様にて、中に就中独逸の如きは、其公使の殺害せられたるよりして、皇帝は非常に逆麟せられ、其派遣軍隊の出発に際しては、是非とも北京城を乗取り云々と、激烈なる勅語を軍隊に賜はりしといふ如き次第なり。而して北京列国公使館は敵囲の中に在り、消息全く絶たるを以て、欧羅巴の人心は、唯日本の動作如何に依て、北京に囲まれ居る所の各国公使、その他の存亡安危の運命を決する外無しといふ有様とはなりぬ。
寺内中将帰朝して、天津の状況及び各国指揮官の判断等、委しく報告したるを以て、之を知悉するを得たり。是に由て観れば、先づ現在天津地方に集合する所の列国軍隊、殊に我第五師団の兵力を以て、楊村(此村は一は白河の右岸、即ち北京に到る中途に在りて、玉田県等の地方に往く路と、北京に向ふ路と、三叉路をなす所)を先ず占領すれば、敵の静動を伺うに足り、又北京に進攻するにも便宜の地なれば、共同して此地を占領すべしとの事は、列国の間に協議成りて、八月初旬に於て実行することとなれり(寺内中将は、この協議成て後帰朝せり)。即ち予期の如く之を実行せしに、楊村及び其付近に在る所の団匪、及び清国軍隊の団匪化したる所の兵力は、列国連合軍隊の力に抵敵する能はずして、或は北京方面に、或は玉田地方に敗退せり。当初は楊村を占領して後、更に第二の計画を持つ筈なりしにも拘はらず、敵の抵抗以外に強からざりし為に、之を追撃して北京に長駆したるありさまなり。而して北京の守備も堅からざるを以て、遂に列国の兵は八月十四日北京城に進入し、その主たる任務の各国公使并に居留民を、敵囲の中より救ひ出すことを得たるは、予期以外の結果なりしが、北京の囲解けて後、漸次報告を得、初めて列国公使館が合囲中に在りし状況を知了すれば、実に容易ならざる危急に瀕し、連合軍の進撃尚一週日を緩くせば、糧食殆ど竭き、又奈何なる運命に遭際したるや測るべからざる有様なりし。而して其戦闘の情況、合囲の間に於ける列国公使、及び公使館護衛兵の動作に就ては、何れも官の記事若は公報の在るあり、茲に録するを須ゐずして可なり。
北京陥落の報を得るに及びて、北清事変もまづ一段落を告げたり。一旦公使其他を救援する目的は達したるが、爾後清国に対する処置、并に我軍隊を派遣する時に我が憂慮したる如く、此の事変に就て派遣したる兵を処置するには、慎重の考慮を要する時期到来せり。我は当局者として左の計画を為せり。曰、我軍隊の一部を直隷地方、即ち天津北京より成るべく速に凱旋せしむるを必要とす、何となれば列国軍隊中、我軍が最も優勢を占るを以て、列国指揮官会議に於ても、自然優勢なる軍隊を有する以上は、会議の上に優勢を占むるの要あり、又権利として宜く然らざるを得ざるべきなり、然るに日本が初めて列国共同の間に加はり、世界の文明国と合同の動作を為すに就て、若し一歩を誤るときは、所謂山を為る九仞功を一簣に虧くと云如く、従来の労績も一朝に消滅し、戦ひに勝て外交に其所を失ふ如き事をば、深く慎戒せざるべからず、之が為には成るべく速かに我兵力の大部分を引上げ、前に云保険料を払ふに止め、即ち相当なる列国の伴侶たるを失はずといふを程度となし、将来に於ける極東問題に着々歩を進むるこそ緊要なれ、既に得たる地位を失はざらん為には、一進一止は必要なりとする我が目的なりし、又よしや政府の望む所は此れに止らずとするも、懸軍万里異域に在る軍隊の動作に於て、万一其宜きを得ざるあらば、政略上失敗を招ぐにも至らん、若しその憂ひ無きを期せんには、優勢なる軍隊を永く駐屯せしめて、不必要なる動作を為さしめざるに若かず、外交の作用を堅確にするを急務とすべしとの計画なり。この計画は我自身も所謂保守主義に傾きたる説なるを知る。然れども斯くなさでは不可なりと思考したるなり。幸ひに時の首相始め、中に就く海軍当局者の如きは、最初より我が考思する所と毫差無く、外交当局者としては少しく遺憾とする所もありしならん。然れども亦外務大臣も亦至竟我に同意を表し、我は最初四分の一を残し留め、四分の三を引上ぐべしといひしが、遂に二分の一即ち半数を残して、半数は速に引揚る事となり、第九旅団は三十三年十月を以て、振旅して広島に凱旋せり。
此の間清国南部に於ては、列国が急に兵を上海に上陸せしむるといふ事となれり。清国南部中各省の総督等は、北京中央政府の処置を非認し、所謂自衛の道を講じ、成るべく自己の管轄内に異状の発生せざらんことに注意したるを以て、概して平穏なりき。是は北清事件中の大幸なりし。然れども何時南部に事あるやも測り難ければ、上海居留民保護の為に兵を上陸せしめ、平定の後は陸軍兵と交替せしむることとなせり。この時上陸したるは日英仏独の兵なりし。
北清事変起りしより、北京陥落列国公使居留民を救ひ出すまでには、容易ならざる事にして、中に就く日本政府は、初めて列国と共同して事を為したるを以て、政府も多少苦辛して慎重に慎重を加へ、其処置をなしたるが、第一期の処置は首尾よく経過したり。我は抑もこの事変の起る前より稍や疲労を感じたるが、回顧すれば数代の内閣を経過し来りて、戦後経営の事といひ、その他種々の政変を経たることといひ、我が予



【11コマ~12コマ(2行目)】

て壮健なるにも似ず、大に脳漿を涸したるものと見え、脳神経衰弱の症に罹りければ、一旦休養し更に然るべき時期を待て奉公すべしと決意したりかども、北清事変の起りしに就きて、一身を顧慮すべき時ならざれば、責任上斃れて休むまでは退くべきに非ず。如何にも北清事件の第一期だけ経過する間は、最も容ならざる苦辛の時機にして、予て疲労を覚えたりしものの一層甚しきに至れり。此事件の殆ど半ばに及びし頃は、閣議も特に官邸会議を冀望し、首相官邸の会議にも、正当の服装をして出席するを難んずるほどに疲労を感じたるが、如何にもして第一期に派遣したる軍隊を、元の鞘に納むるまでは、誓て我が身の進退をなさざる決心をなしたるに、幸ひに北京陥落して、派遣したる軍隊半数をば凱旋せしめ得る時期に達しければ、此の時は一旦我が職を辞して閑地に就くべき時なりと決意し、兎に角一旦転地療養の為め、葉山の別荘に引籠れり。
北清事件は北京の陥落を以て一段落を告げ、是より起るは外交上の事なるが、列国公使及び居留民等は、殆ど万死に一生を得たる有様なれば、北京当時の景状は、各自に籠城中の実況をその本国に報告し、又は一時その家族等の摂養の為に時日を移すが如き事にて、外交の事は差当り中止の有様なれば、此間恰も我が辞し去るに適当なり。又更に事の一問題となるあらば、去る能はざるにも至らん。是れ此の際に我が決意したる一つの理由にて、又一方に於ては、伊藤侯が此の際政党改良といふ理想を提挙し、政友会の組織を企てたり。此の外交と内治の政治上の変遷は、我が政府に在れば到底免れがたき行がかりなれば、是亦此際に於て事の未だ発せざるに我は閑地に就くこと、一身の健康上に於ても、亦将来国家に尽す上に就ても得策なりと思へり。何となれば今後外交の困難なる上に、将来内政の事に一層困難を来すならんとは、我が予め観測したる所なりし。
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