移住地購入のいきさつ(永田稠の手記)

Detalhes da compra das terras da colônia (anotações de Shigeshi Nagata)

Records of settlement land purchases (Shigeshi Nagata's memoranda)

十五、移住地購入

ノロエステ線 七月五日サンパウロに突発した内乱は、仝地で約一ヶ月間交戦の後、反軍はノロエステ線、ソロカバナ線に沿ふて退却し、官軍は之れを追撃した。反軍の主力はソロカバナ線に転じたが一部隊はノロエステ線を退却したし、内乱の機会に地方的問題が突発して、アラサツーバの市長は殺戮されたりして、仝地に出張した輸湖君は、猶此方面が多少物騒であると云ふ報告を齎らし、アラサツーバ以北の汽車は通ったり通らなかつたりするので不通の場合は自働車で行かうと云ふのである

 警察署に行つて通行保証券を貰はねば汽車の切符を買へないと云ふ有様であるが、何時迄ものんべんだらりんと、ブラジル人の勝負を待つて居る訳には行かないので、八月廿五日移住予定地視察の為めに出発することに決定する。一行は多羅間領事、輸湖俊午郎、北原地価造及び自分の四名。朝の六時にバウル駅に行つて座席を占領する、普通の時でさへ随分混雑するのに、此頃汽車が通じた許りであるから、早く行かねば一等でも立ちん坊をせねばならぬ。内乱で突発された窓ガラスが修繕してないし、車中のお掃除が出来て居ないので、一等が日本の三等以下の待遇である。況んや汽車の燃料が薪であるから、火の子が盛に舞ふて来る。七時に出発すると汽軍は直ちにノロエステ線の珈琲地帯を貫通して進んで行く。なだらかな波状地の岡と云ふ岡は皆珈琲園である、緑色の珈琲園の間を朱色の道路が斜面に沿ふて馳せ、岡の所々に耕主の大なる家と、労働者の二軒長屋の行列が、他の国に見ることの出来ない画面をなして居る。ブラジルの八月は、日本の二月乃ち冬の真ん中である。流石に此国の森林にもかなり落葉した樹木が見ゆる。真黄色の花をつけたる樹や、伐り残された牧場や、真紅の果実が花の様になつて居る樹のある谷合や、マモンの実が真青になつて居る棉花の畑やが、車窓の画面に変化する。八十日間降雨がないと云ふので、赤色の灰の様な地面から盛に砂塵が舞ひ上つて、がた汽車の窓の隙間から遠慮なく這入て来るし、開墾の為めに森林を焼く煙が空中に満ちて我等の呼吸を圧迫し、太陽はまるで紅の丸の様である。四ヶ年以前に比較すれば沿道の森林の大部分は伐採されて畑になつて居り、市街地は人口が益々増加して何んとなく活気に満ちて居る。

 地価も騰貴し、四年前に一アルケール百五六十ミルであったのが今日では五六百ミルもして居り、殊に本年は農産物の価格が非常に高くなり、普通の年に十六貫一俵十五六ミルの米が六七十ミルもするので、一般の農民はホクホクして居るが、残念な事には内乱の為めに、銀行は払出しをせぬし、生産物は売ることが出来ない、日本人は買ふた土地代の払込が出来なくて困つて居ると云ふのである。途中の駅で中食をなし、多羅間さんの「日本及日本人」や「中央公論」などを拾ひ読みをしながら、午後五時

アラサツーバ駅 に着き、オテル・マツトグロツソに宿る。きたない便所で苦しい用ををたし、ぬるまこい湯でシヤワア・バスを取り、夕食をした後、大原君の商店を訪ふ。仝氏は鹿児島県の出身で兄弟三人の協力的努力により着々と成功し、大なる農園を有する外に、大きな土地を市街に求めて商店を開き二万円もかけた精米所が停車場の附近で活動して居る。

 汽車があれば、此駅から約三時間でルツサンビラ駅に達し、それから行けば移住候補地視察には至便であるが、此方面は内乱の為め汽車が当にならないので、二十六日の早朝自働車で行くことになる[。]上院議員ミランダ氏の土地を熊本県人林田君が支配して居る。仝君はブラジルに来てから余り日本人の仲間に入らず、ブラジル人技師と共にサンパウロ州西北部の測量に従事して今日に至り、ミランダ氏の気に入つて、今では其土地を売つたり測量したりして居る。其林田君が送つてよこしてくれた伯人と、アラサツーバ事務所のアウグスト君と北原君とが一台に、多羅間領事と輪湖君と私とが他の一台に分乗し、砂塵をまいてアラサツーバの町を出発したのが午前八時。馬車道と区別されて自働車専用の道路が、アラサツーバの市街地から西南へ約四十キロ米突一直線に進んで居る。比較的平坦な道路で沿道所々に開拓の為め伐木されて、未だ焼かれない所。既に焼かれて地は灰で被はれ倒れた樹と樹の株とは真ツ黒になつて居る所。一二年の珈琲園。棉花畑。放牧地等がある。

 二十粁の所に日本人十三家族の一団が百六十五アルケールの土地を買ひ、開拓して棉花や米を作つて居る所がある。ノロエステ沿線のサンポーロ州で、日本人の居るのは茲が一番奥であるそうな。独逸人植民地の入口のあたりから、道は西北に折れるが、此辺から段々と開拓された所が少なくなる[。]それでも所々にパイオニア達が、小屋をかけ伐木に従事して居る。海抜四百米突から五百米突位の起伏せる密林の間を、或は上り、或は下りして自働車は約四十粁を進むが、大体に於て良好なる森林である。午後一時頃、とある一軒の家に立寄り、茲で昼食を食ふ。食物は勿論飲料迄町から自働車に乗せて来たのである。午後二時半には約八十粁の地点にあるミグランダ氏のパトリモニオに着くのであつた。かなり大きな一軒の家と附属の小屋があり、約五十アルケール程伐木して焼いてある[。]アラサツーバから鉄道の新線が北チエテ河と南アグアペー河間の丘線を西北に進んでパラナ河畔のジュビア駅迄出来る時、ミランダ耕地の停車場にしようとし、従つて市街予定地になつて居るのである。そして其周囲約二千アルケールの土地は日本人や其他の人々が之れを購入して居るとの事であつた。私達は茲で珈琲を一杯御馳走になつて、今度は北方へ折れる約三十七粁を馳せて、ルツサンビラ駅の方から数へて十三粁の地点にあるミランダ氏の本営に達したのが午后四時頃であつた。

ミランダ氏の事務所 主人が来た時に宿る室と事務とが一棟、支配人林田夫妻の寝室と食堂と料理室とが一棟、労働者の小屋一棟、普通の来客の寝る家が一棟の外は、自働車置き場に浴場や穀物小屋などが二三あつて、大きな芭蕉が二三十株あり、庭にはパインアツプルや珈琲やマモンや其他の作物が試験的に植えられ、周囲二十アルケール程伐つて焼いてある。林田君夫妻や其他の諸氏に挨拶をして奥さんの御料理を戴きながら、多羅間領事と輪湖君とが要談を進めてくれる。夜はミランダ氏の寝室に多羅間さんと二人で寝たが、私は四度用便に起きてお気の毒にも多羅間さんの安眠をさまたげた。南米の大森林の夜中の静けさは又一層である、野糞をしながら四辺を見渡すと、焼け残りの火が所々に光つて、其あるものは高い枯木の頂上で狐火の様に明滅して居り、遥かかなたに野火の余炎が雲にうつて居る。時々驚いた犬が吠へる外に秋の虫の音が静かに聞えて来る丈けである。

ルツサンビラ駅・チエテ河 廿七日の朝八時に宿所を出て、林田君の案内に依って十三粁を下ってルツサンビラ駅に行つた。駅の名は鉄道技師のルイズとサン某と某ビイラの三名が、マレータの為め茲で死んだので、其紀念の為め三人の名を集めてつけたのであると云ふ。駅のすぐ北にチエテ河が流れて居る。此河はサントス港の東北マール山脉の北麓に源を発しセントラル鉄道のモヂー・ドス[・]クルーゼス駅附近から西に流れ、サンポーロ市の北から西北に折れ、ポルト・フエリース、チイエテ、バラボンダ等の諸市をうるはし、バウルの東北方を西北に馳せ、幾多の支流を容れ、約三百里を流れ、イタプラ附近でパラナ河に合する、サンポーロ州ではパラナ河に次いでの巨流である、ルツサンビラ駅附近では河幅約二丁、水深四米突と云はれ、小舟の航河の出来る所もあるが、所々に浅瀬と滝がある。ノロエステ線はアラカングワ駅からジユビア駅迄此河に沿ふて居るが、此の一帯の地は鉄道から約一里の間はマレータ病があり、此辺一帯の地にはフエーリーダ・ブラボと云ふ一種の皮膚病が風土病となつて居る。ルツサンビラ駅は駅の建物一棟、従業員の家二棟と、ミランダ氏の小さい商店が一棟ある丈けで、此商店から十三粁の事務所迄は電話がある。アラサツーバから自働車道で此駅まで私達の来たのが百三十粁と計算されて居る。

 八重野君が林田君の部下となり駅から九粁の所に棉の試作をするとて伐木をして居る。駅やチエテ河をキャメラに納めて私共は本営に引かへし昼食をして、移住候補地の視察に行く。

移住候補地 自働車で昨日来た道を引きかへす。ル駅から土地の高低、地質の肥瘠は多少の差はあるが、大体に於て仝様、但し三十粁附近にかなり瘠せた所がある。輪湖君と北原君とが先きに来て大体は見てある。乃ち三十三粁から四十三粁迄南北約二里半、西方トラヴェツサ川、東方四五粁の間の多角形の土地一千五六百アルケールがよからうと云ふのであるが、信濃海外協会と両土地組合とで出来る事なら三千アルケールの七千五百町歩位は欲しいので、見残した部分を北原君に見てもてもろうことにする。南米の原始林に来て感じた腰折れ数首を録すれば

 古より斧を入れざるアメリカの林の中に入り立ちにけり

 久方の天を被ひて立てる樹の下草を茂み入りがてにせり

 みんなみのアメリカの森はてしなしこの野の限り我買はんとす

 わだつみの海を渡りてはらからの来り住まはんこの森に野に

 此森の彼方此方にはらからの樹を伐る斧の音や響かん

 此森を焼く火と烟炎々と空を被へば陽は赤からん

 神の国茲に建つらん我祈る祈りに神の応へ給へば

土地選定難 (一)私の前回に得たる直感では、サンポーロ州で土地を買ひ度ければ金さへ準備してくれば、自分の気に入つた土地は何程でもあると思ふて居た。然るに今回実際に土地を買はうと思ふて来て見ると、それが大変な誤解であつて、金丈け準備して来たからとて中々よい土地を得ることの困難であることがよく会得されるのであつた。土地のよい所は此国に於て其道の人が買ひ込んで中々手放さないし、従つて土地代も高いし、又、土地売買者の手にかかった大きな土地は、小さい買手の自由撰択にまかせるので、善良なる土地をまとめて買ふことが出来ない。又、此頃のサンポーロ州では珈琲の出来る地帯は停車場から五十粁以内は近い所で、多くはそれ以上の距離がある。又、日本から来てさて土地を撰定しようとしても、誰の持つて居る土地がよいかの判断に困るのである、と云ふのは日本人中でもブラジル人中でも公平に甲地と乙地とを比較研究をして、両地の長短を知つて居てそれを親切に教へてくれる者がない。又、事実に於てブラジルの土地を実地に見ることは困難である。千古斧鉞を知らざる大森林で、ビツカダを入れねば森林の内部を見ることは出来ないからである。金と時間と忍耐力のない者にはトテモ出来る仕事ではない。幸にして信濃海外協会では約一ヶ年以前に多羅間領事に移住候補地撰定を依頼し、輪湖君や北原君が実地の踏査をしてくれて居たので、適当の土地にありつくことが出来たのである。

(二)地質。日本人が考へると、山の頂上よりも谷合の方が土地が肥沃である筈であり、ブラジル国でもパラナ州の如きは此原理が応用されるが、サンポーロ州は之れと反対で、山頂の方が谷合よりも土が肥えて居ると云ふのである。これらも一寸素人が面くろう語だ。韮の木(韮の香する木だから私はこう云ふが)のある所は、ブラジルでは土地の肥沃な所であるとされて居る。これは在伯日本人や其他の人々の常に信ずる信条である。乾燥地でありながら馬鹿でかい木があるので、樹木の大小に依つて土地の肥瘠を撰定することが出来ない。私共の候補地には所に依ると二た抱もある様な韮の木があるので、此点から万人の等しく肥沃の土地であることを否むことは出来ない。併しながら今日サンポーロ州に取り残されれて居る内ではよいし、ノロエステ沿線の各地に比較すればよいのであつて、モジアナ線方面、パウリスタ沿線や、パラナパネイマ南岸の土地に比較すると必ずしも優つて居ると断言は出来ないと云ふのである。

(三)作物と凍害。地質に次いでサンポーロ州では珈琲の耕作が可能であるか否が問題である。珈琲の第一に恐れるのは霜である。聖州では海抜五百米突以上の土地には霜害がないと云はれて居るが、これは必ずしもさう断言することは出来ない、其時の天候により又其土地の局部的地勢に依つて六七百米突の地に凍霜があり、三百二三十米突の地に霜の結ばないことがある。此点から見ると我が候補地は四百五十六米突から約五百米突あるから大体に於て珈琲栽培の可能地と見らるる。十三粁の二年物の珈琲も七八十粁の三年物も本年度の霜に枯れて居ないことが之れを確実にする。更に地形の大体の傾斜が東南に傾ける所よりも、西北に傾いて居る方が凍害を受ける程度が少ないと云ふのに、我候補地は幸に西北に斜いてゐる。

(四)交通。移住地と交通の関係は極めて大切であるが、ブラジル国では政府に金がない為めに需要に応じて鉄道線の建設が不充分である。ノロエステ線に於ける日本人移住地は、第一期の入植者は相当の距離−六七粁から二十粁位の所に居るが、此両三年前よりの移住者は近くて三四十粁、普通の者は五十粁、遠い者は六十粁の所でなければ土地が得られない。我が候補地は此点に於てルツサンヴイラ駅から三十三粁乃至四十三粁の間にあつて、且、既に建設せられたるブラジルとしては立派な自働車道があるし、地勢も波状地を直角に縦断した道路をフオード荷物車が荷物を満載して交通し得る程度であるから、大正十三年頃に選む土地として先づ満足せねばならぬ。况んやミランダ氏は我候補地の東境からコトベロ駅迄馬車道を建設せんとするに於て、又私共は今あてにはして居ないが、アラサツーバからの新鉄道線がミランダオボリスを通過すれば、我候補地から七粁に停車場が出来るに於てをや。

(五)風土病。次ぎに私共の考へねばならぬことは風土病の問題である。由来チエテ沿岸の地方はマレータ病の本拠と呼ばれて居る。ルツサンビラ駅は正に其チエテ河のすぐ側にあるので、駅員は此病気の為めに苦しめられて永続する者がなくて困るとの事である。然るに此河より二粁離れると此の病毒はないと云ふので、ミランダ氏の従業員は駅から二粁の所に家を建てて住んで居る十三粁にあるミランダ氏の事務所には三四十名の人々が約二ヶ年の間蚊帳もつらずマラリアにも罹らずに生活して来たと云ふ。私共の候補地は更に三十粁の遠き彼方にあるのであるから、先づ以てマラリア病はないと考へてよろしからうとのことである、私は三十六粁の道路修理人の小屋で、一老婦人の病人を見附けた。彼女はマラリアか肺病になつて死にかけて居たが、家族は先きにチエテ河岸に居つて此病気に罹り、なかなか癒らなくて困るので職をさがして茲に来たのであるとのことである。フエリーダ・ブラボと云ふ皮膚病はノロエステ線特殊なものである。いたくもかゆくもなくて皮膚が赤くなり、肉が窪んで行つて骨が見ゆる様になり、多くは発熱をすると云ふ。病源が何所にあり何に依つて人を襲ふか不明であるが、吐酒石の注射で治療するとのことである。
マレータもフエリーダブラボも原始林の開拓を始めて第二第三年度には多くなつて第四年度から減少し、膓チブスなどが多くなるとのことである。私共は病気がないと云ふて要心をせぬのは愚であると思ふから、病室を第一に建設せねばならぬと思ふて居る。

(六) 地権。土地購入に於て更に大切なことは地権の確実なるや否である。某君が購入して売却した土地の幾部分かは他入の物であつた為め、土地を買うて入植し開墾して折角珈琲を植えたのに、立のかねばならぬことになつた。私共の候補地は珈琲王シユミツトの土地で、上院議員ミランダ氏が売つて居るのであるから、大概大丈夫であると思ふて居たが、詮鑿をすると種々の問題が出来て来るのであつた。

 それは私達の買はうと云ふ土地の歴史である。シユミツトが六万アルケールの土地をある男から購入した。そして其一部の現在ラミンダボリス云ふ一部分とミランダ氏の他の農園と交換した。すると一人の男が六万アルケールの内二万五千アルケールは自分の物であると云ふて訴訟を提起した。ミランダ氏は直ちにシユミツト氏に交渉した結果、其男に二百五十コントを支払ふ約束で訴訟を願ひ下げさせ、其金は今回私達の買はふと云ふ土地の売却代金で支払ふことになつて居て未だ払ふてないと云ふのである。責任はシユミツトとミランダにあるのだからよい様なもののそんな面遠があつては誠に迷惑であるから、地権は一度ミランダの手に移し、それから購入するがよいと云ふことに決定する。十四コントの約四千円程の金を負担せねばならないが、地権を確実にする為めには止むを得ないことである。此外、ペンナポリスやアラサツーバの登記役場で地権の証明や納税の証明や、抵当に這入つて居るや否等各種の調査をやらねばならない。
『鉄砲が地権だ』
といふブラジルで確実に土地を買ふことは中々骨の折れる語である。日本人はよい土地だと聞いた丈けで地図の上で土地を買ひ、金を払ふて居るが、其内にはこんなのがある。甲乙丙丁の四つの川があつて、土地売りの地図で見ると甲乙丙三河で囲んた土地が八千アルケールあるが、外の所で調べて見ると土地売りの丙と云ふて居る川は丁川になつ[て]居る。この計算に従ふと土地の面積は三千アルケールしかないので、日本人が買ふて金を支払ふて居る土地は、其の土地売りの所有地ではないのである。だから他日外の者から小言を云はれると立のかねばならぬ。其時に金を渡した男にかけ合ふても、其男に資産でもなければどうすることも出来ない。泣きね入りより外し方がないことになる。ブラジルと云ふ国は先づそんな国であるが、面白いことは「居住」と「開拓」とが極めて重要視されることである。だから政府の土地へだまつて這入つて「居住」し「開拓」すれば、其土地は無償で払下げられるそうだし、又、だまつて他人の土地に這入って「居住」し「開拓」すれば、地主は追ひ出す前に其損害を支払はねばならぬことになる。大きな地主達が裁判の如何に拘らず、自分の土地と信ずる所に人を入れて珈琲を植えつけて居るものもあれば、又、二三十人の無頼者を雇ひ鉄砲を以て打合をして土地を占領することもある。そんなことに驚いてはブラジルで仕事は出来ないのであるさもあればあれ、私共の移住地の地権は大体に於て万全である、只手続きをよくして置けば万全である。

(七)動物。蝶はブラジルの麗はしき特産であるが、其蝶が此森林の中を飛んで居る。私の名を知らない幾多の大鳥と小鳥が飛んで居る。見よ猿が枝から枝へ走つて行く。自働車の進んで行く先きに鳥と獣とが悠然として居る。鹿も居れば彪も居り、ダニも居れば野馬も居ると云ふ。大自然の其儘である。

 私達は五十粁のパトリモニオで昼食をすまし十三粁に帰つた。遠雷が遥かに彼方で遠鳴りをして灰色の空から雨がしとしとと降り出した。暮れて行く南米の大森林は正に白雨黒林である。此夜私は久し振りですやすやと寝ることが出来た。

 二十八日の朝八時三台の自働車をつらねて十三粁を出発した。色々と移住地建設の理想実現を思ひながら五十粁に来て食事をなし北原君を茲に残した。氏は居残って更に一層調査をする筈である。小さいダニが沢山喰いつくので、過酸化水素を一瓶と、山伐りのお婆さんがマレータを病んでると聞いて塩酸キニーネ若干を残し、更に幾多の思索に耽りながら来た道を引きかへすのであつた[。]午後四時アラサツーバに着くとマツトグロツソ方面の内乱未だ鎮定せず、一二の列車は官軍を輸送して北西に進んで居る。廿九日は朝七時の汽車に乗り、午后四時過ぎバウルに着き、領事館で多羅間夫人に歓迎され、日本風呂に入れて戴き、単衣に羽織を着せてもろうて夕飯を頂戴し、談笑時の過ぐるを忘れるのであったが、輪湖、佐藤、入江、林田の四君達は力行会員十名の呼寄せの願書を認めてくれた。三十日には午前四時に起きた。内乱の為めにパウリスタ線は荷車へ乗らねばならぬと云ふので、少し時間はかかるがソロカバナ線で出発する事にする。五時半に汽車が出発し、アグードス、ボツカツソロカバ、サソロケ等の各駅を過ぎ、午後六時十分サンポーロに着き、オテル・ド・エステに宿る。

土地購入交渉(一) 三十一日は日曜日であるから公式の交渉は出来ないので、ミランダ氏の支配人熊本県人林田鎮雄君が、朝早く仝氏を訪問して大体の下交渉をなし、且明日の面会時間の打合せをしてくれる為めに努力する。私達の要求の大要は左の通りである。
一、地権がシユミツテ氏にあつては不安であるから、ミランダ氏の所有に登記をした後購入の手続をすること。
一、面積約三千アルケールとし土地の選定は我等の自由にすること。
一、売買価格は一アルケール二百ミルとすること。
一、代金支払は三年賦とすること。
一、地権については日本総領事館に於て公式の調査をすること。
等であつた。林田氏は帰つて来て

『他の条項は一切承知したが地代は二百五十ミルを主張してまけません、明日午前十時ミランダ氏の事務所でお目にかかります』

とのことであつた。

 九日一日午前十時私は輪湖君林田君と共に事務所に行つた。十時十五分ミランダ氏が未だ来ないので一寸靴みがきに出て帰つて来ると間もなくどしんどしんと階段を踏みしめて白髪の老人が上つて来た、当年七十一歳、上院議員ロドロフオ・ミランダ其人である。仝氏の事務室で種々と交渉した

『北方から三千アルケール取ればよくない土地が四五百アルケール這いり都合がわるいから、平均二百ミルと云ひたいが昨日のお話もあるから二百二十五ミルでどうでせう』

『三千アルケールと云ふ大面積の中に三四百アルケールのよくない土地の這入るのはあたり前のことで、其わるい土地でも牧場には適するのであるから、二百五十ミル以下では困る。悪い所丈け二百ミルにして、他の二百七十五ミルでとうだろう』

『組合員に分割する土地で、一人で大きな農園を造るのでないから悪い土地を含むことは困る』

など押し問答の後

『悪い部分は除いて、私達と林田君とでよい所を約三千アルケール自由に選択することにし、地代は二百五十ミルとする』

と云ふ点で折合ふ事にした。時価から云へば高いものではなからうと信ぜらるる。

一、半額払込めば地権譲渡する
一、万一故障の出来た時はミランダ氏が全責任を負ふ
一、第一回の支払は九月十日迄にする
一、第二回払込は明年八月末日迄にする
一、残金の利子は年一割とし、支払日迄の分を計上する
一、地権をシユミツト氏よりミランダ氏に移す為めには十四コントスの登記料がいるから、私等がそれを要求すれば登記料を支払ふ。

等の事を交渉し、覚書を書いて別れた。昼食後、斎藤総領事に面会して、土地売買を確実ならしむる為めに、総領事館の御尽力を依頼し、嶺君が其仕事をしてくれることになる。

一、土地の歴史を調査すること
一、ミランダ氏がシユミツト氏から受けた委任状の内容を調査すること

等を出来る丈け確実にして将来事の起らぬ様細心の注意をするのである。総領事館でタイプラ[イ]ターを拝借して、日本へ次の様な電報を打つ

サンポーロより 八百粁 ノロエステ線 ルツサンビラ駅の東南自働車 道に沿ひ 八里より 十二里 新鉄道 予定駅より 二里乃至五里 海抜四五 百米突 上院議員ミランダの土地を 多羅間 輪湖北原と 視察し 三千アルケール(七千 五百町歩) 七百 五十コント(約二十万円)三年払にて 協会と 土地組合と 共同にて 買ひ度きことに意見一致す 協会の七万円と 組合より 一万円 有利の送金法を 外務省と相談 七日以内に ご送金を乞ふ

電報料三百六十ミル、局では英文の翻訳をつけろ、革命に関することではないかと念を押す。九月二日林田君は委任状を嶺氏は地権を夫々官庁の責任ある写を取る為めに尽力する。私は報告を出したり、土地や産物の見本を各方面に発送したり、来客に応接したりするのであつた。

土地購入交渉(二) ミランダ氏と直接談判もすみ、地権其他に関する大体の調査も終り、これならば一歩を進めて詳細に調査し、購入に一歩を進める価値があると認めたので、九月五日の早朝輪湖君はアラサツーバ及びリンスの登記所を調べ、兼ねて山に残つて実地に調査をして居る北原君と協力して、地域を選定し、林田君と相談して地図を製作する為めに出張した。私は後に残つて東京からの返電に首を延ばした。所が幾日待つでも返電は来ないのである。六日には総領事斎藤和氏の晩餐に招かれ、七日の夜は力行会支部の集会があり、此間に各方面から土地の売り物の交渉もあり、「移住地入植規定案」「移住地案内」「移住地一覧表」等将来移住地の施設行政に必要なる事項を書いたりして、十一日に至つたが、まだ返事がない、愈々催促の電報を打たうと思ふて総領事館に行て見ると、バウルの多羅間氏から、長野県知事よりの転電が来て居る

『貴殿宛長野県知事より来電左の通り……計画通り……七万(一字不明)三年賦とし……選定せられたし』

とある。七万円は私より電報次第全額送金する筈に本間総裁とは約束をして来たのであるから、私自身も万事其積りで仕事をして居るし、信濃海外協会から外務省へ提出した移住地計画中私の権限に関する項目の内にも、「永田稠の使用し得る金額は土地代七万円」とあつて年賦のことなどは書いてないから、多羅間領事も此点に疑を持つて居ないのである。然るに電文不明とは云へ「七万円」と云ひ「年賦払」とあるから見れば、或は七万円を年賦にするのと誤解して居ないかと思はれる。本間さんが総裁で居れば間違はないが、私が北米に来た時には既に梅谷さんに代つて居て、多少心配になるので、取りあへず東京を経て左の電報を打つ

『長野県知事の 電文意味不明 至急八万 御送附を乞ふ こちらのことは 領事と相談してやるから 御一任を乞ふ 電報は サンポーロ総領事館宛』

と。それからバウルヘ手紙を書いたりして居る内に、多羅間さんからは重ねて、電報が二回、御手紙が三回来る。大変に御心配をなさつて居ると見ゆるし、私も心中にかなりの不安を感じたが、電信局からのコツビーで

『当初の計画通り、土地代は総額七万円以内、年賦払ひにて選定ありたし』

と云ふ意味であることが明瞭になつた。今に至つて七万円の土地を年賦で買へなどと云ふたつてそれでは仕事は出来ない。一体そんなことなら私は茲迄出ては来ない筈である。さればと云ふて電報で喧嘩も出来ないから

『知事の電 漸く読めた 以前報告の 土地の内 七万円 丈け買いたし 但し年賦 払不可能 皆至急電報にて送れ 返事待つ』

と打つた。五月末私の出発する時に、出資金申込が十万円あり、現金の集まつたものが七万円あつた。其内から八千円私が持つて来たのであるから、六万二千円ある(尤も募集費二千円位はかかつたろう)土地組合は信濃組合が一千口、南米組合が四百口あつたから、第一回の払込金を受領しでも一万四干円はある、幾分か費用を要しても一万円はなければならない。况んや其後四ヶ月を経て居る。八万円送れと云ふに無理は無いと私は考へて居るのであるから、七万円を年賦払にせよと聞かされては驚かざるを得ないのである。多羅間領事の電報は有力であろうと思ひ、仝氏へ『外務省経由長野県知事へ此際七万円なければ海外協会移住地建設は困難なりと認む』と云ふ意味の打電を請ふ。十四日の夜は、遠藤商会の食堂で、伊藤牧師主宰の礼拝説教に行つて居たが、輪湖君が心配顔をして山から出て来た。色々相談をして、地形や地質や資金の関係から購入する面積は二千二百アルケール乃ち五干五百町歩にすることなどを決定し、ホテルへ帰つて寝た。大きな蛇が私を追ひかけて来たが、遂に私の口の中へ這入つた夢を見た。朝、眼をあくとすぐ輪湖君に

『勝負は勝つたよ』

と云ふた。十時半に食事を終り、長い電文案をタイプライターで打つて領事舘から電信局へ急いだ
舘員が追ひかけて日本からの電報を持つて来てくれた

『金無い 五万円より送れぬ 後年賦 臨機計らへ』

と云ふのである。七万円の三年賦よりも、五万円あればどうにかなるので、少し心細いが嬉しかつた
日本へは

『大至急 五万円 送れ 組合の分も ある丈け途れ』

と打ち。せめても不足を補なふ為め北米の組合員へ

『土地三千アルケール買ふから金三千弗至急送れ』

と打電する

 九月十五日の夜は林田君も出聖した。十六日には仝君はミランダの事務所に行き、輪湖君は総領事館に行き、契約の歩調を進めるのであつた。書類の調製に約一週間を要するのと、バウルの多羅間氏が行くと云ふので、私共はレジストロに行くことにして、留守中事務の進捗は嶺さんと林田君に依頼した。約十日の後に帰つて来て見ると、意外に問題が出来て居る。

一、当分来ないと思ふて居た二万円の金が来て居る。これは多羅間領事の電報が功を奏したのであろう。

二、土地売却の委任はシユミツトからミランダにしてはあるが、其シユミツトは死去して、委任状には其相続人と云ふ言葉が這入つて居ないし、相続人間では遺産の整理中であるから、ミランダ氏は改めて土地売却の委任を受けねばならぬのと云ふのである。

三、僕等の要求して置いた重要なる頂目が記入してないこともある。

この第三の条項を入れること、第二の点はシユミツト氏の長男で遺産管理人たる人が、此契約に認めると云ふ誓言を公証する事で折り合ひ、更に、ルツサンビラ、コトベロ両駅に各五アルケールの土地を購入することとして話を進めて行く。かくて出来上つたのが、本書附録「南米ブラジルありあんさ移住地」中にのせた土地売買契約書である。

 後で聞いた事であるが、信濃海外協会では私の電報に依つて、梅谷総裁を中心として、重大な相談が開かれ、中には

『計画を一時中止するがよい』

『永田を招還するがよからう』

と云ふ様な悲観論が出たさうであるが、賢明にして勇断なる梅谷総裁は、非常手段に依つて金二万円を調達して送つてくれたのである。若し招還の命令などが間違つて発送されたならば、私は屍となって、ルツサンビラ駅の山奥に横はつたことであらう。

 此二千二百アルケール乃ち五千五百百歩の外にコトベロ駅の附近を五アルケールス購入を契約し、ルツサンビラ駅の将来市街地たるべき所五アルケールスはミランダ氏の所有であるから直ちに購入して仕舞ひ、別に力行会の分を百アルケール丈け一アルケール百六十ミルレイスで購入する約束をした。ルツサンビラ駅から十一基米突−十二基米突半とコトベロ川に至る間である。これで此地方が開発されても農産物の輸送上からも、既成の鉄道を利用する点から云ふても基礎的条件は具備された次第で、此次は実際の開発と諸機関の設備をして行けばよいのである。聖書に日く

『手を鋤につけて後を顧る者なし』と、只、直進すればよいのである。

この頃これ等の歌をよむ

買はんとす三千アルケール七千五百町歩見渡す限り只空と森

友達は地図を造ると朝あけの汽車にし乗りて山にき行けり

使して千里に来たりあらかじめ定めしことのかはりなばいかに

我腹を切りてなすべきことならばわがはらはたをえぐり否まず

ルツサンビラの奥に選みし移住地の小川辺に行いて自から死なんか

我が紅き血潮流れて其上ゆ新天新地育ち行くらん

嗚呼神よ思ひなやめる我心強き力もて支へ給ひね