平野植民地入植前後の状況

Colônia Hirano, quando da chegada dos primeiros imigrantes

Situations before and after the beginning of settlement in the Hirano Colony

入植前後の状況

 植民地入植前後の模様を詳記せんとするに当り、平野氏に就て語る必要がある。当時モジアナ線に於て屈指の大耕地グワタパラ内に於て夙夜勉励困苦力闘して副支配人に抜擢され、中でも瑚排園に至つては絶対の権利があり又信望があつた。同耕地には大正三年若狭丸移民百三家族の他に第一回、第二回移民がコロノとして就働して居り、優に邦人家族だけでも二百家族を算し、之に外人家族を合すれば五百有家族が営々として働き、実に模範的耕地であつた。此の大世帯の支配者として平野氏は絶大の信望と権利があつて、飛ぶ鳥も落すの勢ひであつた。会々氏は耕地の所要を帯びて出聖せし処、初代総領事たりし松村貞雄氏の耳に入り、氏が宿泊なすホテルに電話を以て紹介し、是非貴意を得度く当館へ出頭煩し度しと、礼を以て招かれしかば、氏も快諾なし総領事館を訪問せし処、松村氏大いに喜び招ずるに態々領事館の門に迎へ、手を取り礼を厚ふし館内に招じ、談するに邦人移民問題を以てし、現在の如き移民の状態では到底外国移民に伍して発展なすは至難事とし、出稼的移民素質を改める必要を説き、此の大事業を托するには平野氏をおいて他になしと語り、以て懇望せらる。

 平野氏つらつら感ずるに、コロノ生活は余りにも半奴隷的生活にして日本移民の恥辱とし、両者の意核心にふれ氏遂に快諾して領事館を辞す帰耕後衆を集め在サンパウロ総領事館に於ての委細を語り、飜然と植民事業を説く。然れ共当時は実際植民の如何なるものなる哉も周知せざる実に幼稚なる時代たりし故、只々平野氏を信する耳とせり。

 斯くて植民事業を発表なすや、氏の徳望を慕ふて行を倶にせんとする者二百有家族を見たり。因つて氏は土地を物色し避定せしが本植民地なり。前地主ビツセンテ・ギマラヱンス氏.、支配人オツト氏と数度交渉の結果、売買契約の成立を見る。実に総面積一干六百二十四域、即ち三千八百五十町歩なり。此の広大なる原始林に向ひ開拓事業を開始なすに当り、最初より家族を入植なすは危険とし先発隊を組織し、氏自から指導の任に当り徐々に進んで道路を拓き、目的の地に至り山林を伐採し、食料準備の為め米作を行ふ。此の間の先発隊の労苦は言語に絶する苦闘を重ぬ。之実に大正四年八月三日也。

 一方耕地内に残留なす家族は、一致協力して先発隊員の残務を負担し、耕主に対し不都合なきを期したり。同年珈琲採取を終ヘコロノとしての一農年の契約を完へ、順次入植をなせり。此の数八十二家族、各自競ふて山林伐採に着手し、現ドラード河岸に仮小屋を建て米作に従事せり。図らずも翌五年一、二月頃より熱病に罹り臥床なす者を見、次第に病勢つのりて遂に全家族罹病し、さながらの生地獄を現出し、幾多有為の士が枕を並べて斃る。平野氏の心痛一方ならず、あらゆる手段を講じ治療に奔走せり。本件に就ては既に平野氏の項に於て詳述したれば省略なすも、遂に其の年八十名に近き死亡者を見たり。

 其の年終りより病勢稍下火となり人心落着きを見るに至り、ドラード河岸を基点として順次番号を附し、東に向つて第十八区迄に分割し、各コンパ即ち組内に依つて抽籤を以て各人の土地を定めたり、然して各家族は定まりたる自分の土地に引き移り、更めて山林の伐探に着手し、身分相応に開拓をなせり。

 当時は全く邦人間に於て如何なる地味が肥沃か、又は立木の如何なるものが密生なす所が上質か、標高は何米位を選ぶか等全く無感知の状態たりし為め、番号の若い所が駅に近く便利にして交通に至便等考へ、九番以東の各区に当りし者は不運者として悲しみ合つたりと云ふ。今にして考ふる時誠に噴飯事と云ふを得べし。植民地の地勢は東に高く、ドラード河に低く、為めに標高を云々なす珈琲の如きは割合に恵まれざる地形なるも、其の反面九番以東は標高に恵まれ地味肥沃、万作に適し加之ドラード河を離るるに従ひ悪性のマレイタ病もなく、健康地帯たりし故なり。

 大正六年を迎へ各自勉励務めて雑作をなし、稀には珈琲等植付けし所図らずも十一月十三日予期せざるガフアニヨト、即ち蝗群の大襲来に遵ひ、見る見る間に汗の油で蒔付けた作物は一物も残さず喰ひ荒され、不毛の地と化し、蝗群の為めノロヱステ鉄道の不通を来たす大惨状を呈し天日為めに  暗く、全く暗黒世界を実現なせり。

 婦女子は泣き叫ぶ、蝗は所嫌はず屋内迄も侵入する有様で、実によく筆舌の及ばざる惨害を来せり。

 之が駆除に大童となり、各家族総出動を以て溝を掘り、ブリキ鑵を打ちて蝗を徐々に追つて溝中に追ひ込み、上より土を以て覆ひ専念撲滅に従事せり。其の年勇を鼓し二番作を蒔付けしも、又も蝗の孵化発生に遭ひ一物を残さす、アア天命如何ともなし得ず。

 斯くして大正七年を迎へ植民者一同有無相通じ、相励し米、豆、ミリヨ[注 とうもろこし]等蒔付けなせしに不幸又も大旱魃に遭ひ、作物の大半は枯死し収穫の大減収を見ぬ。茲に於て平野氏涙を呑んで衆に向ひ、諸氏は今一度耕地に帰り蓄へを得て後入植せよと進めしが、残余三十有余家族は、死は平野氏と倶にと堅き意中を示して退植せず。此の不屈の状を見し平野氏は慷慨に充ち、言はんと欲して言ふこと能はず、欷歔嗚咽して血涙滂沱たりと実に目撃者ならでは語るを得ず。

 最初播種せし珈琲も、珈琲を植ゑし穴(コーパー)より抜き出し、若葉を繁らすの時天又も植民に試練の大降霜を与へ、一葉も止めず枯死を見る。入植以来苦闘に苦闘に報ひられざる三年を終る。されど不撓不屈の植民者は鋭意協力四年に備へし所、不幸此の年二月慈父と頼みし平野氏の急逝に遭ひ、言語に絶する苦杯をなめしも幸ひ棉価の相場高きに恵まれ、ホツト一息なすを得たり。

 爾来今日迄一意開拓事業に専念せし為め、珈琲□万本を突破し、年産五万袋を収穫し、棉花又五万アローバを採取し、一路躍進に躍進を遂げしかど、入植当初に於て恵まれざりし苦闘の賜として、植民地内一般に華美の風習流れず、実に地味にして又健実温情の感をいだかしむ。

先発隊

 大正三年平野氏は一大決心の下に、グワタパラ耕地副支配人の要職を辞し、大和民族発展の基礎を築く可く在耕各県の代表者を一堂に集め、再三再四協議を重ね同年十二年、ノロヱステ線奥地へ単身乗込み、植民候補地探索の為め数十日の末、現在の土地一千六百二十有余アルケーレス(一アルケール二町五反)を見出し、地主との間に売買契約を了し、事務所をバウルー市に置き邦人将来の為め寝食を忘れ奔走されて居つた当時之等に要せし費用は莫大なる金額に上るも、氏永年の耕地勤労の賜を以て当て、卿も植民者へ負担を嫁されず。如何に真剣たるかを知ると共に現在の土地売の輩と趣を異になすを特筆なす。

 平野氏の提案に依つて一時に大勢の家族を入植なすの危険と不当なるを説き、協議熟考の末各県人の中より一名乃至二名の強健なる若者を選抜し、之を先発隊員として入植なさしめ、次年度入植家族に充つ可き食料を作る為め約二十名の先発隊員を選抜し入植なさしむる事に決せり。

 大正四年八月一日(日曜日)愈々先発隊員に出発の命令が降り、さながら出征兵士の門出の如く、近親知己より誠心こもる饒別を懐に、或は見送りに住み慣れた耕地を後に、一意目的地へ向つて意気揚々天を呑むと云ふ勢で出発せり。

 同夜バウルー市に到着しここにて一泊なす。明くれば二日早朝より又も汽車にてバウルー市を出発し一路目的地に進めり。正午十二時頃現カフヱランヂア駅に到着せり。当時の駅は実に貧弱なものにして、物品を売る店が一軒わびしく建ち、他に二、三軒の住宅があるのみ。之より各自身は軽い装束に固め平野氏先頭に立ちて一行を指揮し、雄々しく密林に向つて道を拓き、山刀を揮つて一歩々々と目的地へ進む。途中遂に夕暗迫り山中にて露営し、談笑裡に一夜を明かす。日改つて八月三日勇み立ちたる一行は又も早朝より進発なし、意気益々昂がる。日輪中天高く昇り四海開くるの時、待ちに待つた目的地トレス・バラス、即ちドラード河岸に到着せり。一行期せすして万歳を高唱し、其の声四方の森林に谺し、谷を衝いて物すごく、暫し我を忘れて歓呼の極に達し実に感慨無量、一行を始め平野氏の眼に玉の光るを見る。

 斯くて仮住居として木の間を利用し、三米四角の天幕を張り雨露を凌ぎ、周囲に薪を積み火を燃し、夜具の代りとし交代々々に起き出で見張りに立ち獣蛇に傭へ、七日の間地上に寝ね全く戦場にて露営の如く、其の間勇を鼓して道を拓き、橋を渡し、地理を調べ、平野氏の指揮に従ひ二組に分れ目的の事業に励む。

 先発隊員として何が一番苦痛であつたかに就き、重本智吉氏に問へば荷物運搬であつたと云ふ。組内の一名を留守番に残し後の者は全部荷物運びで、前後に銃を構へ虎狼に備へ、残余の者にて担げる限りの荷物を背負ひ、駅より目的地(三里)に着くに二日間を要し、重き荷物を背に一歩一歩牛の歩む如く運ぶ事三十日間、実に艱難そのもので、辛苦と云ふ文字は我々先発隊の為めに出来た字かとも思つたと云ふから、如何に難儀の仕事であつたかを窺ひ知るに充分である。此の間平野氏は道路開設を外人ぺードロ、チヨドールと云ふ者に請負はせ、九月上旬に至り完成を見、爾後荷馬車の便を見るに至れり。

 大正四年九月上旬平野氏は、各先発隊員に米作地として最も肥沃の土地を分割なし与へし為め、愈々各員の奮闘の幕は切つて落され、密林の伐採、山焼、跡片づけ、それがすんで蒔付け、除草と目の廻る様な活動を続け、やがて稲の出来栄えも美しく、七尺に余る陸稲は美事な黄金の波を打たせ、大豊作を夢見喜ぶも束の間、彼方に一人此方に二人と病床に呻吟する熱病者を見るに至る。

 大正五年二月には全家族罹病し、実に八十家族に余る者がマラリヤ病の囚となり、啻運命に委ねるの大悲惨事を見るに至る。以下は平野氏入植前後の項に述べたれば省略するも、先発隊員に依つて蒔付けし陸稲を収穫なすを得ざりし為め、平野氏は外人に交渉し辛うじて収穫れを終る爾来時流れて二十五年、今日の栄の礎に此の先発隊の辛苦あり。在住者は以て知る可し。

 註 本稿は先発隊員重本智吉氏に依而記載す
 因みに当時の先発隊員氏名
 大田長次郎  桜井初次郎  山崎愛次郎
 中田 三平  吉原八十松  徳永 治作
 重本 智吉  末谷 琢馬  久保 友一
 戸谷 仁造  樋口 仙蔵  山下 永一
 柳 卯太郎  岡田 達一  平川団四郎
 文野 数馬  前田 重作  青木 孫八