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2. 蘭学者の活躍

江戸時代の学問の一つに、オランダ語を通じて日本が受容した西洋の学問や技術と、それに対する研究である蘭学が存在した。それは、医学、天文学、本草、博物、植学、化学、地図、暦学などの自然科学を中心としている。はじめ、長崎のオランダ通詞によるオランダ語の学習が中心であった。その後、徳川吉宗のもと本草学の振興やオランダ文物の輸入が奨励され、青木昆陽、野呂元丈は吉宗からオランダ語学習を命ぜられ、蘭学の機運が醸成されていた。さらに、田沼意次が老中になると殖産興業政策を推し進めたこともその機運を助成した。福知山藩主朽木昌綱や、薩摩藩主島津重豪といったオランダ好みである「蘭癖」の大名も現れている。

蘭学興隆の大きな画期は、安永3年(1774)の『解体新書』の翻訳刊行にみられる、前野良沢、杉田玄白、中川淳庵らの西洋医学の導入であるといえる。江戸時代は家によって学問が受け継がれており、蘭学もその例にもれず、優秀な弟子によって伝えられた。この章では蘭学者たちの活動を、彼らの記した書物からうかがってみたい。

通詞たち

長崎の通詞は貿易交渉が主任務であるが、そのなかには医学、物理学などの学術を修得し、日本人に教えたり、蘭書を読解、翻訳著述する者も現れた。通詞出身の吉雄耕牛、本木良永、志筑忠雄、馬場佐十郎らのオランダ語の能力と訳業は著名である。オランダ通詞は蘭学興隆の陰の力となっている。

本木良永

本木良永の肖像
(藤浪剛一編『医家先哲肖像集』<658-159> より)

吉雄耕牛

吉雄耕牛の肖像
(藤浪剛一編 『医家先哲肖像集』<658-159> より)

天馬異聞

吉雄如淵(権之助)訳 写 1冊 <103-120>

  • 「天馬異聞」

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平戸オランダ商館時代の商館長クーケバッケルの日記のうち、島原の乱(1636-1637)に関わる部分をオランダ商館長ヘンドリック・ドゥーフが抄出し、それを長崎の通詞吉雄権之助(1785-1831)が日本語訳したもの。平戸オランダ商館は、島原の乱に際し、幕府からの要請で船を出し、反乱軍のたてこもる原城を海から砲撃して、乱の鎮圧に貢献したという。なお、「天馬」は、「天草」と「有馬」の略称の可能性がある。

天地二球用法

4巻 ウィルレム・ヨーハン・ブラーウ[著] 本木良永訳 松村元綱校 [江戸末期]写 4冊 <W383-10>

  • 「天地二球用法」

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オランダの地図製作者ヴィレム・ブラウが自分の作成した天球儀、地球儀についてオランダ語で解説した手引書(1633年刊)を、そのラテン語版(1633年刊)からのオランダ語訳(1666年刊)に基づき長崎通詞本木良永(1735-1795)が翻訳したもの。安永3 年(1774)成立。わが国に地動説を伝えた最も古い文献の一つである。

硝子製法集説

勃乙斯[ほか著] 馬場貞由(佐十郎)訳 写 1冊 <W387-N8>

  • 「硝子製法集説」

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長崎通詞馬場佐十郎(1787-1822)が、幕命に従ってボイスやショメールのオランダ語原書から撰訳したガラス製造法についての書物。文化7年(1810)成稿。未刊。江戸期におけるガラス製法関係の書物としては最も高度なものとされる。

前野良沢

前野良沢(1723-1803)

元姓は谷口氏。名は熹、号は楽山、蘭化。中津藩医前野東元の養嗣子となる。明和6年(1769)、青木昆陽についてオランダ語を学び、翌年長崎に遊学してオランダ通詞からもオランダ語を学ぶ。杉田玄白、中川淳庵らと『解体新書』を訳述する際、オランダ語の能力が最も高く指導的な役割を果たしたが、刊行するにあたり訳者としての名前を出すことを拒絶した。『和蘭訳筌』などの訳述に従事する。弟子に大槻玄沢、江馬元恭がいる。

前野良沢の肖像
(藤浪剛一編 『医家先哲肖像集』<658-159> より)

魯西亜大統略記: 帝記篇

前野蘭化(良沢)訳 [江戸後期]写 1冊 <W335-21>

  • 「魯西亜大統略記: 帝記篇」

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前野良沢編纂の歴代ロシア皇帝についての記述。その記述の元になったのがOude en nieuwe staat van 't Russische of Moskovische keizerryk(Utrecht, 1744)であるが、吉雄耕牛旧蔵の当館所蔵本(<蘭-567>)はその前半部を欠いている(次項参照)。なお、この『魯西亜大統略記: 帝記篇』は、吉雄耕牛訳『従魯西亜帝王支那北京帝都え之勅使道中日記』と合本になっている。

Oude en nieuwe staat van 't Russische of Moskovische keizerryk.

3-4. dl.:4-6 boek. Utrecht: J. Broedelet, 1744. 1 v. <蘭-567>

  • 「Oude en nieuwe staat van 't Russische of Moskovische keizerryk.」

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『ロシア・モスクワ帝国古今国家史』。本書は、前野良沢編『魯西亜大統略記: 帝記篇』の元になったもので、表紙に「Koozack」(幸作)とあるように吉雄耕牛手沢本である。ただし、この当館所蔵本は、ロシア古代史からピョートル大帝に至る、前半の部分を欠いている。なお、北海道大学図書館には完本が所蔵されている。江戸幕府旧蔵書。 

外祖前埜蘭化先生西洋禽獣写真

前野蘭化(良沢)[画] 1軸 <WA31-15>

前野良沢が書いた外国の動物の絵二面を掛け軸に仕立てたもの。良沢は江戸の蘭学者としては当代随一の人であり、医学ばかりでなく動物学にも関心を寄せ、オランダ語の動物学文献にも通じていた。伊藤文庫

杉田家

杉田玄白(1733-1817)

小浜藩医杉田甫仙の子。名は翼、字は子鳳、号は鷧齋。小浜藩医。前野良沢、中川淳庵らと『解体新書』を訳述し、安永3年(1774)刊行。家塾天真楼で大槻玄沢などの弟子を育てる。杉田家は、その後、家を継いだ伯元(勤)、別家独立した立卿(預)、その子成卿(信)など、蘭学で身を立てた人物が数多くでている。

杉田玄白の肖像
(『蘭学事始』より)

蘭学事始

杉田玄白著 東京 天真楼 明治2(1869)刊 2冊(合1冊) <YDM52922>

  • 「蘭学事始」

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『解体新書』翻訳出版の苦心など蘭学草創期についての杉田玄白による回想録。文化12年(1815)脱稿。幕末まで「蘭東事始」「和蘭事始」の書名を持つ写本で伝わる。本書は福沢諭吉が玄白の子孫杉田廉卿と木版で刊行したもの。これ以後『蘭学事始』の名で普及した。

杉田鷧齋先生贈小石大愚先生牘すぎたいさいせんせいぞうこいしたいぐせんせいとく

杉田玄白 [天明7(1787)] 自筆 1軸 <WA47-8>

小石大愚(1743-1809)は通称元俊、大愚は号。京、大坂で活動した医師で、天明3年(1783)には人体解剖を行った。玄白、玄沢と交友があり、これは小石が江戸に滞在していた天明7年2月25日(1787.4.13)に玄白が送った手紙。小石へ往診を頼んだ様子がうかがわれる。医学史家富士川游旧蔵。

和蘭医事問答

建部清庵問 杉田玄白答 杉田公勤(伯元)編 東都 須原屋善五郎 寛政7(1795)刊 2冊(合1冊) <210-248>

  • 「和蘭医事問答」

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一関藩の藩医建部清庵たけべせいあん(1712-1782)は、明和7年(1770)オランダ医学について疑問を感じて書簡を認め、門人衣関甫軒きぬどめほけんに託した。この書簡は安永2年(1773)江戸の杉田玄白にわたり、清庵の問いに対して感心した玄白は返書を作成、以後、両人の間でオランダ医学について文通が行われた。本書は清庵からの問い合わせ2通と玄白の返書2通を集録した往復書簡集。清庵の五男勤は玄白の養嗣子(伯元)となり、三男亮策、門弟大槻玄沢も玄白に入門している。

大槻家

大槻家は一関の藩医を勤めており、大槻玄沢が蘭学を学び、のち本藩である仙台藩医となった。蘭学者を含めて、多くの学者を輩出しており、玄沢の長男玄幹は蘭学者、二男は儒者の磐渓、孫の玄東は蘭学者である。そのほかに、磐渓の二男で『洋学年表』の著述のある洋学史研究者の修二(如電)、修二の弟で『言海』で有名な国語学者の文彦などの学者が出た。

大槻玄沢(1757-1827)

大槻玄梁の子。名は茂質、号は磐水。建部清庵たけべせいあんに医学を学び、その後杉田玄白、前野良沢に蘭学を学ぶ。仙台藩医のかたわら蘭学塾芝蘭堂をひらく。文化8年(1811)に出役として天文方訳員(蛮書和解御用)を勤め、ショメールの百科事典の翻訳に従事している。著述はここで紹介するもの以外に『蘭学階梯』『蘭説弁惑』『重訂解体新書』など、多数におよぶ。

大槻玄沢の肖像
(『大槻玄沢肖像』早稲田大学図書館所蔵 重要文化財)

大槻玄幹(1785-1837)

大槻玄沢の長男。名は茂楨。字は子節。号は磐里。長崎で志筑忠雄にオランダ語を学ぶ。文政6年12月(1824.1)幕府天文方の蛮書和解御用となる。『蘭学凡』『西音発微』などの著述がある。

六物新志ろくもつしんし

2巻 大槻茂質(玄沢)訳考、杉田勤(伯元)校 浪華 蒹葭堂(藏板)天明6(1786)序刊 2冊 <特1-104>

本書で取り上げている一角(ウニコウル)、サフラン、ニクズク、ミイラ、エブリコ(アガリスク)、人魚の六物は、蘭学者が関心を寄せていた代表的な薬物。蘭書の所説に基づき考証。六物それぞれには図がつけられており、一角はヨンストン、ニクズクはドドネウスの図による。白井文庫

大槻玄沢自筆書簡

[寛政9(1797)] 自筆 1軸 <WA25-83>

大垣藩の蘭方医である江馬春齢(元恭)(1747-1838)宛の手紙。江馬は杉田玄白、前野良沢に蘭学を学んでいる。 玄沢は寛政8年(1796)末に火事に罹災しており、書簡の前半でそれへの江馬からの見舞いにお礼を述べている。後半では玄白が相変わらず忙しい、良沢 が矍鑠 としているなどと記し、蘭学者たちの活動している様子がうかがえる。

蘭畹摘芳 初編

大槻磐水(玄沢)訳 大槻磐里(玄幹)・山村才助校 大阪 河内屋太助[ほか] 文化14(1817)刊 3冊 <特1-216>

大槻玄沢が門人、知友たちの質問に答えて、西洋の薬品、産物等について訳述し、門人が集録したもの。元は筆録されたものであったが、刊行の要望が強く、部分的に出版された。アロエ等19品目について漢文で記述。次編の内容も掲載されているが、刊行されなかった。白井文庫

宇田川家

津山藩医宇田川道紀の息子である玄随が蘭学を学び、さらに養子である玄真、その養子榕庵、興斎と蘭方医・蘭学者を輩出している。

宇田川玄随(1755-1797)

津山藩医。宇田川道紀の子。名は晋。字は明卿、号は槐園。はじめ漢方を学ぶも蘭学に転じる。桂川甫周、杉田玄白、前野良沢に学ぶ。『西説内科撰要』『遠西医方名物考』などの訳述がある。

宇田川玄随の肖像
(藤浪剛一編『医家先哲肖像集』<658-159> より)

宇田川玄真(1769-1834)

津山藩医。伊勢出身。本姓は安岡氏。名は璘。号は榛斎。宇田川玄随、大槻玄沢に学び、一時杉田玄白の養子となったが、宇田川家を継ぐ。稲村三伯の『ハルマ和解』編集に協力する。『遠西医範』などの訳述を行っている。

宇田川玄真の肖像
(藤浪剛一編『医家先哲肖像集』<658-159> より)

宇田川榕庵(1798-1846)

津山藩医。本姓は江沢氏。名は榕。馬場佐十郎らにオランダ語を学ぶ。宇田川玄真の養子となる。文政9年(1826)に天文方蛮書和解御用訳員となり、『厚生新編』編纂事業に加わっている。『和蘭薬鏡』といった薬物学の研究から『植学啓原』で西洋植物学を、『舎密開宗』で西洋化学を紹介。さらに自然科学のみならず、西洋の音楽、トランプにまでその関心がおよんでいる。

宇田川榕庵の肖像
(藤浪剛一編『医家先哲肖像集』<658-159> より)

西洋内科撰要 1-2 (『宇氏秘笈』第1冊)

[ヨハネス・デ・ゴルテル著] 宇田川槐園(玄随)[訳] 自筆 1冊 <WA21−14>

宇田川玄随は寛政5-文化7年(1793-1810)に、我が国最初の西洋内科翻訳書『西説内科撰要』(全18巻)を刊行したが、オランダ語原書はJohannes de Gorter: Gezuiverde geneeskonst …(Amsterdam, 1744)である。本書は玄随が原書の1-3 hoofdstuk を筆写し、ところどころに日本語訳をつけたもので、翻訳書の巻1-2の部分である。文政5年(1822)には、宇田川玄真らにより『増補重訂内科撰要』が刊行されている。見返しに「宇興」(宇田川興斎 飯沼慾斎三男 宇田川榕庵の養子1821- 1887)の識語が張り込まれている。

医範提綱図

宇田川榛齋(玄真)[訳] 亜欧堂鐫 風雲堂(蔵版)文化5(1808)刊  1帖 <WB38-6>

宇田川玄真の講義を門人の諏訪俊(藤井方亭)が筆記した『西説医範提綱釈義』文化2年(1805)の附図。日本初の銅版解剖図。

理学発微

緯索句イサク智利遠チリオン著 宇田川榕庵訳 文政8(1825) 自筆 1冊 <WA21-27>

アムステルダムの出版者Isaak Tirionの出版したJ. T. Desaguliers: De natuurkunde uit ondervindingen opgemaakt(1736-51)のうち、気圧計、温度計の部分を訳したもの。デザギュリエ(1683-1744)はイギリスの科学者。フランク・ホーレー旧蔵。

植学啓原

3巻図1巻 宇田川榕庵著 江戸 須原屋伊八[ほか] 天保8(1837)刊 3冊(合1冊) <W392-N1>

  • 「植学啓原」

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初版本は天保5年(1834)刊。漢文の植物学紹介書。リンネの24綱目分類による植物分類、根や茎葉といった植物の分類形態を記述し、生理、生化学におよぶ。各種蘭書の図を利用。植学啓原図として色刷木版画21図を添える。大学南校、文部省、教育博物館旧蔵。

舎密開宗せいみかいそう

賢理ヘンリー著 篤隆母斯獨爾弗トロムスドルフ訂 衣百乙イペイ再訂 宇田川榕庵重訳増注 江戸 須原屋伊八 天保8-弘化4(1837-47)刊 7冊 <特1-855>

化学の入門書。舎密はオランダ語chemie の音訳。ヘンリー(W. Henry)のElements of experimental chemistry(1799)をトロムスドルフ(J. B. Trommsdorff)が独訳・増補し、イペイ(A. Ijpeij)がオランダ語訳・増補をしたのが原書である。イペイの蘭書の翻訳にとどまらず、ラヴォアジエ(A. L. Lavoisier)の著書のオランダ語訳等を参考引用した著述であり、西洋の化学を体系的に紹介している。白井文庫

生植全書

宇田川榕庵著 自筆 3冊 <WA21−22>

西洋植物学に基づいて、桜などの各植物について、種類、名称、形状、考証などの項を立てて、それぞれ説明している。比較的まとまっている項目とメモ書きのところとが残されている。伊藤文庫

[宇田川榕庵名刺](『内科撰要』附録) 

1枚 <WA21-14>

「W. JOOÄN.」と刷られたローマ字の名刺。包まれていた紙に「伊藤圭介先生所持長崎出島蘭館シーボルト面会ニ往来ノ「ポルトフォリオ」(紙ハサミ)中ニアリシモノ」とある。『生植全書』に挟まれていた。

高橋家

高橋至時(1764-1804)が麻田剛立に暦学を修め、天文方に召される。その長子が景保であり、蘭学の知識を用いて天文方で活躍した。二男の景佑は天文方の渋川家に入り、同じく天文方で活躍している。

高橋景保(1785-1829)

高橋至時の長男。字は子昌、通称は作左衛門、号は観巣。父に天文学、暦学を学び、跡を継いで天文方に勤めた。伊能忠敬の測量を監督。シーボルト事件に連座して獄死。グロビウスというオランダ名も持っている。

高橋景保 蔵書印
高橋景保 蔵書印

渋川景佑(1787-1856)

高橋至時の二男。景保の弟。通称は助左衛門。号は明時館主人など。伊能忠敬に測量術を学ぶ。天文方渋川家の養子となる。高橋景保を助けて、至時の遺業ラランデ暦書の訳解に従う。シーボルト事件で景保逮捕後にもその業を続け、『新巧暦書』を作成している。

新鐫総界全図しんせんそうかいぜんず 日本辺界略図

高橋景保[作] 文化6(1809)序刊 1軸 <本別4-3>

幕府は、文化4年(1807)に天文方高橋景保に地図作成を命じ、景保は銅版技術を試すために次項『新訂万国全図』の試作図として『新鐫総界全図』を作成した。亜欧堂田善による銅版画。大槻玄沢の跋文がある。西洋でいう西半球を右側に置いて「東半球」と称し、『新訂万国全図』の手書き図と同じ構図である。『日本辺界略図』は、『新鐫総界全図』では日本周辺が簡略化されているためにそれを補う。当時は間宮林蔵のカラフト探検が終わる前であり、カラフトの北半分の東側は点線で示している。後者は、シーボルト『日本』に収められた。

新訂万国全図

高橋景保[作] [文化13(1816)]刊 2舗 <寄別5-8-1-8>

文化4年(1807)、幕命を受けた天文方高橋景保が、天文学者間重富や通詞馬場佐十郎(文化5年長崎より江戸招致)の協力を得て完成した図で、序文年紀の文化7年(1810)に、ひとまず手書き図(内閣文庫蔵)として上呈された。その後、さらに東アジア一帯の改訂が行われ、文化13年(1816)には銅版図として公刊された。刊行年の記載はないが、その時期は、大槻玄沢の『蘭訳梯航』(1816成)などによって確認できる。間宮林蔵による、いわゆる間宮海峡横断の探検(1809)の成果が生かされている。「新鐫総界全図」と同じく西洋でいう西半球を右側に置いて「東半球」と称したり、京都中心の半球図を添えるなど、日本人の作品としての独自性の確立に意を用いている。なお、当館所蔵のものは刊行当時の表装を改めて2面に分離している。亜欧堂田善の銅版画。

遭厄日本紀事そうやくにほんきじ

12巻附録2 巻 兀老尹ゴロウニン〔著〕 馬場貞由(佐十郎)・杉田予(立卿)・青地盈(林宗)訳 高橋景保校 文政8(1825)写 20冊 <W221-17>

  • 「遭厄日本紀事」

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ロシアの海軍軍人ゴローニンが日本での幽閉生活を送った間の見聞をつづったもの。文化8年(1811)、ゴローニンらは、択捉、国後を測量していた際に捕らえられ、松前、函館に2年2カ月幽閉された。文化10年(1813)には馬場佐十郎と足立佐内が派遣されロシア語を習っている。原書はゴローニンの帰国後、1816年にロシア語で刊行、翌年ドイツ語に訳され、これがオランダ語に重訳された。その図書が文政4年(1821)オランダ商館長によって江戸にもたらされ、翌年7月に馬場佐十郎が翻訳を着手。馬場はすぐに病没するも、高橋景保は杉田立卿、青地林宗に翻訳を続けさせ、その完了後、全巻を校訂の上、幕府に進呈した。

寛政暦書

35巻 渋川景佑[ほか編] 写 35冊 <ゑ-45>

寛政9年(1797)に高橋至時は、西洋暦学を漢訳した『暦象考成後篇』に範をとり寛政の改暦を行ったが、その原理を記述しえなかった。その後、高橋至時、景保とその作成を続けたが完成できず、幕府は天保10年(1839)渋川景佑にその撰述を命じた。本書は天保15年(1844)に完成し、幕府に進献した。当館本は、表紙は葵紋を織り出した布貼り、題箋は金銀泥で雲型を摺り出すなど、装丁も豪華である。景佑のほかに、天文方の山路諧孝、足立信頭、吉田秀茂が主な編著者。第19巻から第21巻に観測儀器の図を載せる。

箕作家

箕作貞固が津山松平家の藩医に抱えられ、その三男阮甫が洋学を修めた。その後、同家は、婿養子となった地理学の省吾、省吾の子で法学者の麟祥、同じく阮甫の婿養子となり津山藩医で教育関係で活躍した秋坪、秋坪の子である西洋史学者の元八など、子孫に洋学者、学者を多く出す。呉秀三、菊池大麓等も親戚である。

箕作阮甫(1799-1863)

津山藩医。名は虔儒、字は庠西、号は紫川。儒学を古賀侗庵に、蘭学を宇田川玄真に学ぶ。天保10年(1839)、小関三英の後に天文方の訳員となり、外交文書の翻訳にもあたる。その後蕃書調所設立に関与し、教授となる。天文方出仕後は、医学以外にも天文、地質、物理、兵器と幅広く翻訳をおこなっている。地理歴史を編訳した『八紘通誌』、杉田立卿、宇田川榕庵等と天文方で翻訳した『海上砲術全書』、海外事情を載せる『玉石志林』なども公務で翻訳している。

箕作阮甫の肖像
水田楽男『洋学者宇田川家のひとびと』<M32-E42>より

八紘勝覧 初稿

箕作阮甫[編訳] 自筆 1冊 <箕作阮甫・麟祥関係文書14>

  • 「八紘勝覧 初稿」

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ヨーロッパ各地の名所旧跡などを集録したもの。Issac TaylorのScenes in EuropeをJohannes Olivier がオランダ語に訳したMerkwaardigheden uit elkland van Europa(Amsterdam, 1827)の翻訳。表紙には「Merkwoordigheiden uit elkland van Europa」「伊薩楷泰羅児Isaak Taylor」、「伊 阿里虚児J.Oliwer繙訳」等の書き込みがある。

西史外傳

箕作阮甫訳 自筆 2冊 <箕作阮甫・麟祥関係文書44>

  • 「西史外傳」

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弘化2年(1845)以降訳。全体が6編にわかれ、それぞれ数名の伝記が含まれている。ナポレオン、ピョートル1世、エカテリーナ1世、ワシントン、クック、ロイテルなど。蘭書・蘭文よりの抄訳集。

種痘畧觀

箕作阮甫訳 安政4(1857)序 自筆 1冊 <箕作阮甫・麟祥関係文書4>

  • 「種痘畧觀」

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ポンペによる天然痘、牛痘種痘についての著述の翻訳。原著は安政5年(1858)に出島で刊行されたKorte beschouwing der pokziekte en hare wijzigingen …で、最初のページはその表題紙の翻訳。緒言によると出版して世に広める考えがあったらしい。その末には「出島にて 一千八百五十七年第十二月二十日 安政四年丁巳十一月五日」とあり、稿了の日か。

蛮社の獄

渡辺崋山とその同志へ弾圧を加えた事件(天保10年(1839))。当時、崋山を中心とする蘭学研究の集まりには幕臣も多く参加し、幕府の目付鳥居耀蔵(幕府の教学を司る林家出身)らによって敵視されていた。鳥居らは幕臣の江川太郎左衛門による江戸湾測量へ崋山が関与することを知り、彼の身辺を捜索し部下に密告させた。崋山は無人島への密航関与、幕政批判の容疑で町奉行に召喚され(後に在所蟄居の判決)、高野長英は自首(永牢の判決)、小関三英は自殺した。

渡辺崋山(1793-1841)

田原藩家老。名は定静、字は伯登、子安、通称は登、別号に全楽堂など。画は谷文晁の門に学び、儒学を佐藤一斎、松崎慊堂に学ぶ。家老職として太平洋に面している田原藩の海防のために蘭学の知識を得るために高野長英、小関三英ら蘭学者に翻訳を依頼し、彼らと交流を深める。西洋の地理書等により海外の事情を知り、それをもとに幕府を批判した書もある。蛮社の獄により在所蟄居となり、国元に移され田原にとどまる。天保12年10月11日(1841.11.23)自刃。

渡辺崋山の肖像
(『渡辺崋山像』田原市所蔵)

高野長英(1804-1850)

本姓は後藤氏。名は譲、号は驚夢山人。奥州水沢の藩医出身。江戸に出て蘭方医吉田長淑の門に学ぶ、長崎に遊学しシーボルトのもとで研究・学習を続ける。江戸で崋山らと交流。蛮社の獄にて投獄され、永牢の判決を受けたが、弘化2年(1845)脱獄。郷里、宇和島藩などに潜行していたという。江戸で捕縛時に死去。『医原枢要』『三兵答古知幾』等を訳述している。

高野長英の肖像
(『椿椿山筆 高野長英画像』高野長英記念館所蔵 重要文化財)

小関三英(1787-1839)

医師。鶴岡出身。名は貞義、好義、字は仁里。通称は貞吉、号は篤斎。蘭方医吉田長淑に蘭学を学ぶ。和泉岸和田藩医を経て天保6年(1835)天文方に任ぜられ、『厚生新編』の訳に従事している。蛮社の獄の際、捕縛される前に自殺した。『牛痘種法』『泰西内科集成』などの訳述がある。

西洋の事情の収集
新撰地誌

[小関三英訳] 自筆 2冊 <寄別14−2>

小関三英自筆訳稿本。原書はオランダ人プリンセン(Pieter Johannes Prinsen, 1777-1854)の『世界地理書』(Geographische oefeningen)第2版(1817)。上下2冊、上は『新撰地誌第二稿』の一から三、下は四、五。天保7年(1836)成稿。渡辺崋山旧蔵書。

新釈輿地図説

[小関三英訳 渡辺崋山写・校] 自筆 1冊 <WA21-5>

蘭書から小関三英が抄訳した『新撰地誌第二稿』の一部分を崋山が筆写校正したもの。冒頭の部分は三英の訳文に相当の修訂が加えられ、欄外には書き込みが記され、崋山の筆写校正の意図が窺える。蛮社の獄(天保10年)の際に幕府が没収したもので、当館所蔵の「旧幕府引継書」のなかに含まれていた。

那波列翁勃納把爾的伝なぽれおんぼなぱるてでん

リンデン著 小関三英訳 田原 松岡氏清風館 [安政4(1857)]刊 1冊 <W346-18>

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ナポレオン1世の伝記。『那波列翁伝』ともいう。江戸時代、ナポレオンに注目した人物は多い。三英が翻訳したものが写本で流布されており、崋山の門人松岡台川が諸写本を校合し、没後18年経って木活字本で刊行。菊池樺郷の「波利稔王像」(ナポレオン肖像)と頼山陽の「仏郎王歌」を掲げる。松岡の附言に原書はリンデンの撰とある。J. van der Linden: Het leven van Bonaparte, naar het Fransch, 4 Stukken(Amsterdam, 1803)の訳か。

地学示蒙

青地林宗訳 写 1冊 <寄別14-24>

地理学入門書。原書はGeographisch zakboekje voor de Nederlandsche jeugd(Leiden, 1820)。題箋は崋山筆。巻首に「田原藩士渡邉登藏書記」の印記がある。巻末に「天保丙申十一月念九校了」と崋山の朱筆の識語あり。渡辺崋山旧蔵書。

崋山・長英の著作
慎機論(『不忍叢書』2所収)

渡辺崋山著 写 1冊 <183-384>

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天保9年(1838)、幕府はオランダ商館長から提出された文書により、前年の天保8年(1837)に砲撃を加えて撃退した外国船が、英国船(実際はアメリカ船)モリソン号といい日本人漂流民の送還を企図していたことを知った。幕府内ではそのような場合の対応について諸有司に諮問がなされ、その中で評定所は打払いの継続を答申した。天保9年10月(1838.11)に評定所の答申案を知った崋山は、それに対して、世界情勢を説き起こして幕府の鎖国政策を批判するまでに筆が及んだ。しかし、その内容が過激であると自ら判断して執筆を中止し、未完の原稿のままで残されていた。蛮社の獄の捜索の際に発見されて、幕政批判の証拠となった。

ゆめもの語(戊戌夢物語)

高野長英著 写 1冊 <箕作阮甫・麟祥関係文書84>

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長英も崋山が『慎機論』の執筆動機となった情報を同時に得ており、天保9年(1838)、幕府による外国船への打払策を批判し、善後策を論じた。写本で流布して反響を呼んだらしい。朱は崋山による註である。蛮社の獄の取り調べの際に、幕政批判の証拠とされた。

蛮社の獄記録
蛮社遭厄小記ばんしゃそうやくしょうき

高野長英述 写 1冊 <191−703>

  • 「蛮社遭厄小記」

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天保12年(1841)春、獄中から郷党宛に高野長英が自己の無実を弁じたもの。日本への西洋人の渡来からこのたびの一件にまで及んでいる。本書の記述が、藤田茂吉『文明東漸史』(明治17)により、蛮社の獄の通説となる。本写本の来歴は不明である。

三宅土佐守家来渡辺登一件之儀ニ付大草安房守御答書之趣評議(『御仕置例類集茶表紙後集6』所収)

写 <817-3>

旧幕府引継書のうち『御仕置例類集』(天保類集)に収録。天保10年(1839)、北町奉行大草安房守高好が蛮社の獄を取り調べていた際に、老中へ伺いを立て、それへの指令の参考とされた評議書。三宅鋼蔵(友信1807-1886)、中川忠五郎(長政 幕臣)、川路三左衛門(聖謨 幕臣1801-1868)への捜査を行わないこと、密告者である花井虎一は処罰しないとの評議を記している。

コラム オランダ人の図 四十二国人物図説
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2巻 西川如見著 東武 淵梅軒 享保5(1720)刊 2冊 <240-35>

長崎の人西川如見(1648-1724)が著し、刊行した世界民族図誌。オランダ人を含む42の国民ないし種族を図入りで説明している。本書の記述のもとになったのは、西洋の人物図入りの世界地図であり、それで足りない部分、特に東アジアについては、別の資料に拠ったようである。本書は、江戸期の人々が海外認識を深める上で大いに利用されたらしく、写本でも流布している。