史料にみる日本の近代 -開国から戦後政治までの軌跡-

新日記 昭和25年~27年

新日記 昭和25年~27年

※9コマ~12コマめのみテキスト化しました。



【9コマ~11コマ1行目】
昭和二十六年

鳩山を中心 1

六月一日
竹葉に於ける山下太郎の会で鳩山、安藤、大久保、牧野、益谷、大野、石井。いよいよ鳩山の追放解除も近々に行はれそうになつて来た。その暁、新聞等に意見を発表する問題につき懇談。書いたものを出す案、話丈けにする案、その内容、その後の遊説等につき、十一日鳩山邸にて打合会を開く事にきめる。

六月十一日
鳩山邸、安藤、大久保、三木、岩淵、石井、山下、鳩山。
午餐後、
三木「鳩山や僕などが解除になつてどうするか。自由党に帰るか帰らぬか問題だ。自分は当分帰らずに全国に遊説して広く同志に呼びかけるが良いと思ふが如何」と。
岩淵これに共鳴。
大久保、安藤、反対、
「他の党に入るのぢやない、自分の作つた党ぢやないか。帰るのが当然と思ふ」。この線にそつて激しく論議がなされた。
鳩山も三木と同じやうな意見をのべる。
石井「双方の話をきいてをると、少し飛躍しすぎてをるやうに思ふ。解除になつたら、まづ鳩山、吉田の会見が行はるべきである。そこで二人が胸襟を開いて話し合つて、ピツタリ意見が合へば、鳩山は吉田に代つて、自由党を中心に又広く天下に呼びかけて強力な保守党をつくるべきである。又意見が合はず吉田が譲らぬといふ時は、そこで旗上げをする事を考るべきで、仮説の下に論議しても無意味だ。何ををいてもまづ鳩山、吉田会見である」。
これには安藤、大久保、三木みな賛成。
岩淵反対。鳩山は、
「吉田と逢ふのかい」と不平そうである。
「勿論これが第一だ」と僕。
その話をすすめてをる途中鳩山、便所に立つたが、女中の声で、
「先生が斃れました」といふけたたましい叫びに、皆ギヨツとした。万事休したと思つた。
皆便所にかけつけて行く。僕はじつと坐つてゐた。家人よ医者よと皆奔走してをる。鈴木仙八の顔も見へる。
医者が来た。四人。
結論は軽いが脳溢血。一ヶ月位静養を要すといふ。
私はこれを聞いてその夜の汽車で約束の旅、大阪に向つた。

【11コマ3行目~12コマ】
六月二十九日
赤坂ひさご家。河合良成に招かれて、三木、平塚、石井(石橋欠)。
三木の話、
自分は鳩山中心の独立論者だつたが、彼れが斃れてから変説した。自分も鳩山も、みな自由党に入党すべしといふ事にきめた。自分は増田が再入党をすすめにきた時、「僕は当然自由党員」だと主張した。増田が首相に相談してそれで良いといつて来た。
鳩山が良くなるまで、そして活動出来るまで吉田に頑張つてもらはぬと困る。その為めにはわれわれ鳩山系のものは出来る丈け吉田を守り立てて行く必要がある。石橋君も政令審議委員を引受けてもらいたいが断つたときいて残念でならぬ。たれか一人解除組から大臣を出して吉田鳩山の連絡と、吉田なげ出しの止め役を引受けてもらい度い。それには、人格者、決断力ある人、秘密の守れる人でなければ吉田は受けつけぬ。平塚か石井かやつてもらい度い。その手は僕が打つ。その人は仲間から裏切り者呼ばはりされるかもしれぬが大事な役だから辛抱してもらい度い。広川の態度も変つて来てをる。小沢はたへず話に来る。諸君の賛成を得てこれをやつて見度い、云々
みな賛成の意を表する。
[欄外]僕が解除になつた時は佐藤幹事長が来て「あなたは当然自由党員だから再入党の手続をとりませぬ」といつて来た。
いろんな情報を綜合して見ると、解散は案外早いかもしれぬぞ。吉田は次の選挙に出馬する意志はないやうだ。(宇田入党と林との話)

七月一日
竹葉亭、大久保、河野、安藤、三木、石橋、石井。
一、三木、鳩山等々みな自由党に帰る事。
一、前田、大麻の入党は必然と思はるるが、三木と永野護の話にて彼等が鳩山に反対せぬ証文を取る。
一、吉田は鳩山に円満に総裁を譲るものと思ふ。その為め鳩山系のものの動きを反吉田に持つて行かぬやうに警戒する事。
一、石橋は政令審議委員(未だ断つてないといふ)を是非引受ける事。
一、閣僚の話あれば引受ける事。
一、媾和後解散説も強く主張せぬ事、吉田ハ批准後解散の腹と思ふ。これを認める(来年
春頃までに解散)。
一、岩淵を警戒。
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