史料にみる日本の近代 -開国から戦後政治までの軌跡-

清浦内閣成立ノ顛末

清浦内閣成立ノ顛末

※ 原文中の圏点(○など)は、下線による表記に変更しました。



【1コマ~5コマ】

清浦内閣成立の顛末
大正十三年一月筆記
大正十二年十二月二十七日帝国議会開院式の当日虎の門外に於て不祥事件突発す。山本権兵衛首相以下閣員一同責を負ふて総辞職をなす。越へて翌年一月一日後継内閣組織の大命子爵清浦奎吾に降る。清浦子爵熟慮の余裕を奉答し、内閣組織の事に当る。
山本内閣総辞職と決するや後継内閣に関し世論囂々、政友会は其の総裁高橋子爵に大命降下のあるへきことを期待し、憲政会は加藤子爵に大命降下すへきことを唱へたり。然るに大命は是等政党首領に降らすして清浦子爵に降りたるを以て政党者流は失望落胆、世論の紛糾を来たせり。清浦子爵は組閣に付き種々の計画をなしたるか、一月三日に至り拝辞の意を決したるものの如く、摂政殿下に拝謁し、拝辞の言上をなさんと決したるやに伝ふ。余は同日朝、此の事を北里柴三郎博士より聞き尋て国民新聞号外を以て承知したり。然るに子爵は宮中に於て牧野宮相、平田内府と会見し、更らに摂政殿下より優諚を拝したるや、子爵は万難を拝して内閣組織の決意を固めたるものの如く、宮中より退出して華族会館に於て研究会幹部数氏と会し、内閣組織の決意を述へ、之か援助を求めたるものの如し。研究会幹部の間に於ては種々の論議ありたるか、結局清浦内閣の成立を援助するに決し、之か斡旋尽力の労を採ることとなれり。
一月四日午後六時清浦子より電話にて明朝八時面会したき旨の申込あり。
是れより先き山本内閣総辞職の事あるや、余は後継内閣は政友会総裁高橋子によりて組織せらるへきか至当ならんも、同会の現状に於て果して可能性あるや否を疑ひ、或は三たひ超然内閣を見るのを止むを得さるに至るへく、結局清浦子爵に大命降下のことあらんかと考へたり。果して元老は清浦子を推薦奉答したり。当時余は惟へらく、清浦子に大命降下あるに於ては、清浦子たる者、決然立ち其の任に当り如何なる万難を排しても聖旨に酬ひ奉り、中途挫折し往年の流産内閣の徹を再ひするか如きことなからんことの決意を持つか、然らされは組閣に関し何等手を下すことなく時勢に鑑み超然内閣の非なることを奉請し拝辞の止むなきことを奉答するかの二途何れかに出つるの外なきことを考へ、清浦子の門に出入する二、三氏に此の意を致し、子をして其の進退行動を誤らさらしめんことを以てしたり。然るに清浦子は組閣の意志あると見へ、或は有松、小橋氏等を招致し、或は陸軍方面に陸相候補者を物色し着々歩を進めつつあるものの如し。余は斯くする以上は必らす組閣の目的を達成し中途挫折するか如きことなく以て聖慮を安んし奉らんことを切望して止まさりき。当時清浦邸に出入し居たる山本久顕、飯野吉三郎の如き、屡余の門を叩き、余の入閣を勧誘し(清浦子の意を体したるや否を知らす)、殊に飯野の如きは清浦子の伝言なりとて外相には何人を擬すへきや余の意見を聞きたしとのことを以てしたり。余は是等の人々には次の如く話したり。余は清浦子には多年の眷顧を受く。入閣は敢て望む所にあらすと雖、閣外に在て必らす子を援助せんことを誓ふ。子個人の立場より之を見れは今日首相の地位に就くこと必らすしも栄誉にもあらす、又策の得たるものにあらさるへきも四囲の状勢は子の決起は止むを得さるへし。希くは万全の方法を講して此の難局に当られんことを望むと。余は常々清浦子とは往復交際し政治上の意見を交換したることあるも、今回子の大命を拝して以来一回も会見せす、正月の回礼にも態と遠慮して行かす。友人中には子を訪ふて意見を述へ、子を援くる方至当ならんと言ふ者もありたるも、余は子に迷惑を懸くるを恐れ特に訪問せさりしなり。然るに子より会見の申込ありたるにより約を履み、五日午前八時子を大森の邸に訪ふ。子は直ちに余を客室に引見し、内閣組織の大命を拝したる以来の顛末を詳細に語り、元来自分は政党を基礎とする内閣の出現を可なりと信するも、元老は現時の政党にては政党内閣を不可なりと認めたるにや、自分を推薦奉答して内閣組織の大命を降さるるに至れり。自分は一旦之を拝辞せんと考へたるも、優諚黙止し難く、遂に之を御受けするの止むなきに至れり。就ては君は内務大臣を引受けられ且副総理と

【6コマ~10コマ】

して余を援助し此の難局に当られんことを切望すと説かれ、懇切に且熱誠を篭めて勧誘せられたり。余は子の此の誠意に感激し、安全にして栄誉の地位たる枢密院議長を去り老躯を捧けて此の難局に当るの止むを得さるに至りたる子の苦衷を諒としたり。子の此の勧誘に対し政治上の意見を交換したる後、二、三の事実を質し置くの必要を認め、子に問ふて曰く、閣下か大命に奉答せんとするの経緯は之を諒承したり。併し一応承り置きたきことは閣下か三日朝研究会の幹部に対して拝辞の意を洩らし、其の後赤坂離宮に参内し摂政殿下に拝謁したる上、再ひ内閣組織のことに決心せられたりと伝ふ。其の真相は如何。子答へて曰く、摂政殿下に拝謁したる際には決して拝辞したるにあらす。単に組閣に関し幾多の困難あることを言上したるに過きす。殿下より折角努力せよとの優渥なる御言葉を賜りたるにより自分は全力を尽して組閣に当らんことを決心し、研究会幹部諸氏にも其の意を伝へたりと。次に余は清浦内閣の閣員たるへき人名を問ひたるに、大体後日任命せられたる氏名を洩らされたるか、只其の中に有松英義氏もありたり。是に於て余は曰く閣下の御趣旨は諒承したり。只政友会の諒解を得ることの必要ありと考ふるにより同会の領袖数氏と会談の上御答へすへしと述へ大森の邸を去れり。去るに臨み子は海軍大臣に就ては山本権兵衛伯の意見を聴くの必要ありと思ふか、君は帰途同伯を訪ひ意見を聴かれたしと言はれたるにより之を諾し分れたり。依て帰途直ちに山本伯を訪ひ清浦子の言を伝へ海軍大臣の後任者に就き伯の意見を質したり。伯は海軍大臣としては三人の候補者ありと思ふか、兎に角現大臣財部の意見を聞かるる方宜しからんと述へ、尚ほ余語として外務大臣、陸軍大臣の人選に関し注意を与へられたり。山本邸を辞して後、山本達雄男を二番町の邸に訪ひ、清浦子より入閣の勧誘を受けたる事情を語り、男の意見を質したるに、男は大に賛成し是非承諾せられんことを望む、元老も清浦子を推挙し、清浦子も枢府議長の職を抛ち此の時局に当らんとするに於ては情義として之を援けさる可からす。之を断る理由なしと思ふ。殊に内務に君が据れは内閣の重きをなすことなれは是非引受けられたしと。余は御意見は分りたるか、政友会の態度は如何になるへき乎と問ひたるに、未た能く分らさるも大体反対する様なことはなからんと語られたり。余は山本男の意を諒し、其の邸を辞し、次に中橋徳五郎氏を訪ひたり。氏は即座に之を賛し、実に甘くいった、是非やって呉れと、極めて率直の挨拶なり。且曰く、実は昨夜鳩山一郎来り鈴木喜三郎入閣の話ありたるにより余は大に之を勧め置きたり。君と鈴木か入れは政友会は満足なりと。次に床次竹二郎氏を訪ひたるに不在なりしにより、野田卯太郎氏を訪ひ、清浦子より勧誘のことを語りたるに、氏の言語明瞭ならす。余語多く要領を得さりしか、最後に、或は喧譁することになるかも知れないか党派のことは別とし国家の上より見れは、君か内務に入ることは最も賛成だ、外に人はないじゃないかと語られたり。之にて氏と分れて次に高橋是清子を訪ひたるに、折柄政友会幹部会開会中なりとのことなりしか、直ちに面会したるにより、清浦子との会見のことに付き子の意見を求めたり。子は自分は政友会総裁としては何とも言へぬ。只個人として言へは止むを得ないことと思ふ。君の立場は随分苦痛ならんか、併し公人としては斯かる境遇に逢うことは徃々あることにて、斯かる場合に只一身の利害得失のみを打算して居る訳には行かない。犠牲になることも覚悟しなけれはならないと。余は此処て子の言を遮り、もー夫れにて宜しい。閣下は政友会総裁の地位に居らるるのてあるから夫れ以上の御答へはなし得られまい。又可否の御意見を承ることは無理かも知れない。今日は余か特に来訪して此の顛末を御聞きに達したと云ふことに御承知を願ひたしと述へたるに子も快く之を諾して分れたり。
正午日本倶楽部にて食事をなし、約により清浦子を首相官邸に訪ひ、山本伯との会見の顛末を報告したり。清浦子は余に財部海相を訪ひ海軍大臣後任者のことを相談せられんことを請はれたるにより、余は直ちに財部氏を訪ひ清浦子の依頼を取り次きたり。財部氏は海軍に対する好意を謝し、自分は村上大将を最適任者と認むと述へ、若し御依頼とあれは自分より之を同大将に伝へ清浦子に面会せしむへしと語られたり。余は、清浦子に之を伝ふへし。清浦子にして同意なれは更に電話にて御願ひすへしと約し、去て之を清浦子に通したるに、清浦子は直ちに財部氏に依頼の電話をなしたるものの如し。首相邸を辞し五時頃床次竹二郎氏を訪ひ、意見を交換したるに、氏は止むを得さるへし、やって呉れと言ひ、院外団の者等か憲政擁護運動をなすとかにて今日も集りたる様子なるか、幹部のものは誰も行かぬ。横田位か行ったかも知れぬと語りたり。
五日午前午後に渉りて政友会重立者と会見したる状況は以上の通りにて、余の入閣に就ては大した反対もなき様なれは、余は加藤友三郎内閣のときと同しく結局諒解を得て政局を安定せしむることを得ると観察したり。
是れより先き清浦子と会見したる後、余は在興津の西園寺公に電報を発し、公の意見を求めたるに、即日公より「是非入閣し国家の為め努力せられたし」との返電あり。
此の如く諸方面の意見は清浦内閣の成立を止むを得さるものとし、余の入閣に就ても大体反対するものなきを以て余は稍入閣の決心をなすに傾きたり。只一人絶対に反対したる者あり。即ち上杉慎吉博士是れなり。博士は余の入閣の報伝はるや特に使を以て左の書状を送られたり。
拝啓 昨夜或筋より閣下御入閣の由伝聞。率直に申上候へは多少意外に感申候事に有之候。今朝参上不遜を不顧愚存陳述致度存候得共、御邸出入繁敷事と存候間、態と差控以書面申上候。閣下の御性格として清浦子爵より縷々入閣の慫慂有之候はは、為国家御一身を顧みられす御決意相成候はんかとも存候へとも、小生として

【11コマ~15コマ】

は過日来屡申上候如く閣下に対し大事を期待致居候ことに有之、他日の機に乗し、閣下を戴きて報国匡済致候秋必可有之を待居候次第に有之候。然るを若し閣下今回御入閣有之候はは、第一には閣下御自身の大を成し候所以に無之と存候。若し当初より清浦子爵の御相談を受居られ候ならは兎に角、初め同子爵に対し閣下を推薦したる者に対しては排斥的態度を執りなから、今日曲りなりにも内閣を組織せさるへからさるに至りて突如御入閣を勧誘するは、或は小生如き血気の感情かとも存候へ共、頗る諒解難致ことかと存候。愚見は今朝赤池君に申置候間、御聴取被下候事と存候へ共、朝野人無きの今日、我々と致しては閣下か泰然不動、飽く迄御自重御自任被下、大雄飛以て小生共の希望する合理的真政治を少壮有為の人物を率ゐて実行致され候時機を御待被下候こと切に希望に不堪ることに有之候。次に実際政局のことは極めて不案内に候へ共、清浦内閣に対しては輿論の非難頗る盛に起り候ことに可有之、結局多事の裡に短命に終候事、山本内閣の如くならんかとも憂へられ、政友会内部の空気も如何に動き候哉不測と存候。此れ等は小生の可申上事に無之候へ共、唯閣下の万全無傷に御出被下候ことを冀ふの余申上候ことに有之候。心中御諒察被下小生の意唯国家に有之候ことは十分御承知と存候。一書生の妄言不遜を憚らさるを御咎無之様奉願候。今日は差控居候へ共、不日参邸無礼の御詫申上度存候。恐々頓首。
甲子正月五日  上杉生
水野大人几下
博士は更に五日午後六時頃来訪、余に対し極力清浦内閣に入閣の不可なることを説きたり。余は博士に対して左の如く答へたり。
君の御懇篤なる御忠告は衷心より之を感謝す。余は大体に於て君と同感なり。露骨に余の心事を告白すれは余は清浦子爵の内閣組織を歓迎せす。余は固より此の内閣に入るを望ます。然れとも実際政治は理想通りには行かす。今朝清浦子に面会したるに子は懇々熱誠を以て組閣の止むを得さるに出てたる事情を縷陳し、子の出馬は必らすしも子の本意にあらさるも、四囲の事情と大命の優渥とは子をして決然起て此の難局に当るに至らしめたるものの如く、余の入閣を切望すること特に熱情的に出てたるものあり。余も亦之に動かされ、子か老躯を捧けて時局に善処し大命に奉答せんとする意気に対しては之を援助するの外なきことを痛感したり。成敗利鈍は問ふ所にあらす。毀誉褒貶亦意とするに足らす。一片耿々の至誠と義気とを以て世に処する亦男子の本懐たるを失はす。君の言はるる如く清浦内閣に対しては世間幾多の非難あらん。前途風もあらん雨もあらん。溝壑に陥ることもあらん。余は十分に之を知悉す、之を覚悟す。前途に溝壑あることを知らすして誤て之に陥るは不明ならんも。余は之を知って自ら覚悟して之に陥るなり。何の悔ゆる所かあらん。斯く云へは斯かる危険あるを知て之に入るは実に愚にあらすやと反問するものあらん。実に其の通りにて或は愚ならん。併し人生には意気もあり義気もあり単に一身の利害得失のみを考慮して事を処する能はす。余の一身上より云へは清浦内閣の非を論し、余の入閣を拒絶したる理由を天下に告白し、之を以て大声疾呼せは君の所謂余の大をなし合理的政治家として少壮有為の青年は余に共鳴し余の将来に於ては万全無傷たらん。然るに此の内閣に入らは余に対する世の期待を裏切り、理想もなく名分も解せさる大臣病者の一吏僚なりとの非難を受くるは必然なり。一身上の利害得失は実に明瞭にして余不敏と雖、之を知らさるにあらす。之を知て而かも之を敢てするは意気と至誠とか之を為さしむるものなり。余の将来の政治上の進路に傷害を来たすことあらんも止むを得さるなり。余の決心既に此の如し。君の御忠告も実に御尤もにして余も亦其の合理的なることを認むるも、今や之を容るるの余地なきを遺憾とすと述へたるに。博士は既に斯かる御決心ある以上は最早何も申すまじ。只今後貴下に望む所は政策に関し正々堂々の態度を採り勇徃邁進せられんことの一事あるのみの一言を残し帰られたり。
翌六日午前岡崎邦輔氏を訪ひ清浦子と会見の大要を語り且政友会の態度如何を質す。氏は政友会の態度か如何に決定するや今之を予想することを得す。只外界の火の燃へ方如何による。火か大に燃ゆれは政友会も黙止することを得さるに至らん。本日も安達謙蔵や犬養毅より余に会見を求め居れり。多分清浦内閣に対する憲政擁護運動のことならん。余は憲政擁護は最早証文の出し遅れなりと思ふ。何となれは政友会は加藤友三郎内閣に対して無条件援助をなし、山本内閣に対しては是々非々の態度を採り殊に憲政会の如きは寧ろ好意的中立の態度を以て秋波を送りたり。是等の超然内閣に対して賛成若は中立を声明しなから、今、清浦内閣に対し憲政擁護を唱ふるは証文の出し遅れにあらすして何そや。故に恐らく此の火は余り多く燃えさるへしと述へられたり。之にて氏と分れて次に伊藤巳代治伯を訪ひたり。伯は清浦子の組閣の態度に関し種々の批評をなしたる後、君の入閣は大賛成なり是非御奮闘を望むと言明せられたり。尚ほ同日午後横田千之助氏を訪ひたるも不在にして遂に面会の機を得さりき。
以上諸氏と会談の後、余は意を決して正式に清浦氏に入閣の承諾を与へたり。
清浦内閣正に成立せんとする最後の刹那に於て一紛擾を生したり。清浦内閣の閣員としては水野内務、大木鉄道、前田農商務、藤村外務、鈴木司法、勝田大蔵、小松逓信、江木文部、宇垣陸軍、村上海軍と内定し居りたるに、藤村外務に関しては内外に異論あり。殊に外務省内に非常の反対ありて迚も治まらすとの聞へあり。結局外相は外務畑より之を採るの外なしとのことになり。松井慶四郎氏を入るることとなれり。是に於て藤村を他に廻ささる可からさるの結果、前記内定閣員の中一人退かさる可からす。研究会の大木、青木、水野氏等は前田子爵を退かしめんとし同子爵に其の意を洩らしたるに、子爵に不平の色

【16コマ~19コマ】

あり。到底折合ふ見込なかりしを以て結局大木伯か自ら退き、小松を鉄道に、藤村を逓信に廻はすこととしたり。是より先き余は誰か一人退かさる可からさる場合に立至るへきを知りたるを以て、余自ら之に当らんと欲し、六日正午小橋一太氏に面会したる際此の意を洩らしたるに、氏は貴君の御辞任は清浦内閣を不成立に至らしむることになる。若し貴君にして退かは自分も亦辞退せんと欲す。併し研究会にては恐らく前田を退かしむるに纏めるならんと言ひ居りたり。
同日正午大木伯、青木、水野両子爵首相邸に来る。清浦子爵及余と食卓を共にし食事を了りたる後、大木伯巻紙に水野内務、松井外務、前田農商務、江木文部、勝田大蔵、鈴木司法、小松鉄道、藤村逓信、宇垣陸軍、村上海軍、と書し是れにて組織成れりとて之を首相及余に示す。余之を見て大木伯の名なきを訝り之を誥る。大木、青木、水野三氏交々答へて曰く、之には種々の経緯あり。結局大木伯辞退することとなり、漸く纏まり、只今研究会幹部も打揃って之に満足を表し手を拍て決定し来りしなりと。余之を開き直ちに口を開きて曰く、然らは余は先つ辞退せん。其の代りに大木伯を入れられたし。之ならは円満に治まらん。大木伯の入閣せさることは余は全然不同意なり。若し之を容れられされは余は断然入閣を御断りすと述へ、強硬に之を主張したり。青木、水野両子交々述へて曰く、吾々か是れまてに纏めたのは非常なる苦心の結果なり。実は今日まで此の三日間は不眠の状態にて奔走したり。今日漸く之を纏め一同満足して此の結果を齎らしたるなり。然るに今水野君か辞すると云ふことにならは更らに相談をし代へねはならす。而して果して円満に纏まるや否や保証し難し。且又貴族院各派より閣員を選出したるに水野君か辞することになれは交友倶楽部より一人も出ないことになり甚面白くないことになる。依て水野君は抂けて之に同意せられんことを望むと縷々苦心の跡を説明せり。余は重ねて曰く諸君の御尽力は十分感謝するも大木伯か入閣せさることは頗る之を遺憾とす。大木伯か居ることは貴族院は兎に角、衆議院の多数党と連絡を取る上に於て最も便利なり。余は伯と共に此の任に当らんことを期したり。只倚子の繰合せ上一人誰れか退かさる可からすとする以上は自分が退かんことを希望す。余の代りに大木伯か内相の倚子に据れは最も都合宜し。余は外に在て全力を尽して大木伯を援助することを誓ふ。内務のことは総て御膳立をして全力を捧ける故に決して不都合なしと思ふ。是非余の提議を容れられんことを望む。且又交友倶楽部から一人も出ないことになると言はるるか、交友倶楽部より一人も出なくも差支なし。是れは余か全責任を以て引受ける。正直に云へは余は此の内閣に入ることは余り希望して居らす。只四囲の事情止むを得さるか為めに此に至ったのである。故に一人退くの必要生したとすれは自分をして其の人たらしめよ。余は外に於て必らす援助すへし。大木伯には是非入って貰ひたしと一層強く力を篭て之を主張せり。青木子沸然色を作して曰く、水野君かどーしても辞すると云ふならは此の上は自分等の力では纏めか付かない、最早吾々は手を引くより外はない。清浦内閣か再ひ流産することになるも止むを得ないと云ひ、卓上に置きたる信玄袋を手にして扉を排して立去らんとせり。此の時まて黙々として一語も発せさりし清浦子は倚子より立て、マー御待ちを願ひたい。大木伯の入閣せさることは遺憾千万であるが人繰の都合上止むを得ない。今水野君か辞するとなれは此の内閣の組織か破るることになり、折角青木、水野両子爵其の他の諸氏の努力も水泡に帰することになる。水野錬太郎君も此の事情を篤と考へられて余り固執しないて是非承諾せられんことを望むと懇々説かれ。青木、水野、大木三氏も代る々々事情を述へ余を慰撫し、其の代り吾々は何事かあっても必らす御助けをする。且今後交友倶楽部と研究会の関係が益親密になり、将来貴族院の大勢上極めて有利の状勢とならん。依て是非承認を望むと胸襟を披き誠意を以て説かれたり。余は是れ以上自己の主張を固執するは如何にも道義上済まぬとの感を起し、且是れまて円満に進行し来りたるものを自分一人の主張を貫徹せんか為めに清浦内閣の成立を阻止することは如何にも忍ひさるを以て遂に之を承諾するの止むを得さるに至れり。清浦子爵初め大木、青木、水野諸氏も大に喜ひ、之れにて清浦内閣も漸く生まるることとなれりとて雑談して分れたり。
同日他の閣員の承諾を得て、一月七日午前十時半赤坂離宮に於て親任式を挙行し清浦内閣の成立を見るに至れり。
大正十三年一月十五日之を記す。
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