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天覧天気図

明治17(1884)年6月に始まった天気予報は東京市内の派出所に掲示されて市民に気象情報を伝えていたが、21年6月からは政府の公報紙『官報』にも毎日掲載されていた。新聞社は中央気象台(気象庁の前身)が正午に掲示発表するものを直接取材したり、通信社から入手していたようである。当時の新聞は頁数が少なかったので、天気予報は本文の欄外に列車・汽船時刻表などとともに組み込まれていることが多い(実物を見ると、折り目に近いので汚損・破損していることが少なくない)。


この史料は明治天皇の求めに応じて中央気象台が提出した明治24年9月の台風の進路図である。台風に関心を持った天皇が徳大寺実則侍従長に情報の収集を命じ、徳大寺が品川弥二郎内務大臣に取り次いだもののようである。品川は大谷靖庶務局長に尋ね、大谷は専門知識が無いため小林一知中央気象台長に移し、天気図と説明の書翰が提出される運びとなったわけである。台風の中心は13日に鹿児島付近に上陸、大分・岡山の西などを経由して能登半島沖に抜け、日本海を通って北海道寿都(すっつ)付近に再上陸している。九月台風の典型的な進路パターンである。明治時代の台風は「暴風」と表現されるのが普通で(新聞などでは「颶風」もあるが、文学的な言い回しである)、「颱風」が気象用語となるのは昭和初年のことである。岡田武松の提唱に係るもので、本来は台湾付近の暴風のことだった。英語のTyphoonも同源である。現在の「台風」は戦後の漢字制限に伴う当て字で、発生順に番号が打たれるようになったのは昭和28(1953)年からである。占領期には進駐軍によって欧米系の女性名がアルファベット順に付されていた。なお気象観測では最初からメートル法が採用され、気温計測も摂氏目盛りだったが、市販の温度計は輸入品が多いため、華氏目盛りも昭和初年まで広く行われていた。当時の猛暑の目安は華氏90度(摂氏32・2度に相当)とされており、明治の東京は平成の今日ほど高温ではなかったことが窺われる。

徳大寺実則書翰 品川弥二郎宛明治24年9月16日「品川弥二郎関係文書」673-2

徳大寺実則書翰 品川弥二郎宛 明治24年9月16日「品川弥二郎関係文書」673-2[史料画像]
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