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壁に耳あり

明治11(1878)年8月23日の夕方、内務省の判任官(下級官僚)・西村織兵衛は退勤の途中、神田橋に差しかかったところで便意を催し、辻便所(公衆トイレ)で用を足した。そのとき、西村は辻便所の外で3人の近衛兵卒が叛乱の計画を謀議するのを聴いてしまったのである。まさに「壁に耳あり障子に目あり」である。3人が話すところによると、宮城の近くに火を放ち、天機奉伺のために参内して来る高官を斬り殺すという手筈だった。江戸時代の慶安の変で由比正雪が企てたのと同じ手口である。個室内で密かに聞き耳を立てていた西村は3人が立ち去った後、内務省に立ち戻って書記官に急を知らせた。日本最初の兵士叛乱として知られる竹橋騒動(竹橋事件)の発端である。


これを聞いた岩倉具視右大臣は大木喬任参議兼司法卿に「ことの虚実は分からないが、陰々で警備させている」と報じている。蹶起計画は事前に漏れていたのだが、事前に阻止することは出来ず、結局、午後11時に至って近衛砲兵大隊の一部が蜂起している。事件は翌早朝に鎮圧されたが、4人が殺害され、55人が刑死している。刑死者の数は2・26事件を上回る。当局の受けた衝撃の大きさが窺われよう。

岩倉具視[肖像]
岩倉具視
『近世名士写真』其1 所収
(国立国会図書館デジタルコレクションへ)
大木喬任[肖像]
大木喬任
『近世名士写真』其1 所収
(国立国会図書館デジタルコレクションへ)

気づかれていれば間違い無く「雪隠詰め」の憂き目を見ていた西村は思わぬ手柄を立てたわけだが、大した出世もできなかったようだ。努力や才覚の結果というわけではないからかも知れない。


ほとんど嘘のような話だが、同様の事例が他にもあるから世間は侮れない。昭和9年4月、林銑十郎陸相の後任問題を電話で謀議していた真崎甚三郎大将は『東京朝日新聞』の高宮太平記者に通話内容を立ち聞きされている。女中が誤って通したためだが、自宅の中だから恐ろしい。「原敬日記」には密議中に隣室に政府の密偵が潜んでいるのを見つけたが、取り逃がしたとの記述も見える。世の中のブラック・ホールはどこに口を開けているのか分らないのである。

岩倉具視書翰 大木喬任宛 明治11年8月23日「大木喬任関係文書」書翰の部124-114

岩倉具視書翰 大木喬任宛 明治11年8月23日「大木喬任関係文書」書翰の部124-114[史料画像]
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