第3章 無事三萬哩の航海-探検隊の衣食住

第3章では、白瀬隊の生活面に着目します。南極探検のために準備した衣類や装備や食料のこと、長い船上生活とシドニーでの待機の日々、出会った動物たちなどについて紹介します。

防寒服上の雪片銀の鎧の如し:南極へ向かう衣服

衣類

南極探検日記
セーラー服を着た隊員

南極探検日記
芝浦出発前の隊員

南極へ向かうには船旅で移動に数か月掛かるのみならず、北半球の日本から南極へは赤道直下を経由しなければなりません。隊員には冬用の防寒具と夏用の避暑的被服が必要でした。多田恵一 (春樹)『南極探検私録』【332-322】の「被服類」の記録によると防寒具のほか普段着を持ち、制服にも冬服と夏服があったことが分かります。
衣類の入手に際しては、探検隊へのメリヤスの寄贈を呼びかける記事(石川文学士「南極探檢隊へ裏毛襯衣(しゃつ)を送れ」『日本実業新報』(92), 1910.7【雑45-16】)も掲載されました。
到着した南極大陸の沿岸地方は夏季ということで、『南極記』【297.9-N627n】 によると「メリヤスシャツ三枚に、毛織のジャケツ二枚位で充分」であり、活動中には汗も出るほどでした。しかし突進隊の進行した内陸では大吹雪に見舞われ、樺太産の犬の皮を裏表二重に縫い合わせた極寒用の毛皮服と寝袋が役立ちました。白瀬矗『南極探検』【297.9-Sh85ウ】によると「我が突進隊は三日目に大吹雪に遭遇して殆んど危機一髪に陥った。(中略)五人は殆んど一歩も進む克(あた)はず毛皮の雪凍って鎧の如けれど、辟易する可からず嘗膽(しょうたん)廿年の我が體力(たいりょく)を威(こころ)みんはこの秋と勇を鼓して大吹雪に反抗しながらズク〱と突進した零度以下三十度!」と、寒さが厳しいことが分かります。

南極記
毛皮服と寝袋

雪眼鏡

南極大陸では、雪盲(雪面から反射された太陽の紫外線が目に入っておこる障害)を防ぐために雪眼鏡を用意していましたが、不完全なもので、汗で氷結することや視界が悪いことから使用が嫌がられました。隊長である白瀬も向う見ずな性格により大失敗しています。白瀬は著書の『南極探検』に「我は千島探検に経験がある。されど故(ことさら)に眼鏡を用ひず何のこれしきの雪に!寒さに!と痩せ我慢したのは畢生(ひっせい)の失策!遂に針のやうな飛雪が両眼に入つて遂に両眼の明を失ふた。生兵法法(原文ママ)にはあらねどさて大變(たいへん)な事になつた。今盲目になつては――と流石頑固の自分もほろほろと泣きかねまじい勢強(しひ)て眼を開かうとするとその疼(いた)さ、眼の球が飛び出さう。気温は則零度下幾度」と書いています。幸い失明には至らず、後に回復しました。

南極探検私録
雪眼鏡

雪の如き米の飯:船内の食事

食料

芝浦埋立地出港時には隊員27人の2年分の食料が積み込まれていました。総トン数204トンの小さな開南丸ですから、全ての食品を船倉に収納することは難しく、甲板にまで設置せざるを得ません。南極までの航海中で赤道など暑い地帯を通過する際に傷んでしまった食品も多数ありました。当時の缶詰は密閉性に問題があるものも多かったのです。 『南極記』の「附録 第四章 探檢用糧食の研究」では、白瀬隊が携行した食料の種類と、携行品としての適性や変質・腐敗の状況が記載されています。主食となる穀類のほかに缶詰・乾物・樽たる詰の食品などを用意し、中には菓子や果物の缶詰などもあったようです。また、「附録 第六章 樺太犬及橇の研究」では、突進隊が犬ゾリに乗せた携行品にうま味調味料があることが分かります。極地でもだしにこだわる心意気を感じます。

南極探検私録
船内の食事メニュー

料理

白瀬隊には、料理専任の隊員がいました。この過酷な環境下でも料理人渡邊近三郎の腕は冴えわたり、船内の食事は良好だったようです。熱帯に進み鮪や鰹が釣れるようになると、船上では刺身も供しています。赤道を通過し南半球で迎えた明治44(1911)年の元旦には、『南極記』に「此の日の馳走(ちそう)は乾餅の雑煮、韶陽魚(ごまめ)、数の子、鮭、鯨、鰯、蛤蜊等の罐詰を原料としたるものであった。就中(なかんずく)最も一同を喜ばしたのは、平素衛生上用ゐ来つた麥飯(むぎめし)に引代へて雪の如き米の飯であった事である」とあるとおり、代用品とはいえ御節(おせち)のような料理を作り隊員たちを喜ばせました。さらに、アホウドリやカモメやアザラシも調理しています。渡邊は帰国後に「南極探検隊の料理日記」『婦人世界』7(11),大正元年【雑51-22】などの連載記事を発表しました。

南極探検
船内米とぎ

狩りや釣り

南極記
捕獲したアザラシと隊員

アホウドリなどは隊員たちが仕留めたものであり、探検隊の携行品には猟銃なども見られます。狩りや釣りは長閑のどかな航海中にあって、隊員たちの志気を高める効果があったようです。

南極探検私録
鳥猟

南極探検私録
釣騒ぎ

南極探検私録
さめ退治

金殿又玉樓:船中及びシドニーの生活

船中生活

南洋航海中は風のない日が続くこともあり、暑さとの戦いでした。かつて漁船であった開南丸の狭い船室は油と魚臭さで寝苦しく、厳しい暑さに耐えかねて甲板で露営する隊員も多くいました。しかしスコールに見舞われることもあり、安眠はできなかったようです。
雨は、隊員を悩ませるばかりでなく恵みの雨でもありました。水は貴重であるため、風呂にも毎日は入れず、真水を節約するために海水を使うこともありました。そこで隊員たちは雨が降ると、こぞって服を脱ぎ水浴びと洗濯に勤しみました。

南極探検
航海中の入浴

娯楽

目的地までの長い航海中、隊員たちは道中の無聊を慰めるために様々に趣向を凝らしました。寄贈された本を読むほか、集まればお喋り、囲碁・将棋などの遊戯、相撲大会、蓄音機によるレコード鑑賞会などを行い、風流人であった多田は尺八や詩吟なども嗜んだようです。ウェリントン上陸前には、腕前を買われた数人の隊員による散髪会も催されました。

南極探検
気晴らし

シドニーの天幕生活

船中生活の次に探検隊が長く過ごしたのは、シドニーでの待機の日々でした。『南極探検』の「第七章 志度尼の六ヶ月」では、シドニーでの生活について語られています。最初の停泊地ウェリントンを明治44(1911)年2月11日に抜錨しましたが、海面の氷結と悪天候により3月14日には引き返さざるを得なくなりました。5月2日にシドニーに入港したものの、白瀬たちは胡散臭い密猟者の疑いを掛けられ、滞在許可が出るまでに1週間もの時間が掛かりました。滞在が許可された後も、次の出港は南極海の氷が解けるまで待たなければならず、予算に余裕が無い白瀬隊は金策に走ります。一部の隊員たちは資金集めのために帰国し、シドニーに残った他の隊員たちは、船に積んでいた極地のベースキャンプ用のバラック設備を利用した天幕生活をしました。

南極記
シドニーでの隊長と隊員

シドニーでの出会い

突然現れた白瀬隊を、現地新聞は東洋のゴリラが来たと宣伝しました。見物人も押し掛ける始末。しかし、シドニー大学の教授エッジワース・デイビット(Thomas W. Edgeworth David)の反論に助けられます。デイビットは、シャクルトンとともに南極を探検したメンバーのうちの一人であり、白瀬たちのよき理解者でした。
白瀬は天幕で出すお茶にもこと欠きながら、接客に追われる日々を送ります。街に出る際には、馬鹿にされないために常時制服を着用していました。また、白瀬は武田学術部長や三井所衛生部長とダンスパーティに招待されたこともあり、無骨な振る舞いでしたが、シドニーの女性たちには好まれたようです。

南極探検
シドニー大学デイビット教授と
武田学術部長

14) 島義武『南極探検と皇大神宮の奉斎』 思想善導図書刊行会,昭和5【578-346】

南極探検と皇大神宮の奉斎

南極探検に事務長として参加している島義武の本です。 島は南極大陸に上陸し沿岸探検支援隊として活動しました。一隊員視点の南極探検記として、自負や思いが熱く語られています。
この中の「シドニー滞泊中の苦心」の項で、シドニーでの生活について語っており、在留邦人商館を訪ねて寄附金を募り糊口を凌いだことや、垢じみた下着しかないため外国人との面会を断ったことなど、隊員たちのつらい生活が垣間見えます。

南極探検
シドニーキャンプ

南極探検
シドニーでの園遊会

南極探検
シドニーの同情者

南極探検
少女ら白瀬隊を送る

輓犬の箱詰生活:探検隊と動物

連れて行った動物

開南丸では犬や豚のほかにも、多田が個人的に連れてきた猫などが飼われていました。

15) 春樹多田恵一『南極探検日記』前川文栄閣, 大正1【332-321】

南極探検日記

本書は、南極探検からの帰還後わずか2か月程の大正元(1912)年8月3日に発行されました。書記長であった多田が書いた日誌をまとめたもので、南極探検における時間の流れについても分かりやすく記述されています。
船内の生活も詳細に書き出されており、連れて行った動物は犬や豚のほかに、当初は満州馬も加わる予定でした。しかし、調達した船が馬を積み込める大きさではなくなったため、外されました。

猫は、多田の飼い猫であり、玉太郎という名前でした。飼い主の多田は大変可愛がっていましたが、いたるところで用を足してしまう悪い癖があり、隊員からの評判は良くなかったようです。『南極探検私録』によると、隊長である白瀬から猫と共に下船するよう命じられる「一大迫害」を受け、多田は玉太郎を海へ投じてしまいます。
豚は当初1貫(約3.75kg)で、明治44(1911)年1月22日に食する際には15貫余り(約56.25kg)まで成長しました。白瀬は『南極探検』に「生育眞(しん)に駭(おどろ)くに堪へたり。人間も恁(か)く成長したらば面白かるべし」と述懐しています。隊員みんなで美味しく食べました。
犬は、南極到着後の犬ゾリ用に用意されたものでした。一度目に南極に向かう航海で30頭中1頭を残して死んでしまいます。後に死因は寄生虫と判明します。これを踏まえ、二度目に南極に向かう航海の準備のために虫下しを飲ませた犬を船に載せたところ、欠けることなくシドニーに運ぶことができました。しかし再び30頭になったこの犬たちも、南極大陸で行動中に命を落とし、さらには南極を離れる際に積み込みが困難であったことから、連れて帰ったのはわずか6頭でした。犬係として探検隊に参加していた山辺安之助は、本人の口述を元に金田一京助が編集した『あいぬ物語』【289.1-Y154a-K】に収蔵された文章(山辺安之助「十一章南極探檢(下)」)において、犬とのつらい別れをアイヌ語で語っています。

南極記
犬ゾリを馳せる白瀬隊

南極探検私録
犬を置いていく

南極の生物

これら連れてきた動物のほかに、南極探検での航海中では様々な生物と出会いました。『南極記』の「附録 第一章 南極圏採集標品調査報告」でその成果が記載されています。また「南極探檢隊の歸朝(きちょう)」『風俗画報』(433)1912.6【雑23-8】には、その保存運搬方法として「ペンギン四種、海燕(うみつばめ)三種、海豹(あざらし)四種、鷗(かもめ)、信天鳥(ばかどり)(原文ママ)、魚類各種にして。鳥類は剥製とし魚類は酒精に漬けたり」と記録されています。このうち、採集したペンギンの一羽は大隈重信を通じ明治天皇へ献上されました。これは近年の調査により判明し、現在はJPタワー学術文化総合ミュージアム「インターメディアテク」に寄託されています。

16) 多田恵一『南極土産 片吟鳥の話 第1編』 春陽堂, 大正1【児乙部12-T-3】

南極土産 片吟鳥の話 第1編

南極で出会った生き物のお話第一弾で、ペンギンに特化した本です。絵が散りばめられた、子供向けの可愛らしいつくりになっています。
また、続編として出された多田恵一『南極みやげ 第2編』【特112-245】は、ペンギン以外の鳥類を紹介しています。
多田は絵が得手だったようで、このほかの著述にも自身の描いた絵を多数載せています。

南極探検私録
ペンギンの初捕獲

南極記
氷上のペンギン

南極記
ペンギンと隊員

南極記
南極圏内採集の鳥類

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