補章 南極を目指した人々

白瀬隊が南極を目指した当時、ほかにも南極点を目指した人々がいます。この章では、白瀬の旅のバックグラウンドを見ていきましょう。

北極から南極へ、北極点から南極点へ

アムンセンの肖像 アムンセン肖像
(出典:山本一清『アムンゼン』新潮社,昭和16【765-223】デジタル化資料ボタン

19世紀から、欧米諸国は北極を目指していました。そこには「学術的な興味」と「探検先としての魅力」だけでなく、「通商路の開拓」と「資源確保」という目的もあったのです。
当時、大西洋からアジア圏への最短ルートと目された北極圏を抜ける北西航路ほくせいこうろの開拓は、通商家や探検家にとって大きな夢でした。また、その北西航路の開拓のための調査の過程で発見された北極地方の巨大な地下資源は、探検家のみならず多くの人々の目を北極地方、そして北極点へと集めるのに十分なものでした。
1906年に北西航路がノルウェーのアムンセンによって制覇された後の1909年4月6日、ピアリーがついに北極点に到達した、というニュースが世界を駆け巡ります。
このニュースは多くの探検家を驚かせました。そして、こう思ったのです。もう一つの極点である南極点に初めて到達する者はだれか、と。

南極点への到達

シャクルトンの肖像 シャクルトン肖像
(出典:小林房太郎『南極と北極』如山堂,明43【96-572】デジタル化資料ボタン

スコットの肖像 スコット肖像
(出典:白井規一, 島田牛稚『趣味の地理 第5編 (南極北極の探検)』【375-6】デジタル化資料ボタン

当時、最も南極点に近づいていたのは英国のアーネスト・シャクルトン(Ernest Henry Shackleton)です。彼は、1909年初頭に南緯88度23分まで到達していました。南極点までは残り約180km。それを制する者として最も有力視されていたのは、1903年に南緯82度16分に到達し、南極探検2度目の挑戦となる同じく英国のスコットでした。
スコットは、2度目の南極遠征のため、英国内から多くの支援を受け1910年6月にテラ・ノヴァ号で出航します。ところがここに、もう一人の挑戦者が現れました。ピアリー北極点到達の報を受けて急遽行き先を北極から南極に変えたアムンセンです。アムンセンは1910年8月に「北極を探検する」として祖国を出発しますが、すぐに目標を変更し一路南極を目指しました。
スコットとアムンセンの南極到達レースには、世界が注目しました。本人達も互いの存在を知りかなり意識しあっていたこのレースは、1911年12月14日、アムンセンに軍配が上がります。スコットも遅れて南極点にたどり着きますが、その差は1か月ほどでした。
意気揚々と帰路についたアムンセンとは逆に、スコットは悪天候に見舞われたこともあり、隊員4人とともに南極で命を落とします。
白瀬隊は、このように過酷な極点到達レースの中、南極を目指していたのです。

7) 小林房太郎『南極と北極』如山堂,明治43【96-572】 デジタル化資料ボタン

ペンギンの写真

北極や南極に関して当時分かっていた情報をまとめた本です。ピアリーの北極点到達やスコットの第1回南極遠征における成果など、当時の状況がよく分かります。
シャクルトンの南極遠征に関しても記述があり、「南緯八十八度二十三分の地點ちてんに達し、従来の南極探検家中最も成功せるもの」としています。
8) 山本一清『アムンゼン』新潮社,昭和16【765-223】 デジタル化資料ボタン

南極にいるアムンセン隊の写真 南極にいるアムンセン隊の写真

アムンセンは、元々北西航路を制覇したことで名を成したノルウェーの探検家です。
また、彼が白瀬隊より一足早く南極圏を離れ「ホエールズ湾で開南丸に会った」とインタビューに答えたため、当時行方不明の扱いとなっていた白瀬隊の所在を日本国内に速報として知らせる形となりました。このように白瀬隊と縁が深かったこともあり、北と南、両極を探検したアムンセンの冒険譚は、子供向けの伝記や人物伝として明治から現在まで日本国内でも多く出版されています。そのためアムンセンは多くの日本人が知る存在であり、昭和2(1927)年に同氏が来日した際は熱狂的に迎えられたようです。
天文学者の山本一清が著した本書は、そんな数あるアムンセンの伝記の中の一つで、その生涯をコンパクトにまとめてあります。

日本国内の探検家

白瀬隊が旅した明治時代末期、日本国内にはほかにも探検家がいました。ここではその中から2人の人物の探検の記録を紹介します。

9) 児玉音松『南洋』光華堂, 明治43【96-563】 デジタル化資料ボタン

大タコと戦う児玉音松の絵

夏目漱石の著作である『彼岸過迄』。その中のエピソードの一つとして、「かつて東京の朝日新聞に児玉こだま音松おとまつとかいう人の冒険談が連載された時、彼(注:主人公の田川敬太郎)はまるで丁年ていねん未満の中学生のような熱心をもって毎日それを迎え読んでいた。そのうちでも音松君が洞穴の中からおどり出す大蛸おおだこと戦った記事を大変面白がって」という記述があります。
この児玉音松は実在する人物であり、また、その著書である本書には、現在のインドネシアのバチャン島で大タコと闘ったというシーンが実際に登場します。本書はほかにも海賊と闘ったり、森林の中を彷徨って動物と対峙したりと、一部フィクションや脚色を加えたであろう豪快な冒険譚が多く、当時の国内における「探検」のイメージの一端をうかがい知ることができます。
なお、この児玉音松氏、実は白瀬矗の南極行き決意の日からさかのぼること約3か月、明治43(1910)年6月7日の『東京朝日新聞』に「日本人の南極探検」として南極行きを表明しています。南洋を旅した後に向かう、というおおざっぱな計画の表明でしかなかった上、実際旅立ったのかどうかすら不明ですが、やはり当時の探検家にとって北極や南極は夢の地だったようです。
10) 池田有親『アラスカ氷山旅行』雲梯舎, 明治36【97-16】 デジタル化資料ボタン

鹿(ムース)猟をしている絵

北極地方に眠る地下資源を求め、多くの一攫千金狙いが流入した町の一つがアラスカのバルディーズでした。
本書の著者である池田有親いけだありちかも北極地方に眠る金鉱を求め、この町を訪れた者の一人です。
彼は、険しい氷山を登り、蚊に悩まされながらも食糧を栽培し、時には造船に携わるなど様々な困難に立ち向かいますが、ついに金鉱にたどり着くことはできませんでした。その様子を独特なタッチの挿絵と共に記したのが本書です。