第2章 建築家たちの競演~建築設計競技

工部大学校の設立以来、ジョサイア・コンドルやその弟子たちの尽力により日本人建築家の手による建築物が増えてきましたが、明治41(1908)年台湾総督府庁舎の建築設計競技を端緒に、建築設計を広く公募して1等を選ぶ建築設計競技が行われるようになってきました。有名、無名にかかわらず全ての建築家に同一の機会が与えられる建築設計競技は、過去の特権階級に庇護されてきた宮廷建築家やお抱え大工をよしとする価値観から離れ、建築家自身がその実力で自由で独立した地位を確立しようという民主主義的な試みとも考えられます。すべての建築設計競技がその理念通りに成功したわけではありませんが、それぞれの建築設計競技では、より良い結果を生むため、審査法や応募要件などで苦心した様子が見てとれます。

第2章では当時の特徴的な建築物をいくつか取り上げ、建築設計競技の入選図案の紹介とともに、建築設計案が決定するまでの道のりを振り返ります。

台湾総督府庁舎

本格的な建築設計競技の始まりは、明治41(1908)年に企画された台湾総督府の庁舎建築です。庁舎の建築設計は台湾総督府の技師が行うべきといった声もあったものの、総督府の民政長官を務めたこともある男爵・後藤新平(ごとうしんぺい)が建築設計競技を推進し、懸賞金が大きければ大きいだけ応募者も真剣になりより良いものを選べるという理由で、自らも3万円(現在の3300万円超相当)の寄付をし、建築設計競技を行うこととなりました。審査員には辰野金吾、妻木頼黄らが参加し、優等者・甲乙丙の3名にはそれぞれ3万円、1万5千円、5千円の賞金が与えられることになりました。結果、甲賞は該当なし、乙賞には、日本銀行技師で辰野、岡田信一郎とともに日本銀行小樽支店を設計した長野宇平治(ながのうへいじ)が当選しました。大正8(1919)年台湾総督府は長野の応募案に基づき、総督府技師の森山松之助によって改変のうえ建築されています。

近世名士写真 其1
後藤新平

国会議事堂建築設計競技-長年の設計論争-

木造の仮議事堂

明治14(1881)年の国会開設の勅諭を元に、明治19(1886)年議事堂を含む官庁街の建設のため臨時建築局が内閣に設けられました。臨時建築局では首都にふさわしい官庁街を建設することで文明国であることをアピールし、不平等条約改正交渉を有利に進めることを目指して、ドイツから建築家ベックマンとエンデを招聘し計画案を策定させました。ベックマンはバロック様式の壮大な計画案を提出しました。しかし、この計画案の通りに官庁街を建築しようとすると多大な費用を要することが問題となって、のちにエンデによって計画案は縮小されます。議事堂は帝国議会の開設に建築が間に合わなくなることから、急遽木造の仮議事堂として建築されることになり、明治23(1890)年11月24日、第1回帝国議会召集の前日にようやく竣功します。同年臨時建築局は廃局となりました。以降昭和11(1936)年に議事堂が完成するまでの46年間、2度の火事による消失の度に建築された木造の仮議事堂が使用されることになります。

妻木頼黄と辰野金吾

仮議事堂で帝国議会が開設されてから15年余りの間、議事堂建築の提案は何度か出されたものの費用の面などから実現せずに終わっていました。次に議院建築の機運が高まったのは明治39(1906)年です。衆議院に議院建築に関する建議案が提出され、海外の議事堂の研究や建築予定地の実測などが大規模に行われました。議事堂建築には建築設計競技を行うべきという意見もありましたが、議事堂建築に中心的に関わっていた大蔵省臨時建築部長の妻木は、「優れた案を得るには優れた建築家の応募が必要である。然も優れた建築家は審査員とならねばならないから懸賞に依るよりは寧ろ権威者が合議して立案するのがよい」(出典:営繕管財局編纂『帝国議会議事堂建築の概要』【KA272-E15】)という意見を持っており、官僚主導で建築設計が進められていました。建築家がそれほど多くない時代を表すエピソードです。

これに反対し、建築設計競技を推していたのは辰野です。明治41(1908)年辰野を中心とした建築家たちが、議院建築は建築設計競技で行うべきという意見書を出し、その2年後、建築学会(現:日本建築学会)はこの意見書を元に大蔵省内に置かれた議事堂建築準備委員会に建築設計競技を提案しました。この案は、委員21名のうち賛成6、反対15で否決されています。このときの政府側の反対意見、「審査員に一流を揃えれば応募者に一流なし。」(出典:日本建築学会編『近代日本建築学発達史』【NA25-G24】)からは、妻木が進めてきた官僚主導の建築設計手法が委員会の中でも優勢だったことが窺えます。しかし、議院建築の実現は、ときの桂内閣が総辞職したことによって、またしても延期されます。

近代建築の黎明
妻木頼黄

工学博士辰野金吾伝
辰野金吾

建築設計競技実施へ

大正5(1916)年に妻木が病で亡くなると、辰野らは再び建築設計競技の実施を提案します。そして、大正7(1918)年6月大蔵省に臨時議院建築局が設置され、同年9月辰野念願の建築設計競技が発表されます。辰野は審査員としてもこの建築設計競技に関わります。応募には「様式は制限しないが議院として相応の威容を保つこと」といった要件がつけられ、臨時議院建築局が作成した平面図が参考として与えられました。1等賞金は1万円(現在の540万円相当)でした。審査は第1次、第2次に分けて行われ、大正8(1919)年2月に締め切られた第1次審査には118案が応募、そのうち20案が当選しました。ただ、審査員はこの20案に満足しなかったのか、当選者に「第2次の応募にあたっては第1次の案にこだわらず、充分想を練って思い切って改案を出すことを望む」とする注意書を送っています。

大正8(1919)年9月第1次審査当選者を対象にした第2次審査では、宮内省技手の渡辺福三の案が1等となりました。辰野は大正8年3月、念願の建築設計競技の結果を見ないまま亡くなっています。実際の設計は、これら当選図案を参考としながら、臨時議院建築局が行いました。

建築設計競技の当選作品が一般公開されたとき、公開された作品の多くが既存の建築物の枠を超えず、新しい表現がなかったことに批判が挙がりました。特に建築家の下田菊太郎(しもだきくたろう)は、その作品が欧米追随的であることに抗議し、帝国議会に意匠変更請願書を上申しました。下田は辰野が指導していた東京帝国大学工科大学を卒業目前に中退し、アメリカに渡った人物です。アメリカでページ・ブラウン建築事務所に職を得ると、同事務所が建築設計競技で勝ち取ったシカゴ万国博覧会のカリフォルニア州パビリオンの現場監理を任されるなど実績を積み、日本人として初めてアメリカ建築家協会の免許を取得しています。明治31(1898)年に帰国しますが、辰野の元を離れてアメリカに渡った下田には教職の道もなく企業の建築顧問にも受け入れられず不遇の人生を送ります。建築界の主流に位置しなかった下田の反骨精神あふれるこの請願は、帝国議会で議論されるまでの建築論争に発展しました。このとき下田より提案された「帝冠併合式意匠」は欧米の各種の様式の長所を吸収し日本式を表現する様式ですが、その後日本趣味・東洋趣味の代名詞となった「帝冠様式」の語源といわれています。

新議事堂は、翌年着工し、約17年の年月をかけて昭和11(1936)年に完成しました。この議事堂は、現在も国会議事堂として役割を果たしています。

帝国議会議事堂建築の概要
建築当時の写真

4)洪洋社編『議院建築意匠設計競技図集』洪洋社,大正9【422-13】

議院建築意匠設計競技図集
渡辺福三による1等当選図案

本書では、1等当選図案のほか、第2次審査で当選した残り3つの図案と、第1次審査の20案が確認できます。第1次審査の20案は審査段階で名前が分からないよう、応募者名は「日の出」や「さがりふじ」といった暗号で掲載されています。
1等当選図案と実際の建築を見比べると、案の段階では丸い屋根だったものが、建築された議事堂では四角錐に変わっていることがわかります。

大阪市公会堂建築設計競技-新しい審査法の挑戦-

大阪市公会堂(現在の大阪市中央公会堂、通称中之島公会堂)の建築は、明治45(1912)年、大阪株式取引所の仲買人岩本栄之助(いわもとえいのすけ)が、株で得た私財を公共のために生かしたいと考え、大阪市に建築費用100万円(現在の10億円超相当)を寄付したことに始まります。大阪市は、一等賞金3千円(現在の310万円相当)の懸賞金をかけて建築設計競技を行うことにしました。建築設計競技の立案に関わった建築顧問の辰野は、初の試みとして、当時活躍していた建築家17人を指名し(うち4名は辞退)、その応募者同士が互いの作品を評価する互選方式を採用しました。その結果、当時30歳の岡田信一郎の案が満場一致で採用されます。岡田は、東京帝国大学工科大学を卒業後、日本銀行小樽支店を辰野・長野宇平治と合同で設計した人物です。辰野が、当時活躍していた建築家だけでなく実績の少ない若い岡田を指名したのは、学生時代やこのときの設計力を評価したものと考えられます。

大阪市公会堂新築設計指名懸賞競技応募図案
岡田信一郎による一等当選図案

岡田の案は、建物の正面出入口の上部に大アーチを配した荘厳なネオ・ルネッサンス様式の設計で、これによって岡田は一流の建築家として認められるようになりました。大阪市公会堂は、大正2(1913)年に辰野・片岡事務所によって一部設計変更された上で着工し、大正7(1918)年、5年の歳月をかけて完成しました。ただ、莫大な私財を投じた岩本栄之助は、大正4(1915)年投機で失敗して自死したため、この完成をみることはできませんでした。投機で失敗したとき、周囲の人々は大阪市に寄付した100万円のうち少しでも返してもらうように勧めましたが、岩本はこれを拒否したそうです。

明治大正建築写真聚覧
建築後の様子

この建物は大阪市民に親しまれ、昭和46(1971)年に大阪市が解体構想を示したときには活発な保存運動が起こり、全面的に保存されることになりました。この後、耐震補強などの保存・修復工事が行われ、平成14(2002)年に終了、同年に重要文化財にも指定され、現在も公会堂として利用されています。

※ネオ・ルネッサンス様式…14~15世紀にイタリアで始まった古典主義建築全般をルネッサンス様式という。ネオ・ルネッサンス様式とは、19世紀前半にヨーロッパで起こったルネッサンス様式の復興をいう。

5)大阪市公会堂建設事務所編『大阪市公会堂新築設計指名懸賞競技応募図案』公会堂建設事務所,大正2【407-61】

大阪市公会堂新築設計指名懸賞競技応募図案
『大阪市公会堂新築設計指名懸賞競技応募図案』目次

本書では、指名されて参加した13人全ての設計図案をみることができます。
辰野金吾の書いた巻頭言には、「(前略)…本懸賞競技は我が国建築界の俊秀を網羅せる点に於いて、審査法の奇抜なる点に於いて、その結果の良好なる点に於いて、全然優良の効果を収め得たりと信ずるなり」とあり、新しい審査法とその結果への満足が窺えます。辰野が、自身でも奇抜という審査法を選んだ背景には、議院建築を建築設計競技とする際の反対意見を念頭に審査員にも応募者にも一流を揃えようという苦心があったものと考えられます。

東京帝室博物館設計競技-日本趣味の表れ-

大正12(1923)年、ジョサイア・コンドルが設計した東京帝室博物館本館は関東大震災で大きな被害を受けました。その後、昭和3(1928)年天皇即位の大礼を機に震災復興事業が始まり、建築設計競技で建て直すことになりました。

このころ、日本のナショナリズムの台頭を背景に欧米式の近代建築に対抗して日本風・東洋風の帝冠様式が主張され、実際に建築されるようになってきました。帝冠様式の特色は、鉄筋コンクリート造の洋風建築に日本の瓦屋根をのせた構造です。東京帝室博物館でも建築設計調査委員会が設けられ建築様式をどうすべきかの議論が1年近くも行われました。その検討の結果、昭和5(1930)年に発表された建築設計競技では、東洋古美術を陳列する博物館の性質から「日本趣味を基調とする東洋式」が要件として課されました。賞金は1万円(現在の760万円相当)です。翌年の締め切りまでには273案の応募があり、5案が入選、1等当選した元・逓信省営繕課の渡辺仁(わたなべひとし)の案は、反りのある切妻和風屋根を載せた設計でした。

東京帝室博物館建築設計懸賞入選図案集
渡辺仁による一等当選図案

実際の設計は宮内省に委嘱され、昭和7(1932)年に着工、昭和12(1937)年に完成しました。この建物は東京国立博物館の本館として現在も利用されています。

東京帝室博物館復興事業の概要
建築当時の写真

6)『東京帝室博物館建築設計懸賞入選図案集』日本建築協会,昭和6【特254-563】

東京帝室博物館建築設計懸賞入選図案集
『東京帝室博物館建築設計懸賞入選図案集』表紙

本書では、1等から5等の当選図案ほか、選外佳作となった図案も見ることができます。「日本趣味を基調とする東洋式」という要件を満たすため、どの案も和風の屋根や意匠を意識した帝冠様式を取り入れており、この時代の日本における建築の1つの流れを感じることができます。

その他の建築設計競技

第2章では4つの建築設計競技を取り上げましたが、建築設計競技はほかにも行われていました。国立国会図書館が所蔵するほかの建築設計競技の図案はこちらのページ(戦前の建築設計競技図案)からご覧ください。

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第3章 建築見物



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