第3章 戦争と大会返上

昭和11(1936)年、東京市が4年後のオリンピック開催の権利を勝ち取り、歓喜に沸いたのも束の間のことでした。そこから先に見えていた明るい未来は、次第に翳りを見せ始め、昭和13(1938)年7月、ついには東京大会の返上に至ります。
この章では、第12回東京大会返上に至るまでの一連の流れを、関係者の動きや想い、大会の中止によって大きな影響を受けた選手たちに着目して紹介します。

第11回ベルリン大会(1936年)

『オリンピア』の撮影光景 『美の祭典』『民族の祭典』の制作の様子
(出典:大日本体育協会編『美と民族の祭典:オリンピア写真集』七人社, 昭和15【特268-403】デジタル化資料ボタン

第11回ベルリン大会は、オリンピックの東京開催が決まったIOCベルリン総会直後の、昭和11(1936)年8月に開催されました。ベルリン大会は、今日「ナチスのオリンピック」と呼ばれることもある、政治色が全面に出た大会でもありました。ドイツの総統ヒトラーは、当初オリンピックに消極的であったとされていますが、やがて、ベルリン大会を利用して、ナチス・ドイツの威信を世界にアピールすることをもくろみます。このような情勢の下で作成されたベルリン大会の記録映画、『民族の祭典』『美の祭典』(通称『オリンピア』)は、その芸術性を高く評価される反面、第2次世界大戦後、監督のレニ・リーフェンシュタールとともに、ナチスのプロパガンダであったと見なされ、たびたび批判の対象とされました。
第10回ロサンゼルス大会での日本選手の活躍ぶりに加え、直前のIOCベルリン総会で東京大会の開催が決定したこともあり、ベルリン大会は国民から大きな注目を浴びます。

8) 第十一回オリムピック後援会 編『第十一回オリムピック大会写真帖 : Berlin 1936』第十一回オリムピック後援会, 昭和11【特278-103】 デジタル化資料ボタン

サッカーの試合光景(日本対スウェーデン) サッカー日本代表対スウェーデン代表の様子
芸術競技の絵画種目に出された作品 左上:鈴木朱雀「古典的競馬」
右下:藤田隆治「アイス・ホッケー」

第11回ベルリン大会における日本人選手の活躍の写真を中心に構成された、写真帖です。日本は盤石とされていた水上競技で苦戦を強いられますが、第10回ロサンゼルス大会に続き、多くのメダルを獲得します。本書でも、三段跳びの田島直人、平泳ぎの前畑秀子らの活躍の写真が掲載されています。
サッカー(蹴球)競技では、日本代表は初戦で優勝候補の一角、スウェーデン代表と戦います。前評判通り力の差は圧倒的で、2点を先制され、敗色濃厚となった日本代表でしたが、次第にショートパス戦法が機能し始め、なんと後半だけで3点を取りかえし、大逆転勝利を収めます。まさかの大番狂わせ(「ベルリンの奇跡」)に会場は沸き立ち、試合後、選手たちはいたるところでサインを求められたようですが、当時の日本の新聞では、ごくごく簡単に報じられる程度でした。
明治45(1912)年の第5回ストックホルム大会から行われるようになった芸術競技には、建築、絵画、彫刻、文学、音楽といった部門がありました。日本からは、鈴木朱雀と藤田隆治が、ベルリン大会の絵画種目でそれぞれ3位を獲得しました。その後、芸術競技は、評価の難しさや選手の高齢化といった問題から、昭和23(1948)年の第14回ロンドン大会を最後に廃止されることとなりました。

大会準備

東京大会の準備が進められる中で、プログラムや日本を紹介する冊子などが数多く刊行されています。

9) 『第十二回オリンピック東京大会一般規則及びプログラム : 昭和15年』第十二回オリンピック東京大会組織委員会, 昭和13【特202-268】 デジタル化資料ボタン

『第十二回オリンピック東京大会一般規則及びプログラム : 昭和15年』の標題紙
英語版プログラムの表紙 英語版プログラム『XIIth Olympiad Tokyo, 1940 : general rules and programme』the Organizing Committee of the XIIth Olympiad Tokyo1940,1938【Ea-236】 デジタル化資料ボタン

東京大会のプログラムである本書には、陸上競技や水上競技といった通常の競技の他、番外競技として、武道と野球が記載されています。また、芸術競技が、東京大会でも開催予定であったことも確認できます。英・仏・独語版のプログラムも作成され、昭和13(1938)年のIOC総会で配布されました。
10) XIIth Olympiad Tokyo 1940: olympic preparations for the celebration of the XIIth Olympiad Tokyo 1940, Tokyo: The Organaizing Committee of the XIIth Olympiad Tokyo 1940, [1938]【Ea-230】 デジタル化資料ボタン

英語版小冊子の表紙

東京大会や日本について英語で紹介した小冊子です。図版が多数用いられ、視覚に訴える作りになっています。実施競技やスタジアムについてだけでなく、世界各国からのアクセス、交通網、宿泊施設などについても触れられています。英語版のほか、仏・独語版も作成・配布されました。
冒頭では、「THE LAST MESSAGE OF BARON DE COUBERTIN」と題し、東京大会開催の意義について述べるクーベルタンの言葉が載っています。
クーベルタンは東京大会の顛末を見届けることなく、1937年9月に亡くなりました。

国内の逆風

河野一郎の肖像写真 河野一郎
(出典:【BZ-1-11】『衆議院要覧. 昭和7年5月乙』)デジタル化資料ボタン

オリンピック施設建造の規模縮小を伝える新聞記事 オリンピック施設建造の規模縮小を伝える記事
(出典:『読売新聞』(東京)1938年6月25日朝刊7面【Z81-16】拡大画像ボタン

昭和12(1937)年初頭になると、大会準備の停滞、国際情勢の悪化が次第に影を落とし始め、IOCベルリン総会での東京大会決定の歓喜から1年も経たない内に、東京大会の開催に対する反対論が聞こえるようになります。 大会返上後に東京市が発行した報告書(『第十二回オリンピック東京大会東京市報告書』東京市, 昭14 【785-25】)によると、東京大会に対する反対意見を公人として初めて口にしたのは、戦後、昭和39(1964)年の第18回東京大会の担当大臣となったことでも知られる、衆議院議員の河野一郎でした。昭和12(1937)年3月20日の衆議院予算委員会で河野は、林銑十郎総理大臣兼文部大臣 関連電子展示会ボタン や佐藤尚武外務大臣 関連電子展示会ボタン らに対し、緊張が高まる国際情勢の中、オリンピックを開催するのは不可能ではないか、という主旨の発言を行い、意見を求めています(『第七十回帝国議会衆議院予算委員会議録(速記)第十五回』〔帝国議会会議録検索システム〕)。
当時の国際情勢を理由としたオリンピック開催の反対意見として有名な河野の発言ですが、その他にも、何かと準備の遅れが目立ち、決断力が弱い東京大会の組織委員会や、東京市長の強権的な態度についての批判も行っており、当時のオリンピックの準備状況の一幕を垣間見ることができます。

その後、昭和12(1937)年7月に日中戦争が勃発し、国内では物資の統制が進みます。昭和13(1938)年4月には、国家総動員法に続き、鉄鋼配給統制規則が公布され、新たなスタジアムの建設が困難になります。大蔵省は、オリンピックや同じく皇紀2600年記念事業として開催が計画されていた万国博覧会のために新たな施設を建造することはなるべく控え、既存の施設を利用することを提案しますが、組織委員会はこれに猛反発しました。既存の施設を利用せざるを得なくなるのであれば、潔く大会開催を返上すべきである、という厳しい意見も出たようです。また、木材を使ってスタジアム建設を目指す案もありましたが、実行されずに終わっています。

IOCカイロ総会と嘉納治五郎の信念

多くの不利な条件を背負いながらも、何とかオリンピックの開催権を勝ち取った東京市でしたが、日中戦争の長期化による影響は、避けて通れませんでした。中国だけでなく欧米の一部からも、東京大会の辞退を望む声が聞こえ、開催準備の遅れを見て本当に開催できるのかどうか危ぶむ声も大きくなっていきました。
昭和13(1938)年3月のIOCカイロ総会では、嘉納らの必死の工作や説得もあり、ひとまず東京開催の方向で進むこととなり、昭和15(1940)年の札幌での冬季オリンピック開催も正式に決定しました。嘉納の苦心は、昭和39(1964)年のオリンピック開催地が東京に決まった際の嘉納の長男、嘉納履正りせいへのインタビューでの証言からも読みとれます。「当時は戦争をしている日本に反対の声が強く会議は難航したので死んだとき父の持っていた黒革の手帳には三月十五日付で“強い信念を示し東京開催が決まった”とあるだけで前後は一週間ずつ空白になっている。よっぽど忙しかったのだろう。」(『読売新聞』(東京)1959年5月27日 朝刊11面【Z81-16】
日本では、IOCカイロ総会後、東京大会開催は確固たるものとなったという論調で報じられましたが、実際にはカイロ総会の時点で日本での開催取りやめと他都市での開催が検討され、総会以降もIOC側から日本へオリンピック開催の辞退を勧める働きかけが行われていたようです。

11) 横山健堂『嘉納先生伝』講道館, 昭和16【289-Ka582ウ】 デジタル化資料ボタン

嘉納の似顔絵とスフィンクスの前で撮影した嘉納の写真 上:嘉納の似顔絵
下:スフィンクスを前にする嘉納

本書以前に嘉納治五郎について書かれた書物は、主に教育や柔道に関するものが多かったようですが、本書はそれ以外の側面にも多く焦点を当てており、興味深い1冊となっています。第四編「スポーツの父として」では、日本スポーツ界・オリンピック界の黎明期を支えた嘉納の活躍について書かれており、IOCカイロ総会前の嘉納の様子についても言及されています。「(前略)先生の言はるゝには、主競技場も、未だ決定せず、報告すべき何物もない。會議は紛糾するであらう。唯だ自分は、徒手空拳ではあるが、日本は大國であるから、かならず日本で開催できるといふ信念の下に、正々堂々、押し切るつもりであると言つて東京を出發された。」「『最後の場合は、臨機應變、柔道の奥の手を出すばかりだ』と言はれた。」といった証言があり、嘉納には、カイロへ出発する直前の時点で、悪条件の中「信念」を押し通すしかない、という覚悟があったことが読みとれます。

嘉納治五郎、志半ばで倒れる

嘉納の棺が船から降ろされる光景 横浜港で嘉納の棺が運び出される様子。棺には五輪の旗がかけられている。
(出典:『Report of the Organizing Committee on its work for the XIIth Olympic Games of 1940 in Tokyo until the relinquish / The Organizing Committee of the XIIth Olympiad』The Committee,1940【54-123】拡大画像ボタン

東京大会を返上の縁でなんとか踏みとどまらせることに成功した嘉納でしたが、IOCカイロ総会の帰りの船中で風邪を悪化させて肺炎となり、昭和13(1938)年5月4日に亡くなります。嘉納の突然の死は、国内外に大きな衝撃を与え、特にオリンピック関係者や柔道関係者は、彼の死を大いに哀しみました。
『朝日新聞』(東京)1938年5月5日朝刊8面【Z81-1】には、次のような米国の記者の談話が掲載されています。「嘉納翁がカイロ會議の使命を果しての歸途に死すとは古代ギリシャにおいて戦線の勇士がマラトンの野まで必死となつて走り續けギリシャ軍の勝利を報じて絶命した故事を想ひ起させるものがある。」東京大会は嘉納の努力もむなしく、嘉納の死から3ヶ月も経たない内に、返上する結果となります。

12) 昭和13(1938)年4月4日付け下村宏宛嘉納治五郎書簡【下村宏関係文書256-1】 デジタル化資料ボタン

五輪マークの入った便箋の写真
下村宏の肖像写真 下村宏 関連電子展示会ボタン

嘉納が亡くなる1ヶ月前に、貴族院議員で当時日本体育協会会長であった、下村宏 関連電子展示会ボタン に宛てた書簡です。IOCカイロ総会は何とか終了したものの、依然山積みとなった問題に苦心する嘉納の様子が見て取れます。嘉納はこの手紙のちょうど1ヶ月後の5月4日に、日本に戻る船の上で亡くなります。
<翻刻(句読点は適宜補った)>
拝啓、過日会議の結果電信にて御報告申上候
後、色々の事に取紛れ御無沙汰に打過居候へ共、
無事旅行を続け居候。 幸会議は好都合に
終了いたし候へ共、将来色々の問題に逢着
する事に相成、今日より切抜け方に苦慮致し居候。
就ては予定を変更し、五月上旬帰京する
事に取め候。永井氏(※)も其前帰朝の筈故、
万事其折を期する事に可致いたすべく候。
       四月四日
               巴里にて 嘉納治五郎
    下村宏殿
  来る八日 ル、ハーブル発北米シアトルより上船の積りに候
※東京大会組織委員会事務総長で、後にIOC委員となる永井松三のこと。

大会返上決定と副島道正

東京大会返上を伝える新聞記事 東京大会返上決定を伝える記事
(出典:『朝日新聞』(東京)1938年7月15日 夕刊 1面【Z81-1】拡大画像ボタン

日中戦争の激化をはじめとする国際情勢の悪化、物資の統制化、相次ぐ国内外からの大会返上の呼びかけ……。このような状況下では、もはや東京大会の返上は不可避でした。昭和13(1938)年7月15日、ついに東京大会・札幌大会を返上することが閣議決定されました。
本来であれば、東京大会組織委員会が自発的に返上を決定してしかるべきでしたが、返上決定は政府主導で行われました。その中で、政府とIOCを繋ぎ、開催するか否かの態度をはっきりと示すよう働きかけた人物がいます。嘉納治五郎が日本へ戻る船上で亡くなり、東京大会組織委員長でIOC委員の徳川家達 関連電子展示会ボタン も病で伏せてしまったため、IOC委員としての重責を一身に担っていた副島道正でした。
「(副島)伯は現今の國際情勢とは云へ日本が1940年にオリンピック大会を引受けた以上之を止めるのは國際信義上面白くなく、また返上する暁も切羽つまつては日本の外に開催希望の英國とても準備に一年半、フィンランドは二年を要すると觀てをりよって速かに政府の態度を決定されんことを要望し」(『朝日新聞』(東京)1937年8月31日 夕刊 2面【Z81-1】)という記事では、返上の1年前から、副島が返上を意識していたことがうかがえます。
副島は、近衛文麿 関連電子展示会ボタン 首相ら政府の要人と会談を重ね、東京大会の返上決定に至ります。病をおしてムッソリーニと交渉するなど、オリンピックの東京開催に奔走した副島が、オリンピック開催返上における中心人物となったことは、なんとも皮肉なことです。
大会返上の決定はすぐさま世界各地のIOC委員へと伝わり、彼らから多くの電報が寄せられます。東京大会返上後に出された、組織委員会の報告書(『Report of the Organizing Committee on its work for the XIIth Olympic Games of 1940 in Tokyo until the relinquish / The Organizing Committee of the XIIth Olympiad』The Committee, 1940【54-123】)には、その内容が記されており、日本の大会返上に同情するものから、返上に踏み切った勇断を称えるものまで様々で、中には、将来の日本での大会開催について触れているものもあります。

大会返上と選手たち

東京大会・札幌大会の返上と、その後の世界情勢の悪化を原因とした1940年・1944年大会そのものの中止により、数多くの選手たちがオリンピックでの活躍の場を奪われてしまいました。「歴史に『もしも』はない」とはよく言われますが、戦争が長期化せず、東京大会・札幌大会が開催されていたら、彼ら・彼女らの人生も大きく変わっていたかもしれません。

繋ぎあわされたメダルの写真 友情のメダルを紹介する記事
(出典:『朝日新聞』(東京)1937年3月26日 夕刊2面)【Z81-1】拡大画像ボタン

男子選手に抱えられる稲田の写真 写真中央右:男子の金メダリスト・シェーファーに抱えられる稲田
(出典:『読売新聞』(東京)1936.3.4, 朝刊, p.4【Z81-16】拡大画像ボタン

大江季雄と友情のメダル

大江季雄すえおは棒高跳びの日本代表としてベルリン大会に参加し、2位の西田修平に次ぐ3位となりました(記録は大江、西田ともに4m25でしたが、先に跳んだ西田が2位とされました)。大江は東京大会でも活躍を期待されており、自身も「國際競技はどうしても勝たねばならぬ。そして選手の氣持には國の形が何パーセントか影響する。(日本橋青年団主催講演会にて)」(大島十九郎『オリンピック写真史大鑑:第十二回オリンピック東京大会招致記念事業』【748-122】)と、並々ならぬ使命感を感じていたようです。しかし、大江は昭和14(1939)年に召集され、昭和16(1941)年に戦地で亡くなります。ベルリン大会で全く同じ記録ながら2位と3位を分かち合った西田とメダルを半分に分割し、片方ずつを繋ぎあわせたメダルを作っていたことは、戦前にも一部新聞で紹介されていましたが、戦後、雑誌やテレビなどで「友情のメダル」として大々的に取り上げられ、小学校の教科書などでも紹介されました。

最少年選手稲田悦子

フィギュアスケートの稲田悦子は、12歳(日本代表として出場した選手で、現在も歴代最年少)で出場した昭和11(1936)年の第4回ガルミッシュパルテンキルヒェン冬季大会(ドイツ)で10位に入り、優勝したソニア・ヘニーに、「近い将来彼女の時代が必ず来る」と言わしめました。その後、全日本選手権を5連覇するなどし、札幌大会では活躍が期待されていましたが、大会の返上・中止により、その希望を絶たれました。戦後、昭和26(1951)年の世界選手権で15年ぶりの世界の舞台に立った稲田でしたが、結果はふるわず下位に沈みました。15年の歳月を経て、世界のフィギュアスケートは、技術から服装に至るまで、すっかり様相が変わってしまっており、「世界との差」は歴然としていました。日本がフィギュアスケートでメダルを獲得するのは、昭和15(1940)年から数えること実に52年、平成4(1992)年の第16回アルベールビル冬季大会で銀メダルを獲得した伊藤みどりまで待つことになります。

コラム札幌大会のジレンマ~FISとアマチュア規定問題~

スキー競技除外を伝える新聞記事 (出典:『読売新聞』(東京)1938年3月18日夕刊2面【Z81-16】拡大画像ボタン

当時のオリンピックは夏季大会を開催した国が、同年に冬季大会も開催することが多く、本来であれば、昭和11(1936)年のIOCベルリン総会で東京での夏季大会開催決定と同時に、札幌の冬季大会開催も決まるはずでしたが、決定に至りませんでした。その後、翌年6月のIOCワルシャワ総会で、大会にあたって十分な準備を進める、という条件付きで札幌の冬季大会開催が決定し、さらにその翌年3月のIOCカイロ総会で再確認されました。
しかし、ようやく開催が決定したのも束の間、関係者に衝撃が走ります。なんと、スキー競技を除外して大会を開催するという案が浮上したのです。
これは国際スキー連盟(FIS)との確執によるものでした。当時IOCは、古代オリンピックの理念からプロ選手はオリンピックに出場できないと定めていました。一方、当時冬季シーズンにスキーを教えることを生業とするスキー講師には、スキー競技の有力選手が多数いました。IOCはFISに対し、スキー講師はアマチュア規定に反するので、オリンピックには参加できないと通達し、FISは、スキー講師はプロに該当しないと反発します。
このアマチュア規定の問題は、第4回ガルミッシュパルテンキルヒェン冬季大会前から顕在化していましたが、FISが譲歩したことにより、同大会ではスキー競技が実施されました。しかしながら、その後もIOCとFISとの間の深い溝は埋まらず、ついには、札幌大会でスキー競技を除外するという前代未聞の決定にまで発展したのでした。
今でこそ多種多様な競技が行われる冬季オリンピックですが、当時は競技数自体が少なく、スキー競技なしでは開催する意味がないではないか、という意見も多数出たようです。札幌大会の関係者は、全日本スキー連盟会長の稲田昌植男爵を中心に、スキー競技を含めた開催を目指し奔走しますが、大会返上により彼らの努力は水泡に帰することとなります。