第2章 学者たちの論争を読む

千里眼事件においては、様々な分野の学者たちが実験に参加したり、メディアに見解を発表したりしました。論争に参加した顔触れは、当時の第一線の学者たちでした。第2章では、学者たちの見解を追ってみたいと思います。

千里眼の研究は、東京帝国大学文科大学助教授・福来友吉と京都帝国大学医科大学教授・今村新吉とによって開始されました。当時の帝国大学は、分科大学制がとられており、文科大学・医科大学は今日の文学部・医学部に相当します。千里眼問題は、当初から人間の心理もしくは精神に関する問題と考えられ、心理学の講座が置かれる文科大学(井上哲次郎元良勇次郎ら)と精神医学の研究者を擁する医科大学(入沢達吉呉秀三ら)の学者たちが競って見解を述べました。

透視や念写が大きく報じられるようになると、東京帝国大学理科大学の物理学者たち(山川健次郎田中館愛橘中村清二藤原咲平ら)が解明に乗り出します。彼らは、積極的に実験に参加しました。また、農科大学等の生物学者たち(石川千代松丘浅次郎ら)も独自の立場から見解を述べています。登場した主な学者たちの所属を以下に示します。

東京帝大と京都帝大

東京帝国大学に次ぐ第二の国立総合大学として、京都帝国大学が創立されたのが明治30(1897)年のことでした。創立時には理工科大学が、その後同32年に法科大学と医科大学が、さらに同39年には文科大学が設置され、順次総合大学として整備が進みました。千里眼事件の際には、医科大学教授の今村新吉が福来と共同実験を行ったほか、文科大学で心理学を専攻する学生・三浦恒助が丸亀に赴き、郁子の透視実験を行っています。三浦は透視を未知の光線の作用によるものと考え、母校の名を冠した「京大光線」と名付けました。実験報告においては、透視を精神作用と考える福来の見解を厳しく批判しています。新設間もない京都帝大でしたが、東京帝大に対する対抗意識も芽生えていたようです。

物理学者たち

元東京帝国大学総長の山川健次郎をはじめとする物理学者たちは、透視や念写の物理的側面について実験で検証することを試みました。彼らは、必ずしも最初から否定的な態度で実験に臨んだわけではなく、透視や念写の実在の可能性を排除せずに実験方法を工夫しています。しかし、能力者側が様々な条件を出したため、実験が十全に実施できたとは言い難く、最終的に藤教篤藤原咲平の『千里眼実験録』をもって千里眼を否定しました。また、新聞は当初、福来を擁護し物理学者たちに批判的な論調でしたが、次第に千里眼に否定的となっていったのは、スキャンダルの暴露と並んで、彼らの実証的な研究がもつ説得力によるものと思われます。

千里眼は精神作用?

一方、千里眼を物理現象ではなく、精神作用の面から説明する学者もありました。福来自身、当初は物理現象と考え実験していた節がありますが、次第に精神作用としての説明を行うようになりました。福来の恩師の一人である哲学者・井上哲次郎は、公開実験後に千里眼を形而上の問題として考えるべきと説いています。また、精神医学者の呉秀三は、催眠状態が感覚を鋭敏にさせることを指摘した上で、千里眼が通常の精神作用から余りにもかけ離れていることを理由に疑問を呈しています。精神作用の問題ととらえた上で否定しているわけです。

進化論者たち

物理学者たちによって千里眼実験は厳しく批判されますが、思わぬところから擁護する説が出てきます。生物学者たちは、馬尾蜂〔うまのおばち〕という蜂が木の中に寄生する虫を樹皮の上から刺して産卵する例を挙げ、これを透視によるものと考えました。そして、生物進化の過程で可能であったならば、人間にそのような形質が発現することも不自然ではないと考えたのです。元東京帝国大学総長で政治学者の加藤弘之も、進化論の立場から事件について発言しています。当時、生物学や社会科学の立場から、進化論の啓蒙が盛んに行われていました。

千里眼の存在について肯定的か否定的か、千里眼を物理現象の面から考えるか精神作用の面から考えるかを軸に、主な学者たちの見解の相関を以下に示します。

中谷宇吉郎の回顧

雪の結晶の研究で知られる物理学者・中谷宇吉郎(1900-1962)は、第二次大戦中の昭和18(1943)年に30数年前の千里眼事件を回顧する随筆(中谷宇吉郎「千里眼其の他」『文芸春秋』21(5),1943.5【Z23-10】 拡大画像『文芸春秋』1943年5月)を書いています。戦後、単行本に再録するに当たって加筆された「附記」拡大画像『春艸雑記』を読むと、千里眼事件以降も類似の疑似科学事件がたびたび起こったことがわかります。

5)中谷宇吉郎「千里眼其の他」『春艸雑記』生活社,昭和22【404.9-N44-5ウ】 拡大画像ボタン

衆議院委員会会議録 昭和18年2月5日衆議院戦時行政特例法案外二件委員会の会議録の該当部分拡大画像ボタン

中谷は疑似科学事件について、「千里眼のやうな事件は、その國の科學の進歩とは無關係に生じ得るものである。それは人心の焦躁と無意識的ではあらうが不當な欲求との集積から生れ出る流行性の熱病である。そして其の防禦には、科學はそして大抵の學者も亦案外無力なものである」と述べています。戦後加筆された「附記」の中で中谷は、執筆当時「内閣と海軍と太平洋戦とを胯にかけた世紀の大千里眼事件が起つてゐたので、此の一文はそれを幾分でも喰ひ止める爲に書いた」と明かしています。その事件とは、「砂鐡を畑の中に盛り上げ、その中にアルミニユウムの粉を加へ、火をつけると、砂鐡が一遍に純鐡になるといふ發明」(「日本的製鐵法」)に、海軍工廠の材料部長が飛びつき、さらには内閣が国策として採用する寸前までいったというものでした。この手法による製鉄は可能ですが、鉄よりはるかに高価なアルミニウムを大量消費するので全く実用向きではないにもかかわらず、信奉者たちがエネルギー保存の法則に反してアルミニウムの消費量を過小評価する説を唱え、ついには衆議院における東條首相の答弁に登場するまでに至ったのです。「附記」に述べられたこの事件の顛末を読むと、本編で中谷が説く科学者の役割が説得力をもちます。中谷は、東京帝大時代に寺田寅彦から物理学を学び、師と同じく優れた随筆家として知られました。