第1章 千里眼実験を読む

福来友吉と催眠術

福来友吉
福来友吉(ふくらいともきち 1869-1952)

千里眼の研究に取り組んだ福来友吉は、東京帝国大学の心理学者でした。明治2(1869)年、岐阜県高山市に生まれ、苦学して第二高等学校を出た後、東京帝国大学文科大学哲学科へ進みます。心理学の元良勇次郎教授の勧めで大学院に進学し、「変態心理学」を専攻します。これは、異常行動や特殊な心的状態を研究分野とするもので、福来は催眠状態の心理学的研究を行いました。同39(1906)年、「催眠術ノ心理的研究」により文学博士号を取得し、東京帝国大学文科大学講師に就任、同41(1908)年には同助教授に昇任しました。

催眠状態とは、催眠法(術)という手続きで一連の暗示を与えることで、被術者に生じる特殊な心理状態のことで、意識や運動、記憶、知覚など心身の諸活動に正常時とは異なる反応がみられることが知られます。催眠の現象自体は、古くから世界各地の民族に知られていましたが、18世紀後半以降、オーストリア出身のメスメル(1733-1815)らによって科学的催眠が試みられるようになり、明治初期には日本にも伝わりました。

催眠術は記憶力を高め、容易に特殊な能力が身につくと考えられたことから、民衆の期待を呼んでブームとなり、施術者が多数現れて俗流の催眠療法を施したため社会問題ともなりました。明治41(1908)年制定の警察犯処罰令第2条19号には、「濫ニ催眠術ヲ施シタル者」は、「三十日未満ノ拘留又ハ二十圓未満ノ科料ニ處ス」と定められています。

1)ジョーンスツロム(渋江保訳)『催眠術』,博文館,明27.6【71-157】

催眠術

日本におけるごく初期の催眠術関係資料です。著者のジョーンスツロムは、スウェーデンの精神科医でストックホルム病院長とあります。訳者の渋江保は、森鴎外の史伝で知られる江戸時代後期の医師・書誌学者の渋江抽斎の3男で、怪奇小説、冒険小説を著したほか、心霊現象等に関する翻訳でも知られました。「本書は、恰も古代の神託、禁咒、妖術、預言等を始めとして、我か邦の憑狐者、生霊等を學理に由りて説きたるものなれば、興味殊に深く、且つ有益なり」とあります。

さて、このような催眠術に対して心理学者として学問的な研究の光を当てようとしたのが福来でした。明治38(1905)年には、日本における最初の体系的な催眠研究書として『催眠心理学概論』【99-70】を上梓しています。福来の師である東京帝国大学教授・元良勇次郎は、日本における心理学研究の創始者と目され、心理学における実験的手法を重視していました。福来の催眠研究においても、実験的手法が用いられています。

2)東京帝国大学文科大学心理学教室編『実験心理写真帖』弘道館,明43.12【337-3】

実験心理写真帖

日本における心理学研究の創始者・元良勇次郎は、「精神物理学」の名の下に身体と精神との関係を研究し、特に実験的手法を重んじました。弟子であり講座の後継者となった松本亦太郎の助けを得て、東京帝国大学に心理学実験場を開設しています。本書は、当時の心理学教室が保有していた実験器具を写真入りで紹介したもので、心理学実験の様子をうかがうことができる資料です。なお、掲載画像は「注意の実験」のための装置で、左側の幻灯機からの光を中央の透過装置を通して一瞬の間照射し、右側の暗箱中に投影された文字や錯覚図を右側の小窓から被験者が覗く仕組みになっています。照射時間は透過装置の調節によって変えることができ、様々な条件のもとで知覚の実験を行うことができました。

御船千鶴子の登場

明治42(1909)年8月のこと、新聞紙上に、かねて病気療養中であった前京都帝国大学総長・木下広次法学博士が「透見法」なる術を発明した御船(河地)千鶴子という女性から不可思議な治療を受けたとの記事が出ました(「不思議なる透見法」『朝日新聞』(東京)1909.8.14,朝刊,p.5)。この「透見法」とは、「厳封したる袋の中の物は言ふに及ばず鉱物の如き又身体の如きも透見してその内容を探り得」というもので、いわゆる透視です。催眠状態においては、しばしば平常時と比べ知覚が鋭敏となることがありますが、千鶴子は義兄の清原猛雄から催眠術を施され、透視ができるとの暗示を与えられてこの能力を得たとされます。木下は、京都帝国大学医科大学教授で精神科医であった今村新吉博士に千鶴子の能力の研究を勧めました。また、福来の元へも別のルートで実験の誘いがありました。この御船千鶴子こそが、世の注目を集めた「千里眼」の第1号となるのでした。

以下、福来の著書『透視と念写』を読みながら事件の経過を追いたいと思います。

3)福来友吉『透視と念写』東京宝文館,大正2【349-121】

透視と念写

いわゆる千里眼事件は、明治43(1910)年から翌年にかけて起こりますが、大正2(1913)年に一連の千里眼実験について、福来が満を持して発表した著作です。序において、「ガリレオは幽閉の身となつても、尚其の研究を繼續して怠らなかつた。余は如何に月並學者の迫害を受けたからとて、學者の天職として信ずる道を踏まずには居られぬ」と悲壮な覚悟を述べています。本文は全体で5編から構成され、第一編「緒言」において、「雲霞の如く簇〔むらが〕る天下の反對學者を前に据ゑ置いて、余は次の如く斷言する。透視は事實である。念寫も亦事實である」と宣言し、発表が遅れた理由として、他の学者の実験に対して結果を出すことができる程度に能力者の透視能力が発達しなかったこと、御船千鶴子・長尾郁子が相次いで死亡し強力な能力者が得られなかったこと、恩義のある人物から発表を見合わせるよう忠告を受けたことの3つを挙げています。千里眼の存在を認めなかった学界への宣戦布告とも言うべき内容で、本書の発表が福来の大学からの追放を決定づけたとも言われます。第二編から第四編は、それぞれ御船千鶴子、長尾郁子、高橋貞子という3人の能力者に対する実験を記述し、第五編で結論を述べています。

千鶴子の一般状態

御船千鶴子
御船千鶴子(みふねちづこ 1886-1911)

御船千鶴子については、本書第二編で取り上げられています。第二編第一章は、「千鶴子の一般状態」と題され、明治19(1886)年、熊本県宇土郡松合村の士族・御船秀益の次女として生まれ、同41(1908)年に陸軍歩兵中尉・河地嘉兼と結婚、同43(1910)年には事情により離婚したこと、右耳が遺伝性の難聴であったこと、一つのことに集中し他を顧みなくなることがあったことなどが述べられています。また、千鶴子はのちに事件の渦中で服毒自殺を遂げますが、その原因について、学者や新聞に詐欺師呼ばわりされたことを苦にしたものと推測しています。

透視を得るに至りし来歴

第二編第二章「透視を得るに至りし来歴」によると、千鶴子の義兄で熊本県立中学済々黌で舎監をしていた清原猛雄は、明治36(1903)年頃から当時流行の催眠術を試みており、やがて義妹の千鶴子に施術するようになりました。千鶴子は、催眠術の暗示によく感応したようです。日露戦争中の明治37(1904)年のこと、清原は催眠状態の千鶴子に千里眼(透視)が可能であると暗示し、6月15日に玄界灘でロシア艦隊の攻撃を受け沈没した輸送船・常陸丸について、当初同船に乗船しているとみられた第六師団兵士の安否を透視させたところ、同師団はいったん長崎を出航したものの、途中で故障があって引き返したため同船には乗船していないと答えました。3日後に続報があり、千鶴子の透視は事実に合致していることが確認されました。

同41(1908)年7月、清原は千鶴子に、催眠術によらないでも深呼吸によって無我の状態となれば万物を透視できると告げて、毎朝練習するよう命じました。その後、千鶴子は1時間に1度ずつ熱心に深呼吸を行うようにし、10日ほどすると、庭の梅の幹の中に小虫がいるのを透視できるようになりました。また、海水浴の際に海中で紛失した指輪を干潮時に透視によって発見するなど、卓越した透視能力を現わします。こうした千鶴子の能力は、清原及び彼の勤務先の上司である熊本県立中学済々黌長・井芹経平らによって、様々な方法で実験されました。また、千鶴子は実家で人体透視による病人の診察等も行っていたようです。

千鶴子の実験

通信実験

さて、明治42(1909)年5月、熊本の井芹が上京して福来を訪ね、千鶴子の能力の研究を勧めます。翌年2月には予備実験として郵送による透視実験が行われました。第二編第三章「第一回通信実験」においては、この際の実験について述べられています。福来所有の名刺から任意に19枚を選び、各名刺上の文字の全部または一部の表または裏を錫箔で隠して、両面に白いカードを重ねて封筒に入れ、封じ目に小紙片を貼り認印を押して封をしたものを井芹に郵送し、千鶴子に透視を行わせました。井芹から知らされた結果は、このうち7通を2日間で透視し、完全適中3、一部の文字を誤るなどした不完全適中4というものでした。透視のため精神集中した際に、睡眠状態に陥り3通は火鉢の中に落として焼失してしまい、残りのものについては、極度に心身を衰弱したため実験を終えていないとのことでした。なお、錫箔の有無は結果に影響しませんでした。福来は、この結果を良好とみて、熊本へ出張して実験を行うことを決意します。

出張共同実験

明治43(1910)年4月8日、福来は千鶴子の能力を実験すべく熊本に出張します。熊本での実験は、京都帝国大学の今村新吉と共同で行われました。今村は同年2月にも熊本に出張し、福来に先んじて千鶴子に対する直接実験を行っていました。

千鶴子の透視は、封筒あるいは箱に入れられた透視対象を正座した膝の上に持ち、深呼吸をして精神統一して行いました。頭は自然に前方に傾き、精神統一ができると透視対象の視覚的なイメージが得られ、筆記または口頭で回答しました。実験は熊本の清原邸等で延べ5日間・計17回にわたって行われ、福来の帰京後も2回にわたり郵送による実験を行っています。

清原邸の見取り図
清原邸の見取り図

京都における共同実験

以上の実験結果は、福来に「千鶴子の透視能力を充分信仰する」に至らしめるものでした。明治43(1910)年4月25日に開催された心理学特別会において、福来は熊本出張実験の報告を行いました。当日は大沢謙二片山国嘉三宅秀呉秀三ら医科大学の教授陣や物理学者の長岡半太郎、哲学者の井上哲次郎、心理学者の元良勇次郎らが参加しています。

千鶴子の透視には、実験をするに当たって大きな欠点がありました。それは、実験者や立会人の面前では精神統一できず、別室で一人で透視をするため、実験結果に疑念を残すものとなってしまうということでした。福来は、他人の面前でも透視できるように千鶴子の能力を導こうとしましたが、これはなかなか難しく、実験物の封じ方を厳重にすることで疑念の生じないようにしようとしました。従来の実験では紙を糊付けして封をしていましたが、鉛管に透視物を入れ両端をはんだ付けした実験物を準備することとし、精神統一を妨げないよう、従来の実験物も併用することとしました。

同年8月に大阪商工教育会主催の透視講演会が開催され、福来が講演し、千鶴子も臨席しました。その後、福来と今村は京都で千鶴子の実験を行いました。9月5日(実験第4日目)の第1回実験は、京都帝大の実験者が鉛管をはんだ付けした実験物を作製して用いましたが、この作製作業を見ているときから千鶴子は、「不安の顔色を呈せしが、終に緣にある椅子に腰掛け、兩手を以て顔を掩ひ居たり」という状態で、実験室にこもるも透視できず、「疊の上に面を伏せ、面目なしとて涙ぐみ居たり」という結果でした。

公開実験

明治43年(1910年)9月、千鶴子の上京に合わせて学者や新聞記者を集めた公開実験が企図されます。東京帝国大学元総長で物理学者の山川健次郎博士をはじめ、多数の物理学者、医学者、哲学者らが参加しました。公開実験は9月14日、15日、17日の3回行われ、第1回及び第3回は学者を集め、第2回は新聞記者を対象としたものでした。

当時は、W・K・レントゲン(1845-1923)によるX線の発見(1895年)やキュリー夫妻(ピエール:1859-1906、マリー:1867-1934)によるラジウムの発見(1898年)から間もなく、未知の放射線の存在を仮定しての説明も試みられました。

千鶴子の透視実験の様子
千鶴子の透視実験の様子

第1回実験では、文字を3字記した紙片を鉛管に封入したものを山川が準備しました。千鶴子は「盗丸射」と透視しましたが、山川が準備した中にはそのような文字の組み合わせはありませんでした。しかし、千鶴子が透視した実験物を開封して見ると、「盗丸射」と書かれた紙片が出てきました。事情を質すと、山川の実験物は透視できなかったため、事前に練習のため福来から与えられていた鉛管を代わりに透視したとのことでした。学者たちは、厳密を期すため再度の実験を求めましたが、疲労のため精神統一がうまく行かず、当日の再実験は断念されました。この時の実験物取り違えは、批判者たちの疑惑を招きました。翌日、記者たちを前にした第2回実験は成功しました。

「見えぬものを透覚する頗る珍な女の実験」
「見えぬものを透覚する頗る珍な女の実験」

9月17日に実施された第3回公開実験では、学者たちが各々3字ずつ記したカードから無作為に選んだ1枚を、錫製の小壷に入れ、それをさらに箱に入れて紐で縛り、結び目に認印を押した紙縒りで結んで実験物としました。千鶴子が透視した結果は、「道徳天」の3字でしたが、これは見事に的中でした。当日、千鶴子は体調が悪く、山川が準備した追加の実験には応じることができませんでした。参加した学者たちは実験結果をめぐり賑やかに論じ合いました。この実験の時点では、透視を全否定する学者はなく、未知の光線や精神作用など様々な観点から検討しています。

「十四博士の驚嘆」
「十四博士の驚嘆」

千鶴子に対する誤解を弁護す

「千鶴子に対する誤解を弁護す」と題した第二編第十二章では、「時々開封した形跡があつたり、掏り換へたりする形跡がある」という物理学者・中村清二らの批判に対して反論を試みています。こうした疑惑に応えるには、やはり実験物をもつ手元が見える形で実験を行う必要があるため、福来は千鶴子が立会人の面前でも精神統一できるよう工夫します。公開実験後の同年11月、福来は再度熊本へ出張していますが、井芹宅で行われた11月18日午後の実験において、福来はついに透視中に千鶴子の手元を見ることができました。この実験は、2つのサイコロを巻煙草入れに入れて振り回し、上面に出た目を透視させる方法で実施しましたが、福来は上から毛布を垂らして千鶴子の顔を隠し、隣室から手元だけが見えるようにして実験しました。結果は、5回中3回成功で、福来はこれを満足の行くものと考えました。福来は、翌年4月に上京して再度公開実験を行うことを千鶴子と約束し熊本を発ちましたが、翌年1月に千鶴子が謎の自殺を遂げたため、公開実験によって能力を検証することはできませんでした。

この章では、他にも批判者からの指摘に反論が加えられています。千里眼の真偽に関心がある方は、是非お読みください。

長尾郁子の念写

長尾夫人の一般状態

千里眼実験は、新聞等で大々的に報道されたことで、社会的なブームを引き起こします。各地に千里眼能力者が次々と現れ、地元の教師や記者らによって実験が試みられ、新聞等で紹介されます。こうした中で有力な能力者と目されたのが、香川県丸亀市在住の女性・長尾郁子でした。郁子は、明治4(1871)年徳山藩の家老の娘に生まれました。母は剣術師範の家の出で、郁子も多少の武道の心得があったと言います。質朴で内向的な性格であった千鶴子に対し、郁子は健康的で活発な性格であったとされます。夫の長尾輿吉は、当時丸亀区裁判所の判事を務めていました。

郁子は信仰心が厚く、夫の前任地であった宇都宮で大火を予知するなど以前から不思議なことがありました。明治43(1910)年6月頃、千鶴子の透視能力を知り、子どもを相手に戯れで透視をしてみたところ、精神統一に入り透視能力を得たとされます。同年10月23日に東京朝日新聞にその能力が報じられ、福来の知るところとなります。

透視の実験

福来は、千鶴子の際と同様の予備実験を行いましたが、返送されてきた実験物はすべて透視後に開封されていました。郁子は、実験物に封印のための捺印がある事を知って、能力を疑われているように感じて不快に思い、実験後に開封を希望したとのことでした。このため、福来と今村は丸亀に出張して実験することとしました。

郁子は透視に際して、口を清め深呼吸を行い全身を撫擦した後、実験物を置いた机の前に立会人を前にして座ります。やがて、眉間の辺りで合掌して精神統一し、手を膝の上まで下げて指を組み前傾姿勢を取ると実験物についての視覚的印象が得られました。結果の的中率は、千鶴子の場合よりも低かったものの、福来らは郁子の能力に確信を持ちました。

念写の実験

さて、福来らが透視実験を繰り返す中で、未現像の写真乾板上の撮影された文字の透視が試みられました。透視結果は失敗でしたが、実験後に乾板を確認すると、感光していることが発見されました。福来は、これを被験者の精神作用によって乾板が感光したものと考え、この現象を「念写」と名付けて研究を開始しました。福来は、郁子に「心」という字を乾板に念じ込む気持ちで精神統一するよう依頼します。実験後、乾板は長尾家の隣人の横瀬という人物宅に預けられ、後刻旅館に持ち帰り現像したところ感光したあとが認められました。この頃、京都帝国大学文科大学の学生・三浦恒助が郁子の実験のため長尾邸に出入りしていました。三浦は透視を未知の光線の作用によるものとして説明し、これを「京大光線」と命名します(「透視実験の確定」『朝日新聞』(東京)1910.12.26,朝刊,p.5)。念写の現象は、光線説を裏付けるものとも考えられました。

郁子が福来のため念写した「観音」
郁子が福来のため念写した「観音」

山川博士の実験

念写の公表を受けて、物理学界の大御所である山川健次郎博士が検証に乗り出します。山川は千鶴子の公開実験にも参加しており、以前から千里眼に関心を持っていました。丸亀では、助手として理科大学講師の藤教篤と大学院生・藤原咲平の助力を得て実験を実施しました。郁子の実験には難点がいくつかありました。疑われるということに極度に神経質で、糊付けや封印に気づくと精神統一できなくなってしまう点、実験物を準備する部屋(下図のE室)が指定され、精神統一に入る際に実験を行う部屋(A室)を出て口を清めに行く点などが疑いを抱かせました。

明治44年(1911年)1月8日に行った山川の実験において、実験物をE室で保管していたところ、鞄の中の写真乾板が紛失するという事件が発生しました。後に、実験物を作製した際に、藤が乾板を入れ忘れていたことが原因と判明しますが、長尾家側は不信を強め、以後、物理学者らの実験を謝絶するようになりました。この乾板紛失事件は、千里眼の信奉者からは物理学者による信用失墜行為ととられ、関係者に脅迫状が送られたりもしたようです。また、今日に至るまで、陰謀説が残るきっかけとなりました。丸亀における山川らの実験については、翌月、藤と藤原の共著で『千里眼実験録』が発表されました。

長尾邸の見取り図
長尾邸の見取り図

4)藤教篤・藤原咲平『千里眼実験録』大日本図書,明44.2【327-420】

丸亀での山川の実験を手伝った若手物理学者・藤教篤藤原咲平による報告書。山川の他、当時の第一線の物理学者である中村清二田丸卓郎、石原純が序文や跋文を寄せています。前半に藤原の「千里眼実験見聞記」、後半に藤の「山川博士の千里眼者長尾郁子夫人に対する実験参加録」を収めます。藤は、念写された文字について、周囲に紙を破ったような毛羽立ちや刃物で切ったような跡が見られる、閉じた字画のものがない等の懐疑を呈し、ボール紙の紙型を乾板上に置いて感光させたのではないかと指摘しています。確かに上掲の「観音」の念写では、「口」などの閉じた字画にいずれも不自然な開口部が見られます。藤は帰京後に再現実験を行い、この仮説を検証しています。後年、物理学者の中谷宇吉郎が、本書を「此の種の實驗報告としては、細心精到且つ典雅を極めたものである」と評していますが、実験経過や仮説検証などに周到な記述がなされています。

乾板等の実験物
乾板等の実験物

乾板が「紛失」した鞄(後に入れ忘れと判明)
乾板が「紛失」した鞄(後に入れ忘れと判明)

能力者たちの死とその後の福来

さて、乾板紛失事件のあった明治44(1911)年1月頃から新聞報道の風向きが変わってきます。それまで、千里眼を好意的に取り上げてきた新聞の論調が、スキャンダル報道の色を帯び始めます。同月の東京朝日新聞から千里眼事件関係の主な記事の見出しを挙げると、「何人の奸策ぞ いく子実験の障害 東京大学連の失態」(11日)、「醜陋なる科学者 幾子夫人実験の障害 卑劣手段をも透視す 山川博士の説明 実験未だ確実ならず 千里眼以外の不思議」(12日)、「学界の大恥辱 いく子実験中止の怪事は 学者の陋劣なる根性より」(13日)、「愈奇愈怪 フイルムの所在判る 福来博士の憤慨 フイルム窃取について 同類八人 フイルム窃取の犯人」(15日)、「学界の奇観 千里眼に関する暗闘 丸亀に於て」(21日から30日まで8回連載)等、物理学者の陰謀を詰るもの、能力者に疑義を呈するものが混在していますが、スキャンダラスな見出しが目立ちます。

また、同月18日、御船千鶴子は熊本の自宅で謎の服毒自殺を遂げ、翌2月26日には、丸亀の長尾郁子がインフルエンザと見られる病気により死亡します。相次ぐ能力者の死は、千里眼研究の継続を困難にします。

大正2(1913)年、福来は満を持して『透視と念写』を刊行しますが、「透視は事實である。念寫も亦事實である」との説が学界で受け入れられることはなく、同年10月27日付けで文官分限令に基づき東京帝国大学の休職を命じられます。理由は、「官庁事務ノ都合ニ依リ」とされていますが、マスコミによるスキャンダル報道等により学問の権威を失墜させたことに対する事実上の処分であったと見られています。

その後の福来は、復職することなく大正4(1915)年に東京帝国大学を退職。福来の追放をもって、変態心理学という学問分野自体が学界から排除されたとも言われ、以後、アカデミズムにおいて超能力の研究はタブー視されることとなります。同8年、福来は自ら超能力を得るべく高野山で修業を開始し、同15年高野山大学教授に就任しました。密教の研究を元に、実験で得られた結果を解釈する思想体系を構築しようと努め、その成果は『心霊と神秘世界』【636-1】等の著作にまとめられています。昭和27(1952)年3月13日肺炎で死去。死の前夜に突然大声を上げ「福来友吉二世生る」と3度繰り返したと伝わります。

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