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トップ > イベント・展示会情報 > 過去の展示会 > 関西館小展示 「花ひらく少女歌劇の世界」

関西館小展示 「花ひらく少女歌劇の世界」
(終了しました)

関西館小展示「花ひらく少女歌劇の世界」は終了しました

 関西館小展示「花ひらく少女歌劇の世界」 は盛況のうちに終了しました。展示資料の解題やデジタル化画像、歴史的音源は、ページ内下部の「資料リスト」から引き続きご利用いただけます。


展示会場全景
展示会場の端からの全景の写真  

展示資料
手にとって閲覧できる展示資料の写真  

音源コーナー
音源コーナーの写真  



関西館小展示 「花ひらく少女歌劇の世界」 の開催について

花ひらく少女歌劇の世界

 第13回の関西館小展示では、「花ひらく少女歌劇の世界」と題して、少女歌劇に関する資料を紹介します。

 少女歌劇とは、女性のみで演じられるミュージカルやレビューなどの舞台であり、昭和初期に隆盛した日本独特の演劇形態です。大正期に関西で宝塚、大阪松竹等の少女歌劇団が人気を博すると、昭和戦前期には観光地や沿線開発の目玉として、各地で歌劇団結成の動きが広まりました。

 今回の展示では、当時の歌劇団の活動や公演内容を中心に少女歌劇の発展史をたどります。各歌劇団の年史、脚本、写真集等の関西館所蔵資料を展示するとともに、「すみれの花咲く頃」(宝塚歌劇団)、「東京をどり」(松竹少女歌劇団)をはじめとする公演主題歌などの歴史的音源37点を聴くことができるコーナーを設けます。

 開催期間中には資料解説も行います。

資料リスト[PDF版 680KB]

 以下、各解説の後ろの()内は当館請求記号を表します。


第1部 少女歌劇の草創期

  • No. 1   白木屋三百年史./ ( 東京 : 白木屋, 1957. )

     少女歌劇の歴史は、百貨店の余興として1911年(明治44年)に誕生した白木屋少女音楽隊から始まりました。「白木屋少女歌劇の消長」(p.308~312)に、その設立時の状況が紹介されています。当時三越には1909年(明治42年)創設の少年音楽隊があり、白木屋の少女歌劇は「その向うを張つての対抗ともいえる」といった記述もあります。なお、白木屋は現在の東急百貨店です。 ( 673.8-Si569 )

     *この資料はデジタル化されています。[本文へのリンク]

  • No. 2   演劇百科大事典. 第3巻 (サナーチユ) /早稲田大学演劇博物館 編. ( 東京 : 平凡社, 1960. )

     「少女歌劇(しょおじょかげき)」が立項されています。(p.206)白木屋少女音楽隊設立に始まり、その他の少女歌劇団の設立についても説明しています。なお、早稲田大学演劇博物館は、国内外の演劇資料や映像資料を所蔵する博物館です。 ( 770.33-E742-W )

     *この資料はデジタル化されています。[本文へのリンク]

  • No. 3   宝塚少女歌劇廿年史. /宝塚少女歌劇団 編. ( [宝塚町 (兵庫県) ] : 宝塚少女歌劇団, 1933. )

     1913年(大正2年)7月、宝塚歌劇団の前身である宝塚唱歌隊が誕生しました。宝塚新温泉内のパラダイス劇場での公演に始まり、昭和初期のレビュー時代の到来まで、宝塚少女歌劇の歴史が記されています。劇場ごとの上演演目リストも収録されています。 ( 650-13 )

     *この資料はデジタル化されています。[本文へのリンク]

  • No. 4   日本歌劇概論. 補3版/小林一三 著. ( 宝塚町 (兵庫県) : 宝塚少女歌劇団, 1925. )

     宝塚少女歌劇の創設者である小林一三(いちぞう)が、少女歌劇設立初期に発表した論稿を含んでおり、「国民劇」や「少女歌劇」に対する考え方、周囲の反応等を知ることができます。「少女歌劇の意義」の項で、男性のみの歌舞伎と同様、女性のみの宝塚歌劇団も芸術的意義を有すると述べています。 ( 541-47 )

     *この資料はデジタル化されています。[本文へのリンク]

  • No. 5   逸翁自叙伝. /小林一三 著 ( 東京 : 産業経済新聞社, 1953. )

     「十一、寶塚歌劇団の誕生」(p.210~)に、宝塚新温泉の集客の目玉として水泳場を劇場に改装し、女性のみの少女歌劇を開いたとあります。なお、こちらの資料は復刻版も所蔵しています。(請求記号 GK75-E30GK75-G23) ( 289.1-Ko428i )

     *この資料はデジタル化されています。[本文へのリンク]

  • No. 6   松竹七十年史. / ( 東京 : 松竹 1964. )

     1922年(大正11年)4月、大阪で松竹楽劇部生徒養成所(のちのOSK日本歌劇団)が誕生し、1928年(昭和3年)には東京松竹楽劇部(のちの松竹歌劇団(SKD))が発足しました。「松竹歌劇の四十年」(p.384~416)には、これら2団体の歴史が記されています。 ( 770.67-Sy957s )

     *この資料はデジタル化されています。[本文へのリンク]

  • No. 7   劇./ ( 東京 : 国際情報社, 1929-1932. )

     9巻6号(1931.6)には、レビュー全盛期の宝塚歌劇団と松竹楽劇部の公演風景が掲載されています。表紙も松竹楽劇部の人気レビュー「春のおどり」出演者が飾っています。 ( 雑35-69 )

     *この資料はデジタル化されています。[本文へのリンク]

  • No. 8   日蓄(コロンビア)三十年史. /日本蓄音器商会 編. ( 川崎 : 日本蓄音器商会, 昭15. )

     SPレコードを多数発行していたコロンビア社は、1910年(明治43年)に日本蓄音器商会として創業しました。宝塚少女歌劇団と松竹少女歌劇団について、レビュー全盛期の1930年(昭和5年)から1939年(昭和14年)にかけてのレコードの発売点数が記載されています。(p.106~107)年平均での発売点数は、昭和5年頃は約5点、昭和9年頃は約22点、昭和14年頃は約24点と、年々増えていることがわかります。 ( 773-157 )

     *この資料はデジタル化されています。[本文へのリンク]

  • No. 9   宝塚歌劇四十年史. / ( 宝塚 : 宝塚歌劇団出版部, 1954. )

     小林一三は序文で、大劇場主義と新国民劇の創生についての、かねてからの想いを披露しています。写真により40年の歩みを振り返ることができます。 ( 766.7-Ta377t3 )

  • No. 10   宝塚歌劇の変容と日本近代. /渡辺裕 著. ( 東京 : 新書館, 1999.11. )

     宝塚歌劇の創設者小林一三は、宝塚歌劇を歌舞伎などの旧劇の改革の一案としての国民劇として構想していたと論じています。その例として、常磐津の流れを汲んだ演目「お夏笠物狂」や、人形浄瑠璃の定番「滋野井子別れ」の場面を題材にした歌劇「丹波與作」も紹介されています。また、東京への対抗としての宝塚という視点からの分析も紹介されています。 ( KD597-G90 )

  • No. 11   日本文化モダン・ラプソディ. /渡辺裕 著 ( 東京 : 春秋社, 2002.11. )

     歌舞伎などの伝統演劇と西洋音楽を融合し新しい演劇を作るという点において、演劇の改良を試みた劇作家・坪内逍遥と小林一三の思想が一致しているのではないかと論じています。 ( KD151-H1 )

  • No. 12   松竹九十年史. / ( 東京 : 松竹, 1985.12. )

     資料No.6『松竹七十年史』と同様、「松竹歌劇の六十年」の項では、創立からの歴史をスターや公演の紹介を通じて振り返っています。 ( KD6-71 )

  • No. 13   OSK日本歌劇団の九〇年. /岡本 澄 ( 大阪の歴史 (79):2012.11 p.99-120 )

     OSK日本歌劇団の歴史について記しています。同じ松竹楽劇部から派生した松竹歌劇部(SKD)は解散しましたが、OSK日本歌劇団は、運営母体は変化しながらも存続しています。 ( Z8-1687 )

  • No. 14   少女歌劇の光芒 : ひとときの夢の跡/倉橋滋樹, 辻則彦 著. ( 東京 : 青弓社, 2005.8. )

     大正時代中頃から、宝塚や松竹などの主要な団体以外にも、全国各地に様々な少女歌劇団が設立されていきました。本書には、全国各地の少女歌劇についての詳しい紹介があり、今日では関係資料がほとんど残っていない団体についても、元団員へのインタビューや個人所有の写真等が掲載されています。 ( KD597-H27 )

  • No. 15   日本オペラ史 : ~1952/増井敬二 著 ; 昭和音楽大学オペラ研究所 編. ( 東京 : 水曜社, 2003.12. )

     日本におけるオペラ史の一つとして、宝塚少女歌劇についても紹介されています。「2-6-5 本格的に活動を始めた宝塚少女歌劇、その他」(p.165~166)の項では、1921年3月~5月に上演された「ヘンゼルとグレーテル」について、「脚本を含めて正式に名作オペラをアレンジしたのは、宝塚ではこれが最初の筈である。」とあります。 ( KD338-H42 )

第2部 大流行する少女歌劇-大正から昭和にかけて-

2-1 宝塚歌劇団
2-2 松竹歌劇団、OSK日本歌劇団

第3部 全国に広がる少女歌劇

3-1 赤玉少女歌劇団(大阪府)
  • No. 47   ムーランルージユカーニヴァル : 赤玉少女歌劇特別公演/赤玉少女歌劇団 [編]. ( 大阪 : 赤玉少女歌劇団, 1935. )

     赤玉少女歌劇は、大阪・道頓堀のカフェー赤玉(キャバレー赤玉)専属の歌劇団として、1927年(昭和2年)に誕生しました。本書では、特別公演「ムーランルージユカーニヴァル」の様子が写真を中心に紹介されています。また、歌劇団についての説明として、研究予科と専科とに分かれており、気品ある女生徒を養成する学園である、といった内容の記載もあります。なお、このカフェー赤玉には、作曲家・服部良一も当時サックス奏者として出演していました。 ( 特252-902 )

     *この資料はデジタル化されています。[本文へのリンク]

  • No. 48   大阪の20世紀/産経新聞大阪本社社会部 著. ( 大阪 : 東方出版, 2000.7. )

     「カフェー「赤玉」 一世風靡した夜の社交場」(p.216~219)には、『ステージにあでやかなドレスの少女たちが現れた。宝塚の少女歌劇団を参考に作られた「赤玉歌劇団」だった。レビューが終わると客にさかんに手を振って、笑顔を振りまいた。』とあります。 ( GC161-G22 )

3-2 河合ダンス(大阪府)
3-3 大濱少女歌劇(大阪府)
  • No. 54   開通五十年/南海鉄道株式会社 編. ( 大阪 : 南海鉄道, 1936. )

     堺市にあった大浜汐湯で公演をしていた大濱少女歌劇の写真が掲載されています。大浜汐湯は南海鉄道が経営していたレジャー施設で、大浴場や水族館のほか、少女歌劇専用の劇場も備えていました。 ( 638-194 )

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  • No. 55   芝居とキネマ. 2(1) 1925.1/ ( 大阪 : 大阪毎日新聞社, 1924- )

     「堺大濱少女歌劇団」と題して、公演の一場面の写真が掲載されています。 ( 雑35-65 )

     *この資料はデジタル化されています。[本文へのリンク]

  • No. 56   南海沿線百年誌/南海道総合研究所 編. ( 大阪 : 南海電気鉄道, 1985.5. )

     『盛衰極まりなき「潮湯」と「少女歌劇」』(p.183~184)にて、大濱少女歌劇が紹介されています。芸名には、「紀の川」美代子など阪堺電気軌道や南海鉄道の駅名をとっていた、とあります。 ( GC143-34 )

3-4 青黛座(せいたいざ)(福岡県)
  • No. 57   博多大正世相史/井上精三 著. ( 福岡 : 海鳥社, 1987.8. )

     筝曲の師匠であった井上胡蝶(いのうえこちょう)は、1921年(大正10年)に福岡・大濠で開かれた子供博覧会で、自作の少女歌劇の公演を行いました。(「少女歌劇」p.192~194)その後、博多少女歌劇養成会を設立し、生徒を青黛座(せいたいざ)の座員として公演に出演させるようになりました。(「青黛座」p.194~197) ( GC267-E3 )

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  • No. 58   少女歌劇集. 第1編 /松居豊三郎 編. ( 福岡 : 博多歌劇協会, 1923. )

     「胡蝶の夢」など青黛座で演じられた公演の脚本16編が収められています。「博多少女歌劇養成会専属青黛座規則」も掲載されており、宝塚歌劇音楽学校と類似の劇団養成課程を擁していたことがわかります。 ( 329-332 )

  • No. 59   博多少女歌劇「青黛座」について(2) /田畑きよ子 ( 館報池田文庫. 29号(2006.10) )

     宝塚少女歌劇場が全焼した頃、宝塚歌劇の偽物騒動がありましたが、その正体は、青黛座ではなく中野興行社だったという論文です。なお、掲載誌を発行している池田文庫は、宝塚少女歌劇を始め、広く演劇関係資料を所蔵している図書館です。 ( Z21-2363 )

3-5 鶴見園女優歌劇(大分県)
  • No. 60   大別府案内 : 世界一大温泉府/安部登 著述・編. ( 東京府 : 南郷山荘, 1937. )

     鶴見園は現在の大分県別府市にあった遊園地です。1925年(大正14年)、実業家・松本勝太郎によって作られました。「鶴見園大遊園地」の項で、「九州の宝塚新温泉場だと言へば最も適当」「宝塚松竹に次いで第三位を占むる女歌劇場」と紹介されています。(p.92~93) 資料No.14『少女歌劇の光芒』には、「行って御覧よ 鶴見ヶ丘へ 別府名所で名も高い」といったラインダンスの際に流れる歌の歌詞も掲載されています。( 特228-99 )

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  • No. 61   絵の国豊前豊後/大仏次郎 著等. ( 東京 : 九州風景協会, 1934. )

     鶴見園見物の際に、大仏次郎らが少女歌劇を観劇したとあります。「ここの歌劇が、やがて宝塚の名を凌ぐようになるのも、あまり遠くはないだらう。」と述べています。(p.22~25) ( 661-44 )

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  • No. 62   絵はがきの別府 : 古城俊秀コレクションより/松田法子 著 ; 古城俊秀 監修. ( 東京 : 左右社, 2012.5. )

     温泉プールの前でポーズをとる少女歌劇の専属女優たちの写真が掲載されています。(p.204) ( GC285-J78 )

3-6 羽田歌劇(広島県)
  • No. 63   呉市主催国防と産業大博覧会誌/呉市 編. ( 呉 : 呉市, 1936. )

     羽田歌劇とは、広島市にある料亭「羽田(はだ)別荘」において結成された少女歌劇団です。「国防と産業大博覧会」に出演した羽田歌劇の写真と演目名が掲載されています。(p.549~550) ( 708-79 )

     *この資料はデジタル化されています。[本文へのリンク]

  • No. 64   山陽路の女たち /広島女性史研究会 編著. ( 東京 : ドメス出版, 1985.2. )

     「羽田別荘少女歌劇団(広島県) 台湾・満州まで巡演」(p.61~63)の項で、羽田謙次郎が少女歌劇を設立した経緯、初演の公演名などが記載されています。劇団スターの磯部孝子の写真も掲載されています。 ( EF72-449 )

3-7 だるま屋少女歌劇(福井県)
  • No. 65   だるま屋百貨店主坪川信一の偉業/藤田村雨 著. ( 東京 : 丁酉社, 1938. )

     1930年(昭和5年)、福井のだるま屋百貨店(現西武福井店)の経営者であった坪川信一によって、少女歌劇部が設立されました。坪川は店員や歌劇部生徒に教育者としての態度を保っていたと記されています。(p.113) ( 特219-603 )

     *この資料はデジタル化されています。[本文へのリンク]

  • No. 66   新・ふくい女性史 : 近代から現代へ 福井の光と影に生きる/田中光子 著. ( 福井 : 勝木書店, 1994.8. )

     「だるま屋少女歌劇のスターたち 市民に夢を贈る」(p.286~300)にて、厳しいレッスンの様子や劇団員の生活などが紹介されています。 ( EF72-E614 )

  • No. 67   加賀・越前と美濃街道 /隼田嘉彦, 松浦義則 編. ( 東京 : 吉川弘文館, 2004.5. )

     「(2)百貨店だるま屋と少女歌劇」(p.250~256)では、「コドモ中心のデパート」だるまや百貨店が設立され、そこの別館「コドモの国」で公演を行っていただるま屋少女歌劇が紹介されています。公演演目名も記載されています。 ( GC94-H18 )

  • No. 68   近代日本の都市と農村 : 激動の一九一〇-五〇年代/田崎宣義 編著. ( 東京 : 青弓社, 2012.3. )

     6章「一九三〇年代の地方都市百貨店とモダニズム―福井市・だるま屋を事例に」(p.197~226)では、だるま屋百貨店の経営・営業を例に、1930年代における地方都市モダニズムについて論じられています。だるま屋少女歌劇の公演について、『子どもから大人まで楽しめるように構成されており、肩の凝らない内容をジャズなどの洋楽に乗せて演じた「モダン」な香り漂う娯楽だったといえる』と述べています。 ( EC114-J33 )

3-8 粟ヶ崎少女歌劇団(石川県)
  • No. 69   ふるさと石川歴史館/橋本澄夫 [ほか]編. ( 金沢 : 北國新聞社, 2002.6. )

     粟ヶ崎遊園は、現在の石川県内灘町にあった遊園地で、1928年(昭和3年)には少女歌劇の公演も始まりました。『「北陸の宝塚」粟ヶ崎遊園 不毛の砂丘に誕生した一大パラダイス』(p.420~421)に、粟崎少女歌劇のレビュー風景、公演のプログラムなどの写真が掲載されています。粟ヶ崎遊園とそこに到達する鉄道の浅野川電鉄を創設したのは平澤嘉太郎です。平澤は、宝塚創設者である小林一三の影響を受け、鉄道の終点に遊園地を開き、乗客を呼び込むというビジネスモデルを採用しました。資料No.14『少女歌劇の光芒』には、団歌「アワガサキ乙女の歌」も紹介されており、「朗らかに清く正しく美しく」という歌詞からも、宝塚歌劇の影響の大きさがわかります。 ( GC94-H1 )

     *この資料はデジタル化されています。[本文へのリンク]

  • No. 70   加賀と能登/青柳真三郎 著. ( 金沢 : 北国夕刊新聞社出版部, 1934. )

     「郊外を行く 粟ヶ崎遊園」(p.32~34)では、粟ヶ崎遊園が「どうです、宝塚以上でせう。」と会話調で紹介されています。 ( 特233-238 )

  • No. 71   郷土内灘. / ( [内灘町 (石川県) ] : 内灘町教育委員会社会教育課, 1988.5. )

     巻頭1ページ目に「北陸の宝塚"粟ヶ崎遊園"」と題して、粟ヶ崎遊園の鳥瞰図、「春のをどり」のポスターなどが紹介されています。また、「2.粟ヶ崎遊園」(p.21~24)では、粟ヶ崎遊園全体についての説明があるほか、人気スター壬生京子の写真も掲載しています。「北陸には北陸のモダニズムを」と提唱する文化コミュニティについての言及もされています。 ( GC96-E8 )

3-9 銀の星少女歌劇団(新潟県)
  • No. 72   吉田町史. 資料編 6(民俗)/吉田町 編. ( 吉田町 (新潟県) : 吉田町, 2002.3. )

     「小林千代子と少女歌劇」(p.17)に、「翌年1月には小林千代子歌劇学校を銀の星歌劇学校と改め、「狸囃桜御殿」などの新作披露公演を行っている。」とあります。小林は松竹楽劇部に所属し、退団後歌手として活躍しました。戦中、新潟県の吉田町に疎開していましたが、戦後同地で少女歌劇を設立しました。 ( GC87-G57 )

3-10 浅草オペラ(東京都)
  • No. 73   浅草オペラ物語 : 歴史、スター、上演記録のすべて/増井敬二 著. ( 東京 : 芸術現代社, 1990.5. )

     浅草オペラは、大正時代、浅草六区を中心に上演されたオペラやミュージカルの総称で、1916年(大正5年)5月、アメリカで踊りを習ったという高木徳子の一座が浅草で公演して評判を得たのが始まりです。本格的なオペラを上演したものの人気を得られず解散した帝国劇場や赤坂ローヤル館のオペラ関係者も加わり、様々な劇団により、オペラやオペレッタをより大衆的にした作品が上演され人気を博しました。その中には「日本歌劇協会」という少女歌劇団や、宝塚入団前の岸田辰彌が所属していた「新星歌舞劇団」などがありました。 ( KD338-E79 )

3-11 花月園少女歌劇(神奈川県)
  • No. 74   鶴見花月園秘話 : 東洋一の遊園地を創った平岡廣高 : 鶴見ゆかりの人物誌/齋藤美枝 著. ( 横浜 : 鶴見区文化協会, 2007.12. )

     鶴見花月園は、横浜市鶴見区に1914年(大正3年)に開園した遊園地です。1922年(大正11年)には花月園少女歌劇が結成されました。児童雑誌「赤い鳥」で有名な児童文学者・鈴木三重吉も、同園内に1925年(大正14年)に設立された「日本児童歌劇学校」の顧問を務めていました。「花月園少女歌劇」(p.251~267)の項では、上演演目のほか、「東の宝塚」と呼ばれ人気を博していたこと、また男性団員もいたことが紹介されています。上述の歌劇学校でも男子生徒の募集をしていたようです。口絵には、公演場面、楽譜、レコード等の写真も掲載されています。 ( GK52-J11 )

  • No. 75   「ダンス!20世紀初頭の美術と舞踊」展/栃木県立美術館 編. ( 宇都宮 : 栃木県立美術館, 2003. )

     恩地孝四郎が演出を手掛けた作品の公演写真が掲載されています。(p.45)また、花月園少女歌劇のために書き下ろした戯曲集「ゆめ : 童話歌劇小曲集」も紹介されています。(p.44)恩地は版画家、装本家で、萩原朔太郎の「月に吠える」や「北原白秋全集」などの装丁を手がけました。 ( K16-H111 )

3-12 大和屋少女連(大阪府)
  • No. 76   「大和屋女将の語る昭和のサムライたち」第1回/櫻川 一郎 ( 本の話. 10(7) (通号 110) 2004.7 p.58~61 )

     南地大和屋は、大阪市宗右衛門町にあった老舗料亭で、司馬遼太郎を始め、多くの文化人や財界人が常連となっていました。資料No.49『大大阪画報』にも「浪花の誇り 大和屋の経営ぶり」という項があり、p.832、836、841に大和屋少女連の写真が掲載されています。「宝塚歌劇団」を作った小林一三が後に、「宝塚歌劇は、『大和屋少女連』がヒントになった」といっていたそうだ、との記述も見られます。(p.61) ( Z21-B300 )

3-13 甲陽園少女歌劇(兵庫県)
3-14 塩江温泉少女歌劇(香川県)
3-15 裵亀子(ペクジャ)歌劇団(朝鮮)
  • No. 79   韓流ブームの源流/高祐二 著. ( 東京 : 社会評論社, 2012.6. )

     「韓流ブームの先駆け~裵亀子(ペクジャ)歌劇団」(p.111~115)の項で裵亀子歌劇団の紹介があります。裵亀子は、当時日本で人気だった奇術師松旭斎天勝の養女でしたが、独立し朝鮮独自の舞踊を追求しました。後に吉本興業と専属契約を結び、日本でも公演を行うようになりました。 ( KD91-J6 )

3-16 支那少女歌劇(シンガポール)
  • No. 80   南方演芸記 (アジア学叢書69)/小出英男 著. ( 東京 : 大空社, 2000.4. )

     松竹の小出英男がシンガポールで、支那少女歌劇に「桃太郎」を演出しました。ルーズベルト、チャーチル、蒋介石などを鬼の役にしました。 ( KD91-G1 )

第4部 様々な少女歌劇論

4-1 誕生当時から戦前まで
  • No. 81   女盛衰記 : 女優の巻/三楽流子 等著. ( 東京 : 日本評論社, 1919. )

     「宝塚の少女歌劇」の項(p.181)に「私はこの歌劇を観て、云い知れぬ清らかな美しい快い魅惑を覚えた。」「坪内士行のような確りした人を持っている宝塚少女歌劇!その前途はどう発展してゆくか。最も末頼もしき興味である。」とあります。坪内士行は、劇作家・評論家で、坪内逍遥の甥です。宝塚少女歌劇の創設期から関わっていました。 ( 特108-18 )

     *この資料はデジタル化されています。[本文へのリンク]

  • No. 82   ぺラゴロ双紙(寳塚叢書. 第7編)/青柳有美 著. ( [良元村 (兵庫県) ] : 宝塚少女歌劇団出版部, 1924. )

     青柳有美は明治から昭和時代前期のジャーナリスト・随筆家です。青柳お気に入りの宝塚の生徒について論じたり、宝塚という組織に対する悪評に反論したりしています。また、宝塚歌劇は日本物と洋物との調和がとれているとも述べています。なお、タイトルの「ペラゴロ」とは「オペラごろつき」の略(またはオペラのペラとフランス語のジゴロgigoroの合成)で、オペラの熱狂的ファンを指します。小林一三による序文も収録されています。( 515-98 )

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  • No. 83   レヴユウと舞踊/中村秋一 著. ( 東京 : 三笠書房, 1933. )

     「少女歌劇論」(p.53~60)の項で、歌舞伎の女形と少女の男装との関連を指摘するとともに、少女のみのレビューからは脱皮すべきだと述べています。松竹少女歌劇団の養成指導などにもあたった演出家・青山杉作による序文も収録されています。 ( 650-139 )

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  • No. 84   私の小説勉強 : 高見順評論随筆集/高見順 著 ( 東京 : 竹村書房, 1939. )

     「雑嚢 『五、 少女歌劇論』」の項(p.159~168)では、少女歌劇を子供だましと見なす風潮に対して、恋愛の美しさを見せる少女歌劇の魅力について述べています。高見順は、戦後に日本近代文学館の創設に尽力した作家です。 ( 782-215 )

     *この資料はデジタル化されています。[本文へのリンク]

  • No. 85   文芸的雑談/高見順 著. ( 東京 : 昭森社, 1940. )

     「フアン的雜談 『六 幻滅の少女歌劇』」の項(p.292~302)で高見は、スターとなれない生徒たちの将来を嘆いています。 ( 914.6-Ta43-5ウ )

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4-2 戦争を経て現代へ
日時 2013年 2月21日(木) ~3月22日(金)
会場 国立国会図書館 関西館 地下1階 総合閲覧室
参加費 無料
お問い合わせ先 国立国会図書館 関西館 資料案内
電話: 0774-98-1341