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イタリアに印刷術を持ち込んだのがC.スヴァインハイムとA.パナルツという二人のドイツ人で、1465年にローマ郊外のスビアコにあるベネディクト会修道院でキケロ「雄弁術」を印刷しました。この時使った活字 (Typ.1:120R) が最初のローマン体活字であると言われており、後にこの活字を真似た書体でアシェンデン・プレスの本が印刷されました。彼らは1467年にはローマに移り、新しいローマン体活字で1475年までに50点のインキュナブラを印刷しました。その中にはアウグスティヌスやヒエロニムスなど教父の著作のほかキケロ、アプレイウス、プリニウスなどローマの著作が多く含まれています。 リヴィウス (B.C.59-A.D.17) はローマの歴史家で「ローマ建国史」はローマ建国からB.C. 9年までのことを記しています。インキュナブラとしては22版が知られており、本書が一番最初に印刷されたものです。 |
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インゴルシュタット出身のウルリッヒ・ハン (d.1478 or 79) がトルケマーダ枢機卿 (c.1420-98) に招かれてローマで印刷を始めたのは、スヴァインハイムとパナルツ (32.参照) と同じ1467年からで、100点近くのインキュナブラが知られています。そのうち20点は本書のようにルッカ出身のシャルデラと共同で印刷したものです。ハンが亡くなると、印刷所はそのままS.プランク (34.参照) に引き継がれました。 ラクタンティウスは3-4世紀の初期教父で、19点のインキュナブラが知られています。「著作集」は1465年にスヴァインハイムとパナルツが印刷したものが最初で、引用の部分でギリシア文字の活字が使われました。本書でもハンはギリシア文字の活字で引用部分を印刷しています。 |
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ステファン・プランクはパッサウ出身でウルリッヒ・ハン (33.参照) の死後、その印刷所で多数のインキュナブラを印刷しました。コロフォンに名前の記載のないものが多いのですが、11種の活字を使っており、400点近くのインキュナブラが知られています。なかでも1496年に印刷した「ローマミサ書」は有名です。 アルプレヒト・フォン・アイブ (1420-75) はドイツの人文主義者で「結婚の書」「道徳の鑑」等の著作があります。「詩の真珠」はローマ時代の文章を集めた修辞学の教科書です。インキュナブラとして印刷されたのは「詩の真珠」「結婚の書」「修辞の規則」の3書で、あわせて24点のインキュナブラが知られています。主著の「道徳の鑑」が印刷されたのは1511年になってからでした。 |
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ニコラ・ジャンソン (1420-80) はフランスの造幣局で彫金の仕事をしていた人ですが、1458年にシャルル7世の命で印刷術習得のためマインツに派遣されました。彼が実際に印刷所を開いたのはヴェネツィアで、最も完成されたローマン体活字を用いて1470年に印刷を始めました。ヴェネツィアではその前にヨハンネス・デ・スピラがローマン体活字を用いて印刷を始めており、ローマン体活字使用についての5年間の独占権を取っていましたが、1470年に亡くなったため、ジャンソンが新しくローマン体活字を使えるようになったといいます。ジャンソンは亡くなるまでに8種の活字を用いて90点ほどのインキュナブラを印刷しましたが、没後も Nicolaus Jenson et Socii という名称で印刷が続けられました。これは彼が1473年にドイツ各地の書籍商から資本を募って作った会社で、販売の代理店の役割を果たしました。没後、彼の活字、父型、母型はAndrea Torresano (1451-1528) に売却されましたが、このTorresanoの娘婿となったのが有名なアルドゥス・マヌティウス (12.参照) です。 「農業文集」はカトー、ヴァロ、コルメラ、パラディウスという4人のローマ人の農業に関する著作を集めたものです。本書には115Gkというギリシア文字活字も使われています。 |
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ヤコブス・ルベウス (6.参照) はジャンソン (35.参照) の影響下で印刷業を行っていたと思われる人物で、ジャンソンの遺した遺言状に100ドゥカットを贈ると記されています。 「ローマ法大全」はユスチニアヌス帝 (483-565) が編纂させた法令集で「法学提要」「学説彙集」「勅法彙集」「新勅法」の4部からなっています。「学説彙集」は3部に分かれ前半のDigestum vetus、後半のDigestum novumにはさまれた部分がInfortiatumです。Infortiatumだけで23版のインキュナブラが知られ、「ローマ法大全」全体では225点のインキュナブラが知られています。J.ルベウスは本書も含めて8点の「ローマ法大全」を印刷しました。 |
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ゲオルギウス・ヴァルクは1479年から1482年の間に5点のインキュナブラを印刷しました。デューラーの日記に出てくる版画家Jacob Walch (イタリア名Jacopo de' Barbari) の親戚にあたる人物であると思われています。 W.ロレヴィンク (c.1425-1502) はケルンのカルテジオ会士で多くの著作を遺しました。「簡単な世界史」は年代記を民衆向けにやさしく記したもので、1474年にケルンで印刷されたのを始めとして32版のインキュナブラが知られています。うち7版は翻訳された (オランダ語1版、フランス語4版、ドイツ語2版) ものです。いずれも木版の挿図が入れられています。 |
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F.レンナー (7.参照) は「ラテン語聖書」を5回印刷しましたが、これは3番目のものです。この版から本文を少し小さい活字にかえていますが、この 65G という小さなゴッシック体活字は1478年から使われ始め、2種類が確認されています。この聖書で使われたのは後で作られた方の活字です。1482-83年に印刷された4番目、5番目の「ラテン語聖書」も同じ 65G で印刷されました。 |
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オクタヴィアヌス・スコトゥス (d.1498) はB.ロカテルス (10.参照) に資金を提供して120点以上のインキュナブラを印刷させた人ですが、自身も印刷者で1479-87年に11種の活字を用いて30点ほどのインキュナブラを印刷しました。 「主のミサ書」は11版のインキュナブラが知られていますが、本書はそのうちの最初あるいは2番目のものです。また1494年にはJ.ハマン (42.参照) がスコトゥスの資金で「主のミサ書」を印刷しています。また本書には当時の記譜法で楽譜が印刷されています。 |
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本書はJ. L. Santritter が編集したもので、ラトドルトが1481年に印刷したPaulus Pergulensis: Compendium logicaeと同じようにSantritterの資金で印刷されたと思われます。ラトドルトが得意な二色刷り印刷や表形式の印刷がされています。J. L. Santritter自身も印刷者でHieronymus de Sanctisと共同で印刷したものなど5点のインキュナブラがあります。 エウセビオス (c.263-339) は「教会史」、「福音の準備」で有名な神学者で、「年代記」は 325年までの世界史を記したものです。この3書で14点のインキュナブラが知られ、「年代記」はミラノのPhilippus de Lavagniaが1474年頃印刷したものが最初で本書を含めて2版のインキュナブラが知られています。 |
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ヨハネス・ヘルボートは1475年にパドヴァで印刷を始め、1481年からはヴェネツィアに移ってJohannes de Colonia, Nicolaus Jenson et Sociiの資金で印刷を行いました。後には単独で印刷を行い、あわせて50点ほどのインキュナブラが知られています。ヴェネツィアで「ラテン語聖書」を3回印刷しており、本書はその最後のものです。J.ヘルボートは3種類のプリンターズ・マークを用いましたが、本書には印刷されていません。 |
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ヨハネス・ハマンは1482年にケルン出身のHermannus Liechtensteinと共同で印刷を始め、1486年からは、一時 Johannes Emericusと共同で印刷したほかは、単独で印刷を行いました。O.スコトゥス (39.参照) の資金で印刷したものも多く、スコトゥスのプリンターズ・マークに似たデザインのプリンターズ・マークを用いました。90点ほどのインキュナブラが知られています。 「ローマミサ書」は1474年にミラノのAntonius Zarotusが印刷したものを初めとして90版ほどのインキュナブラが知られています。 |
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アルドゥス・マヌティウス (12.参照) はギリシア語原典の正確なテキストを刊行したことで有名です。その成功の土台はアリストテレス「全集」を4年かけて5巻本で刊行したことで築かれました。この「全集」にはアリストテレスの著作だけでなくガレノスやアレクサンドレイアのフィロン、テオフラトス、アフロディシアスのアレクサンドロスの著作も含まれています。またアリストテレス「問題集」 (5.参照) のギリシア語テキストは第4巻に入っています。5巻セットの値段が11ドゥカットであったという記録がありますが、これは印刷工の月収の3〜4倍に当る金額です。 アルドゥスの活字父型を彫ったのはボローニャ出身のFrancesco Griffo (d.1518) で、ギリシア語活字だけで4種が知られています。 |
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テオドルス・デ・ラガツォニブスは1487年頃より印刷を始め、1497年まで20点ほどのインキュナブラを印刷しました。 L.ブルーニ (c.1370-1444) はイタリアの有名な人文主義者で「フィレンツェ市民の歴史」など多数の著作があります。インキュナブラも「対ゴート戦史」「書簡集」など50点ほどが知られており、「空飛ぶ鷲」も4つの版が知られています。ただ「空飛ぶ鷲」の著者がブルーニであることについては疑わしいとされています。本書は1494年にヴェネツィアでPeregrinus de Pasqualibusが印刷した版を模したものです。 |
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B.ロカテルス (10.参照) はO.スコトゥスの印刷者として120点以上のインキュナブラを印刷しました。トーマス・アキナスの著作だけでも11点印刷しており、そのうち本書と同じ1498年12月22日に印刷されたものが3点 (別の解釈によれば4点) もあります。 |
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フィレンツェでの最初の印刷者についてはいくつかの説がありますが、コロフォンに印刷者名の記載のある最も古いインキュナブラは有名な彫金師であったBernardus Cenninusと Dominicus Cenninus父子が1471年に印刷したセルヴィウス「ヴェルギリウス注解」です。2番目がJohannes Petriで、ニコラウス・ラウレンティイ・アラマヌスは3番目になります。ラウレンティイは約40点のインキュナブラが知られていますが、銅版画の挿図のあるインキュナブラを初めて印刷した (Antonio da Siena: Monte santo di Dio. 1477) ことで有名です。ダンテ「神曲」 (1481) 、ベルリンギエリ「地理書」 (1482頃) も銅版画挿図で有名なインキュナブラです。彼の用いた7種の活字が知られています。 M.フィチーノ (1433-99) はフィレンツェの人文主義者で、プラトンの研究家として有名です。彼が著者である18点のインキュナブラが印刷されていますが、本書が最初のものです。本書はラテン語原書のイタリア語訳ですが、ラウレンティイは1476年にラテン語原書De christiana religioneも印刷しました。フィチーノには他に翻訳書等16点のインキュナブラがあります (12.参照) 。 |
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ボローニャ出身のアントニオ・ディ・バルトロメオ・ミスコミニは1475年頃にまずヴェネツィアで印刷を始めました。1481年にはフィレンツェに移り、全部で90点以上のインキュナブラが知られています。1487-89年にはモデナでDominicus Rocociolusと共同で2点のインキュナブラを印刷しています。 ホラティウス (B.C.65-B.C.8) はローマの詩人で60点以上のインキュナブラが知られています。 |
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1484年頃に印刷を始めたラウレンティウス・デ・アロパはM.フィチーノ訳「プラトン著作集」の初めての版を印刷しました(1484-85)が、1494年からはギリシア語活字で印刷を始めました。Anthologia Graeca Planudeaにのみ彼の名前がコロフォンに見られるのですが、エウリピデス「悲劇集」 (1495年頃) 、アポロニウス「アルゴノーティカ」 (1496) なども印刷しています。 ルキアノスはギリシアの風刺詩人で28点のインキュナブラが知られています。ほとんどがラテン語訳で、ギリシア語原典は本書が唯一です。 |
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ヴィチェンツァに印刷術を導入したのは1472年からパドヴァで印刷を行っていたバーゼル出身のLeonardus Achatesで1474年のことでした。ケルン出身のヘルマヌス・リヒテンシュタインは1475年にヴィチェンツァで印刷を始め、 1480年までに20点弱のインキュナブラを印刷しました。1477年頃にはトレヴィゾでも印刷を行っています。1482年からはヴェネツィアに移り、同地で20点ほどのインキュナブラを印刷しました。 G.デュランティ (c.1230-1296) は教会法学者で、典礼教義を記した「聖務論」は1459年にフスト、シェファーが印刷したのを初めとして44版のインキュナブラが知られています。 |
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マントヴァに印刷術が伝わったのは1472年のことで同地の法律家Petrus Adam de Michaelibusが最初の印刷者であるとされています。ヨハネス・シャルスはマントヴァで1475年に6点のインキュナブラを印刷したドイツ人で、本書と合わせて7点のインキュナブラが知られています。 エウセビオス「教会史」は本書を含めて6版のインキュナブラが知られています。 |
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フェラーラに印刷術を伝えたのはフランス人Andreas Belfortisで、1471年のことでした。ヴァレンシア出身のラウレンティウス・デ・ルベイスは1482年にフェラーラで印刷を始め、27点のインキュナブラが知られています。本書は1473年にウルムのヨハン・ツァイナーが印刷したボッカッチオ「名婦伝」を増補したもので、同書と同様、美しい木版挿図で有名です。ハンガリー王マチアス・コルヴィヌス妃であるアラゴン家のベアトリスに献じる形で印刷されました。 ジャコモ・フィリッポ・フォレスティ (1434-1520) は「名婦伝」、「告白」、「年代記補遺」という著作で有名なアウグスティヌス会士です。「年代記補遺」は1493年にニュルンベルクのA.コーベルガー (24.参照) が印刷したH.シェーデル「年代記」の土台となりました。 |
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ミラノのU.シンツェンツェラー (13.参照) は多作な印刷者でローマの古典や人文主義的著作を印刷するときはローマン体活字を用いました。ミラノの3人の多作な印刷者 (Zarotus、Pachel、Scinzenzeler) が印刷したインキュナブラの3割はローマン体活字で印刷されました。シンツェンツェラーが単独で印刷したインキュナブラのうち51点はローマン体で印刷されています。 シドニウス・アポリナス (430-480) はローマの貴族で書簡と詩を遺しました。「書簡と詩」はまず1474年頃にユトレヒトで印刷され、本書が2番目になります。また本書はHieronymus de AsulaとJohannes de Abbatibusが出版者となっています。 |