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1473年にウルムに印刷術をもたらしたのがロイトリンゲン出身のヨハン・ツァイナー (d.c.1523) で、アウグスブルクのギュンター・ツァイナー (20.参照) とは親戚関係 (一説では兄弟) になります。木版挿図をよく用いたことで有名で、本書の第5葉表にある植物模様のボーダーも木版画です。J.ツァイナーは4種のボーダーを使っており、本書のボーダーはアルベルトゥス・マグヌスの著作3点に用いました。また、本書第135葉表の下部には活字にインクを塗らない空印刷 (blind printing) がされています。J.ツァイナーは少なくとも14種の活字を用いて180点のインキュナブラを印刷しました。 アルベルトゥス・マグヌス (c.1200-1280) は幅広い著作を著した学僧で万有博士とも呼ばれました。彼の著作は現在185点のインキュナブラが知られています。 |
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シュトラスブルクはグーテンベルクが1430年代に印刷術の研究をしていた都市ですが、最初に印刷を行ったのはヨハン・メンテリン (d.1478) でした (1460年頃) 。この人はもともと本の彩色を行うイリュミネーターでしたが、グーテンベルクといっしょに仕事をしたことがあると思われます。アドルフ・ルシュはメンテリンの娘婿となり、特徴的な形のローマン体活字のRを用いたことから (25.参照) R-Printerと呼ばれました。26点のインキュナブラが知られていますが、彼の書いた書簡が残っており、紙の取引を行うなどした彼の印刷業の様子がわかっています。 ボーヴェのヴァンサン (c.1190-1264) はボーヴェの修道院で百科全書的著作「自然の鑑」「諸学の鑑」「歴史の鑑」を著しました。全部で80巻9885章となる膨大なもので、それぞれ3版、4版、7版のインキュナブラが知られています。このうち5版をメンテリンとルシュで印刷しました。 |
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1468年頃、バーゼルに印刷術をもたらしたのはベルトルド・ルッペル (14.参照) ですが、10年ほど遅れて印刷を始めたヨハン・アメルバッハ (c.1434-1513) は多作な印刷者で30以上の活字を用いて少なくとも110点のインキュナブラを印刷しました。アンブロシウス等教父の全集の刊行で有名で、16世紀に入ってからも「アウグスティヌス全集」を刊行しています。彼自身が人文主義者で多数の書簡 (彼宛ての、また彼が書いた) が残っており、当時の印刷者の活動状況を伝えています。 カシオドルス (c.490-c.583) は教父でローマの政治家でもありました。「詩篇釈義」はアウグスティヌスのExplanatio psalmorum (アメルバッハは1489年にこちらも印刷しています) を基にした「詩篇」の注解ですが、他に著作も多く、カシオドルスのテキストはミーニュ (Migne) の「教父哲学集成 (Patrologiae cursus completus) 」の69-70巻に集められています。また、彼は本のコレクターでもあり、製本による本の保存を奨励したことでも有名です。 |
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ニコラウス・ケスラーは1483年頃から印刷を始め、16種の活字を用いた70点近くのインキュナブラが知られています。フスト、シェファーのものに似た、枝に2つの盾がさがったデザインのプリンターズ・マークを用いました。また、販売のための出店をアントワープに持っていたことがわかっています。 「モラリア」はローマ法王グレゴリウス1世 (c.540-604) の主著のひとつで、「ヨブ記」を歴史、道徳、寓意の3つの観点から論じたものです。インキュナブラとしては10版あり、最初の版はニュルンベルクのヨハン・ゼンゼンシュミット (23.参照) により1471年に印刷されました。本書はタイトル・ページが木版で印刷されています。 |
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ライプツィヒで印刷が始まったのは1480年頃で、ドイツでは比較的遅れて印刷術が導入されましたが、1490年代には800点以上のインキュナブラを印刷するドイツ最大の印刷都市となりました。なかでもマーティン・ランドスベルクとコンラッド・カヘロフェンは大変多作な印刷者で両者で全体の6割以上のインキュナブラを印刷しました。カヘロフェンの用いた14種の活字が知られています。本書の第1葉表はタイトル・ページですが、この下部にも空印刷が見られます。 「問題集」はアリストテレスの医学・自然科学的著作ですが、ラテン語版インキュナブラには3種のテキストがあり、本書はアラビア語経由のもの (翻訳者不明) と思われます。ギリシア語版は1498年にヴェネツィアでアルドゥス・マヌティウスにより印刷された「全集」第4巻の中に含まれています (43.参照) 。 |