第2部 文化の日仏交流

第2章 芸術

2. 日本国内におけるフランス美術の影響

明治の末頃から、藤島武二(1867-1943)や橋口五葉(1880-1921)など挿絵や装丁を手掛けた画家たちの活躍により、日常的な場面にフランスの影響を受けた作品が見られるようになった。フランス渡来の美術作品は、各種美術団体の展覧会に参考品として陳列されていたが、西洋美術への関心の高まりとともに、「仏蘭西現代美術展覧会」のようにフランス美術の紹介を目的とした展覧会も開かれた。松方幸次郎、大原孫三郎(1880?1943)、福島繁太郎(1895-1960)ら西洋美術コレクターも現れ、彼らのコレクションが公開されることでフランス美術鑑賞の機会は大幅に拡大された。大正文学の中心的存在となった、雑誌『白樺』【雑8-49】にもフランス美術は大きく取り上げられている。このようにフランス美術に触れる機会が増えたことは、「芸術の国」フランスのイメージが定着する上で重要な意義をもった。

挿絵に見るフランス美術の影響

『明星』第1次11号表紙
『みだれ髪』表紙

『明星』(第1次)11号(明治34(1901)2.23), 2巻4号(明治35(1902).4.1)東京新詩社【雑8-28『明星』の拡大画像を開きます。

与謝野晶子『みだれ髪』東京新詩社, 明34(1901)【特52-717『みだれ髪』のデジタル化資料

藤島武二は、3歳の頃から油絵や北斎漫画などを模写して育った。長じて日本画を学ぶが、洋画研究の夢を捨てきれず、曽山幸彦(1860-1892)、山本芳翠(1850-1906)らに師事した。明治29(1896)年の白馬会設立時に会員となり、黒田清輝に才能を見込まれて東京美術学校助教授に就任、後教授となった。挿絵や装丁も手がけ、アール・ヌーヴォーの影響が感じられる、雑誌『明星』や与謝野晶子の歌集『みだれ髪』の表紙は、代表作の1つとなった。同38(1905)年、フランス及びイタリアへ留学。大正14(1925)年には、フランス政府より、「教育功労章」を受章した。

『相合傘』表紙

泉鏡花『相合傘』鳳鳴社, 大正3(1914)【特105-439『相合傘』のデジタル化資料

中学生の頃から日本画を学び、白馬会洋画研究所や東京美術学校で洋画を学んだ橋口五葉は、図案、挿絵、広告画の分野で早くから才能を発揮した。岩波書店の商標(創業から昭和8(1933)年まで使用)や「吾輩は猫である」(続編)(『ホトトギス』【Z13-233】収載)の挿絵など、アール・ヌーヴォーの装飾様式を取り入れ、和の世界との融合を図った作品を多く残している。明治44(1911)年に三越呉服店が主催した懸賞広告画では《此美人》が1等となり、当時としては破格の賞金千円を獲得した。また、装丁の仕事も数多く手がけ、夏目漱石(1867-1916)や泉鏡花(1873-1939)の作品の装画には、絵柄の一部に漆を塗るなど現在では再現が困難なものもあり、緻密で芸術性の高い作品を制作した。本書の表紙は紺色地に木版彩色刷り、草花と相合傘の連続模様となっている。

美術団体

平木政次自画像

平木政次『明治初期洋画壇回顧』日本エツチング研究所出版部, 1936【712-51『明治初期洋画壇回顧』の拡大画像を開きます。

平木政次(1859-1943)は、明治6(1873)年に上京し、幕末に和洋折衷の画風を独自に案出していた五姓田芳柳(初世、1827-1892)に内弟子として入門した。同13(1880)年教育博物館に画工として採用され、その後帝国大学理科大学や東京高等師範学校で助手を務めた。同22(1889)年明治美術会の結成時に入会、解散後は太平洋画会に所属した。本書は、雑誌『エッチング』に昭和9(1934)年10月から翌年12月まで15回にわたり連載されたもので、ほぼ編年体で書かれ、平木の上京に始まり明治20(1887)年の東京府工芸品共進会の記述で終わっている。洋画普及以前の画家たちの活動を今に伝えている。

『明治美術会展覧会出品目録』表紙

明治美術会編『明治美術会展覧会出品目録』明治美術会, 1892, 1895【特67-789『明治美術会展覧会出品目録』のデジタル化資料

明治22(1889)年、浅井忠、川村清雄(1852-1934)、五姓田義松(1855-1915)、小山正太郎(1857-1916)、原田直次郎(1863-1899)、本多錦吉郎(1851-1921)、松岡寿、山本芳翠らが明治美術会を結成した。国粋主義を背景に当時熾烈化していた洋画排斥運動に対抗し、洋風美術の発展普及を促すことが彼らの目的であった。後進の育成や後援会活動にも積極的に取り組んだが、黒田清輝を筆頭とする白馬会が急速に台頭すると、次第に主導力を失っていく。本書は、同25(1892)年3月に開催された第4回春季展覧会と、同28(1895)年10月に開催された第8回秋季展覧会の出品目録である。

第3回白馬会展覧会会場図

松崎正文編『洋画新彩』画報社, 1898【79-235『洋画新彩』の拡大画像を開きます。

明治美術会の官僚的組織や暗い画風を不満として脱退した美術家たちは、明治29(1896)年、黒田清輝、久米桂一郎を中心として白馬会を結成した。創立には、岩村透、山本芳翠、藤島武二、岡田三郎助、和田英作、小代為重(1863-1951)、小林万吾(1870-1947)、長原孝太郎(1864-1930)、合田清(1862-1938)らが加わった。世間は白馬会と明治美術会とを対立するものととらえ、前者を新派あるいは紫派と呼び、後者を旧派あるいは脂派と呼んだ。白馬会は明治美術会を圧倒して画壇の主流となっていったが、同43(1910)年の第13回展をもって活動を停止し、翌年3月に解散した。本書は、同31(1898)年10月から11月にかけて上野公園博覧会跡第5号館で開催された、第3回白馬会展覧会の図録である。

『太平洋画会画集』表紙

大下藤次郎編『太平洋画会画集』高尚堂出版部, 1910【327-263『太平洋画会画集』のデジタル化資料

明治美術会解散の翌年、明治35年(1902)年に川村清雄、五姓田芳柳(2代、1864-1943)、石川欽一郎(1871-1945)らは巴会を組織した。一方、浅井・小山・松岡門下の吉田博(1876-1950)、中川八郎(1877-1922)、満谷国四郎(1874-1936)、丸山晩霞(1867-1942)、大下藤次郎(1870-1911)、石川寅治(1875-1964)らは、明治美術会の後身として太平洋画会を組織、同38(1905)年には鹿子木孟郎や中村不折、岡精一(1868-1944)らが参加し、白馬会と並ぶ中心勢力となった。本書は、明治43(1910)年5月から6月にかけて上野公園竹之台陳列館で開催された第8回展の図録であり、出品作品の写真図版を収録している。この時、荻原守衛のフランス・米国留学中の作品42点が特別陳列された。

「ヒウザン会とパンの会」冒頭ページ

高村光太郎「ヒウザン会とパンの会」(『邦画』1(3)1936, pp.32-37【雑33-88】)「ヒウザン会とパンの会」の拡大画像を開きます。

白馬会に代表される画壇のアカデミズムに反発した若手芸術家たちは、大正元(1912)年にヒュウザン会(後に「フュウザン会」と改称)を立ち上げた。「ヒュウザン」とはデッサンを描くための木炭を指す。この会は、萬鉄五郎(1885-1927)、齋藤与里(1885-1959)、岸田劉生(1891-1929)を核とし、印象派、後期印象派、フォーヴィスムの影響を強く受けていた。パンの会は、反自然主義を掲げる若手の文学者や造形芸術家の集団。黒田清輝の素描を表紙に配した機関誌『屋上庭園』【Z905-O2】は、発禁処分を受けて2号で廃刊となった。本資料には、ヒュウザン会発起人の1人であった高村光太郎(1883-1956)の回想が収められており、当時の雰囲気をよく伝えている。

文展の創設

「脇本十九郎書翰」冒頭部

脇本十九郎書簡【牧野伸顕関係文書書簡の部605-3】脇本十九郎書簡のデジタル化資料

明治33(1900)年、パリ万国博覧会を視察した正木直彦(1862-1940)らの一行が、駐オーストリア公使・牧野伸顕(1861-1949)と会見した際に、フランスのサロンのような官設展覧会を日本でも開催することが議論された。牧野は後に、文部大臣として文部省美術展覧会(文展)を実現させる。「文部省の思ひ出―主として美術行政に関する―」(『文部時報』第730号【Z7-367】)は、文展設置を中心とする牧野の回顧談であるが、本書簡は、聞き手を務めた脇本十九郎(楽之軒、1883-1963)が原稿の校閲を依頼したもの。
文展は、明治40(1907)年から大正7(1918)年まで毎年開かれ、同8(1919)年からは帝国美術院主催の帝国美術院展に改められた。その後、数次の改組を経て、戦後の昭和21(1946)年に日本美術展覧会(日展)と改称され、同23(1948)年に官展としての歴史を終えた。同33(1958)年からは、社団法人日展による運営となり、現在に至っている。

画商・コレクターの活躍

『Catalogue d’une collection de dessins et eaux-fortes par Paul Renouard』表紙.

Catalogue d'une collection de dessins et eaux-fortes par Paul Renouard, [Paris] : [Gillot], [1894]【K3-B685Catalogue d'une collection de dessins et eaux-fortes par Paul Renouardのデジタル化資料

画商・林忠正(1852-1906)は、明治11(1878)年に渡仏し、同17(1884)年から約20年間にわたってパリに店を構えた。ジャポニスムが隆盛を極める西欧に日本美術を紹介したことがよく知られるが、その一方で西洋美術を収集し、日本に伝える努力もしていた。自らの手で日本に近代西洋美術館を設立することを計画しており、帰国に際して多くの美術品を競売に付した時にも西洋画の収集品は一切売らずに持ち帰った。林の急逝により美術館構想は実現しなかったが、特に重要とみなした挿絵画家ポール・ルヌアール(1845-1924)の素描と版画のコレクションは、東京帝室博物館に寄贈され、東京国立博物館に受け継がれた。本書は、林が1894年5月にパリのサン・ラザール街で開催した「ポール・ルヌアールの素描と版画コレクション展」のカタログである。

『稿本日本帝國美術略史』標題紙

帝國博物館編『稿本日本帝國美術略史』農商務省, 1901【貴7-126『稿本日本帝國美術略史』のデジタル化資料

パリ万博にあわせて日本文化を世界に知らしめるため、わが国における「日本美術史」の嚆矢とされる『稿本日本帝国美術略史』が編纂された。帝国博物館総長・九鬼隆一(1852-1931)の序文によると、当初編纂主任には岡倉覚三(天心、1862-1913)が任じられたが、途中で福地復一(1862-1909)に交代した。更迭の背景には、九鬼・福地と岡倉の対立が東京美術学校を揺るがせた、いわゆる「美校騒動」がある。なお、万博開催中にパリで出版されたエマニュエル・トロンコワ(1855-1918)訳のフランス語版には、林忠正が書いた「読者へのあいさつ」が付されていたが、翌年刊行の日本語版(本書)では割愛されている。フランス事情に通じ、博覧会運営に関する知見も有した林は、伊藤博文(1841-1909)や西園寺公望(1849-1940)に見込まれて、明治33(1900)年のパリ万国博覧会の臨時博覧会事務官長を委嘱された。民間人としては異例の抜擢であった。

『仏蘭西現代美術展覧会』表紙

『仏蘭西現代美術展覧会』国民美術協会, 1924【特116-276『仏蘭西現代美術展覧会』の拡大画像を開きます。

日本におけるフランス文化の影響の大きさに着目した画商エルマン・デルスニス(1882-1941)は、大正11(1922)年春、フランスから多数の美術作品を携えて来日した。駐仏大使から連絡を受けた黒田清輝の依頼により、当時三越に勤務していた美術評論家・黒田鵬心(1885-1967)が日本側実務担当者となり、第1回仏蘭西現代美術展覧会が実現した。同展は昭和6(1931)年まで10回にわたり毎年継続され、一般の日本人がフランスの同時代美術を鑑賞する貴重な機会を提供した。本書は、大正13(1924)年に東京と大阪で開催された際の図録である。この年、デルスニスと鵬心は、共同経営による日仏芸術社を設立し、展覧会事業のほか機関誌『日仏芸術』【雑33-44】発行を通じてフランス美術界の動向をリアルタイムで日本へ伝えた。