序 日仏交流の幕開け

1. 江戸幕府とフランスの出会い

江戸市中にフランス人が初めてやってきたのは、安政五箇国条約の1つである日仏修好通商条約締結の際であった。当時の江戸の記録からは、それまでほとんど接触のなかった外国人に対する警戒感を伴った対応が見てとれる。
締結された条約の条件緩和を求める外交使節団は、フランスを含むヨーロッパを実地に訪れ、新たな知識を持ち帰った。
一方、新たな外交事務の必要に応じるため、江戸に幕府の洋学研究機関である開成所が設置され、フランス語を講じる私塾も開かれる。後世、「仏学始祖」と称される村上英俊(1811-1890)による辞書も刊行され、フランス語を学ぶ環境が整備されていった。
貿易上の利益を求め幕府との接近を図るフランス公使・ロッシュの勧めもあり、幕府は1867年パリ万博に使節を派遣した。しかし、派遣中に行われた大政奉還により、幕府はその歴史に幕を閉じた。

江戸に来たフランス人

『仏蘭西一件(一)』表紙

『仏蘭西一件 3巻』安政5(1858)【808-21仏蘭西一件 3巻のデジタル化資料

本資料は、安政5(1858)年、フランスのジャン=バティスト=ルイ・グロ男爵(1793-1870)らが日仏修好通商条約締結のため江戸を訪れた際に、町奉行所の担当役人が残した記録である。町奉行所役人の記録であるため、条約の調印など外交に関する記録はほとんど含まれていないが、神奈川沖に船が現れてから愛宕の真福寺に宿泊し、条約を結んで帰って行くまでのフランス人の動静を垣間見ることができる。士官らが出歩いた際の行先や購入したものも記録されており、多数の拵付刀剣や蒔絵印籠を購入したことがわかる。
本資料を含む旧幕府引継書は、町奉行所の編纂書類を中心に5,700冊を数える資料群で、明治27(1894)年に東京府から東京図書館(国立国会図書館の前身の1つ)に「悉皆貸付」され、その後「永遠寄託」という扱いとなり、現在まで残されている。

フランスへ

『外国方時代日記』冒頭ページ フランスからの封書

横浜鎖港使節関係書類【杉浦譲関係文書85,86,95】横浜鎖港使節関係書類のデジタル化資料

天保6(1835)年、甲府勤番支配同心の子として生まれた杉浦譲(1835-1877)は、文久元(1861)年9月外国奉行支配書物御聞出役に任じられ、幕末に2度渡欧した。
本資料は、攘夷派の圧力を弱めるため開港場となった横浜を再びとざすことを目指し、文久3(1864)年12月29日から翌年7月18日にかけて池田長発(1837-1879)を正使として派遣された横浜鎖港使節に、杉浦が随員として加わり渡仏した際の日記と、皇帝ナポレオン3世(1808-1873)に謁見した際の通知状である。日記には、謁見の他にも、ヴェルサイユ宮殿や陶器製作場、活版官技所(国立印刷所)の見学が記され、特に活版官技所については、書籍を安価に供給でき、文明人智の発展に役立つとの感想が述べられている。使節団は帰国後、その見聞を基に、弁理公使の各国への常置、留学生の派遣、海外渡航自由化などを通じて、外国情報の収集を進めるよう外国奉行に建白した。

杉浦譲肖像写真

万博関係写真【杉浦譲関係文書555-602】万博関係写真のデジタル化資料

杉浦の2度目の渡欧は、1867年パリ万博に幕府を代表して派遣された徳川昭武(1853-1910)の随員としてであった。この際も杉浦は日記をつけており、共に渡仏した渋沢栄一(1840-1931)の記録と合わせ、明治4(1871)年に『航西日記』【特31-677】として刊行された。また、ここで紹介するように、使節一行や万博会場の日本茶屋店員、パリの風景や女優たちを撮影した大量の写真が残されている。
幕府の瓦解に伴い、杉浦は静岡に移住するが、その後新政府に出仕し、民部省・内務省で富岡製糸場建設や駅逓(郵便)制度創設に関与した。日記の翻刻も含め、杉浦譲関係文書の多くは『杉浦譲全集』【GK131-41】に収められている。

フランス語学習

『Livre pour l'instruction dans l'école Kaiceizio à Yedo』標題紙

Kaiseizyo, Livre pour l’instruction dans l’école Kaiceizio à Yedo, Yedo, Kei-au 2 [1866]-【443-K13lKaiseizyo, Livre pour l’instruction dans l’école Kaiceizio à Yedo, Yedo, Kei-au 2のデジタル化資料

幕府の洋学教育機関は、安政4(1857)年1月に開校した蕃書調所を嚆矢とする。従来江戸において天文方が担っていた洋書の翻訳業務に加え、諸外国との交渉が迫られる情勢に対応するため設立された蕃書調所は、文久2(1862)年5月に洋書調所と改称され、さらに翌3(1863)年8月に開成所となる。生徒数は、洋書調所時代の文久2(1862)年末には全体で100名程度であったが、慶応元(1865)年に陸海軍に属する者が開成所で学ぶようになったこともあり急増し、翌2(1866)年末には英学約300名・仏学約100名まで増加した。生徒数の急増を受け、同年から翌年初頭にかけて、開成所は「学政改革」と呼ばれる改革を実施する。本書は、それと同時期に西洋の単語集を底本に作成された1,490語を収めるフランス語単語集で、一般には『法朗西単語篇』のタイトルで知られる。

『仏語明要附録』表紙

村上英俊『仏語明要附録』達理堂,明治3(1870)【蘭-961(2)『仏語明要附録』のデジタル化資料

村上英俊(1811-1890)が元治元(1864)年に刊行した『仏語明要』【蘭-961(1)】は、日本初の本格的仏和辞典として著名である。本書は、明治3(1870)年に刊行された附録で、熟語などを補うものである。村上は下野国(栃木県)那須郡佐久山に生まれ、江戸で宇田川榕庵(1798-1846)に蘭学を学んだ後、松代藩医として召し抱えられた。嘉永元(1848)年、佐久間象山(1811-1864)らの勧めを受けてフランス語を学び始め、同4(1851)年に再び江戸に出て『三語便覧』や『仏語明要』などの著作を残し、私塾達理堂で門人を教育した。村上は日本におけるフランス語学研究の先駆者と位置づけられ、明治18(1885)年にレジオン=ドヌール勲章を受章している。なお、『仏語明要』本編は、早稲田大学の古典籍総合データベースで閲覧可能である。