ディジタル貴重書展

和漢書の部

第3章 大日本沿海輿地全図

〔大日本沿海輿地全図〕

「大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)」 伊能忠敬測量・製作 〔明治6(1873)頃〕写 地図43枚 117.5×187.0-210.8×124.1 cm 【WB39-6】

伊能忠敬(1745-1818)の作成になるいわゆる「伊能図」の一種で「大図」といわれるものである。明治期の模写図で、当館は同種の地図43枚を所蔵する。平成9年気象庁より寄贈。料紙は楮紙をはり合わせ、雲母びきの紙で裏打ちしたものを使用する。
伊能忠敬は寛政12年(1800)から文化13年(1816)までの17年間10次にわたり、順次全国を測量し、多くの地図を作成した。「伊能図」というのはその総称である。『大日本沿海輿地全図』はその中で、最終的な完成図としてあらためてまとめ上げられ、測量のデータ集である『輿地実測録』とあわせて、文政4年(1821)に幕府に上呈されたもののタイトルである。忠敬はこれよりさき文政元年(1818)に没し、地図は関係者の手で完成された。
『大日本沿海輿地全図』は「大図」「中図」「小図」で1セットを構成する。「大図」とは縮尺の大きい図の意で、この場合の縮尺は1:36,000(曲尺1分が1町にあたる)である。全214枚を連ねて全国をカバーするが、同じく「中図」(1:216,000)は8枚、「小図」(1:432,000)は3枚で全国図を成す。いくつかの例外はあるが、この3種が「伊能図」の標準的な縮尺である。
展示図を含む43枚には裏面にそれぞれ「関八州 第△ 国名」の墨書があり、巻帙に「実測輿地図 関八州」の貼外題があるほかは、原図や書写の経緯などを示唆する記載は見当たらない。しかし「大図」の一覧図である「地図接成便覧」(幕府上呈の『輿地実測録』付図)と地図各号の配置が一致することや、縮尺、朱の折線による量地筋・駅町○・緯度測地(地点)☆などの記号、2分割のコンパスローズ(方位盤)による隣接図との接合、景観描写の方法等の特色から「伊能大図」であることが明らかである。
模写は明治6年頃、工部省測量司が行ったものと推定される。測量司が「謄写」のため明治5年末に『大日本沿海輿地全図』の副本を佐原の伊能家から借りた(のちに献納された)ことは記録に残っている。この模写図が測量司の業務を引き継いだ内務省地理局(設置当初は地理寮)に伝わり、地理局内の組織として誕生した東京気象台、中央気象台を経て気象庁に受け継がれてきたものと考えられる。実際、気象庁には地理局の印記をもつ資料の一部が伝えられている。当図には印記はないが「第95 信濃 上野」図幅には当時の地理局員大川(通久)と思われる名を含む付箋が残っており、地理局旧蔵資料であることがほぼ確実である。
展示図4枚は関東南部から富士山にかけてのもので、「第88 武蔵」「第90 武蔵 下総 相模」「第99 駿河 伊豆 相模」「第100 甲斐 駿河」である。
朱の折線による量地筋や記号、城、村落の中に点在する寺社、富士山に代表される景観の描法、街道沿いに綿密に記入された所領の情報など「大図」の特色が随所に見られる。武蔵野、富士山北方などに残る空白部は、忠敬の測量が海岸線と主要街道沿いに限られたための未測量部分である。
『大日本沿海輿地全図』のうち幕府に上呈された正本は、明治6年の皇居火災により、また、当図の原図である伊能家旧蔵の副本も東京帝国大学で保管中関東大震災の火災で、いずれも焼失したため、当図などの転写図が辛うじてその姿を現代に伝えている。現存する「大図」としては、東日本(文化元年)69枚、九州南部(文化8年)21枚、防長両国(文政4年頃)7枚、平戸藩領(文政5年頃)7枚(4軸に改装)などが主なものである。

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