憲法改正経過手記

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憲法改正経過手記
昭和二十一年一月ヨリ
五月迄

入江俊郎

二〇、一一、二四 入江俊郎法制局次長
二一、三、一九 入江次長、法制局長官に任ゼ□□

昭二十一 年

一月十二日(土)午前十時から憲法問題調査委員会
一月十三日(日)石黒武重氏法制局長官となり、内閣改造 夜十一時に成立楢橋氏は書記官長となる
一月十六日(水) 午前十時から憲法問題調査委員会

一月十四日の改造後最初の閣議の際
a 憲法改正問題 b 貴族院改革問題 c 枢密院改革問題が一応提示せられ、松本国務相、石黒長官及余より、説明す。b、cは、憲法改正に伴ひ当然早く手をつけるべきであらうと云ふ風なことで、貴院については、勅選の銓衡方法の合理化を主とし、員数も改訂すべきであり、枢府については、将来枢府の使命を重要視し、真の人材を、しかも十人内外の員数として存置し、真に諮詢の府として恥しからぬものとすべきであると云ふ点が述べられた。
貴院については、先年の議会制度審議会の案もあり、枢府については昨年末より清水議長及び石黒枢府翰長の手許で練った案もあったのである。
一月二十三日 午前十時 憲法問題調査委員会
一月二十六日 同上
一月二十九日 閣議。その際吉田外相より「日本国憲法問題は、マ司令部と四国の共同管理委員会との
(極東諮問委員会)(後に極東委員会と対日理事会の二つに分れる)(在ワシントン)(在ワシントン)(在東京)共同の仕事であると云ふ旨の申入れが司令部側よりあった」との発言があり、これは大変だ、一々ワシントンと連絡してゐるのでは非常にひまがかかって容易なことではないと各閣僚は心配をした。
[欄外:この方の発言が吉田外相の発言より先であった。]又同日の閣議で、松本国務相より、日本側草案の英訳は二月十日までに出来るから、これを司令部へ提出すれば、二週間で返事が得られると思ふ。然らば、更にその上で立案審議に二週間、枢府三週間と見込み四月中旬[欄外:当時議会解散中で、しかもパーヂの関係あり、司令部よりの指示によって資格しんさの期間をみこみ、総選挙は四月頃にのばされていたのである]に議会を開くなら間に合ふと思ふと説明した。併し上記の如く吉田外相の情報開陳のため、果してマック側より二週間位で返事がもらへるかどうかにつき一同極めて心配を感じたのである。
一月三十日(水) 臨時閣議。特に憲法問題処理に関し開催。松本氏より憲法問題調査委員会の経過を述べ、立案進行の状況を報告した。
一月三十一日の后も臨時閣議
二月一日(金) 閣議では、憲法改正草案が毎日に抜かれた件につき松本国務相から報告があった。この抜かれた案は、所謂甲、乙の案のいづれでもなく調査委員の某(宮沢俊義であったがこれは名を云はなかった)の試案であり、某の弟が同新聞記者なるため、善意か悪意か判らぬが抜かれたのであらうと説明された。
(本件は余等も非常に迷惑を感じ、法制局側より出たものでないことをよく調査の上明かにした。)
[欄外:宮沢氏は委員として、自己独自の草案(甲案、乙案)をつくって委員会に提出した。この甲案は実は広汎な改正で乙案の方が狭少改正案であった。この甲案はいずれかといえば委員会の乙案に近い。しかし、これが政府案とまちがわれて流布し、しかもこれに対して当時いろいろ批判があったこともあったのである。(この批判を司令部は敏かんに感じとって、「はげしい世論の反対に鑑み」これを拒否する方向にもっていったといっている(リオリエンテーション・国家学会37P)]
二月二日(土) 憲法問題調査委員会

以後、暫く憲法問題は閣議に於て論ぜられず、この間は金融応急措置問題が最大の問題として扱はれてゐたのである。松本国務相は調査委員会の甲案(松本案)につき英訳その他の司令部側との交渉の為の準備をして居た。甲案は二月の八日か九日一日[欄外:リオリエンテーション記事!]頃司令部に提示したらしい。
二月十六日(土) 午后臨時閣議あり。その際は金融緊急措置に関する治安状況で三土内相より報告があったのみであったが、
二月十九日(火)の定例閣議には、憲法問題に関し、松本国務相より驚ろくべき報告があった。併し松本大臣は、何とか打開の途があらうとのことで閣僚もそれを希望する旨を交々述べた。
右報告については、別記資料中に記載してある。(資料四綴中のオハリノ手記及び当時の余の(フクロの中のではない)諸事手控ノート)[欄外:十九日よりマ側提案を日本文に翻訳開始]

(二月二十一日マックと幣原総理大臣会見)
二月二十二日(金)の閣議に於て、憲法問題につき政府の立場を決定した。即ち幣原大臣よりマ側の要求の中で「天皇の表象」と「戦争抛棄」の二点は眼目らしく、その他は打開の途があると思ふと云ふことで、政府はその線に沿ふて努力する旨を申合せた。
幣原大臣は二十一日にマックと会見して懇談したのであった。
[欄外:此の日の閣議でいつも大体沈黙の安倍能成文相が発言した。政府がこれでゆくと云ふことは、これは非常なことである。重大な決意を天皇に対し奉り、又日本国民に対し、かためねばならぬと沈痛に云はれ、一同シンとして、身のひきしまるを覚えた。
二月二十二日午后には松本大臣は司令部にゆき吉田外相も加はり、折衝した。この会見記は資料四中に載ってゐる。]
(二月下旬より三月に入ってから法制局では松本大臣指導の下に外務省仮訳のマ側提示の案を検討し、余と佐藤達夫第一部長とでマ側の案を取捨して一案をつくった。三月二日以降三日間で漸く出来た。
その案も資料四中にある。これは主として佐藤第一部長の労に負ふ所が大であった。そしてその案を三月四日に司令部側に提示した。)(非常に忙しない間の作業で、英訳は外務省の小畑、長谷川両翻訳官にたのみ総理官邸の放送室を仕事場として努力したのである。)[欄外:英文はつくらなかったと思ふ]
二月二十五日 臨時閣議の際松本国務大臣より経過報告があった。(三月五日の分参照)
二月二十六日 閣議(司令部側の案の訳文を配布した)
三月四日午后 松本大臣は佐藤次長と共に右の案を司令部に持参した。然るに松本大臣は夕方帰ったが佐藤君はとめおかれ司令部側は徹宵してその案の検討にかかり、夜中に至り内閣書記官の岩倉君その外も応援に出かけた。
佐藤君は五日夕方迄かへらない。そして、五日の朝より、次々と司令部での共同審査の案が内閣に送られて来たのである。

三月五日 定例閣議
ここで松本国務大臣より詳細に司令部との交渉顛末の報告があった。曰く
二月十三日に司令部側より日本の提案に対し、之をアプルーヴし得ないから、此の案につき日本側が承認するかどうか二十日迄に返事せよ、しかも、その案のfundamental principlesとbasic formsとはこれを変更することは認めないとの申入れと共にマ側の案の提示があった。
そこで返事を二十二日迄に延期し、その間松本大臣は幣原総理、吉田外務とも種々相談し、二十一日には特に幣原総理はマックと長時間会見し、その結果二十二日の閣議で報告して政府の方向を一応きめたのである。
二月二十二日午后 松本国務相と吉田外相は司令部を訪問し、先方の真意をたしかめた。その時ホイットニー以下は
1 fundamental principles
2 basic forms は変更出来ぬと云ふたので、これに対し松本氏は1は民主的なる点、国民の意思に基く点は日本側の提案と同様と思ふ、2はいろいろ問題あるべしと考へたと述べられた。
二月二十五日には八時から臨時閣議が開かれた。丁度地方長官会議の第一日で(二日間の会合であった)その時の議題は選挙期日延期の件とこれに伴ふ内閣発表であったが、その際松本大臣より憲法の経過を述べられた。主として去る二十二日会見の模様であるが、その時の報告の結論は二院制度を採用する点は日本側の主張が認められるかと思ふが、その他の点は譲歩の意思なきように思ふと云ふのであった。
而して、マ側の提案は既に十九日より日文に翻訳しかけてゐたが、二十五日の閣議の時、第一章及第二章(天皇と戦争抛棄)の訳文を提示説明した。又二十六日の閣議にはマ側案の日本文訳文を配付した。
更にマ側提案を基本として日本側の新提案を作成する為に助手として佐藤参事官を選び二十七日より仕事をしてもらってゐる旨の報告があった。
而して、三月十一日迄に日本側案を提示する様先方に申入れたが、先方は非常に催促するので、三月二日に脱稿後、最早や延ばしてゐられぬので、三月四日に提示すると答へ、これを提示するに至ったので、詳細につき閣議で相談の暇なきはまことに遺憾であったが御了承を乞ふ。
[欄外:本案は訳文にするいとまなく原文を持参したのである。]
尚、日本側提案は、いがのある案(マ側案)を一応いがの大きな所を取り去り皮をむいて、辛うじて我々の呑める案にしたつもりである。而して、これ以上に砂糖をつけたり、更に皮をむいたりすることは微力な自分ひとりでは到底出来ぬと思ふた。マ側の幕僚(ホイットニー以下を指す)は非常に強硬故あとの所は閣議でねってもらひ、閣議で大決心の下に先方に当るつもりであったが、以上の如きことで、いがをとるが早いか先方に当たることになってしまった。

註 この点は余も、石黒長官も佐藤参事官もまことに遺憾であると話し合ったのである。二月十三日に案が提示されたなら直に閣議にはかりもっとよく論じ、先方に当ることが出来たのではないか。その間まことにむだな日をすごしたと思ふ。たとへ根本的事項については何とも出来ぬにしても、細かい規定のことになると、まことに妙な点が多く、それらは話せば判ったのではないかと残念である。
かくして三月四日 松本大臣、白洲次長、佐藤参事官等が司令部に出頭し日本側案をホイトニーに示した。そしてその際、本案は未だ閣僚に相談したものでないから、明日の閣議で相談すると云ふ旨のべておいた。
処が先方は、その案を直ちに閲覧し、小畑、長谷川両翻訳官が主として担当しケディスも参加、白洲氏も加った。
その時、先方は日本案に対し
(1)第一条のマ側案は人民の主権意思よりうけ他の源泉より受けずとあるのに、それがないのは何故か
(2)第二条 典範が国会の制定によるものなる規定なきは何故か
(3)第三条 ホヒツ consent
ホヒツト協賛トノ差異如何ヲ問ハル。伊藤本は、ホヒツヲadviceトアリコンセントをホヒツと云ふのはどうであらうかとの質問ありし由なり。これは松本氏がまだ居たときの疑問で、帰ったあとでまだいろいろの疑問が提示されたであらうと云ふことであった。
かくて夜を徹して共同作業で成案を得んことに努力し司令部では今なほ(五日午前中)仕事をつづけてゐる。対ソ関係もあり、一刻も速かに日本共同管理委員会へ提出の要あるらしく感ぜられた(ソ側が天皇制なぞで極端な事を云ひ出す前に既成の事実として成案を出してしまひたいと云ふことの如くである)

三月五日 右の閣議後引つづき内閣へ送られて来る案を法制局で検討し書記官長室で、石黒長官、余、その他で法文化して行った。
オールナイトコンフェランスには、佐藤参事官の他内閣の渋江、高橋書記官も参加して夜を徹し又朝になって井手参事官も出向いて、佐藤参事官を補助した。結局佐藤参事官は五日夕方に辛うじて帰って来た。
書記官長室での成文化は夕方六時迄に内閣の部迄出来たが、その後の状況では昨夜来の司令部での研究が結局そのまま確定してしまふ外なく動かせぬものとなるようであった。マクアーサーも四日は夜おそく迄司令部にあり。
五日は朝早くから又来て、研究の状況をホイットニー以下より聴取してゐたと云ふことで先方も非常に急いでゐたことが判ったのである。

午后の閣議には、出来るに従ひ案を説明す。それは松本大臣がこれに当り余も成文化の方と閣議との間を往来した。そして、その際、本案を如何に扱ふやが問題となった。これを日本政府案として発表せよとの先方の希望を如何に扱ふかと云ふことである。
松本国務相は、政府案なぞ一日や二日で出来る訳のものではないから、先方に勝手にまかせておくがよい。先方が発表するなら勝手に発表させておくがよいと放言した。

(註 松本氏は始めから慎重に扱ふべしとの論であって、且二月十三日以来もグズグズしてゐた点もあり、ここに来て急に仕上ることにはどうも賛成でなかったようだ)

之に対し、三土内相、岩田法相は、日本側としては知らん顔も出来ないではないかと云ひ、余、石黒長官、楢橋翰長は一刻も早くすべきであり、且これは日本としても自主的体制をとるべきであるから、これを日本側の案として、先方と同時に発表することとし、あく迄日本の自主性を確保すべきだと主張した。
そして閣議も、余らの提案に従ふこととなり且発表の形式も要綱と云ふこととして従来よくある形にして出すがよいと余は主張し閣僚も賛成した。
更に幣原総理は、かかる前文を附ければ、国民がきめる憲法と云ふことになるが、それは帝国憲法の上では認められぬではないか。そこをどうすると云ふことになり、それでは、この案を総理より内奏して御嘉納をたまひ、勅語を仰ぎかかる案を案とすることについて天皇の御意思の御決定を願ふのは如何、さすれば天皇の大権によりその具体的の行使を国民に委かせることになるので、前文に国民が定めるとあっても、さう云ふ憲法を天皇がおつくりになったと考へられるではないかと余は主張し、石黒氏も又賛成した。
これに対し松本氏は、それは「三百だなあ」と云はれたが、結局「さうでもする外なからう」とて賛成された。
なほ松本国務相は、その勅語には誰か副書するのか、閣僚が名を連ねることはどうもおかしいと云はれたが、結局勅語には副書なぞないと云ふことで解決した。
そこで午后四時頃に漸く意見がきまり、内奏と云ふことになり、一方宮中の御都合を伺ふと共に勅語案を練った。余は鉛筆で走り書をし石黒長官に示し、大体その線でゆくことになり、更にこれに芦田厚生その他閣僚の修正あり、五時半になって幣原総理、松本国務大臣は、参内した。
六時半に食事し七時から閣議再開した。間もなく総理大臣松本国務大臣は参内から帰って来られて天皇も、ことここに至った際自分としては意見はない。それでよろしいと申された旨を伝へられた。「陛下は実によく事態を認識せられてゐて、御異議もない旨を仰せられました」と幣原総理は閣僚に伝へられたが、その時は一同本当にしんみりして、何とも云へぬ空気が支配した。
余は自ら眼頭があつくなるのをどうすることも出来なかった。
なほ閣議の席上吉田外相は、左の三点につきマ側に申入れて再考を乞ふことと致したいと申された。
1. 皇室財産(皆国有財産となってしまふと云ふ点を緩和すること)
2. 外国人も政治上の権限を持ちうるが如き点(外国人も選挙権を有するかの如き規定を改めること)
3. 裁判官の「七十才」停年制
[欄外:特に(1)の点については陛下はいろいろ御心配して幣原達にお話ありし由である]。
右は本日の参内で天皇の御意見もあってのことかと思ふ。又は幣原総理としても特に心配された結果、松本大臣と相談して最小限度の主張をしようと云ふことになったからかも知れない。
註 此の申入れは六日の午后、外相より文書を以ってなした所2は改められたが、1、3は議会での審議でopen discussionにまかせようとホイトニイが答へたとのことである。
[欄外:3も結局、改正草案の時改められ、(1)丈のこった。これから樋貝議長引責問題が発生]
その旨六日夕方外相より報告があり、幣原総理も安堵の様子であった。

閣議は九時すぎ迄つづき要綱の形式、発表方法、文案等は法制局に委すと云ふことで散会した。

そこで石黒長官、余、佐藤、井手、宮内、岩倉等が書記官長室で徹夜して案をねった。
朝六時頃東がしらみかかった頃漸く何とか出来た。(あの時の書記官長室の、東天紅をそめて来た暁の色は忘れられない。)
成文を鉄筆にし、これを謄写する作業は一方内閣の事務室では徹宵つづけられたのである。

三月六日九時から夕方迄臨時閣議
要綱を逐条審査し、大体十二時半に了った。
午后は前文をかためた。又総理談話も練った。そして四時に閣議は散会。
一方白洲、奥村の両氏が司令部に発表のことを申入れ五時に新聞発表を行った。

この要綱は従来発表された如何なる案よりも進歩であり世間はあっと云ってしまったことは当時の新聞のよく伝ふる所である。
[欄外:三月八日 憲法改正につき放送局で座談会のレコードを入れた。入江、水谷長三郎、宮本ケン治、司会は細川隆元氏であった。
三月九日 三笠宮より御召しあり、余参上して憲法改正の件につき説明し た。殿下は(1)皇室典範は皇族も加って改めたい (2)天皇の御退位のこと (3)天皇は血統→能力→職業と考へるべきで世襲と云ふ点に疑問を持つと云はれ又天皇の大権の大幅縮減に疑問を持たれ、終戦の時の如く最後の関頭に於ける天皇の才断を必要とすと云はれた。]
三月十一日 此の日、金森徳次郎氏が翰長楢橋を訪問、憲法改正につき協力を求め、可能なるときに国ム務大臣に奏宣したい旨をつたへた。
三月十二日の閣議で、憲法改正案の議会提出につき決定した。
要綱発表と共に余は、その議会提出に関し、種々の案を練った。民間では憲法審議会をつくって大いに民意をきけとの論もあり、又たとへ議会に出すとしても、枢密院やら貴族院やら旧態依然たるものの手を通じることは要綱の精神に合しないとも考へられた。

そこで余の手許で佐藤参事官と相談し 甲乙両案を作成して閣議に諮った。
余は乙案を可と思ひ、楢橋氏も同意見であった。
然るに閣議では、岩田法相が先づ反対し甲案を主張し他の閣僚もそれに賛成した。現内閣の手でやり上げねばならぬと云ふつよい希望の如くであった。

遂に甲案に決定し特別議会提案ときまり内閣発表を十四日にして民心を一定した。
又十二日の閣議では臨時法制調査会設置の件もきめた。

そして余は十二日の午后病気欠席の松本国務相を訪問し逐一報告した。(以上に関係の資料は、資料五の巻末に載せてある)

註 松本国務大臣の態度が終り頃非常に捨て鉢の如くになったから、余らは要綱の成文化は松本大臣では駄目だ、誰か適当な人を起用してこれにやらせなくては、とてもいけないと思った。又要綱が松本案から見て大飛躍の状況であるから、それから見ても、又昨年十二月の議会でも松本大臣が憲法改正につき答弁した所から見ても松本氏自身が窮地に立つと思った。新聞記者たちでも松本氏はこの要綱発表となってはゐたたまれないと云ひ、松本氏の挂冠説さへ流れたのである。
石黒長官、楢橋翰長も同意見で、金森徳次郎氏が自由党の憲法研究の嘱託を受けてゐるのを目をつけ近い機会に同氏を起用したいと話し合った。
そんなわけで、考へてゐる間に、松本氏は三月上旬に神経痛を起し数日休まれた間に楢橋氏の談として、新憲法は憲法議会でやるので、次の特別議会には出さないと云ふ風な新聞記事が出た。これは余らの研究中の乙案だが、楢橋氏もそれが名分に合ふと考へたのであらう。つい記者会見で喋ってしまひ、その為に記事になったのである。
松本氏は自分の引こもり中かかる重大な事柄を勝手に閣議できめるとはけしからぬと憤ってゐたらしく、余が十二日午后訪問の際もきつくこれを批難された。余は、あれは決して閣議決定ではなく、中間の研究の一案がさも内閣の決定の如くに伝ったので、此の問題は本日の閣議ではじめて論議し、しかも甲案に略きまりこれについては責任大臣たる松本氏に御相談をしに来たのであり、此の点は幣原総理よりも特に松本氏の意見をきいて来いと云ふことであったので云はば松本国務相の意見を停止条件として閣議決定をした次第である旨を縷々述べて了解を求めた次第であった。
松本氏はなかなか不愉快の感が去らぬと、例の一本気で憤慨されて居った。

○三月十三日には参事官会議をやって憲法改正要綱成立の経緯をつたへた。憲法関係には佐藤君と佐藤功君と渡辺君とを基本として陣容を整へることにした。
○以後、連日研究
○四月三日には特に出庁して官邸で佐藤君、渡辺君と要綱の口語化に努力。
○四月五日 閣議で憲法の

三月十五日閣議
此の日臨時法制調査会につき余より詳しく説明した。此の日は松本大臣も列席せられた。
余は先ず、一応説明せるに
○岩田、松本両大臣は、此は方針決定の委員会としたい。民法の改正は司法省で従来通りやるがよい、と述べられ、
○安倍文相は、憲法でコリたから今回は大方針を先づ内閣の責任できめ、それをもって司令部に折衝せられたい。内閣が方針も何も検討せぬうちにおしつけられるようなことは厳にいましむべきだとの発言があった。
○余は右共に御尤である。又各省関係の法律は各省で責任を以って立案すべく調査会は方針をきめることとしよう、と答へ又官制による調査会を各省でバラバラに出すことは成るべくさけて此の調査会でまとめたいと述べ、各閣僚も了承した。
○幣原総理大臣は、
今次の研究は松本国ム相を中心にしてやって来たが、時勢の進行は去月二十六日以来、皇室さへ失ふの危殆に瀕した。その為已むなく天子様をすてるかすてぬかと云ふ事態に直面して、あの司令部側の申出を承諾した訳なのだ。
決しテ司令部に引きづられたと云ふのでなく、内閣としての方針はあったのだと、安倍文相に一矢を酬いた。
○安倍文相は、これに対し、何と申しても此の問題は民意が如何にあるかと云ふことやアメリカ側の態度がどうあるかについての研究が内閣として不足であったと思ふ。あまりに松本さん一人に委せ切った点に不備がある。これは閣議でもっと早くから充分検討すべきであったと思ふと発言した。まことに尤もな言葉であった。
○松本大臣は、調査会では、幹事案をつくりこれを調査会に提出するがよい。その幹事案は内閣で充分検討した上調査会に出すこととしたいと述べられた。
○更に松本大臣は、自分の任務は一応終ったのか。憲法改正の要綱が出来た以上自分の任務は終ったのであるか、と問はれた。これは最近の新聞等で松本大臣の挂冠説なぞあり、これに対する質問であったと思ふ。 これに対し
幣原首相は、
一応終ったものと思ふ。
併し民商法については松本氏の力を借りたし。憲法改正の仕事についても松本さんに御努力を乞ひたいと述べられた。幣原さんはその前日余には、憲法改正の仕事は誰か他の適任者にまかせ松本氏は憲法関係の私法的方面の責任者としたいと云ふ風な意見であったのが、今日松本氏が自己の責任の存続如何について如上の発言があった為一寸タヂタヂで右の様なことを云ったように感ぜられた。
○松本氏は更に憲法改正案が議会に提出になる迄の間の仕事は主任的の責任を負はなくてよいのか。
要綱が出来た以上その後の造作のつくりつけ、ファーニチャーのすえつけの仕事は私の責任ではないのかと問ふ。
○幣原総理は、造作のつくりつけやファーニチャーのつくりつけは関係各省でやればよいではないかと答へ
○松本氏は更に、私に云ひつけられた仕事は任務終了したのか。
造作、ファーニチャーについても自分を主任にするのかと切り込み、
○楢橋翰長発言して、そのことはまだはっきりしてゐませんと答へた。同氏はなるべく松本氏を退けたいと云ふ我々の気分を代表して云ったものと思ふ。
○岩田法相は、閣議で最初松本氏に憲法改正の主任を御願ひしたのだが、その任務はこれ迄と見るのか。
又は、憲法附属法令のことは別として、憲法の成文を議会に提出する迄の仕事、及議会における論議についての仕事もなほ松本氏を主任とするつもりかと問ひ、この点は充分考へて置く必要ありと述べた。
○楢橋氏は、岩田さんの云ふ通りであって、なほよく考へませう。松本先生を中心によく相談しませうと答へて、此の問題は一応けりをつけた。
三月十九日 余の法制局長官発令
三月二十日 枢密院に於て幣原総理は特に憲法改正要綱発表の経緯を説明せられた。
此の日は本会議があったが、その終った後に陛下御退出後説明せられた。(此の説明は五綴中の資料六中にあり)
三月二十三日 貴族院議員に余は憲法改正要綱の経緯を説明にゆく(午前十時)佐藤功君随行。
[欄外:三月二六日に 三十団体と八十人の個人からなる口語運動連盟は、六人の代表者を送って松本国ム大臣と入江法制局長官に建議した。総理官邸の二階広間で会った。横田喜三郎、安藤正次氏等がいた。口語化の主張である]
四月二日(火)閣議で憲法の口語化につき決定してもらふ。
[欄外:三月中旬以来、山本有三氏等の意見もあり余ら亦その決意をかため 先づ三土氏、石黒氏を説き、楢橋氏もとき、松本氏も説く。三土氏は割に簡 単に法制局長官としてやると云ふなら大いによい、賛成しようと申された。その事前工作の上で閣議に諮り、一同皆賛成した。]
四月三日 祭日なりしも出庁、佐藤達夫君、佐藤功君渡辺佳英君と憲法要綱を口語体で成文化することに努力して夜に入る。

四月五日(金)閣議で口語憲法文を配付し一応決定してサインをもらった。尤も此の謄写版の原案はその後部分的に修補した。
そして、修補の点は随時閣議へ報告した。

四月十日 総選挙
[欄外:
四月十日 総選挙、その結果
自由党(総才 鳩山一郎) 一四二 466
進歩党(代表者 斉藤隆夫)
社会党(中央執行委員長 片山哲) 九二
協同党(委員長 山本実彦) 一七
共産党(徳田球一、野坂参三等)
無所属 中立 七九
諸派 三九

而して、総選挙の結果進歩党が必ずしも有勢でないように見え、万一まけたときは内閣辞職ともなるが、かくては幣原内閣としてまことに困ることになるので一日も速かに憲法を発表するがよいと考へ、四月十二日、十六日の閣議の都度相談して、又司令部へも連絡した。
四月十六日(火)閣議 憲法発布の勅書案決定、明日発表のことも決定。
四月十七日 憲法改正草案を后十二時半発表。一時に余は記者と会見口語化その他を説明した。
これで余も一応の責任を果たしたことになり大安心をした。此の日発表のことを奏宣せるにつき本日、それ迄に枢府に御諮詢を了するよう手配し居りしに朝宮内省木下侍従次長より会見の要求あり。余は宮内省に十時頃出向き、木下氏に会ひしに、一点丈質問あり。それは、認証官のことであるが、宮内官については三級官位迄認証官とし陛下の身の廻りの官吏につき特に陛下の意思の加はるよう考慮しせしとのことであった。余は宮内官の特質に鑑み、その点は出来る丈考慮せん、但し三級官迄と申すようなことは果してそれでよいかどうかは研究したしと答へ、その他の点は特別のこともなく、然らば、新聞発表のこともあり即刻、枢府に御下付あらんことを切望し、且十二時半の新聞発表のことも了承を得て辞去したのである。
枢府への諮詢は四月十七日にあったのである。(朝木下氏は御諮詢案をまだ手許に持っておられた)
四月十八日 枢府の下審査(午前十時)
清水議長も列席せられた。
本日の都下新聞は一斉に憲法の条文をかかげた。これは特に紙を特配した。
又本日の新聞は余の談話をかかげ口語化憲法についていろいろと書いてある。
ひる食堂で幣原総理大臣は、現内閣はいろいろ評判が悪いが、憲法だけはどの新聞もほめてゐますね、又今日の新聞は法制局長官でもち切ってゐますねと云はれ御機嫌であった。
又口語と云ふのはどんな文法ですかと問はれ、余が文章口語と口頭口語のことなぞを説明したりした。

四月二十二日 内閣総辞職 五月二十二日 吉田内閣成立。
註 四月十六日の閣議の際、幣原総理より政局問題につき発言があった。
即ち、選挙の結果進歩党は第二党となった。自分は居据りの意思はない。政局安定すればいつでも引きつぐつもりだ。併し、今の状況ではその見込みがない。
一方憲法改正の問題がある。私でなくては出来ぬとも思はぬが、併し今日迄、本問題は諸君と共に深入りして来た。あとはどうならうとよいとは、上、陛下に対し、又外司令部に対しどうもその気持ちにならない。良心的には之が成立を見とどけるのが正しいことと思ふ。
目標は憲法改正案の成立する迄を念願としたい。今日は非常の時期であり、マックアーサー自身も非常に困ってゐると思ふ。
今日の状況では超然内閣は許されぬ。選挙前ならよいが既に公正に選挙が行はれた後であってみれば、今日以後の政府は一に政党に、その基礎をおくべきだと思ふ。
政党部内でまとまることを希望するが、まだ政局安定が政党の基礎の上にまとまる見込みがない。従って余は未だ退陣の決心がつかぬ。
憲法だけはどうしても通したいと思ふ。
私が引き受けると云ふ者がゐても、政局安定の見込がなければ委せられぬ。泥仕合の始まることは、列国の前にもみっともない。此の安定の見込みが立たぬとすれば、軽々に引退出来ぬのである。
右に対し芦田氏は曰く 進歩、自由、社会の責任者を呼んでこれらと話をしてもらひたい。一人で音頭をとることは困難であり、このままでゆくと事態はどうなるか判らないと云ひ
安倍文相は、総理が総辞職しないでやってゆくと云ふのは陛下に対しマックに対しての立場上自分でなくては責任を果せないと云ふ信念と思ふが、然らば、積極的にドンドン裸になって、その信念で事に当ってもらひたいと思ふ。
さもなければ芦田君の云ふようにするがよい、それができないのならやめるがよい。形勢に引きづられて自分は好まないが内閣を担当するなどと云ふのではいけないので、神に委せるつもりで裸になって、積極的にやってほしいと云はれた。
この外三土、岩田、松本氏も発言したが、内閣としての結論にはゆかず、総理が所信を表明したということで終った。
かくして数日、その間、二十三日には午后総理、鳩山、片山の面談が官邸にあり、又その間、労働組合連中、共産党連中が殆んど連日内閣に押かけて辞職をせまるなぞのこともあったが、四月二十二日総辞職となり、翌二十三日午后には総理、鳩山、片山の三頭首の会談もあった。
[欄外:その後は、なお後継内閣のきまるまでで内閣をたんとうしたが]
その後は、一ヶ月に近く、五月十四日には吉田が自由党総才にきまり、党大会の選出を得るまで総務会長ということになった。五月十五日に幣原氏は連立をあくまで拒む社会党を除き、吉田自由党総務会長、山本(実彦)共同党委員長と懇談したが、山本は社会党が加わらないのでは時局の収拾はできないとして中座し遂に吉田と幣原が話合いをした。五月十六日二時半吉田氏に大命降下したが、組閣にひまどり五月二十二日、丁度満一ヶ月目に吉田内閣親任式あり。余は留任と決定した。

△この間五月三日、幣原氏は参内して鳩山総才の自由党の単独内閣につき奏請した。鳩山内閣正に誕生という時になって五月四日、総司令部は鳩山追放を指令して来た。
その数日前から、内閣では鳩山に関する情報に心配して吉田総理もいろいろほん走されていたが、日本側の予測をうら切って五月四日追放が指令されてしまったのである。
そこで、吉田氏むりにすすめて出馬を乞い、(閣議でも幣原氏が、しきりに吉田氏にすすめ、吉田氏は渋っていた状形を思い出す)
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