青柳郁太郎回顧談

Recordações de Ikutarō Aoyagi

Oral reminiscences of Ikutaro Aoyagi

桂植民地への入植者を集めるのに苦労したことの回顧談。ただし、ここで語られている日本移民に土着自営の考えがなかったというのは事実に反する。

青柳郁太郎 回顧談

 募集に当り、最も意外なりしは、サンパウロ州に於て既に数年の耕地生活を経た先着移民までが、尚出稼ぎの夢より覚めず、土着自営の考へなきことであつた。斯うした事情から奥地に於ける純農の募集は全く失敗に終らざるを得なかったので、拠なく方向を変え、サンパウロ市内のコンデ街(註−コンデ・デ・サルゼダス街の略称)で募集した。コンデ街と言ふのは邦人の職工・商人の住居する所で、飲食店・下宿屋等もあるから、珈琲耕地に不向の人即ち農業労働に耐へざる失業者の集る所である。勿論殖民地行自作農を募集する場所ではないが、この場合仕方がない。コンデ街に於て第一番に応募したのは、サンパウロ市の鉄工場に働いていゐた熟練職工数人である。何れも日本にありし時は、造船所又は海軍工廠に勤めてゐた者で、立派な機械職工である。その当時ブラジルの人の工場でも好遇されてゐたが、何分都会生活は高き家賃を払はねばならず、野菜も総べて買はねばならず、生活が容易でないので、農業には無経験なるも、方向転換を試みようと言ふのである。その他大工・左官・商人上り・学生上り・或は珈琲耕地の生活に失望して耕地を脱走した者等で、合計三十家族を得た。中にはサントス着後三箇年に六箇所も諸方転々遂に落着場所を見出さず、日本へ帰らうか何うしようかと思案にくれて居た念入りの不平家族もあつたが、此の人は存外素直に落着き、後日手広く甘蔗を栽培して焼酎製造により相当成績を挙ぐるに至つた。誠に不思議なものである。

 これ等の人々が植民地に到着したのは大正二年十一月からである。その時植民地には農業技師二名・医師一名・土木測量師三人および庶務係一人先着し、会社側世話人の手は一通り揃ふて居た。

 この三十家族が植民地に落着けば、自作農希望者も追々出来るであらうが、若し此の内より半年若くは一年の後植民地を退去する者続出する様だつたら、その理由の如何に拘らず、この事業は一時頓挫を免れぬであらうと思ふたので、私は此等を桂植民地に土着せしむるため全力を注ぐことに決心した。

 私自身も植民地の近所に住居し、親しく職員と交はり、何やかと其の相談に与かり、同時に移往者とも馴染になることは此の際肝要と考へた。そこで本国との交渉上不便ではあるが。私は郡役所所在地のイグアペ市に住居することとした。ここから桂植民地へはガソリン・ボートで一時間半で行ける。

 此のイグアペ市も帝政時代、相当繁昌せる都会なりしことは、現在の偉大なる天主教会堂および所々に散在する大邸宅の廃墟に依るも容易に想像されるが、奴隷廃止後大地主連漸く他に移動し、今やすつかり荒れて住民も少く、営業としては僅に二、三の小精米場と種々の雑貨店と二軒の旅人宿あるのみだ。その頃は未だ電燈も無く、所謂市街区域には牛がぞろぞろ歩いてゐて、夜はうつかり散歩も出来ない。牛に突き当る恐れがあるからだ。

 他との交通は、月二回サントス往復の四、五百噸の小蒸汽船に依る外なく、郵便物も一週三回サントスから飛脚に依り搬ばれるのみで、サンパウロ市の日刊新聞は二日若くは三日後ならでは見ることが出来ぬ。それでも電信局があつて日本と電報通信は自由にやれた。

 さて問題の三十家族は植民地に来たものの、直ちに各二十五町歩の地区を譲受け、独立農業を営まうとしない。また強ひてやらうとしても、大部分が農事無経験なのだから旨く行くまいと懸念から、最初は皆賃銀労働者として、建築或は試験農場に色々の仕事を遣らせた。その内に分益農業と称し、一種の小作農を創設したところ、これには希望者多く忽ち満員になつた。この方法は会社に於て各戸に土地十五町歩を無償提供し、瓦葺の住宅を造り、また必要ある道路を開通する。その代りに植民は自己の計算を以て米なり甘蔗なりを耕作する。収穫はその二割五分を会社に納めさせ、残り七割五分を植民の所得とするのである。後日聞く所に依れば、分益農を望む者が多かつたのは、分益農は収穫皆無の場合に於ても、一時無駄働きするだげで、自分の金を注ぎ込まないで済むためだそうだ。それ程に当時は皆自作農を危険視した、

 幸に分益試験は成績良好で、甘蔗を作る者は砂糖又は焼酎製造で儲け、米作者は一町歩から籾七十俵(一俵は凡四斗五升入)内外取入れ、中には百俵の割合を以て収穫した者もある。尤も一町歩百俵の収穫者は夫婦二人の小家族であつたが、両人ともに善く働き種蒔は総べて夫婦二人自ら行ひ、決して人手を借らぬと言ふ様に用意周到であつた。

 分益農の成績に依り、自作農の有望なることが分り、三十家族全部就地して各々独立農業を営むことになつたが、中には随分危なつかしい者もあつた。一日私が桂植民地の主任橋田技師と一緒に各地区を巡回した時、移住者の一人は私共を其の米畑に案内し、技師に向つて云ふ『植付の際隣人の指図通りやつたところ、別の人来り稲と稲との間が狭過ぎる、もつと広くせねばいけぬと云ふから、全部植直しました。然るに先日外の人が来て、これでは間が広過ぎると言ふた、一体どうすればよろしいのですか』と。此の人商人上りで、サントス上陸後珈琲耕地に行つたが勤まらず、生れて初めて米作をやつたのだと言ふ。

 雑駁にして且農村不向の分子を多分に含める此の三十家族は、兎も角も、桂植民地に落着き、マラリヤ其の他悪疫に悩まされず、何れも最上の健康を以て農事に従事した、この結果を齎したことは、橋田主任の支配並に指導宜しき得たると、北鳥医師の予防衛生に関する措置の行届けること与つて大に力あると共に、職員間に仲違ひなく、全員共同一致事に当つたことが、植民地の生活を愉快にし、移住者を安堵せしむるに頗る有力であつた。

 問題視した此の三十家族の集団的自作農家は、期せずして在ブラジル本邦人を刺戟し、その思想を変改させる動機となつた、コンデ街のあの人々でさへ為し得るならと言ふ所から、急に自作農の気運が勃興した云々。