五通訳のひとり加藤順之助の10年後の回想(邦字紙記事)

Reminiscências do intérprete Junnosuke Katō, dez anos após a chegada do Kasato-maru (artigo publicado em jornal de língua japonesa)

Reminiscences of Junnosuke Kato, one of the five interpreters, 10 years later (article published in a Japanese language newspaper)

本稿は、笠戸丸の到着から、移民の各耕地への配耕後までのことを記した回想記。前に掲げた「十年一昔」の続編にあたる。ここでは、各耕地のことを記した部分については、加藤自身が赴任したデューモン耕地の部分のみを採録した。また、本稿には、サンパウロ市のポルトガル語紙『コーレイオ・パウリスタ』に掲載された笠戸丸で到着した日本移民への好意的な記事(翻訳を得意とした加藤自身の翻訳による)も引用されている。採録にあたり改行を適宜加えた。

第一回移民渡来十週年(抄)

 ●忘れ難たない十年前の六月十八日

 ▲日章旗を翻へして入港した笠戸丸
   船上の本邦移民七百九十三名

 ▽コレオ、パウリスターノ紙の激賞

 ▲何も歟も試験的な第一回移民
   雨降つて地凝まれる今日の盛況

 

目 次

一、笠戸丸サントス港着
 明治四十年十一月十日サンパウロ州政府と皇国殖民合資会社代表者水野龍との間に珈琲耕地の労働に従事せしむる為め日本移民三千名を三年間に輸入する契約が締結された。

 此の契約に基き第一回の契約移民百六十五家族七百八十一名及び自由渡航者十二名合計七百九十三名は[、]上塚周平氏監督の下に東洋汽船株式会社所属船笠戸丸に乗じ[、]今を去る十年、明治四十一年四月二十八日神戸港を解纜し[、]新嘉坡に寄港し印度洋を横断してケープタウンに寄港し五十二日の長航海を無事に終へ六月十八日サントス港に到着した、其の翌十九日特別列車にて午後九時当市移民収容所に来着し煌々くわうくわうたる電光を浴びつつ所長を初め役員一同より迎へられた、

 六名の通訳は何れも生れてより初めて八百人の世話をするのではしきこと目が眩む処ではない[、]気絶しても間に合ぬ位、飯を食はせる、珈琲を飲ませる、病院へ案内する、便所を知らせる、寝台ねだいを当てがふ、湯に入れる其の混雑は実に夥多おびただしかつた。

 正直正銘の百姓で御座ると看板を背負ふてゐた御百姓は彷徨うろうろして気が利かぬ[、]けれども世話をして貰ふが当然と平気の平左で八百の口は一つ一つに異つた要求をなした、水が欲しい、子どもが病気だ、金を替へたい、珈琲が苦くて呑めぬ、油煎りの飯は食へない日本飯を呉れろ、寒いから毛布をもう一枚、女房と隔離するとは不都合、移民でも人間で御座る、咽喉に通らぬ物を喰はせる法はないと不平と強請との連発には余等通訳も大に苦しめられたが移民到着前煙草と珈琲で暮した呑気千万な執務の酬ひと諦めるの外はなかつた。

 其の翌々日は人員点検と耕地契約であつたが[、]鈴木貞次郎君の係で新参の五人男は劔なき査公其儘の職務であつたから案外骨が折れず[、]上塚氏より大和や敷島を貰ひ二本三本続けざまに喫ふて移民を睨らむ[、]其の恰好は宛然さながら浅草寺の仁王様、鈴木君がしやがれ声で家長何県何郡何村何某と呼ぶ態度は羊群中の狼然として羨しくもあつた。

 一々人員点呼をすると、

 自由渡航者
 兵庫県(故)鞍谷半三郎同イノ (故)同誠一郎 山形県高桑治兵衛 長野県矢崎節夫 熊本県香山六郎 兵庫県飯田又一 高知県片岡治義 同秀於 同光章の諸氏及び其他二名合計十二名

 契約移民
  沖縄県    三百二十四人
  鹿児島県   百七十二人
  福島県    七十七人
  宮城県    十人
  熊本県    七十八人
  東京府    三人
  山口県    三十人
  愛媛県    二十二人
  高知県    十四人
  新潟県    九人
  広島県    四十二人
    合計   七百八十一人

であつた、思ふより早く査公の役目が済むと直ぐ参観者の案内を命ぜられた、当時農商務長官カンデド、ロドリーゲス氏(今の州副統領)を初めとし新聞記者及び耕主連引きも切らず来るので下から二階へ二階より下へ廿日鼠の様に走り廻はる通訳こそ哀れな者[、]腹は北山に赴いても珈琲一杯腹の虫に当てがふ事の出来ない辛さは非常であつた、されど伯国人は新来の我移民に対し総て好感であつたのは嬉しかつた。今当市大新聞の一なるコレオ、パウリスターノに六月二十五日(四十一年)記者ソブラード氏が書いた記事を引出して見よう

▲欧字新聞の激賞
 「第一回日本移民を輸送する笠戸丸は去る十八日サントス港に入港せり[。]同船は神戸港を出帆し新嘉坡及びケープタウンの二港に寄港し五十二日の航海を経て無事サントスに到着したるが[、]其の輸送移民総数は七百八十一名にして皇国殖民会社がサンパウロ州政府と契約せる三千名中の初航移民なり。

 是等七百八十一名の移民は百六十五家族より成り[、]一家族平均四名半に相当し単独移民は僅かに三十七名に過ぎず、小児及び老人の数も亦甚だ少なく三歳以下八名、三歳以上六歳まで四名、六歳以上十二歳まで四名にして十二歳以上の者七百六十五名あり此等の者は農夫らしき頑丈なる手を有し明かに労働に慣れたるものなることを証示せり。

 前記移民会社が勧誘したる契約移民の十二歳以上の者十一名六歳未満の小児一名合計十二名の自由渡航者あり此等の者は何れも旅費を自弁して渡来したるものなり。会社勧誘移民七百八十一名中読書力を有する者五百三十二名ありて総数の六割八歩を示し[、]残余の二百四十九名は無学なりと称するも全く文字を解せざるにあらずして皆多少の読書力を有すれば結局真の文盲者は全数の一割にも達せざるなり。

 此等の日本移民は東京、沖縄、愛媛、山口、広島、高知、新潟[、]福島、鹿児島、熊本、宮城、の一府十県より募集せしものにして[、]就中沖縄、鹿児島、福島及び熊本の四県は多数の移民を出せしなり。今移民総数に就きて見るに労働に適せざる者十六名あるも之れ僅かに全数の二歩に当り而かも此の最少なる労働不能者は老人若くは不具者にあらずして成人の後に皆一人前の農民となるべき小児なり、

 移民は十九日午後二時上陸し同日サンパウロに到着したるが彼等を輸送せし笠戸丸の船室及び其他諸般の設備を見るに皆克く清潔を保ち居れり、之れに由て汽船会社が日本労働者に対する待遇法の一般を窺ふことを得るなり。されば日本船の三等船室は大西洋を往復する欧洲船の一等船室よりも清潔なりと評する者さへサントスに見受けたり、人或は之を聞きて疑を抱く者あらんも之れ決して皮相の観察にあらざることは左の事実を一読せば容易く首肯することを得べし、

 移民は移民収容所に入るに際り秩序整然として列車より下り少しも混雑の模様なく又其の車中を検せしに吐唾とすゐの跡一点もなく[、]果物の残皮等の散乱せるもの皆無にして[、]観察者をして不快の感を起さしむる一物をも留めざりしなり。斯くして特別列車にてサントスよりサンパウロまで四時間の旅行をなしたる後[、]移民はよく静謐を保ちて列車を出で移民収容所の大食堂に入りて食事に就きしが[、]一時に入ることを得ざりし為め残余は静かに廊下に佇みて交替を待ちゐたり。

 移民は男女共洋装にして男子は鳥打帽其他種々の帽子を冠り[、]女子は上衣と袴と連続せる洋服を着し胴締を用ゐ[、]極めて簡単なる婦人帽を被り装飾ある留針ぴんにて之れを抑へ居れり、美事にくしけつれる毛髪は曾て日本画にて見たる日本婦人を想起せしむ[。]只絵画と異なる点は大なる櫛を用ゐ居らざることなり。

 男女何れも安価なる靴を穿ち且つ靴下を用ゐたり、彼等の中に三個の勲章を佩びたる者一名を見受けしが[、]其の一箇は金製にして日露戦役の勲功に依りて授けられたるものなりと、又真鍮の頭を附けたる竹軸の小旗を携へたる者多数ありしが此の旗は二りうを一対とし一は日の丸にして他は黄緑色の伯剌西爾国旗にして此等移民は吾国民に対し敬意を表せんが為め日本に於て作れるをことさらに携へ来れるなり、何んぞ其の心事の斯くも優美にして高尚なるを!!

 移民の着用せる洋服は皆日本の大工塲に於て調製せるものなりといふ、洋服は一般に日本全土に普及せるものの如く而して其の洋服たるや総べて移民が自費を以て購求せしものにして見るさへ心地よき新調服の揃ひなり又婦人は綿製の手袋を用ゐ居れり。

 移民は食堂に交代食事をなし約一時間の後各自に定められたる室及び寝台を見るべく食堂を出でたるが驚く可し彼等の去りたる跡には一つの煙草の吸殻も吐唾もなかりしなり[。]若し他国移民なれば忽ちにして其の居所は蹂躙されたる煙草の殻或は吐唾を以て不潔化すべく清と不潔との差異に雲泥もただならずといふべし。移民は秩序正しく食事を了れり中には一時間余り食事に遅れたる者さへあるもごうも喧騒の状或は不満の色なく先着者の食を終るを待てり。

 移民到着の翌日種痘を行ひたるが之れ又規律整粛、少しも臆し若くは忌避する様子なく腕を露して種痘を受けたり斯く一時に多数の種痘をなすに当りても何等騒擾なく沈静の裏に整然として終りしは未だ嘗て聞かざる所なり[。]殊に彼等の多くは既に日本に於て再三種痘を経たるものなり。彼等は喜んで当国の食物を喫し而かも胃膓を犯されたるものなく只感冒に起因する脳神経痛の軽症患者十数名を出せしに過ぎざりしなり。

 日本移民は概して頭大に体躯偉なるも脚短かく十四歳前後の日本人は当国の八歳前後の児童の体格にして日本人の身長は当国人の丈け低き者にも及ばざるも往々にして当国人の中脊の者よりも高き者あり、而して特に吾人の注意を惹ける一事は彼等は敢て肥満せざるも頑強なる肉附と強健なる骨格と広き胸廓とを有すること之れなり、斯く言はば人或は驚嘆すべきも之れ決して虚言にあらざるなり。

 日本人は男女とも頭髪漆黒にして婦人に於ては殊に其の然るを見る、男子は頭髪を短く刈り込み中央又は一方より分け丁寧に梳り然かも其の襟飾及び厚皮の手と其の対照を失はず。彼等は熱心に我が国語を学ばんとするの意を示し又食堂に於ては一粒の米、一滴の汁をも床上に落せしを認めざる程用意周到にして[、]食堂の床は食後と雖ども依然として清潔を保ち食前と毫も異なる所なし[。]若し夫れ稀に紙片若くは燐寸まつち摺殻すりがら等散乱しありとせば之れ多くは収容所の給仕等の所為にして日本移民が為せし所にあらず[。]実に静粛なる彼等は好愛すべき良民と謂ふべし。

 又夫が妻を信用することは吾人の想像以外にして[、]夫が熱心に葡萄牙語の練習をなすを妨げざらんが為め[、]妻は夫に代はりて日本貨を伯貨に両替をなす[、]其の美徳は人をして羨望に堪えざらしめ、況んや各々十、二十、三十、四十、五十若くは百に垂々とする日本貨幣を携帯し来れるに於てをや。

 移民は屡々沐浴するを以て身体甚だ清潔なり、又常に清潔なる衣服を着け歯磨粉、楊枝、舌掻、櫛、剃刀等を所有し居り[、]髯を剃るに石鹸を用ゐずして只水を以て面部を湿すを見たり。日本移民の携帯手荷物は決して少数にあらず[、]約八百の人数にて一千百個を有し其の多くは柳行李又はズツクの行李にして一見労働者の行李とは思はれず[、]我が国の労働者が用ゐるブリキ函、菰包の荷物と比較するときは霄壌の差あり、此等の行李中には歯磨粉、鑵詰、食物調理用醤油、薬草、被服、木枕、其他日用品、防寒用蒲団、大工道具、一二冊の書籍、書簡用箋入函、硯箱、箸、扁平なる小匙等を収め[、]日本服としては僅かに一小児の模様染キモノを認めたるのみなり、手荷物は斯くの如く多数なるにも拘らず関税を課すべきもの皆無にして税関吏は二日間に亘り厳密なる検査を行ひたるも亳も税関規定に違反せしと認むべきものを発見せざりしといふ。又税関吏の語る所に拠るに斯く多数の移民がよく秩序正しく静粛に其の手荷物の検査を受け一人として隠蔽する者なかりしは未だ嘗て見ざる所なりと。

 此等移民の清潔なることは既に述べたる如くなれども(移民にして斯く清潔にして而かも規律正しきものは未曾有なり)従順なる事羊群の如くならばサンパウロ州の富源は彼等に依りて遺憾なく開発せられ将来当州の産業は日本人に負ふ所蓋し大なるべし。日本人種は伯国人種と大に異なれども決して伯人に劣れる人種にあらざるなり。余は今茲に日本人に対する観察を記したるに過ぎざれども彼等の活動如何は未だ知るに由なく、敢て論及し能はざれば他日を俟つて更らに報道する所あるべし」と激賞してゐる。

二、耕地行
 手荷物の検査は済み耕地契約も済むだので耕地へ出発するばかりとなつた処が物好きな所長フラガ氏は移民に市内を見物させると云ひ出した[。]逃げるに逃げられず困り切つた通訳連は移民に付き添はねばならぬ[。]

 独り歩きするさへ笑はれはせぬかと気遣ふ二十男は小さつぱりとはしてゐるが臍緒を切つて以来初めて洋服を着た恰好の悪い御百姓、男の靴を穿いた女、手に入墨のある琉球女、思ひ切つて出した大廂おおひさしの女等の大軍は蜿蜑わんねん長蛇の如くプラスの大通を内股に歩く、見物人は山を築き「見よ日本人を、獅子の様な頭、皆足が悪いのかしら、眞倒まさか跛ではなさそうだ、あの女の手には絵が書いてある、カンナブアルみた様に女が男の靴を穿いてゐる、屹度男が女に扮装してゐるに違ひない、何に女に化けてゐるにしては頭の具合が変だ」有り難からぬ冷評を浴せられて通訳達は顔から火を飛ばす、然し移民は平気なもの「彼処あすこの家の造り方は神戸の何々旅館と同じ、あの木は新嘉坡で見たのに似てゐる、あのお寺は大きい、ブラジル人は皆笑ふてゐる、お世辞がよいな、親切らしい、あれを見な小供に蜜柑を呉れてゐら」閉口頓首これから坂を上つて愈々市へ出づれば一大事と通訳連は目と目で知らせあふて収容所の案内役人に方向を転ぜしめ瓦斯会社前を迂回して収容所に帰つて、まづまづ天下泰平、愈々耕地へ出発すべく部署を定められ先頭第一に余は出発を命ぜられた

(一)デユーモン耕地(モヂアナ線)
 五十一家族、二百十人
 福島県七七人 熊本県七八人
 鹿児島県四二人 宮城県一〇人
 東京府三人

(二)サンマルテーニヨ耕地(パウリスタ線)
 通訳鈴木貞次郎君
 二十七家族 百〇一人
 鹿児島県百〇一人

(三)ガタバラ耕地(元パウリスタ線)
 通訳平野運平君
 二十四家族 八十八人
 鹿児島県六七人 高知県一二人
 新潟県九人

(四)カナーン耕地(モヂアナ線)
 通訳嶺昌君
 二十四家族 百五十一人
 沖縄県百五十一人

(五)フロレスタ耕地(イツアナ線)
 通訳大野基尚君
 二十四家族 百七十三人
 沖縄県百七十三人

(六)ソプラード耕地(ソロカバナ線)
 通訳仁平高君
 十五家族 四十九人
 山口県二八人 愛媛県二一人

と順次耕地へ向け出発した[。]そして職工移民九名(鹿児島県五名、山口県二名、高知県二名)はサンパウロ市に在住することとなつた。これより悲劇か喜劇か第一回移民の耕地に於ける状態を粉飾せずして述べよう。

(イ)デユーモン耕地
 余は移民到着前にデユーモン耕地へ視察の為め出張を命ぜられ、同耕地に十五日滞在して珈琲の摘み方、篩の用ゐ方、枝葉を取除けること、俵の枡目をキチンとすることや採収日傭監督法や至極簡単明瞭で小供にも出来る仕事を伯人監督より委曲教示を受け耕地監督一通りの業務を見覚えて帰聖したが[、]第一余をして失望せしめたは珈琲の着果殆んど皆無であつた事である、尤も此の年は一般に不作であつた[。]

 殊にデユーモン耕地の五十年、六十年の老木は疲労の色を見せて実がなつてゐない事夥多しく、伊太利人四人家族の一日の採収高は三俵半より四俵であつた。一人一日三俵、三人家族にて九俵を容易に採収し得る筈の移民会社のお題目とは大なる差がある、来るべき第一回の移民は三人家族にて一日九俵を採収し一俵一ミルレース合計九ミルレース(当時の為替相塲にて五円四十銭)を儲け得ると呑み込んで来るに違ひない、さては難問題は必らず之れより胚胎はじまるかと気遣ふたが騒ぎ立てた処で後の祭とならうと思ふた、然し当時サンパウロ市に滞在中の公使舘通訳官三浦荒次郎氏に余の視察報告と愚見とを奉つた。

 処が三浦氏は案外平気で、馴るれば一日一人三俵位摘むのは何んでもないさと楽観的机上論者であつた、馴れた伊太利人家族でさへ三人家族で三俵半か四俵を摘むが関の山であるに新しい日本移民は未だ珈琲の樹、珈琲の実はどんな物であるか知らない、して採取したことがない故に伊太利人の二分の一即ち一家族にて一俵半乃至二俵が上々であらう、さすれば一日五円四十銭を夢に浮べて遥々来たる日本移民は必ずや何事か起すと余は懸念したけれども移民は航海中であつた。

 理か非か、其麼そんな事に躊躇してゐる塲合でない、遣つて見ると意気込むだ余は五十家族二百十人を率ひてサンパウロを出発したのであつた。特別列車がリベロン、プレトに着すと耕地からは総支配人、総監督、監督お揃ひで而かもリベロン市の楽隊を傭ひブーブージヤンジヤン賑かに迎えてくれた、リベロンにて支線に乗り移り午後八時三十分耕地に安着した。

 移民一同は臨時収容所といふた格の家屋に玉蜀黍とうもろこしの殻を延いた土間に寝させられた、此の日は午前四時に汽車に乗り込み、そして余独りにて二百に余る人々を世話することとて足が幾本あつても手が何本あつても足りない、翌朝になると土間に寝た移民は皆蚤に攻められて一睡もせず、此麼こんな処に毎日寝させられては疲労つかれて労働なぞ出来ぬ、これが不平の皮切であつた[。]

 余は五十一家族全部を一箇所に住居せしむる為め他国移民を他に移して貰ふことにさきに出張せしみぎり総支配人と打合をして置きしにも不係[、]再び来たりて見ればその準備はしてない、二百十人は三ヶ所に分居せねばならぬ、そこで県総代をして抽籤をなさしめ福島県七十七名、宮城県十名、東京府三名合計九十名は本部に近く、熊本県七十八名も事務所より遠からざるコロニヤに割り込ませ[、]広島県四十二名は本部より馬上にて往復四十分を要する遠いアルベルラーナのコロニヤに別居することとなつた。

 家屋が決定すると寝台を作るべく山に木材を伐り湿地に蒲を取り、食料品及び採収用梯子、布、篩、袋、水入等の買入れをなすに三日を費し四日目より愈々労働を開始する運びとなつた、就業時間は午前六時である、然し畑の遠近により起床時間は一定せぬ、遠き処に採収をなすときは四時に起きねばならぬ、

 仕事始めの日は威勢よく勢揃ひせよとばかりに皆三時に起き、梯子を舁ぐ男、乳呑児を脊負ふた女、弁当をげた小供の一群は勇み立ち露を蹴つて第一番に珈琲を摘まむと敦囲いきこみ、人に後れじと焦るけれども見掛よりは渉取はかどらぬ、採収は余が焦慮せし如く三人家族にて一俵半も摘めなかつた、之れが三日続き一週間となり移民は考へ初めた、食へん!!!! 

 日本に於て募集人が三人家族にて一日平均九俵を容易たやすく採収し得ると云ひしも実際働き見れば其の六分の一である、一日家族総係りで九十銭の賃銀を得る位ならば先祖代々の田地田畑を抵当にして態々借金し大枚の旅費を拵へ遥々はるばる伯剌西爾の赤土に働きに来るのではないとつぶやくけれども日本人は未だ仕事に馴れぬ、仕事に馴るれば立派に遣つて行ける様になる、一時の辛棒と訓して働かす、けれども仕事が進めば進む程珈琲樹は丈高くなり青色赤色の実は黒色と化し而て益々乾枯ひからびて来る如何に渾身の勇を以て働かせても到底予期の九俵は採れぬのであつた。

 て加へて移民が怠惰なまけるので採収額は愈々減少する一方であつたが、然し少数の不平者を除くの外は兎も角も労働に従事して第一回の支払を期待してゐたのである。月末に第一回の支払は実行された、通帳を見ると各家族は皆多少の借金になつて居る、夫れは其の筈である、新米の移民は日本人に限らず何れも入耕の際は採収用具、食料品及び食器を買入れるが為め第一回の勘定に借金を生ずるは不思議でない、然るに移民連は唯だも眼前のことのみを考へて将来の事や仕事の工夫なぞを全く度外視してゐる、であるから移民の考へることは現在今ま此の瞬間を如何にするかと云ふ問題で頭脳あたまが一杯で、如何に通訳たる余が百万開陳しても馬耳東風、説明すればする程通訳は耕地の傭人やとひにん、高い給料をむで移民を振り向かぬとか[、]耕地の利益のみ図りて移民の艱難かんなんに同情せざるとか弥次馬的の雷同は紛糾して事実の上に現はれ来り県々より総代を以て転耕願を余の手許に致した、此等の明治佐倉宗五郎の言は穏当で「移民はサンパウロ州政府の補助金を得[、]一ヶ年半耕地に労働する契約にて渡伯した[。]然るに当耕地の実情は余り感心しなかつた、又珈琲の着果如何を実地踏査せしに此処は地味が悪い為め到底見込がない、若し此の耕地に於て労働を継続するときは移民は収支償はぬことになる、是非善良なる耕地に転耕させて貰ひたい」と云ふことであつた。

 所が昔しも今と同じ、耕地に就業契約をなして入耕し更に転耕するは決して容易な事ではない、転耕するには転耕する丈の正しく且つ強い理由がなくてはならぬ、単に思はしくない、イヤだと云ふ丈では正当の理由とならん、況して当耕地は移民が要求する物を惜気もなく貸与して呉れて居るに於てをやである、然し実情を咀嚼してゐる余は何等かの方法を採らねばならなかつた、

 そこで一応会社の代理人たる上塚氏の意見を聴き相当の処置をなすべき旨を総代の(故)佐伯国次郎、目黒静、佐藤信次郎、中村直松の四名に告げ[、]余は直ちに上塚氏に打電して打合せの為め来耕を乞ふた。

 此の耕地にイヤ気を持つた移民連は又色々なことを云ひ出した、足に虫が這入つた、腹が痛い、風を引いた、頭が重いと云つて仕事に怠り勝ちとなつた、本部ばかりにて毎日三十名内外の急性患者(?)が出たが親切なハツトマンてふ独逸人医は叮寧に診察し薬を呉れてゐた、余は朝六時に畑に移民の仕事を定め八時に病室兼薬局に詰めて病人の通訳をなし十時に再び畑に出掛け午後の六時迄餓えたる痩犬の如く広い畑にお百度を踏んで監督するのであつた、

 そして余が病室に患者の病態を医者に通ずる為め畑に在らざる時は移民は大禁制を犯して棒で珈琲の樹をたたく、伯人監督の命に従はぬとて伯人監督より苦状を申込まれるのみか夫れを針小棒大に一々幹部に報告される、甚しきは日本人は伊太利人の犬を殺して食ふたとか事実を知らざる碧眼の英人デービー総支配人は之れに更らに輪をかけて余に監督を厳重にすべく命ずるのが日課の一であつた。

 本部より遠く離れたる広島県四十二人は英人監督の下に労働してゐたけれども英人監督は手に合はぬとて総支配人を通じて余に日々出張を催促する、コロニヤ、アルベルテーナには馬でなければ行けん、而かも四十分は如何に走らせてもかる、殊に余は伯剌西爾へ来て初めて馬に乗る事を覚えたのであつた、夫れに耕地には二ヶ所も三ヶ所も頑強な丸木戸がある、それを馬上から押し開いては閉め、閉めては開けて通らねばならぬ、そして広島県移民の部落に着くと、あれもこれもと一時に要求される、それを一々済ましてゐると午後の七時か八時頃でなければ本部へ帰ることは出来ない、時間に遅れるとレストランテの規則として夕食は出して呉れぬのであるが気のきいたそこの娘は厭な顔もせずに冷めたるソープを温めて飯よ肉よとお給仕をして呉れるので毎度助つた。

 福島、熊本、宮城、東京の二「コロニヤ」でさへ余独りで手が廻はり兼ねる程多忙で、到底毎日馬上四十分の往復はして居られん、出張せざれば気儘勝手な英人監督は広島県の人々が食料を請求するも不知顔しらぬかほ、仕事をなすもなさざるも無頓着であつた。然し移民は食料の欠乏するには弱り果てて態々本部に重い足を曳ひて来る、これではならじと余は総支配人に下監督一名を撰び広島県移民の便宜を計り且つ耕地の利を図らんと建議した。

 デービー総支配人は以ての外の不機嫌「日本移民は甚だ不経済である、通訳一名に月給二百ミルレース年俸二コント四百ミルレースを支払ふてゐる、其の上又下監督を置くは断じて許さぬ、コロニヤ、アルベルテーナには立派な監督がゐる、移民は何故に万事監督にらぬのであるか、貴下は通訳である、通訳は監督及び移民の意志を疎通せしむるが役目である」年俸二コントス四百ミルレースを貰ふ通訳は耕地の傭人である、上役に維命維これめいこれ従ふことはよく心得てゐるけれども仮令上役なりとて非常識にも頭から悉く抑へ付けられて涙を飲むに若過ぎる余は黙つてゐなかつた

 「月俸二百ミルレースを耕地が支払ふのは当然である、見よ、余は今回六耕地に配付せられたる移民中の最大数の家族の通訳である、ソプラード耕地は僅かに十五家族四十九名を入耕せしめたるに過ぎざれども其の通訳は二百ミルレースの月給を受け又ガタパラ耕地は二十四家族八十八名を入耕せしめたるも通訳は同じく月末に於て二百ミルレースを受領するのである、而かも六耕地の情況を綜合するに他耕地の通訳は孰れも好遇を受け、馬具を付けたる馬迄貸与されてゐる、然るに余は如何ん、他耕地に比し二倍より三倍の多数移民を引き受けてゐる、そして甚だ冷遇されてゐる、貴下にして常識と公平なる眼とを有すとせばかかる明白なる事を総支配人たる貴下は了解せざる筈がない、余が正当に要求せんか二倍或は三倍の多数なる人員を操縦する故に二百ミルは愚か四百ミル乃至六百ミルの給料を受くべきである、而かも余は自己の利益の為めに下監督の傭入を要求するのではなく、一つは耕地の利益となり一つは移民の便宜となるからである、然れども貴下が下監督採用を許さざれば詮方なし只貴下に願ふ一事は余をして下監督を採用せしめ、余の俸給をさきて支払ふことを許せよ」

 此の談判は余の勝利となりて耕地は其の翌日より而かも二名の下監督を採用した、本部直属として仏語を多少解する熊本県人佐藤信次郎、コロニヤ、アルベルテーナには北米より転航したる広島県人中村直松を選び両名に日給二ミルレースを給与することになつた、

 余は幼少の時よりアングロサクソン人種は嘘を云はぬ、正直の模範は英人にありと教えられてゐたが、見ると聞くとは大なる差があるデユーモン耕地総支配人デービー氏は大の嘘吐うそつきである、其の下の総監督米人デーリーも亦ワシントンの前に出られぬ男、同士は類を以て集まる、むべなる哉、そして両者は熾(さか)んに権謀術数を弄し、あまつさえ蓄妾と巫戯ふざき廻はりて、通訳たる余が職務上の打合せをなす為め事務所に到れば社宅にゐる、社宅に行けば総監督と相談せよ、総監督の許に走れば上に習ふ下の総監督は監督と打合せよ、監督に相談すれば幹部より命令なき内は何事も出来ぬ、斯くして多大の時間を浪費して更らに要領を得ない、ああアングロサクソン人種!!!! 世界に威を誇る大英国民、靴油に迄世界第一の文字を掲げざれば気が済まぬ尊大なる米国人、表面は紳士でも心はサタン、何故に余は此等の卑劣なる人種の言語たる英語を学んだか、英語を解せざればデユーモン耕地に来はしなかつた、然し之れも運命と諦めた、

 けれども卑劣な人間は更らに卑劣である、三浦、上塚の両氏が耕地に視察に来たりし時余をコロニヤ、アルベルテーナに出張せしめて両人と面会をなさしめず又神谷忠雄氏が来耕したるときも余の居らざるを計りて移民家屋に或は畑に案内した。余は怒髪冠どはつくわんを衝くの思ひをなしたる事屡々であつたが身は二百有余人の通訳なるも之れ正しく五十家族の生命を預かると同じであると自重してゐたが移民よりは困まる、借金をどうするとて詰み掛けられ、幹部は石の如き者ばかり、面前に展開せる青い原、滾々と流れる小河、淋し気に赤き花を着けたる名も知れぬ木と、西班牙式の美しい十六になつたレストランテの娘ジヨゼヒーナは余を慰めるのであつた。

 二名の下監督は仕事にかなり馴れた、余が居らざるとて業務に差閊さしつかへを生ずる事はない、よし辞職!と決めて上塚氏に通知した、上塚氏は直ちに辞職を思ひ止まれ、今少し辛棒して呉れよと云ふて来た[、]然れども一度決心した余は辞職する替りの者を寄越して呉れよと電報を以て上塚氏に通知して事務所に行つた、

 総支配人は余を見ると直ちにコロニヤ、アルベルテーナに出張せよと命じた、余は徐ろに口を開いたのである「貴下はワシントンの桜木の話を知つてゐますか」「知つてゐるとも、ワシントンは正直の典型として英米人の家庭に於て頗る崇拝されてゐる」「ワシントンを崇拝する家庭に生れた貴下は甚だしき嘘吐うそつきである、事実を隠蔽し業務を蔑にし、耕地の利益は勿論移民及び耕地傭人の利益を計り円満に且つ愉快に労働せしむることを図るべき位地にありながらてんしとて之を省みず却つて傭人を讒訴するとは卑劣である、過日収容所長フラガ氏来耕の時貴下は余が耕地の命令を遺漏なく伝へぬと云ふたさうである、余は今日迄耕地の命令は云ふに及ばず、監督の私事にさへ唯々諾々として服従してゐた、然るに賢明ならざる貴下は余を讒謗した、苟且かりそめにも紳士たるべき者の為す間敷き事であると思ふ、余は紳士の皮をぶり心に深く剣を秘する貴下の如き者の下に労働するを快とせざる故に只今限り辞職する、終り」

 総支配人は黙して一言も発せなかつた、傍に座つたデーリー総監督は「君、何にか気に障つたのか、総支配人に対して用ゆべき言語ではない。静かに考へなければいかん」、「余は今云ひし如く、蓄妾にのみ心を奪はれ職務を等閑とうかんになして平然たる貴下の如き非常識なる輩と言葉を交はすさへ不愉快である」と席をけだつて事務所を出ると仲の好いジヨゼヒーナ嬢は飛んで来た、「どうしたの、喧嘩したの」「ウン僕の荷物を皆お前の家へ運ぶ様に誰れかに命じて呉れ、僕は今晩から社宅に寝ないのだ」、「イイわ、わたしが運ぶわ」僕とジヨゼフエーナとは大切な書籍より外に何にも這入はいいつてゐなかつた柳行李を持ち合つて彼女の家に引き揚げてしまつた。

 すると平素親切な医者のハツトマン氏は余をひ種々慰藉して呉れた、そして耕地との関係を切つたのならば自分が月給を支払ふから薬局に働いて呉れよと、余は替りの通訳が来る迄無報酬にて病室及び薬局に於て移民の通訳をなすことを快諾しハツトマン氏が日本移民に盡して呉れた好意の万分の一に酬いんとした其の翌日総監督は余を尋ねて、馬を貸与する、住家ぢうかもよりよき処を与ふるから是非通訳を続けて呉れと嘆願して来たけれども「余は紳士なり」と答へて取り合はなかつた。

 上塚氏は余が辞職したるに依り当時リオ市より来聖中なりし友人宮崎信造君を煩はし移民全部が転耕する運(はこび)に至る迄耕地に滞在して貰ふとて両氏同道して来耕された、又通訳官三浦氏はリオ市に開催せる内国博覧会に於て日本花火打揚げの受負をなすべく又々渡伯した社長の水野龍氏と共にデユーモン耕地の形勢非なるの報に接し鎮撫せんとして来耕された、実地を見た両氏は悲惨だ、転耕させると決定し州政府に交渉せんが為め其の次の日帰聖することとなり余も二氏に随伴してサンパウロに帰へることとなつたので荷物を整へレストランテの勘定を済まさんと娘を呼んだ。「あんた、サンパウロへ行くの、何時又来るの、わたしね、お父さんに話してよ、結婚してもよいつていふたわ」、「莫迦!結婚どころの騒ぎか」

 水野[、]三浦の両氏に付随してサンパウロへと出発した余はルスの停車場に藤崎商会の(故)佐藤徳治君及び後藤武夫君の出迎へを受けた、「君、痩せたね、黒くなつたな、随分苦労しただらうね」と後藤君が余の黒く焼け頬骨が現はれた痩せ衰へた顔を見て云ふた、瓢軽な三浦氏は「アハハ加藤君が痩せたのは珈琲のせいではないよ」「娘がね」と水野氏がぜつ返す皆が「アハハアハハ」と笑ふた、久し振りにて笑声を聞いて余は嬉しかつた[。]

 三浦通訳官は州政府にデユーモン耕地の日本移民を全部転耕せしむべく引揚げの交渉を開始したが総務官長レフエーブレ氏は前例なきとて却々(なかなか)許可せぬ十数回種々の理由を陳述して迫まつたけれども政府は頑として容れぬのであつた、三浦氏は多年外人に接触しゐてよく呼吸を呑み込んでゐた、頑固一天張のレフエーブレも遂に三浦氏に負け「英国人の会社」で脆くも旗を巻きて移民全部引揚を承諾し土地労働局長フエラス氏をデユーモン耕地に急行せしめた、万歳フエラス氏の処置又巧妙にして首を縊ると泣いた移民は借金全部を耕地の損失となし移民は一文をも支払はずして引揚げ来て再び収容所に収容されたのであつた。

 転耕を哀願して漸く容れられサンパウロへ逆戻りしたデユーモン耕地の移民は三々伍々に分れて再び耕地に這入つたが中には耕地行を拒み弁天小僧を発揮したる者も可なりあつた、此等の我儘なる移民に自由行動を取らしめた家庭奉公に住み込む若者もあれば市中に留まりて野菜園を経営しかけた者もあり、又熊本県人四家族は子供と荷物とを天秤棒にかけ飲まず食はず徒歩にて三十日以上を費やしリオ市へ赴いた。

 これにてデユーモン耕地問題は落着したのである。

(以下 略)