香山六郎の回想

Reminiscências de Rokurō Kōyama

Reminiscences of Rokuro Koyama

香山六郎(1886-1976)は、熊本市生まれ、自由移民として笠戸丸でブラジルに渡る、第2回移民が入り紛擾が発生していたジャタイ耕地の耕地通訳を大野基尚の後任としてつとめる、マット・グロッソ州での鉄道工夫、第3回移民サンタ・オリンピア耕地通訳、モンソン植民地入植、大阪朝日新聞ブラジル通信員、1918年(大正7)イタコロミー植民地建設に参画、1921年(大正10)内陸部でのバウルー(後、サンパウロ市に移転)で『聖州新報』を発行する。編著書に『移民四十年史』サンパウロ 1949 がある。

 8 到着

目 次

サントス港

 大西洋を西へ南へと航海続けて、六月十六日の午後、
「南米の山々がみえるぞ」
という声がとんだ。移民代理人上塚氏は事務長からの指令をうけた。
「十八日の朝、サントス港に入港するから、移民の手荷物、下船準備を整えなさい」
と。

 船の右舷によって海の彼方に山らしきものの姿を追っていた移民達のだれ切った血が燃えだした。船酔いで青白い顔の男も女も蘇生した。船室では散らばった各々の荷物整理でごった返した。港町で買い込んだ鍋や包丁がみつからないとさわぐもの、櫛や鏡を探し廻るもの等がひんぴんと現われた。特三では紛失物はなかった。

 アルゼンチン行きで同地に雑貨店を開くという安田さんと二青年も、モンテビデオ行きのこれも雑貨店をやる瀧波さんも、笠戸丸が南航しないというので、サントスで下船し便船を待つことになった。彼等は再渡航者だった。瀧波さんは私を「女たらしの不良青年」と面罵したことがあった。安田氏はその時、私の顔をみてほほえんだ。その眼には慈愛がこもっていた。私は黙った。その夜はごたごたしていたばかりでなく、恋の濡衣に対する心の闘争もあって安眠できなかったが、骨を埋める大地で男らしくたたかうんだと、自分のかげの声がはげましてくれた。ふと眼ざめたら、矢崎、高桑、西氏等の他はもう起きていた。甲板からもれて来る光はたしか夜明けの明るさだった。上って見ると、船は水平線に黒く一線を画す南米大陸に直航していた。甲板には人影もまばらだった。あれが私の墳墓の山々だ。

 サントス港外に笠戸丸がそのエンジンの響きをとめたのはその日の午前十時頃だった。そこに港らしい姿はなく、黒ずんだ緑の樹木に蔽われた低い小山がみえていた。期待した椰子樹らしいものもない海岸の一角に白色の灯台が一基たっていた。船がどこをどう通って入港の運びになるのか皆目わからなかった。初めての航海で、船長と一等運転士が海図の上でだけ知っていたことかも知れない。シンガポールやケープタウンで港外から眺められた港の賑やかな風景をここにも予想していた移民達にとって、船舶一つ見当らない風景は、サントスの第一印象を淋しいものにした。

 船中の午飯がすんだ頃、再び笠度丸の機関が響き始め、船は灯台をめあてに進みだし、乗船者一同活気づいた。灯台の前を通りすぎ、狭い峡の入口で潮は濁りだし、二マイルも行った処に大きな沼のごとき港の眺望が展開した。短い埠頭に小型汽船が二、三隻停泊し、左側にその市街がひろがっていた。私達は朗らかになった。

 笠戸丸は港の沖に一先ず停泊し、港務局の検閲があった。型のごとく両舷に整列した移民の健康状態が調べられたが、それはトラホームの検査もなく至極寛大で、日章旗をかかげた第一回の家族移民、この遠来の労働者は迎えられた。「よし、働くぞ」、「金をもうけるぞ」と意気揚々の移民の上陸は、その日の夕刻になっても何等の通告もなく、赤い夕陽も彼方に聳える重畳の峰に入って、沼港の水は濁った。港街の電気が夜の暗さに輝きだし、小高い丘の上の灯光は闇の海を幾夜も航して来た旅の移民の心をあたためた。

 夜の九時頃、一艇のランチが舷側についた。水野社長、上塚代理人の待ちに待った移民の草分け鈴木貞次郎氏の一行であった。鈴木氏の一行は四人で、中三人が日本人だった。でっぷり肥えたちょび髯の大男、一見して外人かと思ったのが駐伯日本公使館の一等通訳官三浦荒次郎氏で、黒人と間違えられそうに色の赤黒い眼のぎょろっとして肉のしまったぶっきらぼうのこれも大男が、移民の草分け鈴木貞次郎氏だった。デッキで高桑君と手を握って、「ずうぶん待ったよ」と話していた。出歯で小柄でにこにこした青年が、サンパウロ市の日本雑貨店藤崎商店の副支配人後藤武夫氏で、にこにこした肥満の伯人は皇国植民会社事務代理人モンテイロ氏だった。彼等四人の姿を甲板上に迎えた移民の心は明るく力強いものだった。何か事件があれば吾等の公使官の官員さんがいるのだ、これで安心だとささやき合う移民さんもいた。この人々を迎えて船のサロンで立ち話していた水野さんのその夜のほがらかなえびす顔は今でも私の頭にやきつけられて消えない。

 サントス港の初夜は更け、四人の客も船に泊った。船尾の甲板によって私はブラジルでのこの最初の夜の空を仰いだ。今にも降りかかりそうな満天の星空だった。私は母を亡したある夜、姉に背負われて家の門前で仰いだ星空を想いだした。あの時姉は星の一つを指さして、
「あれがお母さんだよ」
と教えてくれた。
「お母さん、私は今ブラジルに来ているのですよ」
と星空に告げ、亡き姉をも想いだしていた。日本クソ喰え!と出て来た私の、ブラジル初夜の郷愁だった。笠戸丸とも今夜でお別れだと、星明りに静かな船の姿を見まわした。二本の帆柱、黒い大きな一つの煙突が黙々としていた。

 

上陸

 翌日サントス埠頭に着いた笠戸丸の舷側に、朝の九時頃から空の列車が我々を待機していた。移民は荷物をさげたりかついだりして船を降りた。別れを惜しむ船員が小さい子供の手をひいたり、抱いたりして手伝った。無事をお互いに涙声で叫び合うのもいた。移民の手には小さな紙のブラジル国旗が持たされた。汽車の窓から吾々はうつろになった笠戸丸や船員達に別れをおしんだ。母国のすべてと別れる瞬間、埠頭に哀愁が流れた。

 六月十八日の朝、空は雲一つなく晴れ上っていた。汽車は十時頃港を出た。私は上塚さんの鞄もちで、高桑君、鈴木移民草分けのグループに加わって席をとっていた。汽車は沼地の岸をゆるゆる走り、やがてバナナ畑が展開し、一駅に停車した。クバトンだったそうな。これから山を登るのに移民列車は六台ずつの二部に分けられ、アプト式索引線に結びつけられ、急坂を徐々に登るのだそうな。駅の彼方は山また山が自然林に蔽われて、屹立していた。あの嶺の彼方の高原にサンパウロ市があるんだよ、と移民草分けは説明してくれた。

 前列の列車が発ってから二十分間もしてから、後列の私達が登り始めた。一望十万株もありそうなバナナ畑が深谷の底に沈み、峨々たる山肌の車窓に白布のごとき瀧が現われたり、処々 に流水溝に見えるかと思うと、紫絹と白の花を一杯につけた木が山峡のあちらこちらにみえて移民の眼をよろこばせた。旅愁をよろこばせるそんな外の景色にみとれている私達に、「君、ブラジルにはブーグレと呼ぶ土人がいるのだ。それが日本人によう似た鼻の低い容貌をしているのだ」
と鈴木氏が話してくれた。私はその話に気をとられた。どんなに似ているのだろうか。早くその土人をみたいものだと気がせいた。
「その土人の言葉も日本語に似てるんですか」
と私は鈴木氏にきいたが、彼は私をさげすんだようにふりみて一言も答えなかった。私は淋しかったので窓外に眼を転じた。そこに裸の土人の姿を、山蔭に谷蔭にみているような幻を描いていた。私は日本人によう似た土人の喋る言葉をこのブラジルでの私の生涯の研究にしたいものだと思い、してやろう、と決心もした。ブラジル上陸第一の私の誓い、希望がこれであった。

 急坂を登りつめて山頂に達した汽車はパラナピアカーバ駅に停った。壁に書きだされたその駅名の意味を私は知りたかったが鈴木さんの姿は近くになかった。いてもきく勇気がなかったかも知れない。そこで前列車後列車は連結され、それから広野を急速度に走った。大分乗ってから右側の窓に、丘の上に立つ立派な宮殿が現われた。鈴木氏が上塚氏に、「あれが君、イピランガの宮殿だよ。あの丘の上でブラジルがポルトガルより独立すると宣言の叫びをあげたんだそうだよ」
と説明した。私達移民もそれをきいて、さすがに移民の草分け、いろいろのことを知っていると感心した。

 移民列車はサンパウロ市の入口らしい処の駅にとまり、私達はみんな手荷物を持ってぞろぞろ下車した。私は自分の荷物と上塚さんの鞄を大切に持って降りた。上塚氏と鈴木氏は出迎えの移民局・植民局の役人たちに挨拶のために先に下車し、私は移民が降り切ってから忘れ物がないかと客車をみて廻った。上塚氏に頼まれた仕事だった。出迎えに日本人の顔も三つ四つみえた。移民通訳達だろうと想像した。

 正午、十二時十分前だった。そこに移民収容所があった。私がその食堂らしき広間のボンボン時計を窓によってみた時の時間であった。移民の大方はもうそこに手荷物をおいてくつろいでいた。鈴木さんが廊下の方から私の傍に来て、つっけんどんに、
「君は移民名簿を持っているそうだが、渡し給え」
といった。私は、「これが上塚さんの鞄です」
と黒い鞄を差し出すと、彼はそれを受けとるや、
「こんな鞄、君が持つものでないよ」
と捨台詞してさっさと行ってしまった。私はその時むっとした。
「上塚さんに頼まれて待っていたのが、いけないんですか」
と喉まで出かかった言葉を呑みこんで、
「移民の草分けだといって威張りなさるな」
と思った。

 五人通訳の中で最も体格の立派な金縁眼鏡の黒服を着て手に山高帽を持った人は、柱にもたれてにこにこしていた。この人が大野基尚氏で杉子さんの夫君だった。一番小柄で固い線の顔をした人、縞の洋服に赤いネクタイをきちんと結び、むぎわらのカンカン帽を頭の横ちょにかぶって肩をいからし、両腕をすくめて偉そうに歩く男この人が加藤順之助氏だった。仁平通訳が、むぎわら力ンカン帽子をななめにかぶり、普通の体格で色が白く肩をいからした縞服を着、平たい面にちよび髯を生やし、眼の涼しい人であることを知った時、何故かほっとした。でぶちんでちょび髯を生やし、血色のいい顔をにこにこに下り眉毛の中背の男が平野通訳だった。髪の薄い、眼鏡でちょび髯、色の白い男、すべて小造りで、話す時口をもぐもぐさせていた人が嶺通訳だった。彼等はあるいは食堂の柱により、あるいは廊下を歩いたりして、移民の到着に安堵の色をみせ、悠々たる態度をみせていた。

 

移民収容所

 一人鈴木氏が書類を手に事務室に入ったり出たりして、いかにも忙しそうにみえた。色のどす黒い彼はよごれているようにもみえた。鈴木さんや通訳さん達にいわれて移民は二階のめいめい指命された寝室へ荷物を運んだ。それがすむと鐘がカランカラン鳴った。皆なんのことかわからずにいたが食事の合図だったのだ。

 二階寝室の側に水洗式便所が四つばかりあった。用を足した女も男も、水を流すことを知らなかった。食堂は広かった。幅一メートル、長さ半メートル位の食卓にベンチが四つ行儀よく間隔をおいて三十余台も並んでいた。厨房は食堂と物置台をへだてた食堂のすみの室にあった。丸いくどの上に大きな銅の鍋が四つばかりかかっていた。カードを持っていくと番人が人数を読み上げ、その声でさじと皿が渡され、皿にはすぐ右から左から食物が盛られ、家族めいめい食卓について喰った。午後二時だった。

 ブラジル最初の食事はたのしかった。あぶら粥みたいなものの中に、乾鱈の親指大、小指大が二つ三つジャガイモの丸いのや切ったのが煮込んであった。お腹が空いていたのか、みんなよろこんで食べ、お代りして番人をうれしがらせた人もいた。鈴木さんの話では、日本移民だから牛肉より魚肉のほうがよかろうと移民局の方で気づかって大いに御馳走したのだそうだが、うまくはあったが、ごちそうだとは思えなかった。

 午飯がすんで移民はぞろぞろ階上に上り、ホッと一息ついているとやがてまた鐘が鳴りだした。みんななんだろうといぶかっていると通訳さんが「カフェ呑みに降りて来なさい」と知らせに来た。二階の移民はまたぞろぞろ食堂に集った。さっきの半分のパンの一切れと、皿七合ばかりのカフェーが食卓の一人一人に渡された。それをさじですすりながら男も女もみんな顔をしかめていた。ブラジルのカフェーってなんて苦いものだろう。「こぎゃん苦かもんば呑まにやならんな、おどまいや」
と熊本のおばさん移民は悲鳴をあげていた。
「苦かばってん、今に慣れたら、うもうなろたい」
と老年家長連はいっていた。あちこちでささやき合いがあり、異国人の郷愁が食堂にただよった。日本移民はブラジルのカフェの苦き洗礼をうけたのだった。収容所のカフェはブラジル人の常用するカフェーでなく、今から思うと、うすいうすいカフェーであった。日本で二、三回のんだ経験のあった私も苦く感じた。それでもうまかった。

 自由移民の私共には食堂裏に建つ別棟の二階大広間、収容所の病室が寝室として提供された。片岡・鞍谷の二家族、高桑、矢崎、私が一人ずつ各一つの寝台を与えられた。その夜初めて一人寝の寝台にねた私達の中、高桑君と鞍谷家族の飯田青年がねぼけて床の板張りにどすんと音たてて落ちた。翌日からそれが笑話となり、思い出ともなった。

 病室には病人の姿もなく、私共のついた二、三日間は他の外国移民の影もなかった。サンパウロ市の初夜にはまだ船酔い気分のさめない者が多かった。夜空にはそこここに火風船が上り、ボンボン花火の打ち上げられるのもきいたが、花火の姿はどこにも見当らなかった。何かの祭日ででもあろうか。或いは吾々日本移民を祝福しているのかも知れんが、といい気になっている話も出た。

 二日目の思い出として、二階の便所騒動がある。初めてみんなが経験する水洗式便所で、一人の女性が用を足す間に横に垂れたつなを引いたので、鉢の中に水が瀧のように流れはじめ、びっくりした女が狂声を発して便所を飛びだした。こうしたことが次々に起った。女ばかりでなく、大の男も逃げだして来る始末だった。綱の引き様が悪かったのか、水の流れが止らず、通訳さんに訴えて出た。やがて入道のような黒人掃除夫がその流れをとめに来た。女子供は偉大な怪物のごときものが箒をもって傍を通ると、奇声をあげてとびさがるような臆病振りを演じていた。私も黒人におびえた女性に一、二回抱きつかれた想い出がある。

 二日目の夜私は高桑氏と二人で鈴木氏に挨拶に行った。収容所内の寝室に彼はピジャマ姿で横たわったなり起きもしないで私達を迎えた。高桑氏は水野社長の花火屋一行と片岡一家の一人になって一先ずリオ首都に行き、後、マカエの水野植民地に入植することになりそうだ、と自分の身のふり方を又従兄の鈴木氏に語った。鈴木氏は黙ってきくだけだった。何かいい仕事があったらと高桑君が水をむけたら、氏は、
「君等にやなんにもできゃせんよ」
と答えただけだった。私は上塚さんが会社の事務所をサンパウロ市に設置するので、そこの小使い兼書記をすることになっていたが、鈴木氏にはそのことを話さなかった。鈴木さんに私は親しみにくい自分を感じていたからであった。高桑氏と私は淋しいものを味わいながら移民草分けの室を出た。

 移民の荷物が収容所に届いたのは五日目だった。家族移民であったせいか、多い家族で十四、五個から二十個、少ない方でも六個はあった。綿入りの敷布団・掛布団の大きさだけでも家族あて大きなものとなった。それに鍋釜から茶碗皿類・衣類を入れると大した嵩になった。うるし塗りのお椀や絹織物の衣類には税関吏も眼をみはり、主席のもとへみせに行ったりもした。女物の帯、腰巻きなど一つ一つ拡げて眼を通していたが、舞伎姿の染めこまれたハンカチ等は税吏のポケットにチョイと入れられたりした。言葉も通じないかなしさに、移民はただだまって見ている他なかった。東京移民茨木さんの蚕棚の説明に通訳連は苦労していた。納得しないような表情のまま、税金もとられずに通関したが、自由移民鞍谷一家の二十余個の荷物も、商品らしい品もその中に見うけられたが、自由移民というせいか無税通関した。別室の卓上に眼もさめるような絹物類を展げて、税関吏の主席、水野社長、鈴木氏が相談している風だった。絹物は皇国植民会社より州高官当局への贈呈品だったのだ。

 鈴木氏の話では、南欧移民はほとんど着のみ着のままだから荷物らしい荷物ももたず、従って税関吏の出張検税もほとんど不必要なのだが、今度の日本移民は貧乏人どころかフアゼンデイロ[注 大農場主]連よりいいものをもっている、それにみな清潔だとよろこばれている、とのことだった。移民の中には布のちゃんとした日の丸旗をもっているものもあって税関吏をびっくりさせたりした。日露戦役終結三年目の頃で、民族意識の強い移民だった。高知県の長野歩兵曹長などは汽車を降りる時胸に勲章をかざっていた程だった。

 

預金問題

 移民収容所の建物、左側奥に郵便支局と両替屋があった。日本行き手紙は一通十グラム迄が五百レースだった。日本金一円につき一ミル六百レースくれた。移民の中には現金の携帯者はあまりなかった。神戸出港の際、粉失のおそれがあるからと移民会社に預金するよう勧められたのだった。会社の方ではそれをサンパウロ州に着いたら収容所で払い戻すことを約していた。その宣伝に乗って移民は移民会社に大部分の携帯金を預金していたので、収容所内の両替屋は閑散だった。

 預金者は上塚代理人にその払い戻しを請求しだした。彼は最初のうち水野社長に相談しておくと返答していたが、水野社長は東京の本社からの送金がおくれていたので、そのべんかいに困っていた。この預金は移民のカフェ耕地配耕の日までとどかなかった。沖縄移民代表城間氏はたまりかねて、水野氏の出勤を待ちかね、彼の襟がみを掴んだ事件があった。水野社長が城間氏を突きとばして事務所にかけこみ、その後で上塚氏が城間氏をなだめに出た時、城間氏は首うなだれて黙々と自室に去っていた。上塚氏は彼の後を追って、東京本社から金が到着するまで待ってくれと懇願したのだった。)移民と移民会社の紛争はこれがブラジルにおいての初めてのものだった。この預金が到着したのは六、七ヵ月後であった。この金は、移民が神戸出港と定ってから外務省の方から突如移民会社の方に十万円の積立金を命じたのに対し、会社の方ではそんな金はなし、急場の一策として移民の携帯金を会社に預金させ、それを一時横流ししたのだった。十万円をそれも皇国植民の重役格であった政友会の代議士兵庫県出身の土井権太氏と熊本政友会代議江藤新平氏の交渉で八万円にまけてもらい、一先ず移民は出発の運びとなり、会社の留守役が五十日の期間にその預金を調達することになっていたのが、計画意の如くならずだったのだ。当時の外務省移民課長は石井菊次郎氏で、水野社長はずっと後に私にこの裏話をしてくれた時、この移民課長を物のわかった人だとほめていた。私共の旅券には外務大臣の林薫の印がおされてあった。移民を搾るのは移民会社、移民会社を搾るのは外務省だったのだ。

 

南欧移民

 日本移民が二、三日後に到着するというのでサンパウロ移植民局は先着の若干の南欧移民家族をあたふたとカフェ耕地に契約させて送りだしたので、私達が収容所についた時は他に外国移民の姿はみえなかった。それから三、四日して私達は同じ収容所の廊下に、疲労しきって、よごれ果て、気力もつき果てた姿で寝そべっている異人年増人妻や娘や男が眼についた。泥ねずみのごとく手足も顔もよごれ果て、衣服もやぶれて見るも哀れな有様だった。日本移民は異人の同じ移民家族の悲惨な様相に胸をつかれ、めいめいの前途に横たわる運命に不安を感じだした。通訳さんの話では、彼等は南欧移民で配耕先のファゼンダ[注 大農場]の労働に堪えかねて収容所に引き上げて来ていたのだった。コーヒー園の仕事がそんなにも辛く、よごれるものかと移民の心はちょっと曇った。垢だらけで疲れ果てた南欧移民の女性だったが、日本女性と異った整った顔だち、輪かくの美しさにアジアから来た青年たちは魅力を感じた。

 

習慣の相違

 収容所生活のある日、私共自由移民の寝室に鈴木さんが一包みのものを持って来て皆の前に開いた。それは色とりどりのブラジルの餅菓子だった。
「これはブラジルの餅菓子だ。みんなで食ってみ給え。日本の餅菓子とアズがつごうよ、君。これが一つずっせんするんだよ、ずっ銭」
と念をおしてすすめると出て行った。片岡さんが頭数に平均して分配し、一人に三つ半あたった。私共は鈴木さんの好意を感謝しながら、その菓子を子供のように惜しみおしみたのしみながら食べた。
「たしかに日本の餅菓子とアズがつごう。異人菓子だ。一つずっ銭するよ、ずっ銭」
と高桑君が鈴木さんの真似して、山形丸出しの方言を使ってみんなを笑わせたりした。

 移民の荷物も到着し、税関の仕事もすんで、移民局では旅券と対照に移民の家族調べを収容所の広間でやりだした。収容所側の役員の席に鈴木氏が加わり、皇国植民会社側に上塚代理人と仁平通訳、加藤通訳、傍聴席に三浦荒次郎通訳官が腰を下した。家族員の一人一人の訊問、血縁関係、職業について調べられた。みんな職業は農業と答えるべく注意をうけていた。家族関係の面に養子養女の多いのが移民局側に不安と不信の色をただよわせた。この家族関係の説明に鈴木さんや通訳さんでは語学力不充分で、三浦通訳官の助言や弁舌があって家族構成の事情が詳細に説明しつくされたのだった。

 この家族調べの後、カフェ耕地労働契約書に各家長の署名がなされた。その時移民局員も植民局員も、日本人の中には仏教徒しかいなかったのに、みな字が書けて読めるものばかり、文盲がいないことを驚いていた。日本人を教養ある文化人だとみとめたのだった。熊本移民や沖縄移民の中には字の書けない人も二、三いたが、南欧移民の文盲の数はそれに比して多大だった。呼び出しの際、沖縄移民の姓名が金城と書いてキンジョウであったりカナグスクであったりして彼等本人達を面喰わせた。

 この移民の家族調べに当って三浦通訳官がいなかったら、今後の日本移民渡伯につまずきがあったのではなかろうかと思われた程、移民局・植民局員の感情はたかぶっていた。

 サンパウロ市は六月下旬で冬の最中であったが、吾々にとっては秋の初めのような感じしかなかった。収容所で日本移民のため特に熱い湯の入浴が供せられた。二人位入れる湯槽が六つばかり据えてある浴場に、女性から先に入れてもらった。鉄管のねじを廻せば直接湯が湯槽に流れ出るしくみになっていたが、大部分のものはそのねじを廻すことすら知らなかったので一々通訳が説明し、演じてみせたりした。最初に入った十人ばかりが入浴後、真裸のまま廊下で体をふきだしたので収容所の所員や傭員がおどろいて、通訳さん達に注意した。彼等は現場に飛び、真裸の人々を浴室に押しこんで説諭したが、後から入る者も後から後から裸体を廊下にさらけだすので、番人が一人ついて注意することになった。男性の方は入浴前に一様に注意をうけたのでそんなこともなかったが、それでも中にはつむじ曲りの中年男がわざわざ廊下に偉そうにその裸体をみせに出たものだった。

 通訳さんは階段を上る女性の作法なども教えなければならない忙しさだった。収容所の廊下ですれちがう外人の役人等に対して彼女達が日本式にていねいに頭を下げたりすることも、習慣の相異で不必要であることを説かなければならなかった。彼等は、「外国では、女は男の前で威張っていていいんだよ」とよくいっていた。かなしくうるわしい日本の女性の習慣を破るのに気をもんだりした。

 三日四日経ち、一週間と経つうちに、日本移民の若人たちは収容所の所員傭員、門番などとも顔なじみになり、両方からわからぬ言葉ながらも、手真似身振りでしゃべり合うようになった。ある日、移民のおてんば娘が所長の謹厳な顔にほほえみかけて「ボン・ジア」と挨拶したまではよかったが、その後中の一人が自分の鼻を人差し指でおさえて「カラーリョ」と叫び、他の一人が自分の口を指差して「ブセタ」と叫んだ。鼻と口をめいめいポルトガル語(以下ポ語と略す)で言ったつもりでいたのに、所長は顔を赤らめて、急いで室内に消えたそうだ。その後鈴木氏は所長の叱責にあい、所員一同も会議室に召集されて、「無邪気な日本娘にこうした下品なブラジル語を教えた不埒なものに対して私は所長の権限をもってその所員を直ちに解雇する」
と叱ったそうだ。鈴木氏はそれを知らなかったというが、後に収容所掃除夫の大なる黒人がその先生であったとわかったそうだ。

 

外出

 自由移民の仕事口は植民局に頼めばさがしてくれるが、なるべく移民自身の勝手な行動にまかせて、何等の契約もなされなかった。一日でも早く収容所を出てくれればいいのだった。別に急きたてるようなこともしなかったし、また干渉もしない態度を移民局ではとった。吾々の仲間では片岡氏一家に高桑治平氏が加わって、水野社長と首都リオに向ったのは他の移民配耕前だった。鞍谷伴三郎一家は鈴木氏苦行のコーヒー耕地のあるチビリサ駅へ農業者として出発した。彼の父親はサンパウロ市に一人とどまって蔬菜園を経営すると息子家族から別れた。伴三郎氏は僕に、一緒に田舎に行ったら僕の妻を共同の妻にしてもいいと変なことをいってさそった。父親とは日本から別居していて気が合わないんだ、と淋しそうにしていた。私は収容所で別れたきり、片岡夫妻とも鞍谷夫妻とも再会することがなかった。

 移民の配耕・出発前に笠戸丸通訳金沢一郎氏が二、三の船員と共に、脱船した船員二、三人をさがしに収容所に来た。金沢氏はスペイン語で所長に収容所にかくれていると推定されたそれ等の船員の引渡しを請われたが、意味が通じず、鈴木氏が中に入ってことが判然し、金沢氏一行は収容所内を検めたが、その労も空しく帰船した、脱船員の一人は大工の八木であると知れたが、他の二人はききもらした。その後も彼等の行方はわからなかった。

 日本移民が収容所に着いてから毎日のようにブラジル人のコーヒー耕主、新聞記者、農務大臣、州統領に至るまでが日本移民を見物に来て、手真似、身振りの会話風景が収容所の廊下などでくりひろげられるのだった。夫君に腕をとられ、花飾りの帽子にヴエールをつけ、手袋をはめ、長い着物の裾を地にひいてしゃなりしゃなりとほほえみながら通る金髪で眼の碧い婦人も二、三姿をみせた。移民達はやれ鼻が高すぎるだの、髪が赤すぎるだのとささやき合った。結局、器量はいいが俺共には似合わん女ばいに落ちつくのだった。女達も、苦いコーヒーをのむので髪の色や眼の色があんなに変るのだといったり、苦いコーヒーには滋養分が多いからだと、ふざけた説明をして気をまぎらわすのだった。それにつけても、にわとりも犬も日本のと変らぬ鳴き方をするのに、何故人間の言葉だけがこんなにも違うのかと不思議がられたものだった。

 移民の荷物も無事に税関を無税で通り、コーヒー耕地への配分、二年間労働契約も署名ずみとなり、日本からの垢もサンパウロ市の水道水で流され、五十二日の長航路、船酔い気分も鎮まり、後は配耕地への出発を待つばかりとなって、移民達は都会見物買物等の外出を許された。朝のカフェーが済むと家族連れでめいめい出掛けた。何等ポ語がわからず、迷子になったり、喧嘩が起きては困るという懸念から、各グループにそれとなく通訳がついて行った。

 私は三、四日前から北米から来ていた自由移民のヤンキー青年と仲よしになっていたので、彼とつれだって行った。私の英語はブロークンであったが、この放浪青年と意気相通じるものがあったのだろう。収容所の門を出て鉄道踏切りを渡り、線路に添う路を右に曲り大通りに出た。今の大通りアヴェニーダ・ランジエル・ペスターナで、榊のような細そりした街路樹が道の両側に植っていた。サンパウロ市の中心地は丘の上にあるのだときいていたので、西の丘へと街上を闊歩して行った。道巾が広々としているので、かなり人が歩いていたがこんざつするようなこともなかった。行き会う男のどの人もが高い太い鼻の下に口髯を生やしていて異国情緒を感じさせた。牛車にもはじめてお眼にかかった。角の太い牛に曳かれていた。馬車を禦す男も口髯を生やしていて不思議だった。

 私はこの時、街路樹の蔭に立って丘の彼方の空を呆けたように眺めている日本女性の姿をみて、はっとした。津邦子さんだったのだ。気の抜けたような彼女の表情に会って私は声をかけようかかけまいかと迷ったが、だまって彼女の前を通りすぎた。彼女が後で私の姿に気づいたかどうか知らない。私の動悸はいつまでも静まらなかった。

 ブラス区の下町と上町をつなぐ幹線道路は角石で敷きつめて電車の軌道もある坂道だったが、その両側には草原と水の流れる湿地が長く展開していた。その坂道を登りつめた左側にかなり大きなカルモ寺院があった。突当りにはヴエランダのついた古い二階建ての人家があり、溝のごとき坂下道を経た左側にこれも古くきたない平屋の人家が軒を並べていた。その坂道は電車がやっと一台通る程の狭いものだった。坂上へと右に左に曲って上ると、そこに二百メートル四方位の広場が開け、古い寺院がここにも建っていた。その屋根の上に大きなボンボン時計がかけてあり、その端の方に一抱えもない寺鐘があった。広場には灰色に白文字で Largo da Seと書いた札がかかっていた。広場に面して三階建ての高層建物が二棟か三棟建っていた。当時のサンパウロ市ではこれが最高のものだった。

 私とヤンキー青年は今のキンゼ・デ・ノヴエンブロ街からサン・べント広場に出て、廻れ右して収容所に帰った。みちみちヤンキーはもうサンパウロ市にも愛憎がつきた、自分はやはり北米へ帰ると悄気込んでいた。私はここで働くよりほかないといって悄気てもいなかった。移民収容所で会って別れたなり、この青年とは再会していない。灰色のごとき白壁、高い処に三つ四つの切り窓、入口から奥の方をのぞくと、ろうそくを灯した闇のようなセエ寺院には牢獄のような感じを受けた。現在のそれの十分の一もないちゃちなものだった。

 熊本の再渡航組は、熟したバナナの房を二つも三つも買って帰って、仲間でたらふく食っていた。大きな円形の一抱えもありそうなパンを買って家族中で食っている組もあった。移民にとってはパンが珍しくおいしく、収容所で出されるパンもそれだけはいつも不足していた位だった。連中は、
「生れてはじめてパンを腹一杯喰った。砂糖をつけたら、もっと美味いだろうが、ブラジル語で砂糖はどういえばいいのかわからぬので買えなかった」
とこぼしていた。大きな蜜柑を買った夫婦もいた。妻君は大きなお腹をしていた。

 嶺通訳のついて行った沖縄移民組は、ブラス駅附近で物見高い群衆に囲まれて一時はどうなることかとハラハラさせたそうだ。
「こんな矮少な体格のジャポンが、あの体の大きいロシア人を戦争で負かすなんて、信じられぬ」
とか、鉄砲をうつ真似をして、
「ジャポン、ガンヤ、ルッソ、ボンボン」
とほめたたえたり、自分の鼻をおさえてみんなの前にみせつけては、
「ジャポン・ノン・テン」
と嘲弄する男もあり、嶺氏は、みんなを先に進ませようとしても、群集は囲いをといてくれず、喧嘩でもはじめねばいいがと気が気じゃなく困ったそうだ。彼は帰って来て上塚代理人に、もう移民は外出させない方がいいといっていた。ある夫婦者は坂下の朝のフエイラ[注 市場]をみた。日本ではみたこともない朝の大きな市場で、果物が山と積まれてあり、妊娠していた妻君は蜜柑がほしくてたまらず、夫に買ってもらって、市場の横の壁の方にしゃがんで食っていたら、異人女がやって来て、
「スイカ、スイカ」
とまた蜜柑を二つくれた。
「ほんとに外国でも渡る世間に鬼はない、といいますが」
と親切な異人女に感謝していた。スイカ、スイカときこえたのは、
「シュパ(吸いなさい)」の聞きちがいだったんだろう。
「外国の市街はいいね。気に入ったよ。人道と車道がはっきりして、ほこりが立たず、並木が植っていて」
とよろこんでいたのは高桑君だった。
「日本にも東京大阪にあるそうだが、わしやブラジルに来て、電車ちゅうものを初めてみただ」
と珍しがっていたのは福島移民佐伯国次郎老人だった。
「ブラジルには立派な馬もいるが、ロバも多い処だ。それからブラジルの犬は尻尾を切られている。土佐ではあんな犬みたことがないな。ブラジル人は俺のように大低立派な髯をたたえている」
と得意がったのは土佐の予備砲兵曹長さんだった。外出にあたって彼は勲章をさげて出たがったが、通訳さんにとめられたと不平をもらしていた。ある家族三人連れはラルゴ・ダ・セエで一時間以上も群集に囲まれて立ちん坊したといっていた。その妻君は神戸港の外国品店で買った絹物の洋服を着て、髪を見事なひさしに結び、青いリボンをとめていたのだそうだ。その五才位の男の子は海軍水兵服を着ていて、帽子には横文字でKATORIと刺繍してあった。それ等のことが群集の感興をそそったものらしい。日露戦争の日本の大勝利のほとぼりがまださめないころだったのだ。この家族ものも坂下の市場をみて妻君はみかんがほしかったそうだが、買ってもらえなかったそうだ。彼女も妊婦であった。笠戸丸移民は家族移民だったので、こうした妊婦が後で調べたら鹿児島婦人に四人、熊本に四人、広島に二人、福島に一人、沖縄に五、六人あったと知れた。

 移民の外出をその後ゆるさなかったにもかかわらず、彼等は市内のことをよく知っていた。収容所の裏畑に牛がいるとか、前通りにパン屋もバナナ屋もあるとか、そんな町の知識がどんどんみんなの間に伝わった。移民の耕地出発前に私達は知ったのだが、収容所の病院別棟と傭人寝室建物の間に、奥の壁に添って一本の大きな樹が茂っていた。この木に登って塀に移り、移民の青年・家長連は夜市中見物に出かけていたのだ。私と上塚さんは、そのことをきいて現場に行ってみてその可能なことを知り、苦笑したまでだった。イタチやネズミのごとき日本移民だったのだ。

 

配耕

 収容所での一週間の休養で長旅の移民の健康も恢復し、その顔にほがらかな明るさもよみがえった。六月二十七日早朝、まだ真暗なうちに沖縄移民の二十四家族は嶺昌通訳に伴われてモジアナ線のカナーン・コーヒー耕地へ発って行った。同日午前十時頃に同じく沖縄移民の二十六家族が大野通訳につきそわれてパウリスタ線イッー駅のフロレスタ耕地へ出発した。

 その日の正午になって料理場の方から皿やさじが大分不足していると鈴木氏を通して上塚氏に抗議された。

 二十八日早朝、熊本、広島、福島、東京、新潟移民の五十家族は加藤順之助通訳の引率で、モジアナ線英人経営のヅーモンド・コーヒー耕地に出発した。出発に際して、私は上塚さんの命により彼等の荷物が門衛の手で検べられることを告げて廻った。皿やさじはみつからなかったが、彼らの発った後、塀の横にそれ等のものが少数たてかけてあったのがみつけだされた。

 グワタパラ耕地へは平野運平氏が、サン・マルチーニョ耕地へは移民の草分け鈴木卓次郎氏が鹿児島移民を二分して連れて行った。鹿児島移民の代表者西仁志氏はグワタパラへ、副代表原源之助氏はサン・マルチーニョへと入植した。後に残った愛媛と山口移民は七月六日朝、ソロカバーナ線サン・マノエル駅のソブラード耕地へ仁平高氏と出発した。私と船中で恋の浮名を立てたお津那さんも夫君と仲よく入耕したときいて、私はほっとした。

 

植民会社支店開業

 移民の配耕がすむと、私と上塚さんは移民会社の事務所を開くのに先ず貸間をさがすことにした。当時サンパウロ市に住んでいた日本人は藤崎商店の佐藤徳次・後藤武夫の両氏の他に、ロチセリ・ホテルの料理場下働きで、芋の皮むきなどをやっていた三、四人の独身壮年がいた。その中の鹿児島県人松下氏の世話で、当時のサンパウロ州議会の裏通り、ロドリゴ・シルバ街四十番地、ポルトガル人の家の表部屋を月二十ミルで借りることにした。私は植民局長に会って英語で収容所を出る手続きをたのんだ。彼はニコニコして、その許可をくれた。この局長とはその後も度々会って移民のことで世話になった。移民局長フラガ氏より親しみ深い、丸味のある小柄な五十代の紳士だった。

 収容所で思い出に残るのは現場監督のイルクラノさんで、彼は白人と南米土人の混血児のようだった。大きな体に赤黒い顔がいつもほほえんでいた。今一人は門衛のジョゼーさんで、彼も体が大きく、イタリヤ系らしく色が白く、にこやかな人だった。イルクラノさんもジョゼーさんも日本人に対する挨拶が似ていたので印象に残ったのだろう。移民の顔をみると二人とも笑いながら、鉄砲をうつ真似をして、「ジャポン・ガニョウ・ルッソ」というのだった。

 私が収容所を出た時、尚あとに残ったのが矢崎節夫氏と鞍谷誠一氏の二人だった。二人は約一ヵ月近くも収容所に構えたが、後、ブラスとモーカの境にあったサンパウロ競馬場の前の開墾地四反ばかりを借りて蔬菜畠を始めた。

 皇国植民会社のサンパウロ市事務所は五メートル四方位の部屋で、窓も一つしかなかった。そこに私は金網底の一人寝の寝台二つ、コルション附きで一台二十五ミル、十五ミルの小机一つ、アルコール七輪、エスマルタードの小鍋一つ、シャレイラ、皿三枚、サジ三本、コップ三つが購入され、私の信玄袋とズックの鞄が運び込まれて、私の自炊生活が始まった。お向いのアルマゼンから砂糖、米、塩、リングイサ、バタタ等も買われた。月給は上塚さんから五十ミル・レース(以下、ミルと略す)もらった。上塚さんはボア・ヴイスタ街のペンソン・ボアア・ヴイスタに落ちついた。フロントンの前の二階建てだった。この頃、白砂糖キロ五百レース、バナナ一ダース百レースで、銅貨二十レース(ヴインテン)や五十レースが流通していた。私は事務所に落ちつくと、配耕別の移民名簿作成をはじめた。漢字を念入りに書いてはいたが、書きなれていてもけして格好のいい字ではなかった。東京で中国留学生のノート清書を仕事としていたので、誤字やごまかしは書かない習慣がついていた。

 

笠戸丸以前の日本人

 事務所で働くようになってから、私は笠戸丸以前に渡伯した日本人とおいおい知り合った。事務所の五、六軒先きに部屋借りしていた一組に京都京極のサクラ風呂屋の息子三宅さん(三十四、五才)、小谷さん(四十才位)、陸軍予備中尉で、チリから南米南端へ徒歩旅行をやり、パタゴニア平野を通り、アルゼンチン国ブエノス・アイレス港より船でサントス港に上陸、在サンパウロ半年の遠藤さんは二十五、六才だった。松下さんはロンドン廻りで来伯し、藤崎商店の品物、特に玩具類の市内行商で生活していた。五十才位の頑丈そうな人だった。事務所開設十日後に「やあ」と現われたのが金縁眼鏡、口ひげをピンとひねり上げた明穂梅吉さんだった。イタリア系麦わら帽子製造工場に働らいていた鳥取県人だといった。上塚さんは丁度耕地巡視に出かけて留守だった。

 明穂さん達より先にロンドン廻りしてブラジルに来、サンパウロで煙草巻きの内職で生活していた、家族七人(娘四人息子一人)の隈部三郎さんは、熊本県人で熊本師範出身、私の本家豊喜叔父とは同期生であった。隈部さんは上京して判事となり、鹿児島市の判事に就任中、雄志を抱いて家族をあげて移住した人だった。私は豊喜叔父から彼あての紹介状を持参していたが、笠戸丸移民の着く一年も前に隈部一家はリオ郊外のマカエ植民地に行っていて会えなかった。隈部家のサンパウロでの煙草巻き生活はイルマン・シンプリシアーナ街であったそうだ。鈴木貞次郎さんは同家族を時々訪問して二十年の芳艶な二人の娘さんの姿に夢を送ってたのしかったと度々話していた。

 

市内就職者

 笠戸丸移民で職業移民として聖市(サンパウロ市)に就職したのは、鍛治工鹿児島県人池上仁次郎一家、同県大工職の鮫島直哉、山口県大工沖川祐吉、鹿児島県洋裁師原口貞蔵の四人で、この他、あるコーヒー耕主に懇望されて、家政婦とコッペイロに雇われて行った熊本県人の島村タジユ・七蔵姉弟があった。池上の息子も一人やはりコーヒー耕主のコッペイロとして傭われて行った。

 池上一家に独身の鮫島が加わって、グリセリオ街の平屋に間借りした。セメント張りの上に日本伝来の布団をしいて、部屋代月五ミルだったが、雨期に大雨でも降ると、低地ゆえ部屋は水びだしで夜も寝れないことがあった。あの界隈は当時一面の沼地だった。

 池上氏の日給は五ミル五百ときいた。鮫島が五ミルで、今の市立劇場の建築の木工部に働らいた。沖川が四ミル五百、原口が食事つきで四ミル、島村は姉が月給二十ミル、弟が十五ミルだった。ホテル・ロチセリの下働き連中は食事つきで日給二ミル級だったとか。コーヒー耕地の移民通訳は、水野社長とサンパウロ政府の契約条項で一律に規定され、月給二百ミル均一であった。上塚さんの月給が四百ミル、事務費が百ミルで、鈴木さんは収容所の書記に任命され、月給は他の通訳同様二百ミルであったときいた。

 収容所を出て、聖市郊外に近いイポドロモ前に借地料月十五ミルとかで日本種子の蔬菜園を創めた鞍谷誠一老と矢崎節夫とはその畠附近の一室をかりうけて生活を始めた。栽培生産物が上る迄は赤字を覚悟でやりだしたが、矢崎さんは栄養不良に陥り、植えた大根の青葉が生長しない前に鞍谷老と別れ、サンパウロ市の一耕主宅にコッペイロとなって行った。一人残った鞍谷老は鍬をふり、草をとり、播いた種子の成長をたのしみに頑張っていた。これが在伯邦人の蔬菜園の創めであった。鞍谷蔬菜園の運命は後に述べることにする。

 聖市の街から街へ肩でささえた棒の前後に屋台をつけて玩具売りをしていた松下氏は、何か食べ物で一儲けしてと計画して善哉売りをはじめた。藤崎商店で赤いお椀を五つ買い、小豆がないので、フェジョンを甘く煮て、麦粉をこねて作った小さな団子を浮かし、大鍋に入れ、屋台で街に出た。ジョン・メンデス広場からラルゴ・サンパウロ辺へ「ジャポン・ゼンザイ」と呼びかけて歩いた。伯人客が二、三ついたが、お椀についでさじをつけてさし出すと、どの人も一口二口食って、「カチンガ」といって最後まで食べてくれなかったそうだ。一椀一トストンで、彼はこの商売を二、三日も続けたろうか。ある日、モレケ(悪童)達が屋台に砂をぶっかけたので、にらみつけて追いかけたところ、他の者に屋台店を倒された。彼等はくもの児を散らしたように逃げだして、犯人はわからず、ぜんざいは路上に流れ、団子もそこここに散乱した。頑健でさむらいのような顔の松下さんもぺしょんとなった。「ブラジルの子供は日本の子供とちがい、油断なり申さん」と悲憤慷慨していた彼は、それきりこの商売をやめた。鹿児島弁でこの始末を語った彼の声が今でも私の耳によみがえってくる。

 

 

市内散策

 移民会社事務所開設して最初の日曜日であった。早朝、私は戸を叩かれて眼をさました。開けると藤崎商店員の後藤武夫氏がにやにやして立っていた。
「お早う」
とこちらから声をかけると、
「ボン・ジア」
と返礼されて私はちよっと面喰った。彼は、
「香山君、これからペーニャの丘へ散歩に出かけよう」
と私を誘った。私はうれしかった。キンゼ街の角のコーヒー店で後藤さんに教えられながら、メージアとポン・コン・マンテイガをおごってもらった。ラルゴ・テゾウロからペーニャ行きの電車に乗った。初めてみる聖市郊外への道々の様子は、私にはすべてがたのしく物珍らしかった。街はずれの野原に出てからも、終点の丘の上まで相当遠く、一時間以上もかかった。日本でならお城のような感じの建物が電車通りの処々にみえたが、それがカトリックの寺院であることを後藤さんによって知った。終点から左側のだらだら坂を下って、二人はそのあちらこちらに茶畑跡の点々とあるのをみて、ブラジルにも茶畑がと意外の感にうたれたりした。

 原を下って七、八十メートル位の濁った河の流れに出た。岸には六、七人の大人や子供が水にたわむれていた。私達は上衣をぬいで河岸の石に腰かけ汗をふいた。これがチエテ河だった。ブラジルで初めてみた河だった。私はその小幅の河に向っているうちに急に泳ぎたくなった。水泳には自信があった。日本では福岡の中津川、小倉の紫川、熊本では坪井川、白川、三大急流の一つ球摩川でも泳いだ河童だ。岸で遊ぶ連中に日本男子、私の泳ぎ振りを見せて自慢したい気も強かった。泳ぎには無関心な面持ちで休んでいる後藤君に「僕泳いでみますよ」と声をかけた。彼はびっくりしたらしかった。近くの藪蔭に入って、猿又一つの姿で河岸におりて行った私は、泳ぎの法則通り、顔を洗い、両耳につばつけて水中にとびこんだ。

 汗の体に上面の水は温るく、底の水は急流で切るように冷たくあたった。四、五メートル抜手を切ったが、ともすれば両足が流されそうになるので、油断ならんぞと焦燥感に襲われた。七、八十メートルの川巾を向岸に泳ぎついた時には相当疲れていた。浅瀬の石に腰かけたが、頭がふらふらするので草の上に仰臥した。つかれはすぐやんだが、あたたかい太陽の直射を身に浴びながら、足腰の冷えはなおらなかった。私は腹這ったり、寝返ったりして十分間程体を日光にあてて、戻りにかかった。帰りには急ピッチをやめて、なるだけ底流に足を沈めぬ様、浮泳ぎで岸についた。それにもかかわらず、水面と底流の温度の違いは私の神経を混乱させ、心臓の鼓動がはげしくなり、私は衣服をぬいだ藪の中に這いこむようにして仰臥した。終始私の泳ぎを心配したような、感心したようなにこにこ顔で見ていた後藤さんに、私はやっとふるえ声で、「ちょっと休みますよ」といったのも覚えている。かんかん照る陽に三十分もあたたまってから洋服を着た。今まで経験のなかった河水の姿に、私は自慢どころか、精一杯の泳ぎをしたのだった。ブラジルの河でこれが私の泳ぎはじめでもあり仕舞いでもあった。

 それから幾日とたたぬある夜、後藤さんはまた私を誘いに来て、ブラス区のコロンボ劇場にシネマ観に連れて行ってくれた。この頃の聖市には、グロリヤ街とガルヴオン・ブエノ街に天幕張りのシネマ館と、キンゼ街に小さなシネマ館がある位で、コロンボ劇場は天井も高く、広くて、当時の一流館だった。上塚さんがキンゼ街のシネマ館の前で、シネマ・クラブと横文字で書いてあるのを“セトモー・ガラス”といって後藤さんに笑われた頃でもあった。後藤さんと私の交友はこれから始まったのだった。彼は私より二つ若かったが、ブラジルへは二年近くも先に来ていた。

 日本移民がサンパウロ移民収容所に入ると間もなく、水野社長にうれしい事業の緒口が開けた。サンパウロ州政府がコーヒーを日本で宣伝するため、農務局が毎年向う五年間コーヒー三百俵を無償で水野氏に提供するから、水野氏は東京、大阪、神戸、京都の四都市にパウリスタ式コーヒー店を開設してその宣伝にあたることに契約成ったのだった。水野氏はすこぶるうれしそうにしていた。彼は子息の三原万次郎氏と共に伯国百年祭にリオ首都で日本の玉屋の優秀花火を打ち上げて、一儲けをも考えて来ていた。三原氏はそのことを私に語って、三千石にありついたようなうれしそうな顔をしていた。私も「それはいいなあー」といったが、私だったら尚いいんだがと思った。これが東京におけるカフェー・パウリスタの始めだったのだ。

 

 

不穏な諸耕地

 三浦荒次郎通訳官と上塚周平氏は移民の配耕先を一巡して帰って来た。事務所に空虚な顔で入って来るなり、上塚さんは私の挨拶にも無関心に、卓前の椅子によろよろと腰かけるとがっかりしたように頬杖ついてだまり込んだ。単なる旅の疲れにしては浮かない表情が淋しげに見えた。
「耕地の模様はどうでした?」
とたずねたら、彼は、
「移民はみんな騒いでいる」
と悲愴な顔で私をみた。その時の彼の表情が私の心にいまでもはっきりと浮んで来る。しばらくして彼は続けた。
「カフェーが実っておらんので、働いても金にならんのだ。一家族三人で一日一俵、まったく食って行けぬ状態だ。彼等の騒ぐのも無理ない」
彼はそれだけいうと、がっくりと椅子に背をもたせ、両腕をだらりと下げて虚脱したように物思いにふけった。私にはどうすることもできなかった。慰め様もなく、だまって彼をみていた。上塚さんはやがて体を起こすと、
「いよいよとなったら香山さん、ああたと二人で北米へでも落ちて行こうな。旅費位、私の英語の辞典を売りとばせば、なんとかなるけん、ああたも覚悟していて下はり」
 北米ロスアンゼルス市には彼の学友が四、五人いたので、ブラジルのように淋しくはないと彼は顔に少しの生気をとりもどしていった。私は、上塚さんが帰ったらいくらか金も請うてみようと思っていたのだが、彼の顔をみてはその話もいいだせずだまってしまった。

 四、五日経ったある日、ブラス駅の倉庫附近に四人の日本人が野宿しているという通知が藤崎商店を通じて入った。上塚さんは留守だったので、ともかくも彼等を事務所に連れて来ようと私一人でさがしに出た。白壁の倉庫のすこし引込んだ処に荷物を積みよせて、しよんぼりとしている青少年の姿がすぐに眼に入った。
「どうした」
と私は日本語で声をかけた。彼等は突然のことにおどろいたが、さびしいほほえみを浮べて立ち上った。私は四人を事務所に連れ帰り、その夜コーヒー園の話をきいた。四人は英人経営のヅーモント耕地に構成家族の一員として入植したが、その仕事に堪え得ず聖市に仕事を求めようと耕地遁走の先駆をやったのだった。

 翌朝、上塚さんになだめ、すかされ、説き伏せられて、四人はまたもとの耕地に帰って行った。私が駅までつれて行き、上塚さんの自腹を切った金で汽車の切符を買ってやって乗せてやった。だが不案内のため、ヅーモント耕地駅までの切符を買わずにリベロン・プレットまでのを買ったので、彼等は乗りかえなければならなかったそうだ。四人連れの御大が現在ノロエステ地方の御大と呼ばれている間崎三三一君であった。他の三名は大藤栄太郎、須山勘一、山野政一君で、山野君は十六才の少年、帰耕後、発熱して八月五日疫痢と診断されて死亡、第一回移民初めての死亡者となった。

 コーヒー耕地逃亡者はぞくぞくと出た。熊本移民の代表、大男の中村半次郎も彼によく似た実妹で構成家族に妻となって来た大女と、移民事務所で三、四日ごろごろしていたが、上塚代理人の不在の折「私達はアルゼンチンへ行きます」といって出て行った。ソブラード耕地の山口移民藤本秀男も聖市に職を求めて来たが、あきらめて帰耕した青年だった。

 ヅーモント耕地の五十二家族移民が、三浦通訳官の協調策も成らず、上塚氏の平身低頭、涙の切願も効なく、
「カフェーの実のなっていない処でカフェー採取じゃ、飯が喰えん」
といって聖市の移民収容所に引き上げて来たのは八月下旬だった。その当時、リオ首都に近いペトロポリス避暑地にあった公使館より、宮崎信造氏が聖市の移民会社側の通訳として来援したので、上塚さんも安堵の色をみせた。宮崎氏は福岡県人、中学校英語教員の免状もちで、実直な三十男だった。ヅーモント耕地の加藤通訳は移民から総すかんを喰い、お役お払いとなって、上塚さんの下宿にころがりこんで、彼は上塚氏を手こずらしていた。

 収容所に引き上げた五十二家族は、コーヒー結実の多い他の耕地へ労働契約をして出直した。十五家族はソロカバナ線アグードス駅奥のビアード耕地へ、九家族はノロエステ線サン・ジョアキン耕地へ、鉄道工夫となって行くものも出た他、それぞれ転耕したのだった。契約しないものは収容所を去らねばならぬと脅かされて、出て行く者もあった。熊本移民構成家族二、三は、荷物を擔いで、セントラル鉄道線に沿って徒歩でメスキタ駅に辿りつき、そこでペルー流れの日本人の働く練瓦工場に就働した。その一家長は旅の疲労に発病してやがてその地の墓地の人となった。その後、寡婦のお豊さんは中島ペルー移民と結ばれた。収容所を出たインテリ青年家長の臼井介仁氏は若夫婦して聖市に家庭労働口をさがしておちついた。こうしたケースのものも十数人いた。アルゼンチンへと向った六、七家族もあった。

 サン・マルチーニョ耕地でも紛擾を始めた主謀者原源八氏他二十何名を追放したが、これにならって、グアタパラ耕地でも、鹿児島県人西仁志や上井忠等を無通告即時退耕に平野通訳が出た。後彼等はみなアルゼンチンに向った。ブラジルに向う船中でアルゼンチンの方が有望だとあちらに向う二、三の人に彼等は煽動されていたともきいた。退耕して一時サンパウロにとどまった者も、先発連中のアルゼンチンをほめたたえた報に接して南下して行った。先方に着いてみると、先発の女達はブエノス市内に仕事がみつかったが男達は職もなく、女に食わせてもらっている状態だった。鹿児島移民のインテリ丸野政義氏は笠戸丸移民第一のおてんば娘お夏ちゃんと結婚してアルゼンチンに渡ったが、またサンパウロに舞い戻った。こうして一旦アルゼンチンに渡ってもまたサンパウロに帰る人々が多かったせいか、第二回移民からは同国行きも減った。

 当時伯国ではノロエステ鉄道線新敷設を急いで、マット・グロッソ州ポルト・エスペランサより逆に敷設を始め、鉄道工夫をアルゼンチン方面に募集したりした。ラプラタ河をさかのぼる船にのせてポルト・エスペランサへ人を送る方が、サンパウロ方面より人夫を送るより便利だったのだが、これにアルゼンチンで職にあぶれた一回移民の男共が応募した。カンポ・グランデ高原地迄敷設された鉄道はそこでサン・パウロ方面から延ばして来た鉄道と連結されると仕事も一段落つき、沖縄・鹿児島県人の大部分の工夫たちはこのカンポ・グランデを中心とする附近に定着した。