第7章 日系社会の再統合から現在まで(2)

戦後の移住関係機関

海協連と日本海外移住振興

移民の再開とともに、日本政府における移住関係機関も整備され、日本国内での移住者の募集、選考、送出し手続き、移住先国での受入手続きを行うために、1954年(昭和29)1月に財団法人日本海外協会連合会(海協連)が、外務省の外郭団体として設立された。募集や選考の実務は各県の移住課や県の海外協会が行い、海協連は送出し以降の業務を担当し、1955年(昭和30)以降、辻・松原の移民導入枠を引き継いだ。また、1955年(昭和30)9月27日には、米国の銀行からの借款を利用して、移住先国で土地を購入し、移住地を造成して自営開拓移住者に分譲する目的で日本海外移住振興株式会社が設立された(昭和30年8月5日法律第139号)。

ジャミックとジェミス

日本海外移住振興株式会社の現地法人として移住地の造成や営農指導を行うジャミック(JAMIC)(移植民有限持分会社)と移住者に各種資金の融資を行うジェミス(JEMIS)(信用金融投資有限会社)が設立された。

戦後の移住地

ジャミックの直営移住地として、第2トメアスー(1963年入植 パラ州)、バルゼア・アレグレ(1959年入植 南マッド・グロッソ州)、フンシャール(1961年入植 リオ・デジャネイロ州 美唄炭鉱、三池炭鉱の離職者を受け入れるため設置された)、サンパウロ州のジャカレイ(1961年入植)、グアタパラ(1962年入植)などが造成・分譲された。
このうち、バルゼア・アレグレ移住地は調査が不十分で土地がやせていることが判明し、移住者は大変な苦労を強いられ、多数の退耕者が出た。グアタパラ移住地は、もともと農林省管轄の全国拓植農業協同組合連合会(全拓連)が7県から資金協力を得て、日本の農業土木技術による土地改良事業を行うことを前提にして購入したもので、資金面の困難さから移住振興会社がすべての事業を引き継いだが、土地改良事業は所期の計画どおりの効果はもたらさなかった。
このほかにジャミックは、ブラジル連邦・州政府が造成した自営開拓植民地への受入れも行った。ブラジル側設定の植民地は、造成、移民の現地受入、営農融資、営農指導などはブラジル側の義務とされていたが、常習的に義務の不履行があり、移住者は苦労を強いられ、退耕者も続出した。

海外移住事業団・国際協力事業団

1963年(昭和38)7月15日、海協連と移住振興会社が統合され、海外移住事業団が設立された(1963年(昭和38)7月8日法律第124号)。海外移住事業団は、その後1974年(昭和49)8月に特殊法人の整理・統合により国際協力事業団に吸収された。しかし、国際協力事業団に吸収されたことによりブラジル法違反の問題をブラジル側から指摘され、1981年(昭和56)9月29日ジャミックとジェミスは閉鎖を余儀なくされた。国際協力事業団の海外移住関係部門は1994年度(平成6)に大幅に縮小され、2003年(平成15)10月独立行政法人化に伴い廃止された。

日系社会の変質

二世の社会進出

ブラジル社会における二世の進出は目覚しく、1969年(昭和44)に初の日系の大臣ファビオ・ヤスダ(安田ファビオ良治)商工大臣が就任し、1974年(昭和49)にシゲアキ・ウエキ(植木茂彬)鉱山動力大臣、1989年(平成元)セイゴ・ツヅキ(続木正剛)保健衛生大臣がつづいた。2007年(平成19)にはジュンイチ・サイトウ(斎藤準一)が空軍最高司令官に就任した。

日本への出稼ぎ

ブラジルでは1980年代に年率1000%を超えるハイパー・インフレのなかでイタリア、ポルトガル、北米など海外への出稼ぎに行く者が出てきていた。日系人の日本への出稼ぎ(ポルトガル語でもDekasseguiと表記される。)は1984年(昭和59)頃からはじまり、1986年(昭和61)後半からブームになった。
日系二世には従来から就労制限のない在留資格があったが、1989年(平成元)6月の入管法の改正および1990年(平成2)の定住者告示により日系二世の配偶者および日系三世とその配偶者にも「定住者」という就労に関する制限のない資格が与えられた。これ以後、ブラジル国内の経済雇用情勢、日本との間の賃金格差から、ブラジルからの出稼ぎ者が激増した。2005年(平成17)にはブラジル人国籍の外国人登録者数は30万人を超え、戦前戦後に日本からブラジルに移住した26万人をすでに上回った。
当初は出稼ぎ目的であった人のなかにも、そのまま日本への永住を希望する人が増えてきている。その一方では、出稼ブラジル人子弟の教育の欠如、それに伴う非行が深刻な社会問題となっている。ブラジルの日系社会においては、150万人といわれる日系人の五分の一、特に働きざかりの青壮年層が日本に来ていることによる日系社会の空洞化が問題となっている。

  • 画像『日本発行の日系人向けのポルトガル語紙』

日系人の同化の進行

現在ブラジルには約150万人の日系人がいるといわれている。しかし、このことは、戦前期の在留邦人社会や戦後の日系コロニアのように、相互に助けあおうという連帯意識をもった150万人の日系人社会が存在することを意味してはいない。
日系コロニアは、1978年(昭和53)の移民70年祭をピークとして、衰退をはじめたといわれる。戦後、ブラジルへの永住を決めた一世、二世たちが、子弟の教育に力を入れたおかげで、後継の世代は高学歴を手に入れて、ブラジル社会のなかで栄達を果した。彼らはもはや日系人が連帯して助け合うコロニアを必要とせず、コロニアに止まる必要もなかった。その結果、コロニアを構成するのは一世と一部の二世のみとなり、これらの人たちと高齢化とともにコロニアは衰退していくことになった。
1990年代にはコロニアの衰退を象徴するかのように、戦後コロニアの核となり、コロニアをリードしてきたコチア産業組合中央会、南伯農協中央会および南米銀行が姿を消した。
1958年(昭和33)のコロニア実態調査では3.5%であった非日系との婚姻率は、1962年(昭和37)補足調査では13.6%となり、1988年(昭和63)の調査では45.9%となった。二世までは親(一世)の反対で少なかったが、三世、四世になると制約がなくなり、急速に混血が進み(1988年時点の調査ですでに三世の42%、四世の62%が混血)、遠からず日系人が何であるかが人種的にはわからなくなるといわれている。

日系社会の将来

このように日系人が急速にブラジル社会に同化していく傾向に対し、ドイツ系、イタリア系など他の移民コロニアのように自国文化を守り、それを積極的に伝えていくことによりブラジル社会に貢献していくべきであるという主張がなされている。日本移民が見せた協調性、団結力、忍耐力あるいは正直、誠実、勤勉といった特質を、日系の教育施設を数多く作り教育を通してブラジル社会に浸透させればブラジル社会にも役立つという議論もある。現在、大学まで含めた日系人学校設立などが模索されている。
 また、三世以降の世代の中には、日本とブラジルとの間を行き来する出稼ぎ者やインターネットを介してブラジルに入ってきたアニメ、J-POP、よさこいソーラン、和太鼓などに関心を持ち、それらを核としてグループを作り活動している人たちが出てきている。彼らはこれらの活動により日系人としての自覚に目覚めるようになってきている。

  • 画像『コチア産業組合中央会の解散を伝える現地邦字紙』

    • 『コチア産業組合中央会の解散を伝える現地邦字紙』の標準画像を開く